婚約者だった人の証言
旧天候院の門は、鎖で閉ざされていた。
かつて雨季の始まりを告げる鐘を管理していた建物は、十年前の事故以来、使われていない。白い壁には蔦が絡み、窓という窓に板が打ちつけられている。けれど、門柱の内側には新しい靴跡がいくつも残っていた。
「誰かが、ここを使っています」
リセラが膝をついて土を指でなぞると、エルドは周囲を見回した。彼の手には、いつもの筆談用の紙がある。王子だと気づかれれば、音律局の告知どおり接触を禁じた規則を口実に追い返されるかもしれない。だから今日は、二人とも旅装に身を包んでいた。
リセラは門の錠に耳を寄せた。
金属の中に、かすかな震えがある。
「この錠、閉じている音と開く音が違います。誰かが細工をしました」
エルドは眉を上げ、紙に書いた。
『開けられる?』
「壊さずに、なら」
彼女は工房から持ってきた細い調律針を差し込んだ。錠の奥で小さなばねが弾け、鎖がゆっくりと緩む。扉を押すと、湿った草の匂いと、古い紙の匂いが流れてきた。
中庭の奥にある旧記録庫だけが、板を外されていた。
その前で、ひとりの男が待っていた。
カシウス・レーデンは、以前よりやつれて見えた。天候院の正装ではなく、灰色の外套を着ている。左手には革の箱を抱え、右手には封筒を握っていた。
「来ると思っていた」
声を聞いた瞬間、リセラの胸の奥に、古い痛みが戻った。
婚約を解かれた広間で、彼は誰よりも整った顔で、家の決定を告げた。音律師の娘では天候院の後継者にふさわしくない。王都の前でそう言われた日の鐘は、途中で鳴るのをやめた。
「あなたが呼んだのではありません。私たちは質問をしに来ました」
「わかっている。だから、答えを持ってきた」
カシウスはエルドに視線を移し、深く頭を下げた。
「殿下。私は、あなたを告発した書類が偽造だと証言します」
エルドの指が、紙の上で止まった。
カシウスは革箱を開いた。中には三枚の薄い金属板と、焼け焦げた譜面の切れ端が入っている。金属板には天候院の配水記録、星鐘の調律日、そして作業責任者の署名が刻まれていた。
「十年前の事故のあと、父は記録の一部を破棄した。ですが、私は後継者教育のため、写しを作らされていた。そこに、監督官グレイムの名があります」
リセラは金属板を受け取った。指先を触れた途端、板の中から低い震えが伝わる。
「これは、記録そのものが音を覚えています。書き写しただけなら、こんな残響は残らない」
「父もそう言っていた。だから隠した」
カシウスの口元が歪んだ。
「グレイムは、誓約譜の中央音を抜き、代わりに『鳴ったものだけを真実とする』という一文を加えた。星鐘が鳴らなければ、王家の承認も領地の承認も、存在しないことにできる。雨を配る権限は、音律局が持つことになる」
「それを知っていて、黙っていたのですか」
責める声が、自分でも驚くほど冷たくなった。
「知ったのは、婚約を解いたあとだ」
「なら、なぜすぐに言わなかったのです」
「言えば、レーデン家も天候院も潰れる。父は私に、家を守るなら見なかったことにしろと言った」
カシウスは一度、目を伏せた。
「私は従った。君を切り捨てることも、正しい判断だと思い込もうとした」
リセラは答えなかった。謝罪を聞けば痛みが消えるわけではない。あの日、彼女が失ったのは婚約だけではなかった。自分の技術を、自分の名前を、誰かに価値がないと決められたのだ。
エルドが紙を差し出した。
『証言する覚悟は?』
「あります」
『家も、地位も失う』
「もう、守る価値のある家ではない」
短い返事だった。けれど、今度は逃げるための言葉ではないと、リセラにはわかった。
そのとき、記録庫の奥で何かが擦れた。
三人が振り向くと、棚の影から細い糸が伸びていた。糸の先には、星鐘の部品が結ばれている。誰かが扉を開けたら鳴る仕掛けだ。
リセラはとっさに部品をつかんだ。音が生まれる直前、指の骨へ鋭い痛みが走る。
「待って。これは警報ではありません。呼び出しです」
部品の内側には、王立音律局の封印が刻まれていた。さらに裏側に、ひとつの文が浮かび上がる。
――証言者を確認した。封じられた塔へ来たれ。
カシウスの顔から血の気が引いた。
「封じられた塔……グレイムが、まだ使っている」
エルドは紙を裏返し、リセラへ見せた。
『罠かもしれない』
「ええ。でも、ここにある証拠だけでは裁定会に届きません」
リセラは金属板と譜面を箱へ戻した。怖さはあった。それでも、聞こえないふりをしてきた人の証言が、今は彼女の手の中にある。
「カシウス。あなたも来てください。証言は、最後まで自分の声で届けてもらいます」
彼は苦しそうに息を吸い、うなずいた。
「わかった。今度は、君を置いていかない」
その言葉に、エルドのペンがわずかに止まった。
リセラは彼を見た。声を失った王子は、何も言わずに封印を見つめている。けれど、紙の端を押さえる指が、彼女の指先にそっと触れた。
冷たい指だった。
それでも、そこには確かな返事があった。
旧天候院を出る頃、西の空に雷が光った。音はしない。ただ、遠い雲の底で、抜け落ちた一音が帰る場所を探している。
三人の前に、封じられた塔への招待状が残された。
リセラはそれを折りたたみ、胸元へしまった。
次に向かう場所は、もう決まっていた。




