2日目
7時30分。
律は通勤するサラリーマンの流れを
とぼとぼ逆らうように歩いていた。
五条が帰った後、
残された三人で再び途方に暮れていると。
大木課長がしくしくと泣き始めたのだ。
初めて見る大の大人の情けない泣き顔に、
律と木下は戸惑いながらもとりあえず背中をさする。
大木課長は大きな涙をボロボロ流しながら言葉を絞り出す。
「うぅ...。家族もいるのに、
家のローンも車のローンもまだなのに。
どうすればいいんだよぉ...。」
二人は言葉に出来なかった。
自分たちとは違う。
この人はもう簡単に再就職出来る年ではないし、
背負ってるものも違う。
大木課長が落ち着くまで
無言で背中をさすることしか出来なかった。
十分くらい泣き続けた大木課長は、
律たちに一言、ごめん。と言い残しエレベーターに乗っていった。
律と木下はしばらくエレベーターの閉まった扉を見つめていた。
静寂を律が切り裂く。
「木下君。この後、どうするの?」
「...とりあえず、ハローワークなんですかね?
まさか入社して4ヶ月で会社がなくなるなんて思っても無かったです。」
「そうだよね。」
木下がこちらを向く。
「三浦さんはどうするんですか?」
律は少し考えるが、
何も思いつかなかった。
「どうしようかね。」
しばらく二人で話をしたが、
ショックが大きく何も方向性は決められなかった。
木下と別れ
律は一人、とりあえずコンビニに入った。
腹は減っていない。
というか今は何も食事が喉を通らない。
しばらくコンビニ内を徘徊した後、
缶ビールを一本買って出た。
目の前にある小さな公園のブランコに腰を降ろし、
缶ビールを開けた。
こんな明るい時間に酒を呑むのはいつぶりだろう。
律はビールを一気に口へ流し込む。
麦の香りと共に、
冷たい炭酸が喉を刺した。
少しだけ頭が空っぽになった気がした。
この後どうしよう。
今考えても良い解決策は出ない気がする。
幸いこの五年間使う事がなく
溜め続けた貯金があるため、しばらくは生活出来るかもしれない。
「無職かぁ...。」
律は空を見上げ呟く。
雲一つない空に鳥が飛んでいた。
その時、携帯の通知音がなった。
ポケットから携帯を取り出し、画面を開くと
彼女からのメッセージだった。
『今日もお仕事頑張ろうね!』
可愛いウサギが
ガッツポーズをしているスタンプ付きだ。
「...なんて伝えようかな。」
無邪気な彼女の応援メッセージに戸惑いながら、
律は残りの缶ビールを飲み干した。
公園内はじわじわと暑く、
蝉の声に辺りは包まれていた。
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8時23分。
律はまだ公園にいた。
しかし、足元には缶ビールの空き缶が三本転がっており、
右手には今絶賛呑み途中のビールがあった。
少し気持ちよくなってきた状態ではあるが、
頭上から太陽がサンサンと熱い光を差し込んでくる。
脱ぎ捨てられたスーツのジャケットは地面で
砂にまみれている。
彼女への返信は未だ返せずにいた。
会社の人たちの顔を思い浮かべる。
塚本部長は恐らく、矢野を連れ飛んだ。
大木課長は残された家族と債務に押しつぶされていた。
五条はなんだかんだ言って次の仕事を決めていた。
木下もハローワークに行くと言っていた。
あれ、何もないの。
なんもしてないの俺だけ?
携帯の画面を開く。
『早紀』と書かれたトーク画面を開く。
三十分ほど前に来ていたメッセージ。
『実は、会社が無くなって。』
打ち込んだ文字を消す。
流石に付き合って二カ月の彼氏が、
無職ってなんて思われるだろう。
『早紀も、頑張ってね!』
そう打ち直して、送信ボタンを押す。
「俺は何を頑張ってるんだろう。」
誰に言うでもなく、律はそう呟くと
四本目のビールを飲み干した。
何もしていなくても汗が湧き出てくる。
「あっちぃなぁ。」
律はふと立ち上がると、
足元の空き缶を拾い集め袋に入れる。
ジャケットとバッグを拾い軽くはたいた。
空き缶をコンビニに捨てると、
近くを通りかかったタクシーを呼び止める。
タクシーに乗ると、
車内は極楽のように涼しかった。
「お客さん、どちらまで?」
律は答える。
「白里海水浴場まで。」
ドアが閉まり、タクシーは走り出した。
背もたれに身を預け、
死んだ顔で窓の外を眺める。
電話をしながら忙しなく歩くサラリーマン。
部活の練習着を着て歩く学生。
暑いのにベタベタしながら歩いてるカップル。
律はしばらくそんな光景を眺めていた。
「...お客さん。会社、行かなくていいの?」
運転手がルームミラー越しにこちらを伺う。
「見た感じ会社員さんじゃないの?」
恐らく定年退職した後にタクシー運転手として働く60代くらいの
老人が、悪気のない笑顔で話しかけてきた。
「あぁ、会社ですか...。」
老人はニコニコしながら続ける。
「なに、嫌んなっちゃったの?」
「まあ、そんなとこです。」
説明する気にもなれず、
律は適当な返事を返した。
「働くとこあるだけ、ありがたいもんだよ。」
「私なんてね、40年間働いてた会社が倒産しちゃってね。」
「...え?」
へらへらと笑う老人に律は向き直る。
「いやぁほんとほんと、まいっちゃうよね。」
「なんでですか?」
笑顔のまま、老人は続ける。
「なんでだろうねぇ。
そこそこ大きい会社で安泰だと思ってたんだけどね。」
「もう少しで定年迎えるし、役職もついてたから
退職金がっぽり貰って家内と田舎でのんびり余生を楽しもうと思ってたんだけどね。」
「退職金、貰えなかったんですか?」
「満額はね。会社にはもう金が残ってなかったから。
いろいろ手続きして、いくらかは戻ってきたけど、
老後の計画は全部パーだよ。」
「...そんな。」
この人も同じ境遇を味わったんだ。
しかも四十年働いて退職金も全然貰えず。
「怒ってないんですか?」
老人は鏡越しににんまりと笑った。
「そりゃ、怒ったさ。」
「でも、怒ったとこで何も始まらない。」
「定年近い私をここのタクシー会社は快く受け入れてくれてね。
もともと人と話すことと車が好きだったからね。今となっちゃこの仕事に巡り合えて
感謝してるくらいさ。これが私の天職だったってね。」
「...天職?」
「そうさ。毎日いろんなお客さんを乗せるし、
いろんな人と話せるし。
ほら、今日もこうやっておにいさんと話せたろ?」
「そう、ですね...。」
律は驚きが隠せなかった。
こんな理不尽に職を失ったのに、
この老人はなぜこんなに活き活きとしているのか。
そのあとも、老人はひたすら喋り続けた。
最近乗せた変な客の事。
犯罪者を乗せてしまい、
事件に巻き込まれそうになった事。
タクシーでお客さんを乗せて関西まで運転した事。
どれも楽しそうに。
「ほら、お客さん。付いたよ。
白里海水浴場だ。」
気付けば、
窓の外には大きな海が広がっていた。
まるで自分の悩みなんてちっぽけに感じるくらい広い。
だが、今は気持ちが沈んでいるからか
綺麗に見えるはずの海面はどんより重く見えた。
「今朝、会社に出社したら
もぬけの空だったんです。」
海を眺めながら、律は呟いた。
言うつもりはなかったが自然と言葉に発していた。
老人の方は向かなかったが、
恐らく驚いた顔をしていただろう。
「それで、むしゃくしゃして、朝から酒飲んで。
海を見たらなんか気持ちが晴れるかなって思って。」
老人は律の話を静かに聞いていた。
「でも、何でですかね。心が現れるんですかね。
全然綺麗に見えないや。」
すると、老人が静かに答えた。
「お客さん。それは違うよ。」
「え?」
「海が曇って見えるのは、心が荒んでるからじゃない。
午後から曇るからだよ。
海ってもんは、心が荒んでるときこそ見るもんさ。」
ミラー越しの老人は顔をクシャクシャにして笑っていた。
「はい、着いたよ。」
「あ、ありがとうございます。
お会計はいくらで?」
「お会計は6700円ね。」
律は財布を開く。
「じゃあこれで。」
五千円札と千円札を二枚、老人に渡す。
「確かに。」
すると運転席からしわしわの手が伸びてきて、
千円札二枚を返してきた。
「え?」
「これは返すよ。今日の酒代にでもしな。」
「いや、でも。」
老人は無理やりお札を返してきた。
「お客さんと運転手、じゃなくて、
老いぼれじじいから、兄ちゃんに奢りだよ。」
そう言って律の手を握る。
「その代わり、兄ちゃんが新しい仕事見つけたら
また私のタクシーに乗ってくれや。
その時は景気のいい話聞かせてよ。」
老人は満面の笑みでこちらを見ていた。
その笑顔に律は折れ、そのままタクシーを降りた。
後部座席の扉が閉まると、助手席の窓が開き呼び止められる。
「お客さん!」
律は開いた窓から車内を覗く。
「気張れよ!
人生まだまだ、どうとでもなるからな!」
老人はガッツポーズをして見せた。
「は、はい。ありがとうございます!」
お礼を言うと、老人は大きく頷き、車を走らせていった。
律はその後ろ姿に深々とお辞儀をする。
タクシーのクラクションが広い空と海に響き渡った。
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タクシーを見送った後、
律は一人、砂浜に腰を掛けていた。
海水浴場には夏休み時期もあってか、
平日だというのに水着姿の多くの客で賑わっていた。
流石にこの場にスーツ姿は浮くな。
汗と砂で汚れたワイシャツを脱ぐ。
スーツのパンツも膝下までまくり上げ、革靴と靴下を脱いだ。
「酒でも呑むかな。」
律は二千円を握りしめ、数百メートル先の海の家へ向かった。
海の家では、大学生くらいのバイトの男女二人が働いていた。
「お兄さん。レモンサワー1杯頂戴。」
「あざす!500円です!」
律はクシャクシャに握りしめていた千円札を
一枚伸ばして渡した。
「お釣り500円です!」
お釣りが出てくるのとほぼ同じタイミングで
横から女の子がレモンサワーを持ってきた。
「はい!レモンサワーです!ありがとうございました!」
「あ、どうも。ありがとうね。」
律は急いでお酒を受け取ると、
少し離れたところに移動し腰を降ろし
今買ったキンキンのレモンサワーに口を付けた。
カラカラに乾いた喉に、
甘酸っぱいレモンの風味と冷たい炭酸が流れ込む。
「いやぁ、海見て呑むの最高だな。」
ふと近くにいた若者たちの会話が耳に入ってきた。
「まじで就活だるくね?」
「俺もう面接3社落ちたわ。」
「それはやべえって。」
「あー俺一生働きたくねー!」
律はレモンサワーを飲みながら思った。
俺は数時間前まで働いてたけどな。
毎日仕事行きたくないって言ってたな。
あれ、今の俺、夢叶ってる?
律はハッとした。
会社辞めたい。
仕事行きたくない。
自由になりたい。
そんな風に毎日思ってた。
そして今日、その夢が叶った。
全て。
でも、なんで俺
落ち込んでるんだ?
仕事したいのか?
いやいやそんなはずはない。
ふと老人の言葉が思い浮かぶ。
「...天職。」
自分が本当にやりたい事。
好きなことを仕事にすれば良いのだろうか。
でもそんなこと簡単にできるほど人生甘くはない。
気付けば、
レモンサワーが無くなっていた。
律は立ち上がるとコップをごみ箱に捨て、
再びさっきの店に買いに行く。
「あ、おにいさん。レモンサワーひとつ。」
さっきの男の子は元気よく返す。
「あざす!500円です!
あ、さっきのお兄さんじゃないですか!」
律は、どうも。
とお辞儀をすると、先程のお釣りの五百円玉を渡した。
「丁度っすね!あざす!
お兄さん今日仕事休みっすか?」
律は頬を搔きながら
恥ずかしそうに答える。
「うん、まあ。
...今日からしばらく休みかな。」
すると横からまた女の子がレモンサワーを手渡しながら
目を輝かせ聞いてきた。
「ええ!夏休みですか?
良いですね!最高ですね!」
律は目を泳がす。
「はは、うん。そんなとこ。」
男の子が真っ黒な肌に似合わない
真っ白な歯を輝かせながらはにかむ。
「夏!楽しんでください!
あざした!」
「あ、うん。ありがとね。」
そう言うと律は再び同じ場所に腰を降ろし、
酒を啜る。
最高か。
まあそうだよな。
終わりのない夏休みみたいなもんだな。
しばらく海を眺めながら酒を呑む。
十五分くらい経っただろうか。
二杯目のレモンサワーも飲み切ってしまった。
律の足は自然と海に向かって歩き出していた。
水着姿ではしゃぐ若者達の中、
スラックス姿にTシャツ一枚のアラサーが
海に向かって歩く光景は異様なものがあった。
足が波に飲まれる。
冷たい。
いや、ぬるいな。
そのまま歩き続ける。
いよいよ膝まで海面が来たところで足を止める。
律は目を閉じた。
潮風が吹く。
波のさざめく音がする。
周りの騒ぎ声がどんどん遠くなっていく。
どこかで鳴いている海鳥の声。
心地よい。
律の会社員としての格好も、肩書も
波に削られていくように感じた。
目を静かに開ける。
瞳に差し込む太陽の光が先程よりも眩しい。
「明日も会社、行かなくていいんだよな。」
空を見上げると
老人の言った通り、空に少し雲が掛かってきていた。
「さて、帰るか。」
11時37分。
律は脱いだ服と荷物をまとめ、
海水浴場を出る。
タクシーを捕まえる。
行きとは違い、一言も話すことなく帰宅した。
その日の午後は線状降水帯による、
記録的な豪雨となった。




