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けもの係の事件メモ  作者: 秀人


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3/10

カラスは覚えている

元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。


『けもの係の事件メモ』第三話です。


今回の相談は、商店街で続くカラス被害。

ゴミを荒らし、店先で騒ぎ、人を怖がらせるカラスたち。


けれど鹿野蒼は、カラスの記憶力と行動から、商店街の中に隠れていた人間側の事情を見つけていきます。


犬には犬の理由がある。

猫には猫の道がある。

そして、カラスにはカラスの記憶があります。

朝倉実央は、商店街のアーケード入口で、頭上を見上げていた。


細い電線の上に、カラスが一羽とまっている。


黒い羽。

黒い嘴。

黒い目。


空の青を背にしているのに、その鳥だけが妙に濃く見えた。


カラスは、実央を見下ろしている。


ような気がした。


実央は、無意識に持っていたファイルを頭の近くへ上げた。


「やられました?」


隣から声がした。


鹿野蒼だった。


いつものように、少しよれたカーキ色の上着を着ている。肩には古いショルダーバッグ。髪は雑に結ばれていて、靴には乾いた泥がついていた。


「まだです」


「まだ」


「今後の可能性を含んだ表現です」


「市役所っぽいですね」


「鹿野さんの言い方が雑なんです」


実央は頭上のカラスから目を離さないまま言った。


カラスは一声も鳴かない。


ただ見ている。


それが余計に怖かった。


今回の相談は、古い商店街から入っていた。


場所は、河川敷から住宅街を抜けた先にある「青葉銀座商店街」。


昔ながらの八百屋、惣菜店、精肉店、文具店、喫茶店が並ぶ小さな商店街だ。


最近、そこでカラス被害が続いているという。


ゴミ袋が荒らされる。

惣菜店の前に置いた揚げ物の容器がひっくり返される。

通行人の頭上すれすれを飛ぶ。

特定の店の前でだけ、やけに騒ぐ。


苦情は市役所へ届いた。


生活環境課としては、ゴミ出し方法や防鳥ネットの指導、餌になるものの管理、場合によっては専門業者への相談を案内する。


それだけなら、実央ひとりでも対応できるはずだった。


できるはずだったのだ。


ただ、商店街会長から届いた一言が、妙に気になった。


あのカラス、うちの商店街の誰かを恨んでいるみたいなんです。


鳥が人を恨む。


行政文書には書きにくい表現だった。


だが、実央はそれを見てすぐ、けもの係へ連絡した。


鹿野は電話口で少し黙ったあと、こう言った。


「カラスなら、ありえます」


ありえるんですか。


実央はそう聞き返した。


鹿野は短く答えた。


「覚えますから」


そして今、二人は商店街の入口に立っている。


頭上では、カラスがまだこちらを見ていた。


「鹿野さん」


「はい」


「カラスは、人の顔を覚えるんですか」


「覚えます」


「どのくらい」


「嫌な相手なら、年単位で」


実央はファイルを少し上げた。


「そういう情報は、もう少し柔らかく言ってください」


「柔らかくしても、覚えます」


「事実が怖いんです」


鹿野は電線のカラスを見上げた。


「今のカラスは、朝倉さんに興味があるだけです」


「興味を持たれたくありません」


「目立つから」


「どこがですか」


「ファイルを頭に乗せてる人、そんなにいないので」


実央は黙ってファイルを下ろした。


そのとき、カラスが短く鳴いた。


「今のは何ですか」


「鳴きました」


「説明になっていません」


「まだ意味を決めるには早いです」


鹿野はそう言って、商店街の中へ歩き出した。


実央は頭上を気にしながら後を追った。






青葉銀座商店街は、昼前の買い物客でそこそこ賑わっていた。


アーケードは古く、ところどころ透明な屋根板が曇っている。看板には年季があり、シャッターの下りた店もいくつかあったが、完全に寂れているわけではない。


八百屋の前には、段ボールに入った大根とキャベツ。


惣菜店からは、揚げ物の匂い。


喫茶店の窓には、手書きのモーニングメニュー。


文具店の軒先には、色あせた学習ノートのポスター。


それぞれの店から、人の生活の匂いがした。


商店街会長の店は、アーケード中央にある乾物屋だった。


「青葉屋」と書かれた看板の下で、七十代ほどの男性が二人を待っていた。


「市役所の方ですか」


「生活環境課の朝倉です。こちらは外部相談員の鹿野さんです」


「鹿野です」


会長の名は、青葉正吉。


この商店街で生まれ育ち、乾物屋を継ぎ、今は商店街会長をしているという。


正吉は鹿野を見て、少しだけほっとしたような顔をした。


「カラスに詳しい方なんですか」


「少し」


「少しで足りますかね」


「足りるところから見ます」


実央は思った。


鹿野の返事は、安心できるようで微妙に安心しきれない。


正吉は店の奥から紙袋を出した。


中には、破れたゴミ袋の写真や、被害日をメモした紙が入っている。


「最初はゴミ荒らしだったんです。そりゃ、カラスですからね。こっちの出し方が悪いこともある。でも最近は、それだけじゃない」


「具体的には」


実央が聞く。


「うちの向かいに、惣菜屋の『まつば』があります。そこだけ、妙に狙われるんです」


正吉はアーケードの向かいを指した。


小さな惣菜店だった。


看板には「まつば惣菜店」とある。


店頭には、コロッケ、唐揚げ、春巻きなどの写真が貼られていた。


「揚げ物の匂いに寄ってくるのでは」


実央が言うと、正吉は首を振った。


「もちろん、それもあるでしょう。でも、隣のパン屋や魚屋はそこまでじゃない。まつばの前だけ、朝から騒ぐんです」


鹿野が聞いた。


「人を狙いますか」


「はい。特に店主の松葉さんが出てくると、よく鳴く。ひどいときは、上から何か落とす」


実央は顔をこわばらせた。


「何か」


「木の枝とか、ビニール片とか。糞を落とされたこともあります」


「それは、なかなか」


「でしょう。松葉さんも参っていてね」


正吉は声をひそめた。


「でも、松葉さんは頑固な人で。自分の店の問題は自分でどうにかするって、市役所に相談するのも嫌がっていたんです」


「では、今回の相談は会長から?」


「はい。このままだと、商店街の客足にも関わるので」


鹿野は、惣菜店の看板と、その上のアーケードの骨組みを見ていた。


「巣はありますか」


「アーケードの上にはないはずです。でも、裏の公園の大きな木に、巣らしきものがあると聞いています」


「時期的には警戒が強くなることもあります」


「繁殖期ですか」


実央が聞く。


鹿野は頷く。


「春から初夏にかけて、巣や雛に近づくものに敏感になることがあります。でも今回、特定の店や人に寄っているなら、それだけではないかもしれません」


「カラスが、松葉さんを覚えている?」


「可能性はあります」


正吉は困ったように眉を下げた。


「松葉さんは、別にカラスに何かした人じゃないと思うんですがねえ」


鹿野は何も答えなかった。


ただ、惣菜店の前へ歩き出した。






まつば惣菜店の店主は、松葉辰夫といった。


六十代前半の男性で、白い調理着の袖を肘までまくっている。体格はよく、声も太い。いかにも昔ながらの商店主という雰囲気だった。


「市役所? 会長が呼んだのか」


辰夫は眉を寄せた。


「店の前でカラス被害が続いていると伺いました」


実央が丁寧に言うと、辰夫は不機嫌そうに腕を組んだ。


「大したことじゃない。カラスなんか、追えばいい」


そう言った瞬間だった。


アーケードの骨組みの上から、カラスが一羽、鋭く鳴いた。


辰夫の顔がわずかにこわばる。


鹿野はそれを見ていた。


「今のカラス、いつもいますか」


「知らん」


辰夫は短く答えた。


「知らんが、最近しつこい。昔はこんなことなかった」


鹿野は店先を見る。


惣菜の入ったトレーは、透明なケースの中にある。直接外へ出してはいない。ゴミ箱にも蓋があり、出入り口の横には防鳥ネットが丸めて置かれていた。


「対策はしていますね」


「当たり前だ。食品扱ってるんだから」


「ゴミ出しの時間は」


「朝と夕方。決められた場所に出してる」


「カラスに餌をやる人はいますか」


辰夫は鼻を鳴らした。


「そんな暇なやつがいるか」


そのとき、店の奥から女性が出てきた。


辰夫より少し若い。五十代半ばくらいだろうか。


エプロン姿で、表情は穏やかだが、目の下に疲れがある。


「すみません。主人、言い方がきつくて」


「いえ」


実央が会釈する。


「奥様ですか」


「はい。松葉佳代です」


佳代は店先のケースを少し整えながら、アーケードの上をちらりと見た。


その仕草は、慣れているというより怯えているようだった。


「本当に困っているんです。お客さんも怖がってしまって。昨日なんて、小学生の子が泣いてしまって」


「カラスが近くを飛んだんですか」


「はい。頭のすぐ上を」


鹿野が聞く。


「その子は、何か持っていましたか」


佳代は考える。


「コロッケを買っていました。でも袋に入れてありました」


「松葉さんが店先に出たあとですか」


「ええ。主人が外に出て、追い払おうとして」


辰夫は顔をしかめた。


「追い払わなきゃ商売にならんだろう」


鹿野は、静かに言った。


「追い払い方によります」


辰夫の目が鋭くなる。


「何が言いたい」


「カラスは、嫌なことをした相手を覚えます」


「俺が何かしたっていうのか」


鹿野は辰夫を見た。


「まだ何も言っていません」


空気が硬くなった。


実央はすぐに割って入る。


「まずは現場確認を進めさせてください。周辺のゴミ置き場や、公園の木も見たいと思います」


佳代がほっとしたように頷いた。


辰夫は不機嫌そうに店の奥へ戻っていった。


鹿野はアーケードの上を見上げる。


さっき鳴いたカラスは、まだ骨組みにとまっていた。


その目は、店の奥へ戻る辰夫の背中を追っているように見えた。






商店街の裏には、小さな公園があった。


滑り台と砂場、ベンチが二つ。


奥に大きなケヤキの木があり、その高い枝の上に、枝やハンガーのようなものが集まっている。


鹿野は双眼鏡を出した。


「巣ですね」


「雛はいますか」


実央が小声で聞く。


「まだ見えません。でも、親鳥は近くにいます」


鹿野は双眼鏡を下ろす。


その視線の先、電柱の上にカラスが二羽いた。


一羽は嘴が少し太く、体も大きい。


もう一羽は少し小柄で、羽の一部に薄く灰色が混ざっていた。


「つがいですか」


「たぶん」


「この二羽が商店街に?」


「可能性はあります」


実央は公園の周囲を見た。


隣には古いアパート。

反対側には駐車場。

その先が商店街の裏口につながっている。


「巣があるなら、近づく人を警戒しているだけでは」


「それもあります。でも、商店街の店先で特定の人に反応しているなら、記憶が絡んでいるかもしれません」


「カラスの記憶」


「はい」


鹿野は、公園の隅へ歩いた。


そこには古いゴミ置き場がある。


金属の柵とネットで囲われているが、ネットの端が少し破れていた。


「荒らされそうですね」


実央が言う。


「荒らされますね」


「断定ですか」


「断定です」


鹿野はネットの破れを見て、しゃがんだ。


「でも、ここは最近荒らされていないかも」


「なぜですか」


「食べ残しの匂いが薄い。古いゴミの匂いはあるけど、散らかされた跡が少ない」


鹿野は地面を見た。


そこに、小さな白いものが落ちていた。


米粒。


いや、米粒が潰れて乾いたもの。


近くには、黄色っぽい衣のかけらもある。


「揚げ物ですか」


実央が聞く。


「たぶん。コロッケか何か」


「惣菜店から?」


「かもしれません」


鹿野は公園のベンチを見る。


そこにも、パンくずのようなものが少し落ちている。


「誰か餌をやってますね」


「商店街の人ですか」


「まだわかりません」


鹿野は、ベンチから商店街の裏口までの道を見る。


「カラスは食べ物の場所を覚えます。人の顔も覚えます。嫌なことをされた場所も覚える」


「覚えすぎでは」


「生きるためです」


その言葉は短かった。


実央は、電柱の上のカラスを見た。


さっきまで怖いだけだった黒い鳥が、少し違って見える。


この鳥たちは、ただ気まぐれに騒いでいるわけではないのかもしれない。


食べ物の場所。

巣の場所。

危険な相手。

安全な相手。


覚えることが、生きることにつながっている。


「朝倉さん」


鹿野が公園の奥を見ていた。


「はい」


「あそこ、防犯カメラありますね」


公園の向かいの駐車場。


その入口に、小さなカメラがついていた。


実央はすぐにメモを取った。


「管理会社に確認します」


「お願いします」


鹿野は電柱のカラスを見上げた。


カラスは、また短く鳴いた。






防犯カメラの映像を確認できたのは、その日の夕方だった。


駐車場の管理会社は、商店街会長の正吉と付き合いがあり、事件性があるならと映像確認に協力してくれた。


映っていたのは、公園のベンチと、商店街裏口へ続く道の一部。


問題の時間帯は、朝六時すぎだった。


画面の端に、白い調理着の男が映る。


松葉辰夫だった。


実央は思わず画面に近づいた。


辰夫は手に小さな袋を持っている。


公園のベンチへ近づき、中身を少し置く。


パンか、揚げ物の切れ端のように見えた。


その直後、カラスが二羽、木から下りてくる。


辰夫はしばらくそれを見ていた。


餌をやっている。


そう思った瞬間、映像の中の辰夫が突然、何かを振り上げた。


長い棒。


カラスが飛び立つ。


辰夫はその棒で、ベンチの上を叩いた。


もう一羽のカラスが遅れて飛ぶ。


映像には音がない。


だから、何を言っているのかはわからない。


だが、辰夫の動きには明らかな苛立ちがあった。


「餌を置いて、近づいたところで追い払った?」


実央が言った。


鹿野は画面を見たまま頷く。


「何度かやっているかもしれません」


「なぜそんなことを」


「わかりません。でも、カラスは覚えます」


映像の最後、カラスの一羽が電柱にとまり、辰夫を見下ろしている。


実央は背筋が少し冷えるのを感じた。


恨み。


人間の言葉ならそう呼びたくなる。


でも鹿野なら、きっと少し違う言い方をするのだろう。


危険な相手として記憶した。


そのほうが、たぶん正しい。


実央は映像を一時停止し、鹿野を見る。


「松葉さんは、カラスに嫌がらせをしていたんでしょうか」


「そう見えます」


「でも、なぜ」


鹿野は答えなかった。


ただ、画面の中の辰夫の手元を見ている。


「この袋、まつば惣菜店の紙袋ではないですね」


「そうなんですか」


「店頭で使っていた袋と色が違います」


実央は映像を拡大する。


たしかに、辰夫が持っている袋には、別の店名のようなものが印刷されていた。


「青葉屋?」


鹿野が言う。


「会長の乾物屋ですか」


「見えにくいですけど、そうかもしれません」


なぜ辰夫が、青葉屋の袋を使っているのか。


実央は眉を寄せた。


「会長にも確認しましょう」


鹿野は頷いた。


「その前に、まつば惣菜店の裏を見たいです」


「裏?」


「カラスがどこから何を見ているか」


実央はタブレットを鞄にしまった。


「行きましょう」


「朝倉さん、今日は動きが早いですね」


「鹿野さんと仕事をしていると、先に動かないと置いていかれます」


「いい傾向です」


「その言い方、相変わらず上からです」


「まあまあ横からです」


「意味がわかりません」


鹿野は少しだけ笑った。






まつば惣菜店の裏口には、油の匂いが残っていた。


狭い路地。


ゴミ箱。

古い台車。

段ボール。

換気扇。


その上に、カラスが一羽とまっていた。


羽の一部に灰色が混ざっている小柄なほうだ。


鹿野は足を止めた。


「動かないで」


実央は止まった。


カラスは、こちらを見ている。


鹿野は目を合わせすぎず、体を少し横に向けた。


犬や猫のときと同じだ。


相手の種類が変わっても、鹿野はまず、相手を驚かせないようにする。


「この子、さっきのつがいの片方です」


「わかるんですか」


「羽に特徴があります」


鹿野は路地の奥を見る。


そこには、古い木箱が積まれていた。


その一つに、白いものがこびりついている。


米粒。


その下に、細かい鰹節のようなものが落ちている。


「乾物」


実央が言った。


鹿野は頷く。


「青葉屋の商品かもしれません」


そのとき、裏口の扉が開いた。


松葉佳代が出てきた。


「あら、どうされました?」


実央が事情を説明すると、佳代の顔色が変わった。


「裏にも?」


「餌のようなものが残っています」


鹿野が木箱を指す。


佳代は口元に手を当てた。


「主人が……」


「心当たりがありますか」


実央が聞く。


佳代は迷った。


それから、小さく頷いた。


「少し前から、主人が朝早く店を出ていたんです。仕込みより早い時間に。何をしているのか聞いたら、カラスを追い払ってるだけだと」


「餌を置いていたことは?」


「知りません」


佳代は声を落とす。


「でも、あの人、最近ずっと苛立っていて」


「何か理由が?」


佳代は商店街の通りのほうを見た。


「青葉屋さんと揉めていたんです」


「会長と?」


「商店街の再整備の話があって。古い店をまとめて改装する計画です。うちは資金的に難しいから、反対していました。でも会長は、商店街を残すには必要だって」


実央はメモを取った。


商店街再整備。

青葉屋。

まつば惣菜店。

カラス被害。


「ご主人は、青葉屋さんに不満を持っていた?」


「ええ。でも、表では言えないんです。会長には世話になってきたし、商店街の中で孤立もしたくない」


佳代は視線を落とした。


「それで、カラスを利用したんでしょうか」


実央が言うと、佳代は泣きそうな顔をした。


「まさか。そんな」


鹿野は黙って木箱の上の米粒を見ていた。


そして、静かに言った。


「青葉屋の袋に餌を入れて、公園に置いた」


実央は息を止める。


鹿野は続けた。


「カラスが青葉屋の袋や匂いを覚える。青葉屋の近くに寄る。騒ぐ。商店街のカラス被害が、会長の店の管理不足みたいに見える」


「でも実際には、まつばの前も狙われている」


「途中から、カラスが松葉さん本人を覚えたんです」


鹿野は裏口の上のカラスを見上げた。


「餌で呼ばれて、棒で追われた。嫌な相手として」


実央の胸の奥が重くなった。


人間の小さな嫌がらせ。


それが、鳥の行動を変えた。


そして、商店街全体を怖がらせた。


佳代は顔を青ざめさせている。


「主人が、そんなこと」


鹿野は佳代を責めなかった。


ただ、短く言った。


「確認しましょう」


そのとき、路地の上でカラスが鳴いた。


一度。


高く、鋭く。


それは、人間に向けた怒りの声のようにも聞こえた。


けれど、鹿野はそうは言わなかった。


彼女はただ、カラスの位置を見ていた。


どこから人間を見ているのかを。






松葉辰夫は、最初は否定した。


「馬鹿なことを言うな。俺がカラスを使った? そんな面倒なことをするか」


まつば惣菜店の奥。


営業終了後の調理場で、辰夫は大きな手を握りしめていた。


佳代は隣に立っている。


正吉も呼ばれていた。


実央は、確認できている事実を一つずつ説明した。


公園の防犯カメラに、辰夫が餌を置いている様子が映っていたこと。

その袋が青葉屋のものに見えること。

裏口に乾物のような餌が残っていたこと。

カラスが辰夫に強く反応していること。


辰夫は腕を組み、黙って聞いていた。


鹿野は調理場の入口に立っている。


必要以上に近づかない。


「松葉さん」


実央は静かに言った。


「カラスの被害を増やすつもりだったんですか」


辰夫は答えない。


佳代が震える声で言った。


「あなた」


辰夫は顔をしかめた。


「違う」


「何が違うんですか」


「最初は、青葉屋の前に集まればいいと思っただけだ」


正吉の表情が変わる。


「辰夫」


「会長はいいよな。再整備、再整備って。うちはそんな金、簡単に出せないんだよ。古い店だ。設備を変えろ、外観を揃えろ、看板を新しくしろ。言うのは簡単だ」


正吉は口を開きかけて、黙った。


辰夫は続けた。


「青葉屋の前でカラスが騒げば、少しは困ると思った。会長だって、商店街を綺麗にする前に自分の店の前をどうにかしろって言われればいいと思った」


「それで、青葉屋の袋を?」


実央が聞く。


辰夫は顔を背けた。


「店先に置いてあった古い袋だ。少し借りただけだ」


「餌を置いて、カラスを呼んだ」


「呼んだだけだ。まさか、俺を覚えるなんて思わなかった」


鹿野が口を開いた。


「追いましたよね」


辰夫は鹿野を見る。


「近づいてきたら追うだろう。商売にならない」


「餌で呼んで、近づいたら棒で追った」


「カラスだぞ」


辰夫の声が荒くなる。


「鳥だろうが。人間じゃない」


鹿野の目が細くなった。


「鳥です」


その声は低かった。


「だから覚えます。生きるために」


調理場が静かになった。


鹿野は続けた。


「人間の都合で呼ばれて、人間の都合で追われた。カラスは松葉さんを危険な相手だと覚えたんです」


辰夫は言い返せなかった。


実央は、鹿野の横顔を見た。


まただ。


鹿野は怒っている。


でも、それはカラスを人間のように扱えと言っているのではない。


カラスをカラスとして見ろと言っているのだ。


覚える生き物。

警戒する生き物。

巣を守る生き物。

食べ物を探す生き物。


人間の嫌がらせの道具ではない。


正吉が、重い声で言った。


「辰夫。再整備のことは、ちゃんと話せばよかっただろう」


辰夫は苦い顔で笑った。


「話しても、どうにもならんだろう」


「どうにもならんことを、カラスのせいにしたのか」


その言葉に、辰夫は黙った。


佳代が泣いていた。


静かに、声を出さずに。


実央は、書類を握る手に力を込めた。


これは市役所だけで片づく話ではない。


商店街の再整備。

店の資金難。

会長への不満。

人間同士で言えなかったこと。


それが、カラスの鳴き声になって店先へ返ってきた。


「今後の対策を整理します」


実央は言った。


「まず、餌やりを完全にやめること。ゴミ管理を商店街全体で見直すこと。巣のある公園については、繁殖期が終わるまで不用意に近づかないよう掲示します。攻撃的な追い払いは逆効果になります」


辰夫は何も言わない。


実央は続けた。


「それと、商店街の再整備については、別途話し合いの場を設けてください。カラス被害として処理できる話と、人間同士で話すべき話は分けます」


鹿野が少し実央を見る。


実央は気づいたが、見返さなかった。


今は自分の仕事をする。


それだけだった。






数日後、青葉銀座商店街の掲示板に、新しい紙が貼られた。


カラスへの餌やり禁止。

ゴミは蓋付き容器へ。

巣のある公園の木に近づきすぎないこと。

カラスを棒などで威嚇しないこと。

通行時に不安がある場合は、帽子や傘を使うこと。


その隣に、鹿野が書いた簡単な説明文も貼られていた。


カラスは人の顔や危険な場所を覚えることがあります。

巣や雛を守るために警戒することがあります。

餌を与えたり、からかったり、攻撃したりすると、被害が長引く場合があります。


実央はその文章を見て、少し驚いた。


「わかりやすいですね」


「書き直されました」


鹿野は淡々と言った。


「誰に?」


「朝倉さんに送る前に、自分で」


「えらいです」


鹿野は不服そうに実央を見る。


「子ども扱いしてます?」


「いえ。市役所に出す文章として、とても助かるという意味です」


「なら、いいです」


商店街の通りは、前より落ち着いていた。


カラスはまだいる。


完全にいなくなったわけではない。


公園の木の上にも、電線の上にも、黒い姿が見える。


けれど、店先で騒ぐ回数は減っていた。


辰夫は、店の前でゴミ容器の蓋を確認していた。


鹿野と実央に気づくと、気まずそうに会釈した。


鹿野は軽く頭を下げるだけだった。


実央は、まつば惣菜店の前に立ち止まった。


店頭には、コロッケが並んでいる。


揚げたての匂いがした。


佳代が出てきて、小さな紙袋を差し出す。


「よかったら。お礼というわけではないんですけど」


「いえ、勤務中ですので」


実央が言うと、鹿野が隣で言った。


「私は勤務中じゃないです」


「鹿野さん」


佳代は少し笑った。


「じゃあ、お二人でどうぞ。会長にもあとで持っていきます」


実央は迷った。


鹿野はすでに受け取っていた。


「ありがとうございます」


「早いですね」


「揚げたてなので」


実央はため息をつきながらも、紙袋を受け取った。


そのとき、頭上でカラスが鳴いた。


実央は反射的にファイルを上げかけた。


鹿野が言う。


「大丈夫です」


「なぜですか」


「今のは、警戒の声じゃないです」


「わかるんですか」


「たぶん」


「たぶんでファイルを下ろせと?」


「下ろさなくてもいいです」


実央は少し悩んでから、ファイルを下ろした。


電線の上に、羽の一部が灰色のカラスがいる。


そのカラスは、こちらではなく、公園のほうを見ていた。


実央は小さく息を吐く。


「覚えているんですよね」


「はい」


「松葉さんのことも」


「たぶん」


「この商店街のことも」


「餌の場所、危険な相手、巣の場所。必要なことは」


実央は、紙袋の中のコロッケを見た。


「人間のことも、よく見ていますね」


「人間より見てるかもしれません」


「それは少し嫌です」


「見られて困ることをしなければいいです」


「真っ当すぎて困ります」


鹿野はコロッケを一つ取り出した。


「食べます?」


「勤務中です」


「さっき受け取りました」


「それは流れで」


「流れは大事です」


実央は少し迷い、結局コロッケを一つ受け取った。


紙越しに熱が伝わる。


揚げたての匂いが、商店街の空気に混ざった。


カラスは鳴かなかった。


ただ、電線の上から町を見ていた。






夕方、けもの係に戻ると、鹿野はノートを開いた。


表紙には、いつものように無造作な字で「事件メモ」と書かれている。


実央はカウンター代わりの古い机の前に座り、商店街の対策資料を確認していた。


鹿野がペンを取る。


今回の記録名は、すでに書かれていた。


カラスは覚えている。


実央はその文字を見て言った。


「今回は、きれいですね」


「何がですか」


「題名です。前の二つより、少し柔らかい」


「カラスは本当に覚えるので」


「やっぱりそのままなんですね」


鹿野はノートに書いていく。


カラスはゴミを荒らした。

カラスは商店街で騒いだ。

けれど、最初にカラスを呼んだのは人間だった。

食べ物で呼び、棒で追い、責任を鳥に渡そうとした。

カラスは覚えた。

危険な相手を。

餌の場所を。

人間の都合を。


実央はその文字を静かに見ていた。


「鹿野さん」


「はい」


「カラスは、松葉さんを許すんでしょうか」


鹿野はペンを止めた。


「許すかどうかは、人間の言葉です」


「では、カラスの場合は」


「危険じゃないと学び直すかどうかです」


「学び直す」


「はい。嫌なことをしない。餌でからかわない。巣に近づきすぎない。そういうことを続ければ、反応は弱くなるかもしれません」


「時間がかかりますね」


「覚えているものを変えるには、時間がかかります」


実央は、商店街のアーケードを思い出した。


辰夫の苛立ち。

正吉の沈黙。

佳代の涙。

電線の上のカラス。


人間の都合は、言葉になる前に別の場所へ滲み出ることがある。


ゴミ袋。

餌。

棒。

鳴き声。

羽音。


生活環境課に届く苦情は、いつも表面だけが見えている。


うるさい。

汚い。

危ない。

迷惑だ。


だが、その下には、言えなかった不満や、積もった不安や、うまく頼れなかった事情がある。


実央は、少しだけわかってきた。


鹿野が見ているのは、動物だけではない。


動物の行動に押しつけられた、人間の事情だ。


「朝倉さん」


鹿野が言った。


「はい」


「コロッケ、残ってます?」


「ありますけど」


「食べます」


「もう二つ食べましたよね」


「覚えてるんですか」


「覚えています。人間なので」


鹿野は少しだけ笑った。


「カラスみたいですね」


「それは褒めていますか」


「かなり」


実央は、紙袋から最後のコロッケを取り出した。


「半分です」


「厳しい」


「市役所では、分配も大事です」


「それ、関係あります?」


「あります」


鹿野は半分のコロッケを受け取った。


外では、夕方の川沿いを鳥が飛んでいく。


黒い影が一つ、電線にとまった。


カラスかもしれない。


違う鳥かもしれない。


実央は窓の外を見た。


その鳥は、何も言わずに町を見ていた。


誰かの顔を覚えているのかもしれない。


どこに餌があるのか知っているのかもしれない。


どの人間が危ないのか、もう決めているのかもしれない。


そしてもしかしたら、今日から少しずつ、違うことも覚えていくのかもしれない。


鹿野はノートの最後に、一行を書いた。


カラスは覚えている。

だから、人間も覚えておいたほうがいい。

動物の記憶は、人間の都合では消えない。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第三話では、カラスの記憶力や警戒行動を軸に、商店街の人間関係を描きました。


カラスは「迷惑な鳥」として扱われがちですが、とてもよく観察し、学習する鳥でもあります。

人間がしたことを、動物が覚えている。

その視点を、鹿野蒼と朝倉実央の事件メモとして形にしました。


次回は、水槽の魚をめぐる話です。

水の中に残った小さな変化から、家庭内の嘘を見つけていきます。

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