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沈黙の王子と、星を鳴らす音律師  作者: 銀細工ナギ


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18/20

沈黙を越える声

 裁定会の翌朝、王都は雨上がりの匂いに包まれていた。


 石畳の隙間には水が残り、屋根から落ちる雫が、遅れて鳴る小さな鐘のように響いている。星鐘はまだ調整の途中だったが、空は貴族街と下町を分けずに明るくなっていた。


 リセラは公開検査会の仮設工房で、濡れた記録板を一枚ずつ乾かしていた。裁定会で議事録に加えられた下町の証言は、写しを作って各地区へ配られることになっている。消された音を戻すには、鐘を鳴らすだけでは足りない。誰が何を聞いたのかを、誰もが確かめられる形にしなければならなかった。


「リセラ、これ、南門の記録。昨日の雨で読めるようになったって」


 イネスが束ねた紙を抱えて入ってきた。以前なら、雨で滲んだ記録など役に立たないと捨てられていたかもしれない。けれど今は、文字の欠けた箇所まで音律師と書記が照合している。


「ありがとう。そこに置いて。あとで、鐘の鳴った時刻と合わせるね」


「王子様は?」


「医務室。声帯に残った封印の傷を診てもらっている」


 答えながら、リセラの耳には昨夜の音が蘇った。


 裁定会の後、エルドは人のいない回廊で何度も息を吐いていた。喉の奥に引っかかった震えは、細い弦を指で弾いたときのように不安定だった。それでも、彼が紙に書いた言葉はいつもと違っていた。


『声が戻るなら、最初に伝えたいことがある』


 その続きを書く前に、王城の鐘が鳴り、彼は手帳を閉じた。


 午前の検査がひと区切りついたころ、工房の扉が控えめに叩かれた。振り向くと、エルドが立っている。王子の礼装ではなく、簡素な外套を身につけていた。喉には白い布が巻かれている。


「具合は?」


 リセラが尋ねると、エルドは親指と人差し指を少し開いた。まだ完全ではない、という意味だろう。それから彼は手帳を出しかけたが、思い直したように手を下ろした。


 息が震える。


「……だい、じょうぶ」


 かすれて、途切れた声だった。


 イネスが目を見開く。リセラは驚きのあまり、持っていた筆を落とした。木の床に転がった筆が、ころりと乾いた音を立てる。


「今、声が」


「ああ」


 エルドは喉を押さえ、苦しそうに息を整えた。それでも、笑っていた。


「まだ、長くは話せない。けれど、君の名前を呼びたかった」


 リセラの胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 彼の声は低く、雨の後の風のようにかすれている。十年前に封じられた音を、誰かの命令ではなく、彼自身の意志で取り戻した声だ。完璧ではないからこそ、リセラにはその一音一音がはっきり聞こえた。


「私は、聞き分けるのが仕事ですから。少しくらい掠れていても、聞き間違えません」


「仕事、か」


「それだけではありません」


 言ってから、頬が熱くなった。エルドも目を伏せる。二人の間に沈黙が落ちたが、以前のように重くはなかった。言葉がないことを恐れて、どちらかが急いで埋める必要はない。沈黙の中に、相手がここにいると知るための余白がある。


 エルドはゆっくりと手帳を開いた。


『裁定の後、王家から正式な申し出があった。星鐘制度の再編に伴い、私の補佐役として、君に宮廷音律師の席を与えたいそうだ』


 リセラは文面を読み、眉を寄せた。


「補佐役というのは、王子のそばで働くという意味ですか。それとも、王子の名前で働くという意味ですか」


 エルドの筆が止まった。


「後者なら、お断りします」


 すぐに言い切ると、彼は驚いた顔をした。


「私はもう、誰かの権威の陰に隠れて技術を使いたくありません。王子のそばで働くことが嫌なのではなくて、私の判断まで王家のものにされるのが嫌です」


 エルドはしばらく考え、紙の上に一行を書いた。


『では、君自身の工房を持ちながら、公開検査会の主任音律師になる契約を作ろう。私の補佐ではなく、王都の鐘を監査する独立した職として』


「そんな契約、王家が認めるのですか」


『認めさせる。昨日、誰かひとりに鍵を集めないと決めたから』


 リセラは紙から顔を上げた。エルドの声が、また喉の奥で揺れる。


「それは、あなたひとりで決めることではありません」


「……そう、だな」


 短い言葉を発するたび、彼の顔には痛みが浮かぶ。それでも、筆談へ逃げずに続けようとしていた。


「君と、決めたい」


 その声に、リセラは息を止めた。


 彼が以前、声を失っていたからではない。声が戻った今も、言葉を選ぶために彼女の返事を待っているからだ。王子の命令でも、恩返しでもない。二人で作る仕事と未来を、対等なものとして差し出している。


「では、条件を決めましょう」


 リセラは新しい紙を取り、机の中央へ置いた。


「第一に、工房の名前と報酬の権利は私に。第二に、検査記録は王家にも天候院にも隠さず公開すること。第三に、あなたが声を取り戻しても、私の仕事を王子の奇跡として紹介しないこと」


 エルドは口元をほころばせた。


「厳しいな」


「壊れた仕組みを直すには、それくらい必要です」


「わかった。では、第四に」


 彼は筆を取り、紙へ書いた。


『君が望むとき、私は王子としてではなく、エルドとして君の工房へ行く』


 リセラはその文字を指でなぞった。指先にインクの凹凸が伝わる。


「それは条件ではなく、約束です」


「君にとって、違いがあるのか?」


「あります。条件は守らせるもの。約束は、守る人を信じるものです」


 エルドは長く彼女を見つめた。やがて、掠れた声で言う。


「なら、約束にしたい」


 工房の窓の外で、遠くの星鐘が鳴った。まだ音は少し濁っている。それでも、昨日までの空白はない。雨を分けるためではなく、季節を知らせ、人々が同じ空を見上げるための音が、王都の隅々へ伸びていく。


 リセラは契約書の最後に、自分の名を書いた。エルドはその隣に王家の印を押す代わり、自分の名を自分の手で記した。


 その文字の横へ、彼女ももう一度、音律師としての署名を重ねる。


 声はまだ完全には戻っていない。制度も、傷ついた人々の暮らしも、これから直していかなければならない。それでも、沈黙はもう、奪われたものの証ではなかった。


 二人が選び、聞き、言葉にしていくための、最初の余白になっていた。

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