表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
けもの係の事件メモ  作者: 秀人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

狐の足跡はまっすぐ続かない

元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。


『けもの係の事件メモ』第六話です。


今回の相談は、河川敷で見つかった狐の足跡。

家庭菜園が荒らされ、住民たちは狐の仕業ではないかと不安を抱きます。


けれど鹿野蒼は、足跡の形や泥の残り方から、そこに人間の手が加わっていることに気づきます。


野生動物を守りたい気持ち。

野生動物を追い出したい都合。

そのどちらも、狐自身のものではありません。


鹿野と実央は、河川敷に残された足跡から、人間が狐に押しつけた嘘をほどいていきます。

朝倉実央は、河川敷のぬかるみに残った足跡を見下ろしていた。


小さな足跡だった。


犬より細く、猫より大きい。


前足と後ろ足が、ほとんど一直線に並んでいる。


細い指の跡。

小さな爪の跡。

少しだけ尖った形。


「狐、ですか」


実央が言うと、隣でしゃがんでいた鹿野蒼は、返事をしなかった。


鹿野は、いつものカーキ色の上着を着ている。


膝を泥につけても気にしていない。


片手にメジャー。

もう片方の手には、透明な定規。


ぬかるみの横には、足跡を踏まないように置かれた細い棒が何本か刺さっていた。


「狐っぽいですね」


鹿野は、ようやくそう言った。


「狐っぽい」


「狐そのものとは、まだ言ってません」


「また難しい言い方を」


「難しいのは足跡のほうです」


実央は、足元に気をつけながら一歩下がった。


今日の相談は、河川敷の散歩道で見つかった狐の足跡についてだった。


市役所に寄せられた相談は、最初はこうだった。


狐が出た。

家庭菜園が荒らされた。

子どもが噛まれたら危ない。

どうにかしてほしい。


生活環境課としては、野生動物の目撃情報は珍しくない。


タヌキ。

ハクビシン。

アライグマ。

イタチ。

時々、狐。


ただし、狐そのものが問題なのではない。


問題は、その狐が本当に被害を出しているのかどうか。


そして、人間がその名前を便利に使っていないかどうかだった。


鹿野は足跡の一つを覗き込む。


「歩幅が揃いすぎてます」


「揃っていると変なんですか」


「動物の歩き方にもリズムはあります。でも、これは少し機械的です」


「機械的」


「あと、深さが変です」


実央はしゃがんで足跡を見る。


正直、どれも同じように見えた。


「深さ」


「ぬかるみの柔らかいところも、硬いところも、沈み方があまり変わらない」


「狐が軽いからでは」


「軽いなら、柔らかいところでも浅くなります。でもこれは、押した感じです」


実央は顔を上げた。


「押した?」


鹿野は足跡の横に残る泥の縁を指した。


「本物の足なら、重心が移動します。足を置いて、抜いて、次の足へ移る。その時の泥の崩れ方が出ます。でもこれは、上から型を押したみたいに縁が均一です」


実央はもう一度足跡を見る。


確かに、言われてみれば、泥の盛り上がりがどこか不自然だった。


だが、言われなければ絶対にわからない。


「つまり、偽物ですか」


「たぶん」


「誰かが狐の足跡を作った?」


「可能性があります」


実央は河川敷を見渡した。


朝の川は、やわらかい光を受けて静かに流れている。


土手の上には住宅街。


反対側には、小さな家庭菜園がいくつか並んでいる。


その奥には、使われなくなった倉庫のような建物。


春から初夏にかけての草が伸び、足元には露が残っていた。


こんな場所で、誰がわざわざ狐の足跡を作るのか。


実央には想像がつかなかった。


「鹿野さん」


「はい」


「狐の足跡を偽装する理由って、何ですか」


鹿野は立ち上がり、草の奥を見た。


「狐のせいにしたいことがあるんだと思います」


その答えは、実央にも少し覚えがあった。


犬のせい。

猫のせい。

カラスのせい。

魚の様子は気のせい。

インコの言葉はただの真似。


今度は、狐のせい。


動物の名前は、ときどき人間の嘘を隠す。


実央は、泥に残された小さな足跡を見た。


狐は、まだここにいるかどうかもわからない。


それなのに、すでに疑われている。






相談を持ち込んだのは、河川敷の近くに住む田辺照夫だった。


六十代後半の男性で、定年後に小さな家庭菜園を続けているという。


田辺は、畑の前で腕を組んで待っていた。


「ほら、見てください。ひどいでしょう」


畑には、ネギ、キュウリ、トマトの苗が植えられていた。


その一角が荒れている。


土が掘り返され、苗が倒されている。


防鳥ネットの一部も破れていた。


「これが三回目です。夜中にやられるんです」


田辺は怒った声で言った。


「足跡もあった。狐に違いない」


実央はメモを取る。


「目撃はありますか」


「夜に赤っぽい影を見た人がいるそうです」


「どなたが?」


「近所の人です」


「お名前は」


田辺は少し言い淀んだ。


「さあ、そこまでは」


鹿野は畑の中を見ていた。


「野菜、食べられてませんね」


田辺が眉を寄せる。


「何ですか」


「狐が荒らしたにしては、食べた跡が少ないです」


「狐は野菜を食べないんですか」


「食べることもあります。でも、主に小動物や昆虫、果実などです。畑を掘るなら、何かを探した理由があるはずです」


鹿野は破れたネットに近づいた。


「破れ方も変です」


実央も横から見る。


ネットは、鋭く切られたように裂けていた。


「動物が破ったなら?」


「引っかかり方が出ます。爪や体がもつれて、もっと繊維が乱れる。これは刃物で切った感じです」


田辺の顔がわずかに変わった。


「刃物?」


鹿野は畑の土にしゃがむ。


「足跡はどこにありましたか」


「そこです。昨日の朝、残っていました」


田辺が指した先には、もう足跡はほとんど残っていなかった。


誰かが踏んだのか、乾いて崩れたのか。


鹿野は周囲を見る。


「写真は?」


「撮りました」


田辺はスマートフォンを出し、写真を見せた。


そこには、ぬかるみに残る狐のような足跡が写っている。


ただし、先ほど鹿野が見た河川敷の足跡よりも、さらにきれいに並んでいた。


「これ、同じ型ですね」


鹿野が言った。


田辺は聞き返す。


「型?」


「一つ一つの形が似すぎています。実際の足跡は、地面の硬さや角度で少しずつ変わります」


実央は写真を覗き込んだ。


確かに、どの足跡も似ている。


同じ判子を押したようだった。


「田辺さん」


実央は丁寧に言った。


「この畑に、人が入った可能性はありますか」


田辺はすぐに首を振った。


「ないでしょう。誰がそんなことを」


鹿野は、畑の奥を見た。


そこには古い倉庫があった。


錆びたシャッター。

壁に貼られた古いポスター。

入口には南京錠。


「この倉庫は?」


田辺が答える。


「昔の農具置き場です。今はほとんど使っていません」


「鍵は誰が?」


「私と、あと町内の何人かです」


「最近、開けましたか」


「いいえ」


鹿野は倉庫へ近づいた。


南京錠は閉まっている。


だが、シャッターの下の泥が少し乱れていた。


さらに、脇の草が倒れている。


鹿野はしゃがむ。


「ここ、人が通ってます」


田辺の声が強くなる。


「そんなはずはない」


「あります」


鹿野は短く言った。


「狐の足跡より、人の跡のほうがはっきりしています」


田辺は黙った。


実央は、その沈黙に少し引っかかった。


怒っているというより、何かを恐れているようにも見えた。






倉庫の鍵は、田辺が持っていた。


ただ、すぐには開けたがらなかった。


「中は散らかっていますよ。見るようなものはありません」


「荒らしの被害が倉庫周辺にも及んでいる可能性があります」


実央がそう説明すると、田辺はしぶしぶ鍵を出した。


錆びた南京錠が開く。


シャッターを持ち上げると、古い油と土の匂いがした。


中には、鍬、スコップ、支柱、肥料袋、古い段ボール箱が積まれている。


鹿野は入口で止まり、すぐに中へは入らなかった。


「入っていいですか」


田辺は頷いた。


「どうぞ」


鹿野は足元を見ながらゆっくり入る。


実央も続いた。


倉庫の奥に、不自然な空間があった。


段ボールの裏。


そこだけ、床の土ぼこりが新しく動いている。


鹿野がしゃがむ。


「ここに何か置いてました?」


田辺は答えない。


実央は田辺を見る。


「田辺さん」


田辺は額に汗を浮かべていた。


鹿野は段ボールの裏から、小さな木片を拾い上げた。


狐の足の形をした木片だった。


裏に短い棒がついている。


泥に押しつければ、狐のような足跡が作れる。


実央は息を止めた。


「型ですね」


鹿野は言った。


田辺は何も言わなかった。


倉庫の中が静かになる。


外では、川の音がしている。


鹿野は木片を見ながら、淡々と言った。


「田辺さん。狐は、この足跡をつけられません」


田辺は唇を強く結んだ。


実央は、木片の写真を撮った。


「これは、どなたが作ったものですか」


田辺は、しばらく黙っていた。


やがて、低い声で言う。


「私じゃない」


「では、誰が」


「知らん」


その返事は早かった。


早すぎた。


鹿野は倉庫の床を見ていた。


「最近、ここに子どもが入りました?」


田辺が顔を上げる。


「子ども?」


「小さい靴跡があります」


実央も床を見る。


確かに、倉庫の奥の土ぼこりに小さな靴跡がある。


大人のものではない。


鹿野は入口の脇を指した。


「あと、ランドセルのストラップみたいな跡」


田辺は深く息を吐いた。


実央は静かに聞いた。


「お孫さんですか」


田辺は、長く黙った。


それから、ゆっくり頷いた。


「小五の孫がいる」


「その子が足跡を?」


「違う」


田辺は強く言った。


「孫は関係ない」


鹿野は木片を見た。


「この型、子どもが作るにはよくできています。でも、足跡の幅が少し広い。実物の狐を見たというより、図鑑か写真を見て真似た感じです」


田辺の肩が少し落ちた。


「孫が……図鑑が好きでね」


その声には、怒りよりも疲れがあった。


「動物が好きなんだ。特に狐が」


実央は、田辺の顔を見た。


「では、お孫さんが畑を荒らしたんですか」


田辺は首を振った。


「畑を荒らしたのは、たぶん別のやつだ」


「別の人?」


田辺は倉庫の外へ視線を向けた。


「町内の連中です」


実央は眉を寄せた。


「どういうことですか」


田辺は言いづらそうに口を閉じた。


鹿野は、木片を田辺に返さず、手袋をしたまま机の上に置いた。


「話したほうがいいです」


その声は静かだった。


「狐のせいにしたままだと、本物の狐が追われます」


田辺の表情が、はっと変わった。


そこを突かれるとは思っていなかったようだった。


鹿野は続けた。


「この辺に狐がいるかもしれない。それだけで、罠を置こうとか、追い払おうとか、そういう話になります」


実央は、田辺の手が少し震えているのを見た。


田辺は、やっと口を開いた。


「孫は、狐を守りたかったんです」


「守る?」


「この河川敷に狐がいるって、前から喜んでいた。写真も撮っていた。けど、町内で再整備の話が出て、草むらを刈るとか、倉庫を壊すとか、そういう話になった」


実央はメモを取る。


河川敷再整備。


また、その言葉が出てきた。


「孫は、狐がいるなら工事は止まると思ったんでしょう。だから、足跡の型を作って、ここに狐がいるって見せようとした」


「では、畑荒らしは?」


田辺は顔をしかめた。


「それは、たぶん隣の畑の連中です。再整備に賛成している人たちがいる。狐が出るなんて話になれば面倒だと言っていた。だから逆に、狐が畑を荒らす危険な動物だと騒ぎ始めたんです」


実央は混乱しそうになった。


孫は狐を守るために、狐の足跡を作った。


一方で、別の誰かは狐を追い出すために、畑荒らしを狐のせいにした。


どちらも、狐を利用している。


守るため。

追い出すため。


理由は逆なのに、やっていることは似ていた。


鹿野は言った。


「どちらにしても、狐の都合じゃないですね」


田辺は顔を伏せた。


「そうです」


その声は、小さかった。






田辺の孫は、悠真という名前だった。


小学五年生。


細くて、眼鏡をかけた少年だった。


学校から帰ってきたところを、田辺が呼んだ。


悠真は、鹿野と実央を見るなり、表情をこわばらせた。


「怒られる?」


第一声がそれだった。


実央は少し困った。


「話を聞きたいだけです」


鹿野はしゃがんで、悠真と目線を合わせた。


「狐の足跡、作りましたか」


悠真は黙った。


それから、小さく頷いた。


「はい」


「どうやって?」


「図鑑を見て。木を削って。じいちゃんの倉庫で」


「上手にできてました」


悠真は一瞬だけ目を輝かせた。


すぐに俯く。


「でも、だめだったんですよね」


「だめですね」


鹿野ははっきり言った。


実央は少しだけ息を呑んだ。


鹿野は優しいが、こういうときは曖昧にしない。


「狐を守りたかったの?」


悠真は頷いた。


「この前、見たんです。夕方に、草のところから出てきて。細くて、きれいで。写真も撮りました」


「写真、ありますか」


悠真はスマートフォンを出した。


画面には、夕方の河川敷に立つ狐の姿が写っていた。


遠い。


少しぼやけている。


それでも、赤茶色の体と細い脚がわかる。


「本当にいますね」


実央が言うと、悠真は少しだけ嬉しそうにした。


「いるんです。ここに」


鹿野は写真を見た。


「若い狐かもしれません」


「子どもですか」


「成獣に近い若い個体かも。ひとりで動いているなら、餌場を探しているのかもしれない」


悠真は、じっと鹿野を見た。


「工事したら、いなくなりますか」


鹿野は少し考えた。


「草むらがなくなれば、使いにくくなります」


「じゃあ、やっぱり守らないと」


「守りたいなら、嘘の足跡じゃなくて、本当の記録を残したほうがいいです」


「本当の記録」


「いつ、どこで見たか。写真。足跡。糞。巣穴じゃなくて、通り道。そういうものをちゃんと集める」


悠真は黙って聞いている。


「嘘を混ぜると、本当の狐まで嘘みたいに見られます」


その言葉に、悠真は唇を噛んだ。


実央は、胸が少し痛んだ。


狐を守りたかった。


その気持ちは、嘘ではない。


でも、方法を間違えれば、守りたいものを傷つける。


それは大人でも同じだった。


「ごめんなさい」


悠真は小さく言った。


鹿野は頷いた。


「狐に謝るなら、次から本当のことを記録してください」


「はい」


「あと、倉庫に勝手に入らない」


「はい」


「刃物を使うときは大人に言う」


「はい」


「動物の足跡を作るなら、自由研究でやる」


悠真は少し顔を上げた。


「自由研究ならいいんですか」


「偽装に使わなければ」


実央は思わず口を挟んだ。


「鹿野さん、そこはもう少し安全指導を厚めに」


「そうですね」


鹿野は悠真を見る。


「安全に、大人と一緒に」


悠真は真面目に頷いた。


田辺は、少し離れたところでその様子を見ていた。


ほっとしたような、申し訳ないような顔だった。






畑を荒らしていた人物は、すぐにわかった。


隣の区画を借りている中年男性、木島だった。


木島は河川敷の再整備に賛成していた。


古い倉庫や草むらを片づけ、遊歩道を広げれば、町がきれいになる。


そう考えていた。


だが、狐の目撃情報が広がり始めると、再整備の話が止まりかけた。


珍しい野生動物がいるなら、調査が必要だ。

草むらを残すべきではないか。

子どもたちの自然観察に活かせないか。


そういう声が出始めた。


木島は苛立った。


そこで、田辺の畑を荒らした。


狐の足跡らしきものが残っていたこともあり、狐が農作物を荒らす危険な存在だと見せたかった。


ネットを切ったのは木島だった。


狐の型を作ったのは悠真。


畑を荒らしたのは木島。


二つの嘘が、同じ場所で重なった。


実央は、関係部署と相談し、町内会にも説明の場を設けることになった。


木島は最初、狐がやったと言い張った。


だが、ネットの切断面、靴跡、倉庫裏に残っていた軍手の繊維、そして畑の土がついた木島の道具が見つかり、認めざるを得なかった。


「狐なんて、ほっとけば増えるんだ」


木島はそう言った。


「畑も荒らす。ゴミも荒らす。子どもに何かあったらどうする」


鹿野は、しばらく黙っていた。


そして言った。


「今回、畑を荒らしたのは人間です」


木島は顔をしかめる。


「そんなことはわかってる」


「わかっているなら、狐のせいにしないでください」


鹿野の声は静かだった。


「狐がここにいることと、狐が悪いことをしたかどうかは別です」


木島は黙った。


実央は、その言葉をメモした。


狐がいる。


狐が悪いことをした。


その二つは違う。


当たり前のようで、混ざりやすい。


犬がいるから、犬がやった。


猫がいるから、猫が落ちた。


カラスがいるから、カラスが悪い。


狐がいるから、狐が荒らした。


人間は、見たい結論に動物を合わせる。


鹿野は、それを一つずつほどいているのだ。






町内会の説明は、河川敷近くの集会所で行われた。


実央は市役所として、確認できた事実を説明した。


狐の足跡の一部は人工的につけられたものだったこと。

畑荒らしは狐ではなく人間によるものだったこと。

河川敷に狐がいる可能性はあるが、現時点で人への危害や大きな農作物被害は確認されていないこと。

野生動物には餌をやらず、近づきすぎず、ゴミや食べ物を放置しないこと。


鹿野は、狐について短く説明した。


「狐は、基本的に人間を避けます。こちらから近づいたり、餌をやったり、追い回したりしなければ、すぐに人へ向かってくる動物ではありません」


住民の一人が手を上げた。


「でも、子どもが触ろうとしたら?」


「触らせないでください」


鹿野は即答した。


「野生動物はペットではありません。可愛いと思っても距離を取る。写真を撮るなら離れて。餌をやらない。家に連れて帰らない」


悠真が、集会所の後ろで小さく頷いていた。


鹿野は続ける。


「守ることと、近づくことは違います」


その言葉は、悠真に向けたようにも聞こえた。


実央は、資料を配りながらその言葉を心の中で繰り返した。


守ることと、近づくことは違う。


それは、野生動物に限らないのかもしれない。


人間は、好きなものほど自分のそばへ置きたくなる。


守りたいものほど、自分の考えに合わせたくなる。


でも、相手には相手の距離がある。


狐には狐の道がある。


町には町の都合がある。


その間をどう見るか。


そこに、けもの係の仕事があるのだと思った。






数日後、実央は鹿野と一緒に河川敷を歩いていた。


夕方だった。


川の水面に、橙色の光が揺れている。


草むらの背は高く、足元には小さな虫が飛んでいた。


鹿野は双眼鏡を持っている。


実央は資料の入った鞄を抱えていた。


「また何か探してるんですか」


「本物の足跡」


「まだ探すんですね」


「記録が必要なので」


「悠真くんのためですか」


「狐のためです」


実央は少し笑った。


「そうでした」


鹿野は草の切れ目で止まった。


そこに、足跡があった。


ぬかるみの上ではなく、少し湿った砂地。


小さな足跡が、草むらの中から出て、また別の草むらへ消えている。


一直線ではない。


少し曲がり、石を避け、途中で立ち止まったように跡が乱れている。


鹿野はしゃがみ込んだ。


「これです」


実央も隣にしゃがむ。


「本物ですか」


「たぶん」


「たぶん」


「足跡は断定しすぎないほうがいいです。でも、型ではないです。深さも、崩れ方も、向きも自然」


実央はその足跡を見た。


先日見たものより、ずっと不揃いだった。


きれいではない。


まっすぐでもない。


でも、それが生き物らしく見えた。


「狐の足跡は、まっすぐ続かないんですね」


鹿野は少しだけ実央を見る。


「歩く場所によります」


「そこは少し詩的に受け取ってください」


「朝倉さんがそう言うの、珍しいですね」


「市役所職員にも、たまにはあります」


鹿野はわずかに笑った。


実央は足跡の写真を撮った。


記録として。


今度は、嘘ではなく。


夕方の草むらが、風に揺れる。


その奥で、何かが動いた。


赤茶色の影。


実央は息を止めた。


狐だった。


細い体。

尖った耳。

長い尻尾。


狐は二人に気づくと、しばらくこちらを見た。


近づいてこない。


逃げもしない。


ただ、距離を測っている。


鹿野は動かなかった。


実央も動かなかった。


狐はやがて、草むらの奥へ入っていった。


音もなく。


そこにいたことだけを残して。


実央は、ようやく息を吐いた。


「いましたね」


「いました」


「写真、撮れませんでした」


「見たので」


「記録としては弱いです」


「朝倉さんらしい」


鹿野は足跡を見た。


「でも、足跡は残ってます」


実央は頷いた。


狐が消えた草むらを見る。


人間が作った足跡より、不完全で、曲がっていて、ところどころ曖昧で。


だからこそ、本物に近かった。






その日の夕方、けもの係に戻ると、鹿野はいつものノートを開いた。


実央は、手を洗ってから机の前に座った。


泥が靴にかなりついている。


市役所へ戻る前に落とさなければならない。


鹿野はペンを持つ。


今回の題名は、すでに書かれていた。


狐の足跡はまっすぐ続かない。


実央は言った。


「今回は、少し長いですね」


「足跡も長かったので」


「そういう理由ですか」


鹿野はペンを走らせる。


狐の足跡は、まっすぐ続かない。

石を避け、草に隠れ、柔らかい土に沈み、硬い地面では消える。


人間が作った足跡は、きれいすぎた。

守るための嘘も、追い出すための嘘も、狐のものではなかった。


狐は畑を荒らしていない。

狐は人間の議論を知らない。

狐はただ、草むらを通った。


そこにいたことを、少しだけ残して。


鹿野はペンを止めた。


実央はノートを見ながら言った。


「守るための嘘も、だめなんですね」


鹿野は頷いた。


「だめです」


「悪意がなくても?」


「悪意がないと、ややこしいです」


「わかります」


実央は、悠真の顔を思い出した。


狐を守りたい。


その気持ちは、きっと本物だった。


けれど、本物の気持ちからでも、嘘は生まれる。


そして嘘は、ときどき守りたいものを傷つける。


「鹿野さん」


「はい」


「悠真くん、自由研究にするそうです」


「狐の?」


「はい。市役所にも、河川敷の生き物記録について聞きに来たいと」


「いいですね」


「鹿野さんにも相談に来るかもしれません」


「型は作らせません」


「そこはお願いします」


鹿野は少し考えてから言った。


「足跡の石膏取りなら、ちゃんと教えます」


「安全に、大人と一緒に」


「はい」


「本当にお願いしますよ」


「はい」


実央は、ようやく少し安心した。


外では、日が落ち始めている。


けもの係の窓の向こうに、河川敷の草が見えた。


そのどこかを、さっきの狐が歩いているかもしれない。


人間の都合など知らずに。


ただ、自分の道を選んで。


鹿野はノートの最後に、一行を書き足した。


狐の足跡は、人間のために残るわけではない。

だからこそ、人間は勝手に意味を押しつけてはいけない。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第六話では、狐の足跡をめぐる話を描きました。


野生動物は、可愛いから近づいていい存在でも、怖いから追い払っていい存在でもありません。

そこにいるなら、まずは距離を取り、記録し、相手の暮らしを知ることが大切なのだと思います。


守りたい気持ちから生まれる嘘も、追い出したい気持ちから生まれる嘘も、結局は動物のためにはならない。


鹿野蒼にとって、それはきっと譲れない線です。


次回は、学校の飼育小屋で起きるうさぎの相談です。

「噛みついた」と言われたうさぎの行動から、子どもたちの隠し事と飼育環境の問題を見ていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ