インコはその言葉を知らない
元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。
『けもの係の事件メモ』第五話です。
今回の相談は、河川敷の近くで保護された迷子のインコ。
そのインコは、「カエシテ」「ミナミ」という言葉を繰り返していました。
鳥は言葉を真似ることがあります。
けれど、その意味を知っているのは人間のほうです。
鹿野蒼と朝倉実央は、小さなインコが覚えていた言葉から、ある家族の中に残っていた問題へ近づいていきます。
朝倉実央は、市役所生活環境課の会議室で、小さな鳥かごを前にしていた。
鳥かごの中には、黄色と緑の小さなインコがいる。
丸い目。
小さな嘴。
落ち着かない足取り。
止まり木の上を右へ左へ移動しながら、ときどき首を傾げて実央を見ていた。
「……見ていますね」
実央は言った。
隣に座っていた若い男性が、申し訳なさそうに笑った。
「すみません。人を見るのが好きなんです」
「いえ。見られるだけなら、大丈夫です」
犬や猫に比べれば、鳥はまだ距離がある。
少なくとも、いきなり膝に乗ってくることはない。
そう思った直後、インコが羽を震わせた。
実央は少しだけ背筋を伸ばした。
若い男性の名前は、榎本航太。
二十代後半。
市内のアパートに住んでいる会社員だという。
彼が市役所に持ち込んだ相談は、迷子のインコについてだった。
ただし、迷子になったのはこのインコではない。
このインコを拾ったのだという。
「昨日の夕方、河川敷の近くで見つけました。肩に乗ってきたんです」
「肩に?」
「はい。急に飛んできて」
実央は、鳥かごの中のインコを見た。
インコは首を傾げている。
「人に慣れているんですね」
「たぶん、飼われていた子だと思います。だから、飼い主を探したくて」
「警察には届けましたか」
「はい。拾得物として連絡しました。ただ、生き物なので、ひとまず僕が預かる形になっています」
実央は頷いた。
迷子鳥の相談は市役所にも来る。
掲示板や地域の情報、動物関連の団体への連絡、警察との連携。
できることは限られるが、ゼロではない。
「特徴は記録します。羽色、足環の有無、話す言葉など」
「足環はありません」
「言葉は?」
航太は少し困ったような顔をした。
「それが、その……」
鳥かごの中のインコが、突然高い声で言った。
「カエシテ」
実央は固まった。
航太も、気まずそうに肩をすくめる。
インコはもう一度、今度は少し違う調子で言った。
「カエシテ。ミナミ」
「今のは」
実央はゆっくり聞いた。
「見つけたときから、ずっと言ってるんです」
「カエシテ。ミナミ」
「はい」
インコは止まり木の上で嘴をこすった。
そして、小さく鳴く。
「ミナミ、カエシテ」
実央はメモに書いた。
言葉。
カエシテ。
ミナミ。
そして、すぐに鹿野蒼の顔を思い浮かべた。
これは自分ひとりで判断しないほうがいい。
鳥が何を覚えているのか。
そもそも、覚えた言葉がどこまで意味を持つのか。
それを見られる人が必要だった。
「外部の相談員に確認します」
実央が言うと、航太は少しほっとしたように頷いた。
「お願いします。なんだか、この子、ただ迷子になっただけじゃない気がして」
「なぜですか」
「声が」
航太はインコを見た。
「楽しそうじゃないんです」
実央は鳥かごの中の小さなインコを見た。
鳥が楽しそうかどうか。
実央にはわからない。
けれど、その言葉の響きが明るくないことだけは、少しわかった。
カエシテ。
ミナミ。
鳥は、意味を知っているわけではないかもしれない。
でも、その言葉を覚えた場所には、人間がいた。
その人間が、何を言っていたのか。
実央はスマートフォンを取り出した。
鹿野蒼へ電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、眠そうな声が出た。
「はい。けもの係です」
「朝倉です。インコの相談です」
「インコ」
「迷子鳥です。言葉を話します」
「何て?」
実央はメモを見た。
「カエシテ。ミナミ」
電話の向こうで、鹿野が黙った。
短い沈黙。
それから、声が少しだけ変わった。
「その鳥、まだ市役所ですか」
「はい」
「今から行きます」
電話が切れた。
実央は画面を見つめた。
いつもより、反応が早かった。
鹿野蒼は、二十分後に市役所へ来た。
肩にはいつものショルダーバッグ。
手には、小さな布と、鳥用の餌が入ったケースを持っている。
会議室へ入るなり、鹿野は鳥かごへ近づきすぎない距離で止まった。
インコが鹿野を見る。
鹿野も、インコを見る。
だが、じっと見つめすぎない。
犬や猫のときと同じように、鹿野はまず相手の距離を測る。
「こんにちは」
インコは首を傾げた。
「カエシテ」
鹿野の目が少し細くなる。
「誰に言われたの」
実央は思わず言った。
「答えますか」
「答えません」
「ですよね」
「でも、言い方を聞きます」
鹿野は椅子に座り、鳥かごと同じ高さに目線を合わせた。
「名前はわからないんですよね」
航太が頷く。
「はい。僕は仮でピーちゃんって呼んでます」
インコが鳴いた。
「ピーちゃん」
航太が少し驚く。
「今、言いました?」
鹿野は頷いた。
「呼ばれて覚えたんですね」
「じゃあ、この子の元の名前はピーちゃんでは」
「わかりません。今覚えた可能性もあります。インコはよく聞く音を拾います」
鹿野はインコの羽、足、嘴、目を見る。
「セキセイインコ。若くはないけど高齢でもなさそう。羽は整ってる。大きく弱ってはいないです」
実央は少し安心した。
「よかったです」
「ただ、外に長くいた感じではないです」
「どういうことですか」
「羽の汚れが少ない。体重もそこまで落ちてない。迷子になってから一日か二日くらいかもしれません」
航太が言う。
「じゃあ、近くの家から?」
「可能性があります」
鹿野は鳥かごの中の餌入れを見る。
「餌は?」
「ペットショップで買ったインコ用のシードです」
「食べました?」
「少し」
「水は?」
「飲みました」
鹿野は頷いた。
そして、インコに向かって小さく口笛を吹いた。
短い音。
インコは少し反応した。
羽を軽く震わせ、止まり木の上で足を踏み替える。
「人に慣れてますね」
「はい」
「でも、少し緊張してる」
「わかるんですか」
実央が聞く。
「羽をぴったりさせすぎてる。動きも細かい。知らない場所で、人が多いから」
「会議室が悪いですか」
「鳥には落ち着かないです。声が響くし、壁が白いし」
実央は会議室を見回した。
まさか鳥目線で市役所の会議室を見る日が来るとは思わなかった。
鹿野はインコの声を待った。
しばらく、誰も喋らない。
会議室の空調音だけが聞こえる。
インコは止まり木を移動し、嘴でかごの金属を軽くつついた。
そして、少し低い調子で言った。
「ミナミ、カエシテ」
鹿野はすぐにメモを取った。
「今の、二語がつながってます」
実央も書く。
「ミナミ、カエシテ」
「名前かもしれませんね」
航太が言う。
「ミナミさん?」
「人の名前、地名、物の名前。どれもあります」
鹿野は答えた。
「でも、インコが意味を理解しているわけではないです。聞いた音を真似している」
「じゃあ、手がかりになるんですか」
実央が聞くと、鹿野はインコを見たまま言った。
「なります。インコが知っているんじゃなくて、インコのそばにいた人間が言った言葉なので」
その言い方に、実央は少しだけ背筋を伸ばした。
インコは証言しない。
でも、誰かの声を覚えている。
犬の吠え声。
猫の痕跡。
カラスの記憶。
魚の水槽。
それぞれ違う形で、動物たちは人間の事情を映してきた。
今回は、言葉そのもの。
だが、意味を知っているのは鳥ではない。
人間だ。
鹿野は立ち上がった。
「見つけた場所へ行きます」
航太も立ち上がる。
「僕も行きます」
鹿野は少し考えた。
「鳥はここに置いていきます。移動が負担になるので」
「僕が預かっても?」
「できますか」
「はい」
鹿野は餌と水、かごにかける布について簡単に説明した。
「落ち着かせるために、しばらく布を半分かけてください。暗くしすぎなくていいです。急に覗き込まない。大きな声を出さない」
航太は真剣に頷く。
実央はそれを見て言った。
「榎本さん、慣れていますね」
「実家で文鳥を飼っていたので」
「なるほど」
鹿野は航太を見る。
「鳥の扱い、悪くないです」
航太は少し嬉しそうにした。
「ありがとうございます」
「でも、名前はピーちゃん以外も考えてください」
「そこですか」
実央が思わず言った。
鹿野は真顔で頷いた。
「そこも大事です」
インコが言った。
「ピーちゃん」
会議室に、少しだけ笑いが起きた。
インコが見つかったのは、河川敷へ続く細い道の途中だった。
近くには小さな公園と、古いアパート、コンビニ、そして空き家が一軒ある。
航太はその道端の植え込みを指した。
「ここです。夕方、仕事帰りに歩いていたら、肩に乗ってきました」
「近くで鳴いていましたか」
鹿野が聞く。
「最初は、チチッていう声がして。振り返ったら飛んできました」
「飛び方は?」
「まっすぐじゃなかったです。低く飛んできて、少し疲れてる感じで」
鹿野は周囲を見た。
電線。
ベランダ。
木。
植え込み。
アパートの窓。
「この辺に、鳥かごを置いている家はありますか」
実央は近くの住宅を見回した。
「聞き込みが必要ですね」
「迷子掲示も」
「市役所と警察、地域掲示板、SNSの案内をします」
鹿野は植え込みの下にしゃがんだ。
小さな黄色い羽が一枚落ちている。
「この子の羽かもしれません」
実央が写真を撮る。
鹿野は羽の位置を見てから、空き家のほうを見た。
「こっちから来た?」
「空き家ですか」
「正確には、その向こう」
空き家の隣には、二階建ての古いアパートがあった。
ベランダには洗濯物が干されている部屋もあれば、カーテンが閉めきられた部屋もある。
一室のベランダに、鳥用の止まり木のようなものが置かれていた。
「鳥を飼っている部屋がありそうです」
実央はその部屋を見上げた。
二階の角部屋。
カーテンは半分閉まっている。
ベランダの端に、古い鳥かごの台が見える。
「確認します」
実央は管理会社に連絡し、アパートの住人情報を確認する手続きを取った。
もちろん、個人情報は慎重に扱う必要がある。
だが、生き物の迷子、近隣確認、そして場合によっては安否確認の可能性もある。
時間はかかったが、管理会社から折り返しが来た。
二階角部屋の入居者は、南川和枝。
七十代の女性。
名前を聞いた瞬間、実央はメモを見た。
ミナミ。
南川。
「ミナミって、南川さんのことですかね」
「可能性はあります」
鹿野はアパートを見上げる。
「ただ、インコは『ミナミ、カエシテ』と言ってます」
「南川さん、返して?」
「逆もあります」
「逆?」
「南川さんに、誰かが『返して』と言っていたのかも」
実央は眉を寄せた。
「何を」
鹿野は答えなかった。
アパートの二階から、カーテンが少しだけ動いた。
誰かが見ている。
そんな気がした。
南川和枝の部屋を訪ねると、応答はなかった。
インターホンを押しても、返事がない。
しかし、室内に人の気配はあった。
鹿野は扉の前で耳を澄ませた。
「何か聞こえますか」
実央が小声で聞く。
「テレビ」
「それなら在宅かもしれません」
「あと、鳥の声はしません」
「飼っているなら、鳴きそうですよね」
「知らない人が来ると鳴く子もいます。でも、まったく聞こえない」
実央は管理会社へ再度連絡した。
高齢の一人暮らしで、最近近隣から「夜に言い争う声がする」と相談があったらしい。
ただ、本人からの訴えではなく、内容も曖昧だったため、まだ確認途中だったという。
実央は表情を引き締めた。
「安否確認の必要があります」
警察と管理会社が到着し、合鍵で扉を開けた。
中にいたのは、南川和枝ではなかった。
若い女性だった。
二十代半ばほど。
部屋の中は少し散らかっている。
テーブルの上には薬の袋、湯呑み、古い写真立て。
そして、部屋の隅に鳥かごがあった。
空の鳥かご。
若い女性は、突然の訪問に顔をこわばらせた。
「何ですか。勝手に」
実央が名乗る。
「市役所生活環境課の朝倉です。南川和枝さんのお部屋でお間違いありませんか」
女性は唇を噛む。
「祖母の部屋です」
「南川さんはどちらに?」
「入院しています」
「入院?」
「先週から」
実央は警察官と目を合わせた。
鹿野は部屋の隅の鳥かごを見ている。
「インコを飼っていましたか」
女性の顔色が変わった。
「……はい」
「黄色と緑のセキセイインコですか」
「そうです」
「昨日、河川敷近くで保護されています」
女性の肩から、力が抜けた。
「生きてるんですか」
「はい。今は保護した方が安全に預かっています」
女性はその場に座り込むように椅子へ腰かけた。
「よかった」
その言葉には、本当の安堵があった。
鹿野は鳥かごへ近づきすぎない距離で見た。
餌入れ。
水入れ。
小さな鈴。
止まり木。
かごの扉。
扉の留め具が少し歪んでいる。
「逃げたんですか」
鹿野が聞く。
女性は首を振った。
「逃げたんじゃありません」
「では」
「私が、外へ出しました」
部屋の空気が変わった。
実央は言葉を失いかけた。
だが、すぐに落ち着いて聞く。
「なぜですか」
女性は、両手を握りしめた。
「祖母が、ずっとその子を大事にしていて。でも、入院することになって、私が世話を任されました」
「お名前は」
「リリです」
実央はメモに書いた。
インコの名前、リリ。
女性は続けた。
「祖母は、リリを誰にも渡したくないって。でも、病院に連れていけるわけじゃない。私は鳥の世話なんてわからないし、仕事もあるし」
「それで外へ?」
「一度だけ、窓を開けたんです。自由にしてあげたほうがいいのかと思って」
鹿野の声が低くなった。
「インコは外では生きにくいです」
女性はびくりと肩を震わせた。
鹿野は続ける。
「自由に見えても、餌の場所を知りません。天敵もいます。気温も危ない。飼われていた鳥を外に出すのは、自由ではなく放り出すことです」
女性は涙を浮かべた。
「わかってます。今は、わかってます」
「なぜ、返してと言っていたんですか」
実央が聞いた。
女性は顔を上げた。
「リリが?」
「はい。『ミナミ、カエシテ』と」
女性は、目を見開いた。
それから、泣きそうに笑った。
「祖母です」
「南川さんが?」
「はい。祖母が、私に言っていたんです」
女性は手で顔を覆った。
「母の形見を返してって」
鹿野は黙って聞いていた。
女性の名前は、南川千尋。
和枝の孫だった。
千尋の母は、数年前に亡くなっている。
その母が使っていた古いブローチを、和枝は大切にしていた。
しかし千尋は、生活費に困り、そのブローチを勝手に売ってしまった。
和枝はそれに気づいた。
入院前の夜、部屋で言い合いになった。
「返して、千尋。返して」
和枝は何度もそう言った。
リリは、その声を覚えた。
ただ、「千尋」はうまく拾えなかったのかもしれない。
南川。
ミナミ。
返して。
その音だけが、リリの声に残った。
「祖母は、次の日に倒れて。入院して。私は怖くなって」
千尋は震える声で言った。
「リリがそれをずっと言うから。責められているみたいで。だから」
「外へ出した」
実央が静かに言う。
千尋は頷いた。
「消えてほしかったんだと思います。言葉も、その子も」
鹿野の表情は変わらなかった。
だが、声はとても低かった。
「リリは、言葉の意味を知りません」
千尋は顔を上げる。
鹿野は続けた。
「でも、その言葉を聞いた場所にいました」
「はい」
「リリは責めていたんじゃないです。覚えていただけです」
千尋は泣き出した。
声を殺すような泣き方だった。
実央は、空の鳥かごを見た。
小さな止まり木。
餌入れ。
歪んだ扉。
インコは、その中で人間の言い争いを聞いていた。
意味を知っていたわけではない。
けれど、声の調子や繰り返される音を覚えた。
人間が隠したかった言葉を。
鳥は、そのまま外へ持っていった。
リリは、その日のうちに南川家へ戻された。
ただし、すぐに千尋へ任せるわけにはいかなかった。
和枝の入院先、管理会社、警察、親族、市の福祉担当とも連携し、世話の体制を整える必要があった。
千尋は、ブローチを売った店に連絡すると言った。
すぐに戻るかはわからない。
だが、探すことはできる。
和枝にも、ちゃんと話すと言った。
「リリは、祖母のところへ連れていけますか」
千尋が聞いた。
実央は少し考える。
「病院の規則次第です。難しい場合もあります。でも、写真や動画なら見せられるかもしれません」
鹿野が言った。
「声も録れます」
千尋はリリを見た。
小さなインコは、鳥かごの中で止まり木にとまっている。
環境が戻ったせいか、保護されたときより少し落ち着いて見えた。
「リリ」
千尋が呼ぶ。
インコは首を傾げた。
「リリ」
今度は、自分の名前を真似るように短く鳴いた。
千尋は涙を拭った。
「ごめんね」
リリは答えない。
代わりに、餌入れのそばへ移動した。
鹿野が静かに言う。
「謝ったら、世話してください」
千尋は頷いた。
「はい」
「謝罪より、毎日の水です」
千尋は泣きながら少し笑った。
「はい」
実央はその言葉をメモしたくなった。
謝罪より、毎日の水。
鹿野らしい。
きれいな言葉ではない。
けれど、生き物に向き合うにはたぶん、そのほうがずっと大切だった。
数日後、実央はけもの係を訪れた。
鹿野は店の奥で、鳥用の小さな止まり木を削っていた。
「それ、何ですか」
「予備の止まり木です」
「リリ用ですか」
「サイズが合えば」
「手作りなんですね」
「合わない止まり木は足に負担がかかるので」
鹿野は紙やすりをかけながら答えた。
店内には木の粉の匂いがした。
実央は鞄から資料を取り出す。
「南川さんの件、その後です」
鹿野は顔を上げた。
「和枝さん?」
「はい。病院でリリの動画を見たそうです。とても喜んでいたと、福祉担当から連絡がありました」
「そうですか」
「ブローチは、売却先がわかりました。まだ戻せるかは未定ですが、千尋さんが手続きを進めています」
「よかったです」
鹿野は短く言った。
「千尋さん、リリの世話記録をつけ始めたそうです」
「いいですね」
「水、餌、掃除、声かけ。毎日書いていると」
鹿野は止まり木を見る。
「リリが覚える言葉も、少し変わるかもしれません」
「新しい言葉を?」
「はい」
実央は椅子に座った。
「鳥は、嫌な言葉も覚えるんですね」
「よく聞く言葉を覚えます。人間にとって嫌な言葉かどうかは、鳥には関係ないです」
「だから怖いですね」
「だから、人間が気をつけるんです」
鹿野は削った止まり木を手のひらで確かめた。
「鳥は小さいですけど、声をよく聞いてます」
「鹿野さん」
「はい」
「リリは、千尋さんを責めていたわけではないんですよね」
「はい」
「でも、千尋さんは責められていると思った」
「人間は、そういうことがあります」
「動物が何も言っていなくても」
「はい」
実央は、リリの声を思い出した。
ミナミ、カエシテ。
小さな鳥の声。
意味を知らない言葉。
それでも、その言葉は千尋に届いた。
届いてしまった。
いや、届く必要があったのかもしれない。
鹿野は、いつものノートを開いた。
表紙には「事件メモ」と書かれている。
今回の題名は、すでに記されていた。
インコはその言葉を知らない。
実央はその文字を見て言った。
「今回は、少し切ないですね」
「そうですか」
「インコは意味を知らないのに、人間だけが意味を知っていた」
鹿野はペンを持つ。
「だから、人間の問題です」
そして、ノートに書き始めた。
インコは言葉を覚える。
けれど、その意味を人間のようには知らない。
返して。
ミナミ。
リリ。
ごめんね。
鳥は、聞いた音を繰り返す。
その声に傷つくのは、言葉を知っている人間のほうだった。
インコは責めていない。
隠された言葉を、ただ持っていただけだった。
鹿野はペンを止めた。
実央は、ノートを見ながら言った。
「鹿野さん」
「はい」
「動物って、けっこう人間を見ていますね」
「見てます」
「犬も、猫も、カラスも、魚も、鳥も」
「人間も、見られることを覚えたほうがいいです」
実央は苦笑した。
「市役所の窓口にも貼りたいですね」
「苦情が来ます」
「でしょうね」
店の外で、川沿いを自転車が通る音がした。
午後の光が、けもの係の窓から差し込んでいる。
鹿野は止まり木を紙袋に入れた。
「届けますか」
「リリに?」
「はい」
実央は少し考えた。
「私も行きます」
「鳥、平気でした?」
「犬よりは」
「だいぶ基準が犬ですね」
「私にとっては重要な基準です」
鹿野は少しだけ笑った。
二人は店を出た。
河川敷へ続く道には、春の終わりの風が吹いていた。
どこかの家から、鳥の声が聞こえる。
それがリリの声かどうかはわからない。
けれど、実央は足を止めなかった。
小さな声にも、残るものがある。
それを、少しずつ覚え始めていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第五話では、インコの言葉を手がかりにした事件を描きました。
鳥は人間の言葉を覚えることがありますが、その意味まで人間と同じように理解しているとは限りません。
でも、そばで繰り返された声や空気は、ちゃんと残ります。
今回のリリは、誰かを責めていたわけではありません。
ただ、人間が隠したかった言葉を覚えていただけでした。
次回は、河川敷で見つかった狐の足跡をめぐる話です。
野生動物の仕業に見せかけられた、人間の偽装を追っていきます。




