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けもの係の事件メモ  作者: 秀人


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2/10

猫はそこから落ちません

元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。


『けもの係の事件メモ』第二話です。


今回の相談は、マンションで起きた猫の転落騒動。

隣のベランダへ侵入し、鉢植えを倒して落ちたと言われた猫・ミソ。


けれど鹿野蒼は、ベランダに残された跡から違和感を見つけていきます。


犬には犬の理由があるように、猫にも猫の道がある。

朝倉実央は、今回も少しだけ動物との距離を測り直すことになります。

朝倉実央は、市役所生活環境課の窓口で、猫の写真を見ていた。


白黒の猫だった。


鼻の横に黒い模様があり、まるで少しだけ不満そうな顔をしている。丸い目でこちらを見て、尻尾を体に巻きつけていた。


写真の下には、手書きで名前が書かれている。


ミソ。


「味噌ですか」


実央が思わず言うと、窓口の向こうに座っていた女性が、少しだけ表情を柔らかくした。


「はい。拾ったとき、味噌汁の鍋に顔を突っ込もうとしたので」


「それでミソ」


「変な名前ですよね」


「覚えやすいです」


女性は三十代半ばほどだった。


名前は、森下由香。


市内の古いマンションに住んでいる会社員で、数日前から、近所の住民とトラブルになっているという。


原因は、その猫だった。


「ミソが、隣のベランダから落ちたって言われているんです」


実央はメモを取る。


「隣のベランダから、ですか」


「はい。でも、私は納得できなくて」


由香は鞄の中からもう一枚の写真を出した。


そこには、マンションの外観が写っている。


五階建ての古い建物。


ベランダは横に長く並んでいて、隣室との境には薄い避難用の仕切り板がある。


「ミソは完全室内飼いです。ベランダには出しますが、ネットを張っています。外へ出ないようにしていたんです」


「では、落ちたというのは」


「隣の部屋の方が、うちの猫がベランダを伝って入ってきて、植木鉢を倒して逃げた。そのあと下へ落ちたんだって」


「ミソちゃんに怪我は?」


「足を少し痛めました。でも命に別状はありません。病院にも連れて行きました」


それを聞いて、実央は少しだけ息を緩めた。


動物がひどく傷つく話は、苦手だった。


苦手というより、どう受け止めればいいのかわからない。


「隣の方は、何を求めているんですか」


「植木鉢とベランダの修理代、それから猫を外に出さない誓約書を書けって」


「外に出さない」


「私は出していません」


由香の声が少し強くなった。


「でも、隣の人は、うちの猫が勝手に侵入したって言って聞かなくて。管理会社にも言われました。ペット可のマンションだけど、迷惑をかけるなら退去も考えてもらうって」


実央は、写真のミソを見た。


丸い目。


不満そうな鼻の模様。


何か言いたそうに見えるが、もちろん猫は言葉を話さない。


「落ちた場所は、どこですか」


「一階の植え込みです」


「隣の部屋の真下?」


「いえ」


由香は少しだけ首を振った。


「うちの部屋の真下に近いです」


実央はペンを止めた。


「それは、隣のベランダから落ちたという話と合いますか」


「私もそう思うんです。でも、ミソがパニックになって走ったんだろうって」


「隣の方のお名前は」


「坂井さんです。坂井千夏さん」


実央はメモに書いた。


森下由香。

猫、ミソ。

隣人、坂井千夏。

ベランダ侵入、植木鉢破損、猫の転落。


猫の転落事故は、市役所が直接解決するものではない。


けれど、ペット飼育トラブル、近隣トラブル、住環境の相談として窓口に回ってくることはある。


そして実央は知っていた。


こういう話は、早めに整理しないと感情だけが大きくなる。


「わかりました。一度、現地を確認します」


由香は不安そうに顔を上げた。


「猫のこと、わかる方に見てもらえますか」


実央は一瞬、鹿野蒼の顔を思い浮かべた。


雑に結んだ黒髪。

眠そうな目。

パーカーに動物の毛。

そして、妙に鋭い観察眼。


「外部の専門相談員にも確認します」


「お願いします」


由香は深く頭を下げた。


実央は書類をまとめながら、心の中で小さく息を吐いた。


犬の次は猫。


生活環境課は、今日も平和なようで平和ではなかった。






「猫は、落ちますよ」


鹿野蒼は、けもの係の床で段ボール箱を解体しながら言った。


実央は、その言葉に少し拍子抜けした。


「落ちるんですか」


「落ちます。猫だからって万能じゃないです。足を滑らせることもあるし、びっくりして変な方向へ飛ぶこともある」


鹿野はカッターを閉じ、段ボールを束ねる。


「ただし、落ち方には理由があります」


「そこを見てほしいんです」


「見ます」


鹿野は立ち上がった。


今日は黒いTシャツに薄いカーキのシャツを羽織っている。ズボンの裾には、たぶん昨日ついたらしい草の種が残っていた。


実央はそれを指摘するか迷ったが、やめた。


どうせ本人は気にしていない。


「猫、苦手ですか」


鹿野が聞いた。


「犬ほどではありません」


「つまり苦手」


「動きが急なので」


「朝倉さんも、まあまあ急に逃げますよ」


「私は猫ではありません」


「そこはわかってます」


鹿野は鞄にライトとメジャー、手袋、小さな双眼鏡を入れた。


「猫の名前は」


「ミソです」


鹿野の手が止まった。


「ミソ」


「はい」


「いい名前ですね」


「そこですか」


「名前は大事です」


鹿野は真顔だった。


実央は、なんとなく反論し損ねた。






森下由香の住むマンションは、河川敷から少し離れた坂の途中にあった。


築三十年以上は経っていそうな、白い外壁の五階建て。


一階には小さな駐輪場があり、植え込みが建物の前に並んでいる。


ミソが落ちたという場所には、まだ枝が少し折れた跡があった。


鹿野はまず、そこにしゃがみ込んだ。


「ここですか」


実央は由香から受け取った写真を確認する。


「はい。管理会社の記録でも、この植え込み付近です」


鹿野は枝の折れ方を見る。


地面の土も触る。


「落ちたのは夜?」


「夕方です。森下さんが帰宅した直後、下で鳴き声がして見に行ったそうです」


「鳴いてたんですね」


「はい」


「自力で動いてた?」


「少し引きずっていたそうです」


鹿野は植え込みの上を見る。


五階のベランダが並んでいる。


「森下さんの部屋は?」


「三階の三〇二号室です」


「隣は?」


「三〇三号室。坂井さんです」


鹿野は建物を見上げた。


「ミソが落ちた位置、森下さんの部屋寄りですね」


「私もそう思いました」


「隣から落ちたなら、少し斜めに移動したことになります」


「猫なら可能ですか」


「可能です。でも、パニックの猫が都合よく斜めに戻るかは別です」


実央はメモを取った。


鹿野は植え込みの下に落ちていた小さなものを拾った。


白いプラスチック片。


「何ですか」


「結束バンドの切れ端」


「結束バンド?」


「ベランダネットを留めるのに使ったりします」


実央は写真を撮った。


鹿野はそれを袋に入れず、由香に確認するまではその場に置いた。


「勝手に持ち帰らないんですね」


「現場のものなので」


「意外とちゃんとしていますね」


「意外と?」


「いえ」


鹿野は実央を見た。


「朝倉さん、最近ちょっと遠慮が減りましたね」


「鹿野さん相手に遠慮していると、仕事が進まないので」


「いい傾向です」


「褒められている気がしません」


「まあまあ褒めてます」


「まあまあですか」


鹿野は何も答えず、マンションの入口へ向かった。






森下由香の部屋は、三階の角から二番目だった。


玄関を開けると、廊下の奥から白黒の猫が顔を出した。


ミソだ。


写真より少し小さく見えた。


鼻の横の黒い模様のせいで、やはり少し不満そうな顔をしている。


左後ろ足にまだ少し違和感があるのか、歩き方は慎重だった。


実央は反射的に動きを止めた。


ミソも止まる。


鹿野は靴を脱ぎながら、ミソのほうを見ないまま言った。


「通ります」


ミソは、尻尾をゆっくり揺らした。


「猫にも言うんですね」


実央が小声で言うと、鹿野は当然のように返す。


「猫にも通路の都合があります」


「なるほど」


わかったような、わからないような説明だった。


由香は二人をリビングへ案内した。


部屋はきれいに片づいていた。


キャットタワー。

爪とぎ。

窓際のベッド。

餌皿。

水皿。


猫を大切にしていることは、すぐにわかった。


ベランダ側の窓には、しっかりした脱走防止ネットが張られている。


「これです。自分で取りつけたんですけど」


由香は不安そうに言った。


鹿野はネットの留め具を見た。


左右と上部は金具と結束バンドで固定されている。


下部も隙間はほとんどない。


「普段、ミソはここから外へ?」


「出ません。ベランダには出ますけど、このネットの内側だけです」


「事故の日、ネットはどうなってましたか」


「左下が外れていました」


「外れていた?」


「はい。帰ってきたら、ネットの端が浮いていて。ミソが押したのかと思ったんですけど」


鹿野はネットの左下を見る。


結束バンドが切れている。


切れ端の形を確認し、鹿野は少し目を細めた。


「噛み切った感じじゃないですね」


「わかるんですか」


「猫が噛んだら、もっと潰れます。これは刃物っぽいです」


由香の顔がこわばる。


「刃物?」


実央もメモを取る手を止めた。


鹿野はすぐに断定はしなかった。


「まだ可能性です」


そして、ベランダに出た。


実央も続く。


ベランダは狭いが、猫が日向ぼっこするには十分な広さだった。


小さな鉢植えが三つ。

室外機。

物干し竿。

猫用の低い台。


隣室との境には、非常時に破れる薄い仕切り板がある。


鹿野は、その仕切り板を見た。


「隣へ行った跡はないです」


「そうなんですか」


「猫がここを越えようとしたら、上に爪跡か、足をかけた跡が残ります。ほこりも乱れる。でも、あまり触ってない」


実央は仕切り板の上部を見る。


たしかに、汚れが均一だった。


鹿野は床を見る。


ベランダの隅、ネットの左下付近に白黒の毛が数本落ちている。


「ミソの毛ですかね」


「たぶん」


由香が答える。


鹿野はその場所を見てから、ネットの外側を覗いた。


下には植え込み。


「ここから落ちたなら、位置は合います」


「では、ミソはここから?」


「落ちた場所はここで合ってます」


鹿野は低く言った。


「でも、隣から来たんじゃない」


由香が息を呑む。


「やっぱり」


鹿野は部屋の中に戻り、ミソを見た。


ミソはキャットタワーの下に座っている。


鹿野がしゃがむと、ミソは少しだけ体を引いた。


鹿野は手を出さない。


「足、見たいけど嫌なら見ない」


ミソは返事をしない。


当然だ。


だが、じっと鹿野を見ている。


由香が抱き上げようとした。


鹿野が止める。


「無理に抱かなくていいです。病院の診断書だけ見せてください」


由香は頷き、ファイルを出した。


左後肢の軽い捻挫。

大きな骨折なし。

擦過傷少数。


鹿野は診断書を読み、ミソを見た。


「三階から落ちて、これで済んだのは植え込みのおかげですね」


由香は唇を噛んだ。


「私のせいなんでしょうか。ネットをもっと強くしていれば」


「ネットを切ったのが猫じゃないなら、森下さんだけのせいではないです」


由香は顔を上げた。


鹿野は続けた。


「まず、隣を見ます」


実央はすぐに姿勢を正した。


「私から坂井さんに確認します」


「お願いします」


「鹿野さん、いきなり言わないでくださいね」


「何を」


「猫はそこから落ちません、とか」


鹿野は少しだけ目を逸らした。


「言うかもしれません」


「やめてください」


「努力します」


「市役所としては、努力ではなく実行を希望します」


鹿野は、かなり小さく頷いた。






坂井千夏は、三〇三号室に住んでいた。


三十代後半の女性で、在宅のデザイナーだという。


部屋は植物が多かった。


ベランダにも鉢植えが並んでいる。


千夏は玄関で実央の名刺を受け取り、鹿野を見て少し警戒した顔になった。


「猫の専門家ですか」


「行動を見る人です」


鹿野は短く答えた。


実央はすぐに説明を継いだ。


「森下さんの猫がこちらのベランダへ入ったという件で、現地確認をさせていただければと思います」


千夏は腕を組んだ。


「もう話した通りです。猫が入ってきて、鉢を倒して逃げたんです」


「その時、猫を直接見ましたか」


実央が聞く。


千夏は一瞬だけ間を置いた。


「影を見ました」


「影」


「白黒っぽい猫でした。森下さんの猫に決まっています」


鹿野の目が少し動いた。


実央は続ける。


「ベランダを確認してもよろしいですか」


千夏は渋々頷いた。


ベランダには鉢植えがいくつもあった。


倒れたという鉢は、すでに片づけられていたが、床には土の跡が残っている。


鹿野はしゃがみ込んだ。


千夏が少し不満そうに言う。


「また土を見るんですか」


「見ます」


「猫が入ったんです。それだけでしょう」


鹿野は答えず、土の散り方を見た。


鉢が倒れた跡。

土の広がり。

葉の折れ方。

床についた筋。


「鉢はどこに置いてありましたか」


「そこです。室外機の横」


「猫が来た方向は」


「隣から」


「それで、鉢を倒して、どちらへ逃げましたか」


「こっちの端です。そこから、たぶん下へ」


千夏はベランダの外側を指した。


鹿野は立ち上がり、手すりと床を見る。


「猫の毛がないですね」


「掃除しましたから」


「爪跡もないです」


「見えないだけでは?」


「見えることが多いです」


千夏の顔に苛立ちが浮かぶ。


「つまり、私が嘘をついていると?」


実央は慌てて口を挟んだ。


「確認の段階です。どなたかを責めるためではなく、状況を整理するために」


鹿野は、倒れた鉢があった場所を見ている。


「猫が倒したにしては、土が重いです」


「土が重い?」


実央が聞く。


「水を含んでます。鉢は倒れたとき、かなり重かったはずです。猫が横からぶつかったくらいで倒れる位置じゃない」


「風では?」


「この高さで、この向きなら風でも倒れにくいです」


鹿野は室外機の横を指した。


「それに、鉢が倒れた方向が変です。猫が隣から走ってきたなら、土はこっちへ散る。でも実際は、内側から外側へ押された感じです」


千夏は黙った。


鹿野はさらに、手すりの下に小さな傷を見つけた。


金属部分に新しい擦り跡。


その近くに、細い透明な糸のようなものが引っかかっていた。


「これ」


鹿野が指先で示す。


実央は写真を撮る。


「釣り糸ですか」


「たぶん。透明なナイロン」


千夏の表情が変わった。


ほんの少しだけ。


だが、実央は見逃さなかった。


鹿野は千夏を見ないまま言った。


「猫は釣り糸で鉢を引きません」


実央は横目で鹿野を見る。


言った。


やはり言った。


千夏は低い声で言う。


「何が言いたいんですか」


鹿野は立ち上がった。


「猫はここに来ていません」


「見てもいないくせに」


「見てないから、跡を見ています」


鹿野の声は静かだった。


「ミソは、隣のベランダからここへ来て、鉢を倒して、さらに落ちたんじゃない。ミソは自分の部屋のネットが切られて、そこから落ちた」


由香の部屋側から、かすかにミソの鳴き声が聞こえた。


千夏は顔を背けた。


実央は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。


これはただの猫の事故ではない。


誰かが、猫のせいにした。


いや。


猫を、近隣トラブルの道具にした。






事情が見え始めたのは、その日の夕方だった。


管理会社に確認すると、三〇三号室の坂井千夏は、以前からベランダの植物について注意を受けていた。


鉢が多すぎる。

避難経路をふさいでいる。

落下の危険がある。


隣の由香からも、葉や土がベランダに落ちてくると相談があった。


千夏は、それをよく思っていなかった。


さらに、倒れた鉢は高価な輸入植物だったらしい。


だが、実際にはその鉢は以前から根腐れしていて、状態が悪くなっていた。


鹿野は千夏のベランダで、葉の状態を見ていた。


「この鉢、倒れる前から弱ってます」


「植物も見るんですか」


実央が聞くと、鹿野は少しだけ肩をすくめた。


「動物園では植物も見ます。食べる草、毒になる草、隠れ場所になる草。全部関係あるので」


「なるほど」


「この鉢を猫のせいにして、弁償させたかったのかもしれません」


「それだけでネットを切るでしょうか」


「それだけじゃないと思います」


鹿野はマンションの中庭を見下ろした。


一階の植え込み。


ミソが落ちた場所。


「森下さんが管理会社に相談したことへの腹いせ。猫が問題を起こしたことにすれば、森下さんの立場が悪くなる」


「退去を迫れる可能性もある」


「はい」


実央は書類を握りしめた。


「でも、猫が落ちたんですよ」


声が少し硬くなった。


「怪我もした」


鹿野は、ゆっくり頷いた。


「だから悪質です」


その言葉は短かった。


だが、冷たかった。


鹿野は動物を雑に扱う人に怒る。


犬のときもそうだった。


今回も、怒鳴りはしない。


けれど、空気が少し変わる。


「警察案件になりますか」


鹿野が聞いた。


実央は頷いた。


「器物損壊と、動物への危険行為の可能性もあります。管理会社と森下さんに確認して、警察へ相談します」


「お願いします」


「鹿野さんは、坂井さんに直接言わないでください」


「言いたいことはあります」


「あるでしょうけど、手続きがあります」


「手続き、猫より遅いですね」


「でも必要です」


鹿野は少しだけ黙った。


それから頷いた。


「わかりました」


実央は少し驚いた。


「素直ですね」


「ミソのためなので」


その答えは、鹿野らしかった。






数日後、坂井千夏は管理会社と警察の聞き取りで、ネットに手を加えたことを認めた。


ただし、本人は「猫を落とすつもりはなかった」と主張した。


鉢を倒したのも、森下の猫がやったように見せるためだった。


ネットを少し緩めれば、猫が外に出たことにできると思った。


まさか落ちるとは思わなかった。


その言葉を聞いたとき、由香は黙っていた。


怒鳴らなかった。


泣きもしなかった。


ただ、ミソを抱いたまま、静かに言った。


「猫は、道具じゃありません」


ミソは由香の腕の中で、少しだけ目を細めていた。


左足はまだ完全ではないが、歩けるようになっている。


鹿野は、その様子を少し離れて見ていた。


実央は隣に立つ。


「森下さん、強いですね」


「強いんじゃなくて、ちゃんと怒ってるんだと思います」


「ちゃんと怒る」


「怒鳴るだけが怒るじゃないので」


実央は、由香を見た。


静かな怒り。


それは、確かにあった。


猫を危険にさらされた怒り。


自分の暮らしを壊されかけた怒り。


それでも、感情だけで相手を潰そうとはしない怒り。


実央は、自分の仕事にも少し似ていると思った。


住民トラブルでは、誰かの怒りをただ消すことはできない。


必要なのは、何が起きたのかを整理すること。


誰の声が大きいかではなく、何が事実なのかを見ること。


鹿野は、事実を地面や毛や爪跡から拾う。


実央は、それを人間の手続きの中に通す。


少しだけ、役割が見えた気がした。






ミソがベランダに戻ったのは、さらに一週間後だった。


もちろん、外へ出るわけではない。


由香は、鹿野の助言を受けて、ネットを金属製の柵に変えた。


結束バンドだけに頼らず、外から切られにくい構造にした。


ベランダには、ミソ用の小さな台が置かれている。


そこから外を眺められるが、身を乗り出すことはできない。


鹿野は設置状態を確認していた。


「これなら大丈夫です。完全ではないですけど、かなり安全」


由香はほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


ミソは新しい台に乗り、外を見ている。


風が吹く。


ひげが揺れる。


鹿野はミソを見て言った。


「高いところ、嫌いにはなってなさそうですね」


由香は少し驚く。


「わかるんですか」


「嫌ならここに来ません」


ミソは、尻尾の先だけを小さく動かした。


実央は少し離れて見ていた。


猫の動きはまだ急で、少し怖い。


でも、犬ほどではない。


ミソはふいに実央を見る。


実央は固まる。


ミソは、何もせずに目を細めた。


「今のは何ですか」


実央が小声で聞く。


鹿野はミソを見ずに答えた。


「まあまあ許す、くらいです」


「また曖昧ですね」


「猫ですから」


「猫だと許されるんですか」


「だいたい許されます」


「市役所では許されません」


「市役所も、たまには猫を見習ったらどうですか」


「無理です。書類が出せなくなります」


鹿野は少し笑った。


ミソは台の上で丸くなる。


由香がその背中をそっと撫でた。


「ミソ、よかったね」


ミソは返事をしなかった。


ただ、尻尾だけがゆっくり動いた。






夕方、実央はけもの係を訪れた。


鹿野は机で記録を書いていた。


ノートの上には、今回の相談名が書かれている。


猫はそこから落ちません。


実央はその文字を見て言った。


「またそのままですね」


「そのままです」


「市役所の報告書では、もう少し」


「柔らかく?」


「はい」


「柔らかくすると、猫が落ちたことになります」


実央は黙った。


鹿野はペンを置いた。


「落ちたことは事実です。でも、そこへ至るまでの道が違う。猫が勝手に隣へ行って落ちたのと、人間がネットを切って落ちる状況を作ったのでは、全然違います」


「はい」


「そこを曖昧にすると、また猫のせいになる」


実央は、静かに頷いた。


「今回は、それが少しわかりました」


鹿野は少し意外そうに実央を見た。


「朝倉さんが?」


「私だって、少しは学びます」


「いい傾向です」


「その言い方、やっぱり褒めている感じがしません」


「まあまあ褒めてます」


「まあまあをやめてください」


そのとき、けもの係の入口の前を、白黒の影が横切った。


ミソだった。


由香と一緒に、通院帰りに寄ったらしい。


ミソはリード付きのキャリーから顔だけ出し、店の中を覗いている。


実央は一歩下がらなかった。


猫はじっと実央を見る。


実央も、じっと見返した。


数秒後、ミソは興味を失ったように目を閉じた。


「鹿野さん」


「はい」


「これは、どういう状態ですか」


鹿野はミソを一瞥する。


「どうでもいい、くらいです」


「ひどくないですか」


「猫なので」


「猫なので、で片づけすぎです」


「でも、猫にどうでもいいと思われるのは、わりと平和です」


実央は少し考えた。


「それは、たしかに」


ミソは小さくあくびをした。


犬は吠える。


猫は黙る。


でも、黙っているからといって、何も起きていないわけではない。


実央は、ミソが落ちたベランダを思い出した。


切られたネット。


残された毛。


鉢植えの土。


猫は証言しない。


それでも、そこにいた痕跡は残る。


鹿野はノートに最後の一行を書いた。


猫は、勝手に隣へ行ったのではない。

猫は、そこから落ちたのでもない。

人間が、猫の通れない道を作り、猫のせいにした。


鹿野はペンを置いた。


外では、川沿いの道を子どもたちが走っている声がした。


ミソはキャリーの中で、もう一度だけあくびをした。


それは退屈そうで、少しだけ偉そうで、無事に日常へ戻っていく猫の顔だった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第二話では、猫の習性とベランダの痕跡から、近隣トラブルの中に隠された嘘を描きました。


猫は自由に動く生き物ですが、だからといって何でも猫のせいにしていいわけではありません。

動物は言い訳のための存在ではなく、ちゃんとその子なりの行動理由を持っています。


鹿野蒼と朝倉実央の距離も、少しずつ変わってきました。

次回は、商店街のカラス被害をめぐる事件です。

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