5-1
今日も、蓮は意気揚々と外へ出ていった。
優はそれをそうっと窓から見送る。
「!優さん、横になっていてくださいって言ったでしょう?」
ずんずん、と怒った律がスーツの袖を捲り上げて、水分を含んだ手のまま優の傍へ駆け寄ってきた。
心配から来るそこお叱りは、律には悪いがとても心地が良いものであり、優はふんわりと艶やかに紫暗色の瞳を細めて笑う。
いつもありがとう、と。我が子には言わずとも伝わっていることを優は確信している。
頭が痛い。体が、重い。だから嬉しくてーーーーー底深く悲しかった。
とても愛しくて、とても哀しい。
「今さぁー……優さんの中にはふたつの“あい”があるんだけど」
「知ってます。……と言うか」
いつものことじゃないですか、と律はズボンで乱暴にしなやかな指を拭くと当たり前のように優の額に手を当てた。
ひんやりとした手が冷たくて、気持ちよくて、しかし寒気を誘う。
はぁ……と律が大きく溜め息を吐いて優の額から手を離す。
優はそれにゆっくりと微笑み、これ以上心配から怒らせてしまうのも申し訳ないからベッド以外で許されている居場所、白いソファーに腰かけた。
そこに置いてあるブランケットを膝にかける。
見ながら思い出すのは数日間頑張ってはじめての裁縫をしていた可愛い愛娘。白い花のような、女の子。
その名の通りにいつか花開くことを、優は楽しみにしている。
ふわん、と甘い香りが優の鼻をくすぐる。
「お。アップルティー?」
「はいはい。優さんの大好きなアップルティーですよ。お願いですからこれ飲んだら大人しく横になっていてくださいね」
巨大な溜め息を吐きながら黒猫が描かれたカップを受け取った。
ゆらゆらと湯気が優しく歌う。
温度と言う色を、優しく歌う。
愛息子の優しさを歌う。
いやいやながらも「はぁい」と優は頷いて受け取ったカップを両手で包み、しばし温もりを楽しむ。
誰かからもらう暖かさはしあわせだ。
律にも蓮にも、それにいつか出逢えれば良いなと願ってやまない。
「……蓮は、良い体験を得ているみたいだ。前よりも表情が広くなった」
「ああ。毎日いそいそと出かけてますからね。今日は俺のスーツ一式が消えました」
「ははっ。それはまた」
楽しそうで何より、と優は少しばかり呆れたように息を吐いた律の頭を撫でる。呆れた色の溜め息はわざと作っている。
律は少しひねくれているが、妹想いの真面目で意地悪な柔らかな子に育っている。今日消えてしまったのだと言うスーツ一式の件についても蓮に問うことはないのだろう。
くしゃりと撫でられた律のくすぐったそうな表情の下には影が生まれている。……これは、蓮が自ら率先して外にではじめた頃から落としはじめていた色。
賢いこの子はきっと気づきはじめているのだろう。
蓮には……今開けている世界に夢中になっている蓮の目は欺けても、律の目は誤魔化せていないらしい。律は明らかに優の不調に気づいている。
優の不調は病気の類いのものではない。能力から来るものだ。そしてそれはーーーー蓮が外出をはじめてから続いている。
けれど蓮に言えないのは……恐らく……。
「……この間、蓮が『散らした』悪魔は桜色の翼だったようですよ」
桜色。頭が痛くなる。
確信が尚更強く、強く強固なものになっていってしまった。
悪魔の翼には、関連性がある。……と、言っても微々たるもので、悪魔と化した者同士に繋がりがあるわけでもなければ力の強弱がわかるわけでもない。
本当に本当に、ささやかな情報で、それは推測の域を出ないのだが……けれどもそれだけで被害は防げる。
ただ、蓮はまだそれを理解できない。だから悪魔の捜索は足頼りだと信じて疑っていない。
「……蓮は、今頃笑ってるかね……」
「最近は生き生きしてますから」
楽しいでしょう。と悲しみを帯びた声音が必死に震えを抑えながら口にした。
悲しいなら、付き合う必要なんてないのに。優はいつもそう思う。思うのだが、それは口には出来ない。怒られてしまうし、
「俺の新しい世界は、優さんですから」
泣かれてしまうから。
ふっ……と予想通りの言葉に優は艶やかに笑い、哀に蝕まれかけたことがあるからこそ、綺麗を纏う可愛い可愛い息子の頭を撫でた。
もう大きいのにも関わらず、撫でられればふにゃりと子どもの顔で笑う律が可愛くて仕方がない。
同じように可愛く想っている娘は、今頃笑っているだろうか?
世界を広げて、もっと広げていてほしい。時間は平等に、慈しむように無慈悲なのだから。
無慈悲は、きみに何を与えてくれるだろう?
「遊びに行こう?」
我ながら唐突ではあると言う自覚はあったが、それでもと蓮はれんにそう申し出た。
錆びたドラム缶以外は何もない、あまりにも寂しいその場所に彩り咲く若草色の髪に桜色の唇。白いブランケットを服の上から被っているれんは白いオカリナから口をはなして驚いたのだろう、右目の黒い瞳を丸くしていた。
いつも通りれんのオカリナを耳から心地よさに溢れさせて、体を拭いて、それからまた彼女のオカリナを聴いてからの、蓮の申し出。
少し間をおいて、れんはこてりと首をかしげた。言っていることが理解できない。そんな表情。
ひゅう……とオカリナの最後の音が風にさらわれて消えていった。それはまるで彼女の音を独り占めされたかのようでちょっと悔しくなったのだけど、それは一旦置いておくことにして、蓮はもう一度れんに言った。
「どこかに遊びに行こう?」
「……ここから離れて?」
「うん。律く……お兄ちゃんのスーツ盗ん……借りてきたから大丈夫だよ?」
ね?と指定席、れんの隣のドラム缶にちょんと座っていた蓮はちょっとばかり『借りてきた』スーツを掲げてにこっ、と笑う。
逢えるのならばどこでも良いのだが、けれどそれが満たされてしまうと次の欲求が出てきてしまう。
一緒にここから出て、どこかに行って、楽しく時間を刻みたい。そう思ってしまった。
広い場所を蓮は知っている。今は冬だからただ寒いだけかも知れないが……それでも冬にしか見られない何かがあるはずだ。
「……お出かけ?……蓮ちゃんと、ふたりで?」
「……いや?」
悩んだ末での申し出ではあったが、それをれんが了承してくれるかどうか、散々悩んだ。
れんは女性だから身なりを気にしたりするかもしれない。だからと思って律のスーツを持ってきた。きちんとアイロンをかけてきれいにしたものを。
目を惹くほどに鮮やかな若草色の髪はぼさぼさだった。だから、櫛と鏡を持ってきた。
足りないものはあるだろうか?敢えてここに居続ける理由はあっても、外出を拒むような理由はないようだから誘ってみたのだけど、
もしかしたら、蓮と同じで誰とも関わりたくないのかもしれない。それも考えた。
本日も暗雲元気に曇天なり。お出かけ日和とはお世辞にも言いづらい。
だけど、蓮にとってこれは……大切なことになるかもしれない。
またもや根拠も何もない。ただ漠然と思っただけでれんには迷惑極まりないはなしだ。
未だにきょとんとしているれんに、恐る恐る蓮は口を開いた。
こんなことを言えばただ同情を誘うだけに過ぎないのかもしれない。それを踏んだ上で。




