雨上がりの約束
契約書に署名してから、三週間が過ぎた。
王都では、雨の降り方が少しずつ変わっていた。
貴族街の庭だけを濡らしていた雲は、今では下町の洗濯物にも、石工街の乾いた土にも、同じように雫を落とす。もちろん、一度書き換えられた仕組みがすぐに元通りになるわけではない。星鐘のひびを交換し、誓約譜の写しを照合し、各地区の記録を毎日集める。リセラの仕事は、以前よりずっと増えていた。
けれど、忙しさの中には、以前とは違う手応えがあった。
「看板、もう少し右。そう、そこなら通りから読めるよ」
イネスが脚立の上から声をかける。新しい工房の軒先には、木の板に焼きつけた文字が掲げられていた。
『ノート音律工房 星鐘・季節鐘 公開修理受付』
飾り気のない看板だが、リセラは何度見ても胸が熱くなった。家の工房で、誰かの名の下に隠されていた仕事が、初めて自分の名前で外へ出ている。
「本当に、これでいいのかな」
リセラが呟くと、床に積んだ工具箱を整理していたイネスが鼻を鳴らした。
「何が? 看板? 文字は読めるし、音律師だって分かる。十分だよ」
「王子様の補佐役になれば、もっと立派な場所を用意してもらえたのに」
「それを断ったのは誰さ」
「私」
「なら、胸を張りなよ。あんたは王子様の隣に置かれるために鐘を直してきたんじゃないだろ」
返す言葉はなかった。代わりに、窓の外で小さな鐘が鳴る。今日の雨量を知らせる、下町の観測鐘だ。音はまだ少し高く跳ねるが、欠けた一音はもうない。
その日の午後、最初の客が訪れた。
貴族街から来た年配の女主人で、持ってきたのは庭先の季節鐘だった。今までなら宮廷の許可がなければ修理に出せない品だが、公開修理の規則では、所有者が誰であっても受付の順番は変わらない。
「こちらでお預かりします。検査結果と費用は、同じ書式でお渡しします」
リセラが説明すると、女主人は少し戸惑った顔をした。
「王子殿下がお認めになった工房なのでしょう?」
「王子殿下の工房ではありません。私の工房です」
言い切った瞬間、背後から低い声がした。
「その通りだ」
振り向くと、エルドが扉のそばに立っていた。今日は王子の徽章を外し、深い青の外套だけを身につけている。喉の傷はまだ癒えていないらしく、長く話したあとは少し眉を寄せる。それでも、以前より声は確かだった。
「エルド、来るなら先に知らせてください」
「約束した。望むときは、エルドとして来る」
「約束したのは、突然現れて驚かせることではありません」
彼は目を丸くし、すぐに笑った。笑い声はまだ掠れていたが、工房の壁に柔らかく返った。
女主人が帰ったあと、エルドは机の上に封筒を置いた。王家の封蝋が押されている。
「何ですか?」
「北塔の修理許可だ。最後に停止した星鐘がある。再編後の最初の大規模調律を、君に任せたい」
リセラは封筒を見つめた。北塔は、十年前の事故以来、内部への立ち入りが禁じられている場所だ。そこには、王子の声を封じた鐘の残響と、母が残した譜面の空白が眠っている。
「王家からの命令ですか」
「違う。公開検査会からの依頼だ。君が受けるかどうかを決める」
エルドは封筒から手を離した。権威を差し出して、選択まで奪わない。その仕草が、署名の日に交わした言葉を思い出させる。
「報酬と記録の公開は?」
「君の条件どおりだ」
「立ち会い人は?」
「各地区から二名ずつ。天候院からも、利害のない記録官を選ぶ」
リセラは考えた。北塔へ行けば、事件の最後に残された音へ近づける。けれど、そこへ向かうのは過去に引き戻されるためではない。これから誰も一人で鍵を握らない仕組みを、最初の一音から確かめるためだ。
「受けます」
エルドの目が細められた。
「ただし、私が主任です。あなたは立ち会い人のひとり」
「承知した」
「それから、無理に声を出さないこと。喉が痛むなら筆談に戻してください」
「それも条件か?」
「これは命令です」
言い終えると、二人とも顔を見合わせた。エルドはわざとらしく肩をすくめ、手帳に書く。
『音律師の命令には従う』
その一文を見て、リセラは笑った。以前なら、王子に命令するなど考えもしなかっただろう。けれど今は、彼が聞く姿勢を見せてくれることを知っている。だからこそ、彼の隣に立つことができる。
夕方、雨が上がった。
濡れた通りに西日が差し、軒先の雫が一斉に光る。エルドは工房の前で立ち止まり、空を見上げた。雲の切れ間から、まだ明るい星がひとつだけ覗いている。
「リセラ」
呼ばれた名は、短いのにまっすぐだった。
「はい」
「北塔を直したら、次は王都の外へ行こう。星鐘の音が届かない村にも、季節を知らせる鐘を置きたい」
「ずいぶん先の話ですね」
「先の話を、約束にしてはいけないか」
リセラは濡れた石畳へ目を落とした。水たまりに映る二人の姿が、揺れながら並んでいる。
「いいえ。約束は、先の話だからこそ必要です」
彼女はそっと手を差し出した。エルドは驚き、それから慎重にその手を取る。王子と音律師としてではなく、エルドとリセラとして結ぶ、まだ名前のない約束だった。
遠くで、調整を終えた星鐘が鳴った。
雨上がりの空へ伸びていく音は、かつてのように誰かのためだけに響かない。これから直すべき鐘は、まだ数え切れないほどある。二人の前にある道も、決して平らではない。
それでもリセラは、握られた手の温度を確かめた。
選べる仕事を。隠されない記録を。そして、互いの声を待てる未来を。
その約束を胸に、二人は北塔へ向かう準備を始めた。




