水槽の魚は眠れない
元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。
『けもの係の事件メモ』第四話です。
今回の相談は、家庭の水槽で起きた魚たちの異変。
中学生の蓮は、「魚が眠っていない」と市役所へ相談に訪れます。
犬の吠え声、猫の足跡、カラスの記憶。
それらとは違い、魚たちは声をあげません。
けれど、水の濁りや泳ぎ方には、ちゃんと理由があります。
鹿野蒼と朝倉実央は、小さな水槽に残った変化から、家族のすれ違いを見つけていきます。
朝倉実央は、けもの係の入口で、透明なビニール袋を抱えたまま立っていた。
袋の中には、水が入っている。
水だけではない。
小さな魚が三匹、ゆっくり泳いでいた。
オレンジ色の魚が二匹。
青と赤の細い魚が一匹。
袋の口はしっかり結ばれていて、外側には水滴がついている。
実央は、それをなるべく揺らさないように両手で支えていた。
「鹿野さん」
返事はない。
「鹿野さん、いらっしゃいますか」
奥から、ごそごそと音がした。
しばらくして、鹿野蒼が顔を出した。
髪はいつもよりさらに雑に結ばれていて、片手には小さな計量スプーンを持っている。
「魚ですか」
「見ればわかりますか」
「袋に入ってるので」
「そういう意味ではなく」
鹿野は近づいてきて、袋の中を覗いた。
「プラティと、ネオンテトラですね」
「名前までわかるんですか」
「魚なので」
「説明が雑です」
鹿野は袋の水を横から見る。
魚たちは弱っているようには見えないが、どこか落ち着きがない。袋の中をゆっくり回り、時々、急に向きを変える。
「水温、少し低いですね」
「わかるんですか」
「袋の外側、冷たいです」
実央は慌てて袋を抱え直した。
「すみません。市役所まで持ち込まれて、そこからこちらへ来たので」
「誰から?」
「中学生の男の子です」
鹿野の目が少しだけ鋭くなった。
「中学生」
「はい。市役所に直接来ました。家の水槽の魚が、昨日の夜からおかしいって」
「おかしい?」
「眠らない、と言っていました」
鹿野は、少し黙った。
「魚はまぶたがないので、人間みたいには眠りませんけど」
「私も、そう思いました」
「でも、休みます。じっとしたり、活動量が落ちたり、種類によって休み方は違います」
鹿野は袋を受け取る。
その手つきは、犬や猫のときとは違った。
もっと静かで、もっとゆっくりしている。
「その子、名前は?」
「高瀬蓮くん。中学二年生です」
「魚を置いて帰ったんですか」
「いえ、外で待っています」
「なぜ中に入れないんですか」
実央は少し言いづらそうにした。
「鹿野さんの机の上に、何かの幼虫のケースが見えたので」
「カブトムシです」
「私も入り口で一度止まりました」
「害はないです」
「害の有無だけで判断できないものもあります」
鹿野は袋を机の上に置き、奥から小さなプラスチックケースを出した。
「蓮くん、呼んでください」
「はい」
実央は一度外へ出た。
けもの係の前には、制服姿の少年が立っていた。
細身で、少し猫背。
手には、水槽用品の店でもらうような紙袋を持っている。
顔色はあまりよくない。
「高瀬くん、中へどうぞ」
蓮はけもの係の中をのぞいた。
「虫、いますか」
「います」
実央は正直に答えた。
蓮は少し固まった。
「でも、ケースの中です。私も耐えています」
「それ、安心材料ですか」
「たぶん」
蓮は少しだけ笑った。
そして、恐る恐る中へ入った。
鹿野は袋の魚をケースへ移す準備をしていた。
「高瀬蓮くん?」
「はい」
「魚、名前つけてる?」
蓮は少し驚いたように顔を上げた。
「はい。オレンジの二匹が、ミカンとニンジンで、青いのがネオンです」
実央は心の中で思った。
そのままだ。
けれど、口には出さなかった。
鹿野は頷いた。
「わかりやすいですね」
「変ですか」
「いい名前です」
蓮は、少しだけ安心した顔になった。
鹿野は水合わせをしながら聞く。
「昨日からおかしいって?」
「はい。いつも夜になると、水草の近くでじっとしてるんです。でも昨日は、ずっと泳ぎ回ってて。朝も変で、餌をあまり食べなくて」
「水は替えた?」
「一昨日、少しだけ」
「どのくらい」
「三分の一くらい」
「カルキ抜きは?」
「しました」
「水温は?」
「ヒーターは二十六度にしてます」
「フィルターは動いてる?」
「はい」
鹿野は質問しながら、魚の様子を見ている。
蓮は紙袋からノートを取り出した。
水槽ノートだった。
日付、水温、餌の量、水換えの日、魚の様子が細かく書かれている。
実央は少し感心した。
「ちゃんと記録しているんですね」
「父に、やるならちゃんとやれって言われたので」
「お父さんも魚が好きなんですか」
蓮の表情が少し曇った。
「好きだったと思います。前は」
鹿野は、その変化に気づいたようだった。
だが、すぐには聞かなかった。
「水槽、家にありますね」
「はい」
「見に行っていいですか」
蓮はすぐに頷いた。
「お願いします」
実央は少しだけ姿勢を正した。
「私は市役所として同行します」
鹿野が実央を見る。
「魚も苦手ですか」
「魚は急に飛びかかってこないので、比較的」
「比較的」
「水槽の中にいてくれるなら、大丈夫です」
「出たら?」
「考えたくありません」
蓮が少し笑った。
その笑いは、来たときより少しだけ軽かった。
高瀬家は、けもの係から歩いて十分ほどの住宅街にあった。
二階建ての家で、玄関先には自転車が二台。
母親のものらしい軽自動車が駐車場に止まっている。
蓮が鍵を開けると、中から女性が出てきた。
四十代前半ほど。
髪を後ろでまとめ、エプロンをつけている。
「蓮、どこに行ってたの」
その声には、心配と苛立ちが混ざっていた。
蓮は肩をすくめる。
「市役所」
「市役所?」
実央が一歩前へ出る。
「突然すみません。生活環境課の朝倉と申します。こちらはペット行動相談所の鹿野さんです。蓮くんから、水槽の魚の様子について相談がありまして」
母親は困惑した顔で名刺を受け取った。
「魚のことで、市役所に?」
「はい」
蓮が小さく言う。
「だって、母さん、聞いてくれないから」
母親の顔が少し硬くなる。
「聞いてるでしょう。でも、お母さんには魚のことはわからないし」
鹿野が静かに言った。
「水槽を見せてもらってもいいですか」
母親は迷った。
だが、蓮が先にリビングへ向かった。
「こっちです」
リビングの一角に、水槽があった。
六十センチほどの水槽。
中には水草、流木、小さな石、フィルター、ヒーター。
魚は袋で避難させた三匹以外にもいた。
銀色のエンゼルフィッシュが二匹。
底のほうに、コリドラスらしき魚。
水草の陰に、小さな赤い魚。
ぱっと見ただけなら、きれいな水槽だった。
けれど、鹿野は水槽の前にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
魚を見る。
水面を見る。
水草を見る。
フィルターの流れを見る。
それから、照明を見上げた。
「ライト、夜もつけてました?」
蓮が答える。
「昨日は、ついてました」
「いつもは?」
「夜九時に消します。タイマーで」
「昨日だけ?」
「はい。朝起きたら、ついたままで」
母親が口を挟んだ。
「消し忘れたんじゃないの?」
「タイマーだから消し忘れないよ」
蓮は少し強い声で言った。
「設定が変わってた」
鹿野は照明のタイマーを確認した。
確かに、消灯時間が夜九時から深夜二時に変更されている。
「誰か触りましたか」
母親は首を振った。
「私は触りません」
「お父さんは?」
鹿野が聞くと、部屋の空気が少し止まった。
蓮は水槽を見たまま黙る。
母親は、ため息のように言った。
「夫は今、単身赴任中です。週末だけ帰ってきます」
「昨日は?」
「帰っていました。でも、今朝早く仕事へ戻りました」
鹿野は頷いた。
「水槽は、お父さんが始めたんですか」
蓮が答える。
「最初は父さんです。でも今は、ほとんど僕が世話してます」
「お父さんは最近、触りますか」
「たまに。勝手に餌を増やしたり、水草を動かしたり」
「蓮くんは嫌?」
蓮は唇を結んだ。
「嫌です」
母親が困ったように言う。
「でも、お父さんも良かれと思って」
「良かれと思って、水温も変えた」
蓮の声が震えた。
母親が目を見開く。
「水温?」
鹿野はヒーターを見た。
「設定、二十八度になってます」
蓮が顔を上げる。
「え、昨日は二十六度でした」
鹿野は水温計を見る。
水温は二十八度近い。
「急に二度上がると、種類によっては負担になります。ライトが長くついて、水温も上がって、魚が休みにくかったかもしれません」
蓮は水槽を見つめた。
「だから、眠れなかった」
「そうですね。人間みたいに布団で眠るわけじゃないですけど、魚にも休む時間はあります」
鹿野は水面を見た。
「あと、水が少し白く濁っています」
実央にも、言われてみればわかった。
透明ではあるが、どこか薄く白い。
「水換えのあとだからですか」
「それだけではないかも」
鹿野は水槽台の横を見る。
そこには、魚の餌、カルキ抜き、バクテリア剤、水質検査キットが並んでいる。
蓮のノートに書かれた管理は丁寧だった。
それなら、なぜ水が濁るのか。
鹿野は餌の容器を手に取った。
「餌、減りが早いですね」
蓮が言う。
「僕はそんなにあげてません」
「お父さんが?」
「たぶん。帰ってくると、魚が寄ってくるのが嬉しいからって、何回も」
母親は、目を伏せた。
「お父さん、最近忙しくて。帰ってきても蓮とうまく話せなくて。魚の世話なら一緒にできると思っていたのかもしれない」
蓮は小さく笑った。
「一緒にじゃないよ。勝手にやってるだけ」
その言葉は、思っていたより鋭かった。
リビングが静かになる。
水槽のフィルターの音だけが聞こえる。
鹿野は餌の容器を戻し、低く言った。
「魚は、人間の仲直りの道具じゃありません」
母親は、はっとしたように鹿野を見た。
蓮も、少し驚いた顔をした。
鹿野は続ける。
「魚に寄ってきてほしいなら、餌を増やすより、水を安定させるほうが大事です」
実央は、鹿野の横顔を見た。
やはり鹿野は怒っていた。
犬のとき。
猫のとき。
カラスのとき。
どれも同じだ。
動物を、人間の都合の受け皿にしたとき、鹿野は静かに怒る。
今回もそうだった。
魚は声を出さない。
犬のように吠えない。
猫のように鳴かない。
カラスのように頭上を飛ばない。
だから余計に、気づかれにくい。
水が濁る。
餌を残す。
泳ぎ方が変わる。
休まない。
それが、魚たちの出すサインだった。
鹿野は水質検査をした。
アンモニア。
亜硝酸。
硝酸塩。
pH。
実央には、試験紙の色の違いがほとんど暗号のように見えた。
鹿野は結果を見て言う。
「亜硝酸が少し出ています。餌のやりすぎと、バクテリアのバランス崩れかも。あと、水換えでフィルターを洗いすぎてませんか」
蓮は首を振った。
「僕は、飼育水で軽くすすぐだけです」
「昨日、誰か洗った?」
蓮は母親を見る。
母親は困ったように首を振る。
「私はわからないので触ってません」
「お父さんかも」
蓮が言った。
「日曜日に、フィルターが汚いって言ってた。水道で洗えばきれいになるって」
鹿野は目を閉じた。
短く、息を吐く。
「水道水で全部洗うと、必要なバクテリアが減ります」
蓮の顔がこわばった。
「じゃあ、父さんが」
「まだ決めつけない。だけど、水槽の調子が崩れた理由としては合います」
鹿野は、蓮のほうを見る。
「今できるのは、急に全部変えないこと。水温を少しずつ戻す。餌を控える。水質を見ながら少しずつ水換え。フィルターは触りすぎない。魚たちは、しばらく静かに」
蓮は真剣に頷いた。
「メモします」
「もうしてますね」
蓮はノートを開いた。
鹿野は必要な手順をゆっくり説明した。
専門用語を使いすぎない。
でも、雑にもしない。
魚の種類ごとの様子も確認する。
プラティは比較的丈夫だが、急な変化は負担になること。
ネオンテトラは水質変化に敏感なこと。
エンゼルフィッシュは餌を食べるのが目立つが、食べ残しにも注意すること。
底にいる魚は、底に溜まった汚れの影響を受けやすいこと。
蓮は一つ一つ書いていた。
母親は、その様子を少し離れて見ていた。
「蓮」
母親が言った。
「お父さんに、ちゃんと話そう」
蓮はノートから顔を上げない。
「言っても聞かないよ」
「でも、話そう。お母さんも一緒に話す」
「母さん、魚わからないじゃん」
その言葉に、母親の顔が少し痛んだ。
「うん。わからない」
蓮の手が止まる。
母親は続けた。
「わからないから、あなたが大事にしてるものを、ちゃんと見てなかった」
リビングに、水槽の音が響いている。
「お父さんも、たぶんわかってない。蓮と話したいのに、魚に餌をあげればいいと思ってる」
蓮は黙っていた。
母親は、ゆっくり言った。
「でも、それで魚が苦しくなるなら、違うって言わないといけない」
鹿野は何も言わなかった。
実央も黙っていた。
これは、彼らが話すべきことだった。
蓮はしばらくして、小さく頷いた。
「水槽ノート、見せる」
「うん」
「父さんが勝手に触ったところも、ちゃんと書く」
「うん」
「怒るかも」
「そのときは、お母さんもいる」
蓮は、やっと母親を見た。
「本当に?」
「本当に」
鹿野は、水槽の前にしゃがんだまま、魚たちを見ていた。
水の中で、エンゼルフィッシュがゆっくり向きを変える。
その動きは優雅だが、どこか疲れているようにも見えた。
「今日はライト、早めに消してください」
鹿野が言う。
「魚たちも休みたいので」
蓮はすぐに頷いた。
「はい」
その返事は、最初にけもの係へ来たときよりも、少しだけ強かった。
翌日の夕方、実央は高瀬家を再訪した。
鹿野も一緒だった。
玄関を開けたのは、蓮の父親だった。
高瀬修一。
四十代半ば。
スーツ姿。
目元に疲れがあり、仕事帰りのまま戻ってきたようだった。
「市役所の方が、魚のことで来るとは思いませんでした」
声は丁寧だったが、少し居心地が悪そうだった。
実央は名刺を差し出す。
「生活環境課の朝倉です。こちらはペット行動相談所の鹿野さんです。水槽の環境について、ご家族で確認されるとのことで、同席をお願いされました」
修一は鹿野を見る。
「魚もペット行動相談に入るんですか」
鹿野は短く答えた。
「生き物なので」
修一は少し苦笑した。
「そうですね」
リビングには、蓮と母親が座っていた。
水槽のライトはついているが、昨日より少し暗めに設定されている。
魚たちは、昨日より落ち着いて見えた。
水の白濁も、少しだけ薄くなっている。
蓮は水槽ノートをテーブルに置いた。
「父さん」
「うん」
「勝手に設定変えないで」
修一は困ったように眉を下げた。
「勝手にっていうか、良かれと思って」
「良かれと思っても、魚がしんどくなる」
蓮の声は震えていた。
でも、逃げなかった。
「ライトも、水温も、餌も、フィルターも。ちゃんと理由があるから、僕はそうしてる」
修一は水槽を見る。
「でも、魚って、餌をあげたら寄ってくるだろう。元気そうに見えるし」
鹿野が口を開いた。
「寄ってくるから、もっと欲しいとは限りません」
修一は鹿野を見る。
「魚は、餌の時間や人影を覚えます。人が近づけば寄ってくることもあります。でも、人間が嬉しいからといって餌を増やすと、水が汚れます」
「そんなに影響が」
「小さな水槽なので、影響します」
鹿野の声は静かだった。
「水槽は、閉じた世界です。入れたものは、だいたいそこに残ります」
その言葉に、実央は少しだけ胸を突かれた。
閉じた世界。
水槽の中。
家庭の中。
言葉にしなかったものも、そこに残る。
修一は、黙って水槽を見ていた。
蓮がノートを開く。
「これ、僕がつけてる記録」
修一はノートを受け取った。
日付ごとの水温。
餌の量。
水換え。
魚の様子。
気になったこと。
修一はページをめくるうちに、だんだん表情を変えた。
「こんなに書いてたのか」
「うん」
「知らなかった」
「聞かれなかったから」
蓮の声は小さかった。
修一は、何かを言おうとして、やめた。
代わりに、ノートを閉じずに言った。
「父さん、魚のこと、蓮ほどわかってなかったな」
蓮は黙っている。
「餌をあげたら寄ってくるから、それで一緒にやれてる気になってた」
修一は苦笑した。
「週末しか帰れないのに、何か父親らしいことをしたくて。水槽なら、蓮と話せると思った」
蓮は目を伏せた。
「だったら聞いてよ」
「うん」
「餌じゃなくて、聞いてよ」
その言葉は、魚よりもずっと深いところから出てきたようだった。
母親が、静かに蓮の背中を見る。
修一は、長く黙った。
それから、深く頭を下げた。
「ごめん」
蓮はすぐには答えなかった。
けれど、水槽ノートを父親のほうへ押した。
「次から、ここに書いて」
修一は顔を上げる。
「いいのか」
「勝手に触らないなら」
「書いてから?」
「触る前に相談」
修一は、少し笑った。
「わかった」
鹿野が言った。
「魚の前で約束したなら、守ってください」
修一は少し驚いたように鹿野を見る。
「魚の前で?」
「水槽の中には、だいたい残るので」
その言葉に、修一は真面目に頷いた。
「守ります」
実央は、そこで初めて少し息を吐いた。
今回の件は、犯罪ではない。
誰かが悪意で魚を傷つけようとしたわけでもない。
けれど、魚たちは確かに、人間のすれ違いの中で休めなくなっていた。
それは、小さな問題ではなかった。
少なくとも、この家では。
三日後、蓮から市役所にメールが届いた。
件名は、「魚の報告」。
実央は開いて、思わず少し笑った。
本文には、短い文章が書かれている。
魚は落ち着いてきました。
ミカンとニンジンは餌を食べています。
ネオンも水草の近くで休むようになりました。
父が水槽ノートに書きました。
字が汚いです。
添付されていた写真には、水槽の中の魚たちが写っていた。
水は前より澄んでいる。
青と赤の小さなネオンテトラが、水草のそばにいる。
その近くを、オレンジ色のプラティがゆっくり泳いでいた。
実央は、そのメールを印刷するか迷った。
市役所の記録としては、メールデータで十分だ。
だが、紙で残しておきたい気もした。
その日の午後、実央はけもの係に寄った。
鹿野は、店の前で睡蓮鉢を覗いていた。
「何してるんですか」
「メダカ見てます」
「また魚ですか」
「今回はうちのです」
睡蓮鉢の中には、小さなメダカが数匹泳いでいた。
水面には丸い葉が浮かび、隅には小さな石が沈んでいる。
実央は少し身をかがめた。
メダカは、すぐに水草の陰へ逃げた。
「逃げられました」
「朝倉さんの影が急に来たので」
「すみません、メダカ」
鹿野が少し笑った。
「謝るんですね」
「最近、動物に雑にすると鹿野さんが怖いので」
「魚にも?」
「魚にも」
鹿野は満足そうに頷いた。
「いい傾向です」
「それ、毎回言ってませんか」
「便利なので」
実央は鞄から蓮のメールを印刷した紙を出した。
「高瀬くんから報告が来ました」
鹿野は受け取って読む。
字が汚いです、のところで少しだけ目元が緩んだ。
「落ち着いてきたみたいですね」
「はい」
「よかったです」
鹿野は紙を返した。
「水槽は、すぐには安定しません。しばらく見守りですね」
「家庭も?」
実央が言うと、鹿野は少しだけ顔を上げた。
「たぶん」
「たぶんですか」
「水槽より難しいので」
「それはそうですね」
二人は睡蓮鉢を見下ろした。
メダカたちは、また少しずつ水草の陰から出てきていた。
小さな体で、水の中をゆっくり動く。
静かだ。
犬の吠え声も、猫の足音も、カラスの鳴き声もない。
けれど、何もないわけではない。
水温。
光。
餌。
水の濁り。
泳ぎ方。
魚たちは、魚たちの方法で世界を示す。
鹿野は店に入り、いつものノートを開いた。
事件メモ。
今回の題名は、すでに書かれていた。
水槽の魚は眠れない。
実央はその文字を見て言った。
「今回は、少し詩的ですね」
「魚が言ったわけではないですけど」
「言わないでしょうね」
「でも、休めなかったのは本当です」
鹿野はペンを走らせる。
水槽の魚は騒がない。
犬のように吠えない。
猫のように逃げない。
カラスのように人の上を飛ばない。
けれど、水は濁る。
餌は残る。
泳ぎ方は変わる。
休む時間は奪われる。
人間が言えないことを、水槽に沈めても、消えるわけではない。
小さな水の中には、入れたものが残る。
鹿野はそこでペンを止めた。
実央は、ノートの文字を見ていた。
「鹿野さん」
「はい」
「魚は、忘れますか」
「種類にもよりますけど、学習はします。餌の時間とか、危険とか、人の影とか」
「今回のことも?」
「魚がどう覚えるかはわかりません。でも、蓮くんは覚えると思います」
「お父さんも」
「覚えてくれるといいです」
実央は睡蓮鉢のほうを見た。
外の光が水面で揺れている。
「私も、少し覚えました」
「何を?」
「魚も、休むということ」
鹿野は、少しだけ頷いた。
「大事です」
「人間もですね」
「朝倉さん、休んでます?」
「市役所職員にその質問は酷です」
「休んだほうがいいですよ」
「鹿野さんに言われると、説得力があるようなないような」
「私は昨日、床で寝ました」
「ないですね」
鹿野は少しだけ目を逸らした。
「魚にはすすめません」
「人間にもすすめないでください」
外で、川沿いを走る子どもたちの声がした。
睡蓮鉢のメダカが、水草の陰へまた隠れる。
実央は、それを見て少しだけ笑った。
「逃げられました」
「今回は、子どもの声です」
「私のせいではないんですね」
「たぶん」
「たぶんをやめてください」
鹿野はノートを閉じた。
窓の外では、午後の光が水面に揺れている。
水槽の魚たちは、声をあげない。
けれど、静かな水の中にも、ちゃんと暮らしがある。
その暮らしを乱したものがあるなら、見るべきだった。
たとえそれが、小さな温度の変化でも。
消し忘れた灯りでも。
言えなかった親子の言葉でも。
鹿野はノートの最後に、一行を書き足した。
魚は眠れないと叫ばない。
だから人間は、水の揺れを見るしかない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第四話では、水槽の魚たちをめぐる相談を描きました。
魚は犬や猫のように鳴いて知らせることはできません。
だからこそ、水温、光、餌、水質、泳ぎ方といった小さな変化が大切になります。
今回は大きな犯罪ではありませんが、人間の「良かれと思って」が生き物に負担をかけることもある、という話でした。
次回は、迷子のインコが覚えていた言葉から始まる事件です。
鹿野蒼と朝倉実央は、鳥が真似した言葉の奥にある人間の事情を追っていきます。




