猫はそこから落ちません
元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。
『けもの係の事件メモ』第二話です。
今回の相談は、マンションで起きた猫の転落騒動。
隣のベランダへ侵入し、鉢植えを倒して落ちたと言われた猫・ミソ。
けれど鹿野蒼は、ベランダに残された跡から違和感を見つけていきます。
犬には犬の理由があるように、猫にも猫の道がある。
朝倉実央は、今回も少しだけ動物との距離を測り直すことになります。
朝倉実央は、市役所生活環境課の窓口で、猫の写真を見ていた。
白黒の猫だった。
鼻の横に黒い模様があり、まるで少しだけ不満そうな顔をしている。丸い目でこちらを見て、尻尾を体に巻きつけていた。
写真の下には、手書きで名前が書かれている。
ミソ。
「味噌ですか」
実央が思わず言うと、窓口の向こうに座っていた女性が、少しだけ表情を柔らかくした。
「はい。拾ったとき、味噌汁の鍋に顔を突っ込もうとしたので」
「それでミソ」
「変な名前ですよね」
「覚えやすいです」
女性は三十代半ばほどだった。
名前は、森下由香。
市内の古いマンションに住んでいる会社員で、数日前から、近所の住民とトラブルになっているという。
原因は、その猫だった。
「ミソが、隣のベランダから落ちたって言われているんです」
実央はメモを取る。
「隣のベランダから、ですか」
「はい。でも、私は納得できなくて」
由香は鞄の中からもう一枚の写真を出した。
そこには、マンションの外観が写っている。
五階建ての古い建物。
ベランダは横に長く並んでいて、隣室との境には薄い避難用の仕切り板がある。
「ミソは完全室内飼いです。ベランダには出しますが、ネットを張っています。外へ出ないようにしていたんです」
「では、落ちたというのは」
「隣の部屋の方が、うちの猫がベランダを伝って入ってきて、植木鉢を倒して逃げた。そのあと下へ落ちたんだって」
「ミソちゃんに怪我は?」
「足を少し痛めました。でも命に別状はありません。病院にも連れて行きました」
それを聞いて、実央は少しだけ息を緩めた。
動物がひどく傷つく話は、苦手だった。
苦手というより、どう受け止めればいいのかわからない。
「隣の方は、何を求めているんですか」
「植木鉢とベランダの修理代、それから猫を外に出さない誓約書を書けって」
「外に出さない」
「私は出していません」
由香の声が少し強くなった。
「でも、隣の人は、うちの猫が勝手に侵入したって言って聞かなくて。管理会社にも言われました。ペット可のマンションだけど、迷惑をかけるなら退去も考えてもらうって」
実央は、写真のミソを見た。
丸い目。
不満そうな鼻の模様。
何か言いたそうに見えるが、もちろん猫は言葉を話さない。
「落ちた場所は、どこですか」
「一階の植え込みです」
「隣の部屋の真下?」
「いえ」
由香は少しだけ首を振った。
「うちの部屋の真下に近いです」
実央はペンを止めた。
「それは、隣のベランダから落ちたという話と合いますか」
「私もそう思うんです。でも、ミソがパニックになって走ったんだろうって」
「隣の方のお名前は」
「坂井さんです。坂井千夏さん」
実央はメモに書いた。
森下由香。
猫、ミソ。
隣人、坂井千夏。
ベランダ侵入、植木鉢破損、猫の転落。
猫の転落事故は、市役所が直接解決するものではない。
けれど、ペット飼育トラブル、近隣トラブル、住環境の相談として窓口に回ってくることはある。
そして実央は知っていた。
こういう話は、早めに整理しないと感情だけが大きくなる。
「わかりました。一度、現地を確認します」
由香は不安そうに顔を上げた。
「猫のこと、わかる方に見てもらえますか」
実央は一瞬、鹿野蒼の顔を思い浮かべた。
雑に結んだ黒髪。
眠そうな目。
パーカーに動物の毛。
そして、妙に鋭い観察眼。
「外部の専門相談員にも確認します」
「お願いします」
由香は深く頭を下げた。
実央は書類をまとめながら、心の中で小さく息を吐いた。
犬の次は猫。
生活環境課は、今日も平和なようで平和ではなかった。
「猫は、落ちますよ」
鹿野蒼は、けもの係の床で段ボール箱を解体しながら言った。
実央は、その言葉に少し拍子抜けした。
「落ちるんですか」
「落ちます。猫だからって万能じゃないです。足を滑らせることもあるし、びっくりして変な方向へ飛ぶこともある」
鹿野はカッターを閉じ、段ボールを束ねる。
「ただし、落ち方には理由があります」
「そこを見てほしいんです」
「見ます」
鹿野は立ち上がった。
今日は黒いTシャツに薄いカーキのシャツを羽織っている。ズボンの裾には、たぶん昨日ついたらしい草の種が残っていた。
実央はそれを指摘するか迷ったが、やめた。
どうせ本人は気にしていない。
「猫、苦手ですか」
鹿野が聞いた。
「犬ほどではありません」
「つまり苦手」
「動きが急なので」
「朝倉さんも、まあまあ急に逃げますよ」
「私は猫ではありません」
「そこはわかってます」
鹿野は鞄にライトとメジャー、手袋、小さな双眼鏡を入れた。
「猫の名前は」
「ミソです」
鹿野の手が止まった。
「ミソ」
「はい」
「いい名前ですね」
「そこですか」
「名前は大事です」
鹿野は真顔だった。
実央は、なんとなく反論し損ねた。
森下由香の住むマンションは、河川敷から少し離れた坂の途中にあった。
築三十年以上は経っていそうな、白い外壁の五階建て。
一階には小さな駐輪場があり、植え込みが建物の前に並んでいる。
ミソが落ちたという場所には、まだ枝が少し折れた跡があった。
鹿野はまず、そこにしゃがみ込んだ。
「ここですか」
実央は由香から受け取った写真を確認する。
「はい。管理会社の記録でも、この植え込み付近です」
鹿野は枝の折れ方を見る。
地面の土も触る。
「落ちたのは夜?」
「夕方です。森下さんが帰宅した直後、下で鳴き声がして見に行ったそうです」
「鳴いてたんですね」
「はい」
「自力で動いてた?」
「少し引きずっていたそうです」
鹿野は植え込みの上を見る。
五階のベランダが並んでいる。
「森下さんの部屋は?」
「三階の三〇二号室です」
「隣は?」
「三〇三号室。坂井さんです」
鹿野は建物を見上げた。
「ミソが落ちた位置、森下さんの部屋寄りですね」
「私もそう思いました」
「隣から落ちたなら、少し斜めに移動したことになります」
「猫なら可能ですか」
「可能です。でも、パニックの猫が都合よく斜めに戻るかは別です」
実央はメモを取った。
鹿野は植え込みの下に落ちていた小さなものを拾った。
白いプラスチック片。
「何ですか」
「結束バンドの切れ端」
「結束バンド?」
「ベランダネットを留めるのに使ったりします」
実央は写真を撮った。
鹿野はそれを袋に入れず、由香に確認するまではその場に置いた。
「勝手に持ち帰らないんですね」
「現場のものなので」
「意外とちゃんとしていますね」
「意外と?」
「いえ」
鹿野は実央を見た。
「朝倉さん、最近ちょっと遠慮が減りましたね」
「鹿野さん相手に遠慮していると、仕事が進まないので」
「いい傾向です」
「褒められている気がしません」
「まあまあ褒めてます」
「まあまあですか」
鹿野は何も答えず、マンションの入口へ向かった。
森下由香の部屋は、三階の角から二番目だった。
玄関を開けると、廊下の奥から白黒の猫が顔を出した。
ミソだ。
写真より少し小さく見えた。
鼻の横の黒い模様のせいで、やはり少し不満そうな顔をしている。
左後ろ足にまだ少し違和感があるのか、歩き方は慎重だった。
実央は反射的に動きを止めた。
ミソも止まる。
鹿野は靴を脱ぎながら、ミソのほうを見ないまま言った。
「通ります」
ミソは、尻尾をゆっくり揺らした。
「猫にも言うんですね」
実央が小声で言うと、鹿野は当然のように返す。
「猫にも通路の都合があります」
「なるほど」
わかったような、わからないような説明だった。
由香は二人をリビングへ案内した。
部屋はきれいに片づいていた。
キャットタワー。
爪とぎ。
窓際のベッド。
餌皿。
水皿。
猫を大切にしていることは、すぐにわかった。
ベランダ側の窓には、しっかりした脱走防止ネットが張られている。
「これです。自分で取りつけたんですけど」
由香は不安そうに言った。
鹿野はネットの留め具を見た。
左右と上部は金具と結束バンドで固定されている。
下部も隙間はほとんどない。
「普段、ミソはここから外へ?」
「出ません。ベランダには出ますけど、このネットの内側だけです」
「事故の日、ネットはどうなってましたか」
「左下が外れていました」
「外れていた?」
「はい。帰ってきたら、ネットの端が浮いていて。ミソが押したのかと思ったんですけど」
鹿野はネットの左下を見る。
結束バンドが切れている。
切れ端の形を確認し、鹿野は少し目を細めた。
「噛み切った感じじゃないですね」
「わかるんですか」
「猫が噛んだら、もっと潰れます。これは刃物っぽいです」
由香の顔がこわばる。
「刃物?」
実央もメモを取る手を止めた。
鹿野はすぐに断定はしなかった。
「まだ可能性です」
そして、ベランダに出た。
実央も続く。
ベランダは狭いが、猫が日向ぼっこするには十分な広さだった。
小さな鉢植えが三つ。
室外機。
物干し竿。
猫用の低い台。
隣室との境には、非常時に破れる薄い仕切り板がある。
鹿野は、その仕切り板を見た。
「隣へ行った跡はないです」
「そうなんですか」
「猫がここを越えようとしたら、上に爪跡か、足をかけた跡が残ります。ほこりも乱れる。でも、あまり触ってない」
実央は仕切り板の上部を見る。
たしかに、汚れが均一だった。
鹿野は床を見る。
ベランダの隅、ネットの左下付近に白黒の毛が数本落ちている。
「ミソの毛ですかね」
「たぶん」
由香が答える。
鹿野はその場所を見てから、ネットの外側を覗いた。
下には植え込み。
「ここから落ちたなら、位置は合います」
「では、ミソはここから?」
「落ちた場所はここで合ってます」
鹿野は低く言った。
「でも、隣から来たんじゃない」
由香が息を呑む。
「やっぱり」
鹿野は部屋の中に戻り、ミソを見た。
ミソはキャットタワーの下に座っている。
鹿野がしゃがむと、ミソは少しだけ体を引いた。
鹿野は手を出さない。
「足、見たいけど嫌なら見ない」
ミソは返事をしない。
当然だ。
だが、じっと鹿野を見ている。
由香が抱き上げようとした。
鹿野が止める。
「無理に抱かなくていいです。病院の診断書だけ見せてください」
由香は頷き、ファイルを出した。
左後肢の軽い捻挫。
大きな骨折なし。
擦過傷少数。
鹿野は診断書を読み、ミソを見た。
「三階から落ちて、これで済んだのは植え込みのおかげですね」
由香は唇を噛んだ。
「私のせいなんでしょうか。ネットをもっと強くしていれば」
「ネットを切ったのが猫じゃないなら、森下さんだけのせいではないです」
由香は顔を上げた。
鹿野は続けた。
「まず、隣を見ます」
実央はすぐに姿勢を正した。
「私から坂井さんに確認します」
「お願いします」
「鹿野さん、いきなり言わないでくださいね」
「何を」
「猫はそこから落ちません、とか」
鹿野は少しだけ目を逸らした。
「言うかもしれません」
「やめてください」
「努力します」
「市役所としては、努力ではなく実行を希望します」
鹿野は、かなり小さく頷いた。
坂井千夏は、三〇三号室に住んでいた。
三十代後半の女性で、在宅のデザイナーだという。
部屋は植物が多かった。
ベランダにも鉢植えが並んでいる。
千夏は玄関で実央の名刺を受け取り、鹿野を見て少し警戒した顔になった。
「猫の専門家ですか」
「行動を見る人です」
鹿野は短く答えた。
実央はすぐに説明を継いだ。
「森下さんの猫がこちらのベランダへ入ったという件で、現地確認をさせていただければと思います」
千夏は腕を組んだ。
「もう話した通りです。猫が入ってきて、鉢を倒して逃げたんです」
「その時、猫を直接見ましたか」
実央が聞く。
千夏は一瞬だけ間を置いた。
「影を見ました」
「影」
「白黒っぽい猫でした。森下さんの猫に決まっています」
鹿野の目が少し動いた。
実央は続ける。
「ベランダを確認してもよろしいですか」
千夏は渋々頷いた。
ベランダには鉢植えがいくつもあった。
倒れたという鉢は、すでに片づけられていたが、床には土の跡が残っている。
鹿野はしゃがみ込んだ。
千夏が少し不満そうに言う。
「また土を見るんですか」
「見ます」
「猫が入ったんです。それだけでしょう」
鹿野は答えず、土の散り方を見た。
鉢が倒れた跡。
土の広がり。
葉の折れ方。
床についた筋。
「鉢はどこに置いてありましたか」
「そこです。室外機の横」
「猫が来た方向は」
「隣から」
「それで、鉢を倒して、どちらへ逃げましたか」
「こっちの端です。そこから、たぶん下へ」
千夏はベランダの外側を指した。
鹿野は立ち上がり、手すりと床を見る。
「猫の毛がないですね」
「掃除しましたから」
「爪跡もないです」
「見えないだけでは?」
「見えることが多いです」
千夏の顔に苛立ちが浮かぶ。
「つまり、私が嘘をついていると?」
実央は慌てて口を挟んだ。
「確認の段階です。どなたかを責めるためではなく、状況を整理するために」
鹿野は、倒れた鉢があった場所を見ている。
「猫が倒したにしては、土が重いです」
「土が重い?」
実央が聞く。
「水を含んでます。鉢は倒れたとき、かなり重かったはずです。猫が横からぶつかったくらいで倒れる位置じゃない」
「風では?」
「この高さで、この向きなら風でも倒れにくいです」
鹿野は室外機の横を指した。
「それに、鉢が倒れた方向が変です。猫が隣から走ってきたなら、土はこっちへ散る。でも実際は、内側から外側へ押された感じです」
千夏は黙った。
鹿野はさらに、手すりの下に小さな傷を見つけた。
金属部分に新しい擦り跡。
その近くに、細い透明な糸のようなものが引っかかっていた。
「これ」
鹿野が指先で示す。
実央は写真を撮る。
「釣り糸ですか」
「たぶん。透明なナイロン」
千夏の表情が変わった。
ほんの少しだけ。
だが、実央は見逃さなかった。
鹿野は千夏を見ないまま言った。
「猫は釣り糸で鉢を引きません」
実央は横目で鹿野を見る。
言った。
やはり言った。
千夏は低い声で言う。
「何が言いたいんですか」
鹿野は立ち上がった。
「猫はここに来ていません」
「見てもいないくせに」
「見てないから、跡を見ています」
鹿野の声は静かだった。
「ミソは、隣のベランダからここへ来て、鉢を倒して、さらに落ちたんじゃない。ミソは自分の部屋のネットが切られて、そこから落ちた」
由香の部屋側から、かすかにミソの鳴き声が聞こえた。
千夏は顔を背けた。
実央は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
これはただの猫の事故ではない。
誰かが、猫のせいにした。
いや。
猫を、近隣トラブルの道具にした。
事情が見え始めたのは、その日の夕方だった。
管理会社に確認すると、三〇三号室の坂井千夏は、以前からベランダの植物について注意を受けていた。
鉢が多すぎる。
避難経路をふさいでいる。
落下の危険がある。
隣の由香からも、葉や土がベランダに落ちてくると相談があった。
千夏は、それをよく思っていなかった。
さらに、倒れた鉢は高価な輸入植物だったらしい。
だが、実際にはその鉢は以前から根腐れしていて、状態が悪くなっていた。
鹿野は千夏のベランダで、葉の状態を見ていた。
「この鉢、倒れる前から弱ってます」
「植物も見るんですか」
実央が聞くと、鹿野は少しだけ肩をすくめた。
「動物園では植物も見ます。食べる草、毒になる草、隠れ場所になる草。全部関係あるので」
「なるほど」
「この鉢を猫のせいにして、弁償させたかったのかもしれません」
「それだけでネットを切るでしょうか」
「それだけじゃないと思います」
鹿野はマンションの中庭を見下ろした。
一階の植え込み。
ミソが落ちた場所。
「森下さんが管理会社に相談したことへの腹いせ。猫が問題を起こしたことにすれば、森下さんの立場が悪くなる」
「退去を迫れる可能性もある」
「はい」
実央は書類を握りしめた。
「でも、猫が落ちたんですよ」
声が少し硬くなった。
「怪我もした」
鹿野は、ゆっくり頷いた。
「だから悪質です」
その言葉は短かった。
だが、冷たかった。
鹿野は動物を雑に扱う人に怒る。
犬のときもそうだった。
今回も、怒鳴りはしない。
けれど、空気が少し変わる。
「警察案件になりますか」
鹿野が聞いた。
実央は頷いた。
「器物損壊と、動物への危険行為の可能性もあります。管理会社と森下さんに確認して、警察へ相談します」
「お願いします」
「鹿野さんは、坂井さんに直接言わないでください」
「言いたいことはあります」
「あるでしょうけど、手続きがあります」
「手続き、猫より遅いですね」
「でも必要です」
鹿野は少しだけ黙った。
それから頷いた。
「わかりました」
実央は少し驚いた。
「素直ですね」
「ミソのためなので」
その答えは、鹿野らしかった。
数日後、坂井千夏は管理会社と警察の聞き取りで、ネットに手を加えたことを認めた。
ただし、本人は「猫を落とすつもりはなかった」と主張した。
鉢を倒したのも、森下の猫がやったように見せるためだった。
ネットを少し緩めれば、猫が外に出たことにできると思った。
まさか落ちるとは思わなかった。
その言葉を聞いたとき、由香は黙っていた。
怒鳴らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、ミソを抱いたまま、静かに言った。
「猫は、道具じゃありません」
ミソは由香の腕の中で、少しだけ目を細めていた。
左足はまだ完全ではないが、歩けるようになっている。
鹿野は、その様子を少し離れて見ていた。
実央は隣に立つ。
「森下さん、強いですね」
「強いんじゃなくて、ちゃんと怒ってるんだと思います」
「ちゃんと怒る」
「怒鳴るだけが怒るじゃないので」
実央は、由香を見た。
静かな怒り。
それは、確かにあった。
猫を危険にさらされた怒り。
自分の暮らしを壊されかけた怒り。
それでも、感情だけで相手を潰そうとはしない怒り。
実央は、自分の仕事にも少し似ていると思った。
住民トラブルでは、誰かの怒りをただ消すことはできない。
必要なのは、何が起きたのかを整理すること。
誰の声が大きいかではなく、何が事実なのかを見ること。
鹿野は、事実を地面や毛や爪跡から拾う。
実央は、それを人間の手続きの中に通す。
少しだけ、役割が見えた気がした。
ミソがベランダに戻ったのは、さらに一週間後だった。
もちろん、外へ出るわけではない。
由香は、鹿野の助言を受けて、ネットを金属製の柵に変えた。
結束バンドだけに頼らず、外から切られにくい構造にした。
ベランダには、ミソ用の小さな台が置かれている。
そこから外を眺められるが、身を乗り出すことはできない。
鹿野は設置状態を確認していた。
「これなら大丈夫です。完全ではないですけど、かなり安全」
由香はほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
ミソは新しい台に乗り、外を見ている。
風が吹く。
ひげが揺れる。
鹿野はミソを見て言った。
「高いところ、嫌いにはなってなさそうですね」
由香は少し驚く。
「わかるんですか」
「嫌ならここに来ません」
ミソは、尻尾の先だけを小さく動かした。
実央は少し離れて見ていた。
猫の動きはまだ急で、少し怖い。
でも、犬ほどではない。
ミソはふいに実央を見る。
実央は固まる。
ミソは、何もせずに目を細めた。
「今のは何ですか」
実央が小声で聞く。
鹿野はミソを見ずに答えた。
「まあまあ許す、くらいです」
「また曖昧ですね」
「猫ですから」
「猫だと許されるんですか」
「だいたい許されます」
「市役所では許されません」
「市役所も、たまには猫を見習ったらどうですか」
「無理です。書類が出せなくなります」
鹿野は少し笑った。
ミソは台の上で丸くなる。
由香がその背中をそっと撫でた。
「ミソ、よかったね」
ミソは返事をしなかった。
ただ、尻尾だけがゆっくり動いた。
夕方、実央はけもの係を訪れた。
鹿野は机で記録を書いていた。
ノートの上には、今回の相談名が書かれている。
猫はそこから落ちません。
実央はその文字を見て言った。
「またそのままですね」
「そのままです」
「市役所の報告書では、もう少し」
「柔らかく?」
「はい」
「柔らかくすると、猫が落ちたことになります」
実央は黙った。
鹿野はペンを置いた。
「落ちたことは事実です。でも、そこへ至るまでの道が違う。猫が勝手に隣へ行って落ちたのと、人間がネットを切って落ちる状況を作ったのでは、全然違います」
「はい」
「そこを曖昧にすると、また猫のせいになる」
実央は、静かに頷いた。
「今回は、それが少しわかりました」
鹿野は少し意外そうに実央を見た。
「朝倉さんが?」
「私だって、少しは学びます」
「いい傾向です」
「その言い方、やっぱり褒めている感じがしません」
「まあまあ褒めてます」
「まあまあをやめてください」
そのとき、けもの係の入口の前を、白黒の影が横切った。
ミソだった。
由香と一緒に、通院帰りに寄ったらしい。
ミソはリード付きのキャリーから顔だけ出し、店の中を覗いている。
実央は一歩下がらなかった。
猫はじっと実央を見る。
実央も、じっと見返した。
数秒後、ミソは興味を失ったように目を閉じた。
「鹿野さん」
「はい」
「これは、どういう状態ですか」
鹿野はミソを一瞥する。
「どうでもいい、くらいです」
「ひどくないですか」
「猫なので」
「猫なので、で片づけすぎです」
「でも、猫にどうでもいいと思われるのは、わりと平和です」
実央は少し考えた。
「それは、たしかに」
ミソは小さくあくびをした。
犬は吠える。
猫は黙る。
でも、黙っているからといって、何も起きていないわけではない。
実央は、ミソが落ちたベランダを思い出した。
切られたネット。
残された毛。
鉢植えの土。
猫は証言しない。
それでも、そこにいた痕跡は残る。
鹿野はノートに最後の一行を書いた。
猫は、勝手に隣へ行ったのではない。
猫は、そこから落ちたのでもない。
人間が、猫の通れない道を作り、猫のせいにした。
鹿野はペンを置いた。
外では、川沿いの道を子どもたちが走っている声がした。
ミソはキャリーの中で、もう一度だけあくびをした。
それは退屈そうで、少しだけ偉そうで、無事に日常へ戻っていく猫の顔だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第二話では、猫の習性とベランダの痕跡から、近隣トラブルの中に隠された嘘を描きました。
猫は自由に動く生き物ですが、だからといって何でも猫のせいにしていいわけではありません。
動物は言い訳のための存在ではなく、ちゃんとその子なりの行動理由を持っています。
鹿野蒼と朝倉実央の距離も、少しずつ変わってきました。
次回は、商店街のカラス被害をめぐる事件です。




