犬のせいにしないでください
元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。
『けもの係の事件メモ』第一話です。
郊外の住宅街で起きた花壇荒らし。
犯人扱いされたのは、大型の保護犬・ムギでした。
けれど、犬が吠えるのには、犬の理由がある。
鹿野蒼と朝倉実央、二人の最初の事件です。
朝倉実央は、市役所生活環境課の電話が三回目に鳴った時点で、今日の昼休みを諦めた。
受話器の向こうでは、怒った男の声がしている。
「ですから、何度も言っているでしょう。あの犬です。あの大きな犬。夜中に吠えるし、今度は花壇まで荒らされたんですよ」
実央は、机の上に置いたメモ用紙へ丁寧に文字を書いた。
大型犬。
夜間の吠え声。
共有花壇の被害。
飼い主への指導希望。
「ご連絡ありがとうございます。現地を確認のうえ、飼い主の方にもお話を伺います」
「確認じゃなくて、早くどうにかしてください。子どもが噛まれてからでは遅いんですから」
「噛みつきの被害は、現時点で発生していますか」
「そういう問題じゃないんですよ。危ない雰囲気なんです」
危ない雰囲気。
実央はペンを止めた。
雰囲気というものは、行政文書にとても書きづらい。
「承知しました。まずは事実確認を――」
「また事実確認ですか」
男の声が強くなる。
「役所はいつもそうだ。何か起きてからじゃないと動かない」
実央は、口元だけで息を吐いた。
生活環境課には、そういう言葉がよく届く。
犬の鳴き声。
野良猫への餌やり。
カラスのゴミ荒らし。
河川敷の不法投棄。
空き家の雑草。
近所の煙。
隣家の木の枝。
誰かの生活音。
どれも人の暮らしのすぐ横にあって、だからこそ感情が絡む。
実央は声を崩さずに言った。
「本日中に現地へ伺います。お名前をもう一度よろしいでしょうか」
「大沢です。大沢健二。町内会の役員もしています」
「大沢様ですね。ありがとうございます」
電話を切ると、実央はゆっくり受話器を置いた。
そして、机に突っ伏したい衝動をこらえた。
隣の席の先輩職員が、紙コップのコーヒーを持ったままこちらを見る。
「朝倉さん、また犬?」
「はい。大型犬です」
「苦手なのにねえ」
「部署配置の妙ですね」
「ものは言いようだね」
実央は書類をそろえ、タブレットを鞄に入れた。
動物は苦手だった。
犬も猫も鳥も、できれば一定の距離を保ちたい。
嫌いなのではない。
ただ、動く方向が読めない。
突然こちらを見る。
突然鳴く。
突然近づく。
突然走る。
人間なら、ある程度は表情や言葉で予測できる。
だが動物は、実央の理解できる言葉で説明してくれない。
なぜそんな自分が、生活環境課で動物関係の相談まで担当しているのか。
異動辞令を出した誰かに、今からでも理由を聞きたかった。
実央は鞄を持って立ち上がる。
「行ってきます」
「気をつけて。噛まれないように」
「縁起でもないこと言わないでください」
実央はそう返したが、内心では同じことを考えていた。
噛まれませんように。
できれば吠えられませんように。
もっと言えば、犬が家の中にいますように。
そう願いながら、市役所を出た。
苦情の出ている住宅街は、市役所からバスで十五分ほどの場所にあった。
古い家と新しい家が混ざる、郊外の静かな町だ。
大通りから少し入ると、道は細くなり、家々のあいだに小さな畑や空き地が残っている。
その先に、河川敷へ下りる道が見えた。
川は広くはない。
だが、草の茂った土手と、犬の散歩をする人の姿がよく似合う川だった。
実央は、苦情対象の家の前で足を止めた。
表札には、小森とある。
古い平屋の家だった。
庭には低い柵があり、その向こうに犬小屋と水皿が見える。
そして、いた。
大きな犬が。
黒と茶色と白が混ざった、毛の長い大型犬。
座っているだけで、実央の膝くらいまで頭がありそうだった。
犬は、実央を見る。
実央も、犬を見る。
一秒。
二秒。
犬が、吠えた。
「っ」
実央は、反射的に鞄を胸の前に抱えた。
太い声だった。
腹の奥に響くような声。
犬は柵の内側からこちらを見て、もう一度吠える。
実央は門の前で固まった。
家の中から、慌てたように女性が出てくる。
「ムギ、待って。大丈夫。すみません、すみません」
女性は六十代後半ほどで、白髪まじりの髪を後ろでまとめていた。
柔らかそうな顔をしているが、目元には疲れがにじんでいる。
「市役所の朝倉と申します。犬の鳴き声と花壇の件で、お話を伺いに来ました」
実央は名刺を差し出した。
女性はそれを受け取る。
「小森晴江です。わざわざすみません」
ムギと呼ばれた犬は、まだ低く喉を鳴らしていた。
吠えてはいない。
だが、こちらを見ている。
かなり見ている。
「この子、人が嫌いなわけじゃないんです。ただ、知らない人が来ると驚いてしまって」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
実央は、柵から一歩分だけ距離を取った。
晴江は困ったようにムギの首輪を押さえる。
「最近、近所の方にずいぶん言われてしまって。夜に吠えるのも、花壇のことも、全部この子だって」
「夜間、外へ出していることはありますか」
「ありません。夜は家の中に入れています」
「花壇の場所はご存じですか」
「はい。町内の共有花壇ですよね。でも、ムギはあそこまで行けません。散歩では通りますけど、夜にひとりで出たことなんて一度も」
晴江の声は、だんだん弱くなっていった。
「でも、皆さんがそう言うなら、私が気づいていないだけなのかもしれないって」
ムギが晴江を見上げる。
大きな体に似合わない、不安そうな目だった。
実央は、その目を見るのが少しだけ苦手だった。
犬は言葉を話さない。
だから、困る。
怒っているのか。
怖いのか。
何を考えているのか。
実央には、わからない。
「確認のため、庭やリードの状態を見せていただいてもよろしいですか」
「はい」
晴江は門を開けようとした。
その瞬間、実央は半歩下がった。
晴江が気づいて、申し訳なさそうに笑う。
「大丈夫です。ムギ、待て」
ムギは晴江の横に座った。
それでも大きい。
実央は息を整えて庭へ入った。
足元に土。
犬小屋。
水皿。
太いリード。
玄関近くの犬用ベッド。
特に壊れた様子はない。
柵も高く、門の鍵もかかる。
この犬が夜中にひとりで抜け出すには、かなり無理があるように見えた。
だが、実央は動物の専門家ではない。
見えるものを記録することはできる。
そこから意味を読むのは、また別のことだった。
共有花壇は、小森家から歩いて三分ほどの場所にあった。
住宅街の角にある小さな花壇で、町内会が管理しているらしい。
パンジーやマリーゴールドが植えられていたが、その一部が無残に倒れていた。
土が掘り返され、花の根が見えている。
花壇の前には、すでに数人の住民が集まっていた。
その中心にいたのが、大沢健二だった。
電話の声と同じ印象の男だった。
五十代。
体格はがっしりしていて、腕を組んでいる。
眉間に深いしわがある。
「市役所の方ですね」
「朝倉です。現地確認に伺いました」
「見てくださいよ、これ。ひどいでしょう」
大沢は花壇を指差した。
「毎晩犬が吠える。花壇は荒らされる。小森さんには悪いけど、あんな大きな保護犬を住宅街で飼うのは無理があるんです」
「ムギがここへ来たという目撃情報はありますか」
「夜中ですよ。誰もずっと見張ってはいません」
「足跡などは」
「ほら、そこ」
大沢が花壇の端を示す。
土の上に、丸い跡がいくつかあった。
たしかに、犬の足跡に見えなくもない。
実央はタブレットで写真を撮る。
「吠え声は、何時ごろですか」
「だいたい夜中の一時とか二時です。昨日もそうだった。ワンワンどころじゃないですよ。低い声で、ずっと」
「吠えていた方向はわかりますか」
「方向?」
「家のどちら側へ向かって吠えていたかです」
大沢は顔をしかめた。
「そんなこと、知りませんよ。うるさくて眠れないんです。方角まで聞き分けていられません」
周囲の住民が小さく頷く。
実央はメモを取った。
「小森さんは、夜は室内に入れていると話しています」
「じゃあ、室内から吠えているんでしょう。どちらにしても迷惑です」
「花壇については、まだムギによるものとは断定できません」
大沢の声が強くなった。
「じゃあ何ですか。人間がこんなことをするんですか」
その言葉に、実央は答えられなかった。
人間がこんなことをするのか。
する。
市役所にいると、それはよくわかる。
ただ、それをここで言っても、火に油を注ぐだけだった。
「専門の相談先にも確認します」
「専門?」
「ペットの行動相談をしている方です」
大沢は少し馬鹿にしたように笑った。
「犬の気持ちでも聞くんですか」
実央は、笑わなかった。
「犬の行動を確認します」
そう言いながら、自分でも思った。
犬の行動。
自分にはいちばんわからないものだ。
ペット行動相談所「けもの係」は、住宅街の端にあった。
川沿いの道から少し入った古い二階建ての建物。
一階が相談所、二階が住居らしい。
木の看板には、黒い文字で「けもの係」と書かれている。
その下に、小さな黒板が立てかけてあった。
ペットの行動相談、承ります。
犬・猫・鳥・その他。
人間の相談は応相談。
実央は最後の一文を見て、少しだけ眉を寄せた。
人間の相談は応相談。
どういう意味なのか。
入口の横には犬用の水皿、鉢植え、古びたリード、迷子猫のチラシが貼られた掲示板。
扉を開けると、ベルが軽く鳴った。
室内には、紙と木と、少しだけ動物の匂いがした。
獣臭い、というほどではない。
ただ、ここには生き物が出入りしているのだとわかる匂いだった。
「すみません」
返事はない。
棚には動物行動学の本、足跡図鑑、鳥の羽の標本、双眼鏡、手袋、リード、キャリーケースが並んでいる。
奥の床に、誰かが座っていた。
黒っぽい髪を雑に結んだ女性。
パーカーにワークパンツ。
足元は履き古したスニーカー。
服には白い毛が数本ついている。
彼女は床に広げた写真を分類していた。
猫の写真だ。
「市役所の朝倉と申します」
実央が言うと、女性は顔を上げた。
眠そうな目だった。
けれど、その奥に妙な鋭さがある。
「市役所の人」
「はい」
「犬、平気ですか」
いきなりだった。
実央は、正直に答えた。
「平気ではありません」
女性は少しだけ黙った。
それから、写真を一枚重ねる。
「正直でいいです」
「ありがとうございます、と言えばいいんでしょうか」
「言わなくていいです」
女性は立ち上がった。
背は実央と同じくらいだが、姿勢が少し緩い。
どこかだらしない。
だが、動きに無駄がない。
「鹿野蒼です。ここの人です」
「鹿野さんですね。犬の鳴き声と花壇荒らしについて、外部相談をお願いしたく――」
「犬の名前は」
「ムギです」
「年齢」
「そこまではまだ」
「犬種」
「大型の雑種だと思います」
「保護犬?」
実央は少し驚いた。
「はい。よくわかりましたね」
「そういう相談、だいたいそうなので」
鹿野は壁にかけてあった薄手のジャケットを羽織り、鞄を肩にかけた。
鞄の外側には、小さなライト、メジャー、双眼鏡、折りたたみのリードがついている。
「行きます」
「今からですか」
「犬は現場で見ないとわかりません」
「書類の説明が」
「歩きながらで」
実央は一瞬固まった。
鹿野はすでに扉へ向かっている。
「鹿野さん」
「はい」
「市役所としては、まず依頼内容を正式に共有してから」
「犬は正式に吠えません」
実央は言葉に詰まった。
この人は面倒だ。
かなり面倒だ。
だが、現場に出る気は早い。
実央は慌てて後を追った。
ムギは、鹿野を見た瞬間に吠えた。
太い声が庭に響く。
実央の肩が跳ねる。
鹿野は門の前で止まった。
それ以上は近づかない。
ムギを正面から見つめず、体を少し斜めにする。
手も出さない。
しゃがみもしない。
ただ、低い声で言った。
「はいはい。見えてる。近づかないから」
ムギはもう一度吠えた。
鹿野はまばたきしただけだった。
実央は小声で聞く。
「怖くないんですか」
「怖いですよ」
「そう見えません」
「怖いのと、慌てるのは別です」
鹿野はムギを見ている。
目。
耳。
尻尾。
背中。
足の置き方。
吠える間隔。
晴江が玄関から出てきた。
「あの、今度はどなたが」
「鹿野です。ペット行動相談所をしています。市役所からの依頼で来ました」
「まあ……すみません。こんなことで」
「犬のことなので、こんなことではないです」
鹿野は短く言った。
晴江は少し驚いたように目を開いた。
ムギは鹿野へ向かって吠え続けている。
だが、鹿野は少し首を傾げた。
「怒ってないですね」
実央は思わず聞き返した。
「これでですか」
「はい」
「かなり吠えていますけど」
「吠えるイコール怒ってる、ではないので」
鹿野はムギのほうを見たまま続けた。
「尻尾が高く固定されてない。重心も前に乗りきってない。耳は警戒してるけど、攻撃前の感じじゃない。吠え方も追い払うというより、知らせたいほうです」
「知らせたい?」
「この犬、困ってます」
ムギが、また吠えた。
晴江が不安そうに首輪を押さえる。
「ムギ、だめよ」
鹿野はすぐに言った。
「今は叱らなくていいです」
「え?」
「叱ると、知らせること自体がだめだと覚えます。まず、何を見て吠えてるのか見ます」
晴江は戸惑いながらも手を緩めた。
ムギは晴江の横に座った。
実央はその様子を見ていた。
さっきまで同じ犬なのに、少し印象が違って見える。
怖い犬。
うるさい犬。
そう思っていた。
けれど鹿野の言葉を聞いたあとだと、ムギの目はたしかに何かを訴えているようにも見えた。
いや、そう思い込み始めているだけかもしれない。
実央は、自分を落ち着かせるように書類を抱え直した。
鹿野は晴江に確認を取り、庭に入った。
ムギは吠えなかった。
じっと鹿野を見ている。
鹿野はムギの横を通るとき、手を出さずに言った。
「通ります」
ムギは鼻を動かした。
実央は門の外に残ろうとした。
鹿野が振り返る。
「朝倉さんも」
「私はここで記録を」
「現場見ないと、書類に現場のこと書けません」
正論だった。
実央は覚悟を決めて庭に入った。
ムギがこちらを見る。
実央は止まる。
ムギも止まる。
鹿野が言った。
「目を合わせすぎないで」
実央は慌てて視線をずらした。
「どこを見ればいいんですか」
「耳のあたり」
「耳」
「見るところがないなら、私の背中でもいいです」
「ではそうします」
「即答ですね」
「はい」
鹿野は少しだけ笑ったように見えた。
庭には、ムギの寝床があった。
玄関脇の屋根の下に犬用ベッド。
水皿。
太いリード。
ブラシ。
タオル。
鹿野は柵の高さ、門の鍵、リードの金具を順に確認する。
「抜け出した跡はないですね」
「やっぱり」
晴江が小さく言った。
鹿野は地面にしゃがむ。
庭の土を指で触り、匂いを嗅いだ。
実央は目を丸くする。
「土、嗅ぐんですか」
「嗅ぎます」
「そうですか」
「犬はもっと嗅いでます」
「比較対象が犬なんですね」
鹿野はムギの足元も見る。
肉球についた土。
毛に絡んだ草。
爪の間。
ムギは嫌がらずに待っている。
「ムギ、足見せて」
鹿野が低い声で言うと、ムギは少し戸惑ったあと、前足を浮かせた。
晴江が驚く。
「この子、初めての人には足なんて」
「嫌だったら引っ込めます。今は大丈夫」
鹿野は素早く確認し、すぐに足を離した。
「ありがとう」
ムギは鼻を鳴らした。
鹿野は立ち上がる。
「花壇の土、赤茶でしたよね」
実央はタブレットの写真を開いた。
「はい。こちらです」
「ここの土は黒い。粘りも違う。ムギの足についてるのは庭の土です」
「花壇には行っていない?」
「少なくとも最近、あの荒れ方をするほど入った跡はないです」
晴江の目に涙が浮かんだ。
「じゃあ、ムギじゃないんですね」
鹿野はすぐには頷かなかった。
「まだ全部は見てません。でも、花壇を荒らした犬ではなさそうです」
「よかった……」
晴江はムギの首元に手を置いた。
ムギは晴江に体を寄せる。
その大きな体が、急に子どもみたいに見えた。
実央は、胸の奥に小さな罪悪感を覚えた。
自分も、ムギを少し疑っていた。
怖い犬だから。
大きい犬だから。
吠えたから。
鹿野は庭の端へ歩く。
そこは河川敷側に面していた。
ムギは、庭のその一角に近づくと耳を立てた。
低く喉を鳴らす。
鹿野が止まる。
「夜、ムギはどちらに向かって吠えますか」
晴江はすぐに答えた。
「こっちです。川のほう。花壇は反対側なんですけど、皆さん、ムギが吠えるから花壇もこの子だって」
鹿野は、川へ続く細い道を見た。
「花壇じゃない」
実央が聞く。
「何がですか」
「ムギが見てたのは、花壇じゃなくて、その先です」
その先には、草の茂った河川敷があった。
花壇へ戻ると、大沢が待っていた。
腕を組んで、鹿野を見る。
「犬の専門家さんですか」
「鹿野です」
「どうです。あの犬でしょう」
「違います」
大沢の顔が動いた。
「何ですって?」
「ムギは花壇を荒らしていません」
鹿野はさらりと言った。
実央は心の中で頭を抱えた。
もう少し段階を踏んでほしかった。
大沢は声を荒げる。
「見ただけでわかるんですか」
「見ればある程度は」
「そんな馬鹿な」
鹿野は花壇の前にしゃがんだ。
「大型犬がここに入って掘ったなら、もっと縁が崩れます。体が当たるので。土の飛び方も違う。犬は前足で掘るので、掘った方向に癖が出ます。でもこれは、上から何かでかき混ぜてます」
「何かって」
「スコップか、移植ごてか、人間の手」
鹿野は土の中から細い繊維をつまみ上げた。
「軍手の糸もあります」
実央は急いで写真を撮る。
鹿野は続けた。
「この丸い跡、犬の足跡に見えますけど、肉球の配置が曖昧です。大型犬なら、もっと爪跡が出ます。体重もあるので沈み方が違う」
大沢は黙った。
周りの住民も、少しずつ顔を見合わせる。
鹿野は立ち上がった。
「犬はスコップ使いません」
実央は一瞬、反応に困った。
大沢も同じだった。
「それは……そうでしょうけど」
「なら、人間です」
言い方が雑だ。
だが、筋は通っていた。
実央は咳払いをする。
「現時点で、花壇の被害をムギによるものと断定する根拠は弱いと思われます。引き続き確認を――」
鹿野が花壇の奥を見ている。
「朝倉さん」
「はい」
「ここ、踏んでます」
「え?」
花壇の裏側、低い植え込みの陰に、靴跡があった。
犬のものではない。
人間の靴底の跡だ。
それも、同じ場所を何度か踏んでいる。
鹿野はその方向を見る。
花壇の裏から細い道があり、そこを進むと河川敷へ下りられる。
「夜、ここを通った人がいます」
大沢が口を開く。
「散歩の人じゃないですか」
「散歩なら道を通ります。ここは花壇の裏です」
鹿野は草の折れ方を見る。
「重いものを持ってたかも」
「なぜわかるんですか」
実央が聞くと、鹿野は地面を指した。
「片側だけ沈みが強い。歩幅も少し乱れてる。あと、ここ」
草の葉に、泥が擦れた跡。
人がしゃがんだか、荷物を置いたか。
鹿野は河川敷へ向かう。
「行きます」
実央は慌てて追いかけた。
「鹿野さん、勝手に進まないでください」
「犬はもう進んでます」
「犬はいません」
「匂いの話です」
「その説明で納得する市役所職員はいません」
「朝倉さんがいるので大丈夫です」
「私は納得していません」
そう言いながらも、実央は鹿野の後ろを歩いていた。
河川敷へ下りる道は、草が伸びていた。
昼間でも少し薄暗い。
土手の上には住宅街の音があるのに、下へ降りると急に静かになる。
川の水音。
草の揺れる音。
遠くの鳥の声。
鹿野は草むらの前で止まった。
「ここ、誰か入ってます」
実央には、ただの草むらに見えた。
「わかるんですか」
「草の倒れ方が同じ方向じゃないです。犬ならもっと低いところが割れます。これは人の膝か荷物」
鹿野は手袋をはめる。
「触ってもいいですか」
「待ってください」
実央はすぐに言った。
「不審物の可能性があるなら、まず警察へ連絡します。市役所としても、むやみに触れません」
鹿野は振り返った。
少しだけ目を細める。
「ちゃんとしてますね」
「仕事です」
「いいです」
「褒めてますか」
「たぶん」
「たぶんですか」
実央はスマートフォンを取り出し、警察と関係部署へ連絡した。
数分後、地域課の警察官が到着した。
草むらの中から見つかったのは、黒いビニール袋だった。
中には、薬品の空き箱、古い注射器、ラベルの剥がされた小瓶、使い捨て手袋が入っていた。
実央は顔をこわばらせた。
「これ、動物病院のものですか」
鹿野は袋の中を覗き込み、眉を寄せた。
「処分予定の薬品かも。使用済みか期限切れかは確認しないとわかりません」
警察官が袋を保全する。
「近くの動物病院に確認します」
鹿野は草むらの手前を見ていた。
「ムギ、これに反応したんですね」
「匂いですか」
「匂いもあります。あと、人です」
「人?」
「夜にここへ来た人を見てた。庭からこの方向は見えるので」
鹿野は土手の上を見上げた。
小森家の庭の一角が、かろうじて見える。
ムギが夜に吠えていた方向。
花壇ではなく、河川敷。
鹿野は低く言った。
「ムギは花壇を荒らしたんじゃない。ここに来る人間を知らせてたんです」
実央は黒い袋を見た。
それから、土手の上にある住宅街を見た。
大きな犬が、夜中に吠える。
人間たちは、それをうるさいと呼んだ。
でもムギは、何かを見ていた。
実央は、そのことを初めてはっきり理解した。
袋の中身は、近所の動物病院から出た処分予定品だとわかった。
ただし、正式な廃棄に回される前に一部がなくなっていた。
関係していたのは、動物病院の清掃委託会社で働いていた西田航平という男だった。
西田は住宅街の近くに住んでいた。
病院から持ち出した薬品を転売しようとしたが、思ったより扱いに困り、一時的に河川敷へ隠した。
深夜に様子を見に来るたび、ムギが吠えた。
西田は焦った。
そして、町内の花壇を荒らした。
大型犬の仕業に見えるよう、適当に丸い跡をつけ、土を散らした。
近所で評判の悪くなり始めていたムギを、さらに問題犬にするためだった。
「あの犬がうるさかったんです」
警察官に事情を聞かれた西田は、そう言ったらしい。
「どうせみんな、あの犬だと思うだろうって」
その言葉を実央が鹿野に伝えると、鹿野は表情を変えなかった。
ただ、声だけが少し低くなった。
「便利ですね」
「え?」
「犬のせいにすれば、人間は楽で」
実央は何も言えなかった。
鹿野は怒鳴らない。
大きな声も出さない。
けれど、その横顔は明らかに怒っていた。
動物を雑に扱う人には怖い。
実央は、初めてその意味を少しだけ理解した。
住民説明は、週末の午前に行われた。
場所は、町内会館の小さな集会室。
実央は、市役所職員として経緯を説明した。
花壇を荒らしたのはムギではなかったこと。
河川敷から不審物が見つかったこと。
警察が西田の関与を確認していること。
薬品類は適切に回収されたこと。
住民たちは、気まずそうに聞いていた。
大沢は腕を組んだまま黙っていた。
晴江は、部屋の端に座っていた。
ムギはいない。
鹿野は壁際に立っている。
実央が説明を終えると、大沢が小さく咳払いをした。
「まあ……犬じゃなかったなら、それは悪かったと思います」
晴江は、少しだけ頭を下げた。
「いえ。ムギが吠えていたのは事実ですから」
「でも、花壇は」
大沢は言葉を探した。
鹿野が口を開いた。
「ムギに言ってください」
室内の空気が止まった。
実央は慌てて鹿野を見る。
「鹿野さん」
「小森さんじゃなくて、ムギに言う話なので」
大沢は困った顔をした。
「犬に謝るんですか」
「犬のせいにしたので」
「いや、しかし」
「聞いてるかどうかは別です。人間側の問題です」
実央は額を押さえたくなった。
だが、鹿野の言っていることは間違っていない。
言い方が、行政向きではないだけだ。
大沢はしばらく黙っていた。
それから、晴江のほうを見た。
「小森さん。今度、犬を連れているときにでも……まあ、その」
晴江は少し笑った。
「はい」
説明会のあと、鹿野は晴江にムギの夜間環境について助言した。
河川敷側の窓から見える範囲を少し遮ること。
夜は安心できる寝場所を決めること。
吠えてから叱るより、吠える前の緊張に気づくこと。
散歩の時間帯を少し変えて、ムギが町の人に慣れる機会を作ること。
無理に触らせなくていいこと。
怖がる人との距離も守ること。
晴江は、一つ一つメモを取っていた。
「私、ムギに申し訳なくて」
「申し訳ないなら、これから見ればいいです」
鹿野は言った。
「ムギが何を見てるのか」
晴江は、ゆっくり頷いた。
数日後、実央は「けもの係」を訪れた。
外はよく晴れていた。
川沿いの道では、犬の散歩をする人が何人も見える。
けもの係の入口横には、相変わらず犬用の水皿が置いてあった。
黒板には新しく文字が書かれている。
迷子猫、帰宅しました。
ご協力ありがとうございました。
中に入ると、鹿野は机に向かって何かを書いていた。
机の上は散らかっている。
だが、動物の写真やメモは不思議と整理されていた。
「市役所の朝倉です」
「知ってます」
「一応、挨拶です」
「大事ですね」
「鹿野さんに言われると複雑です」
鹿野はペンを置いた。
「ムギの件ですか」
「はい。苦情は今のところ減っています。小森さんも、夜の環境を変えたそうです」
「よかったです」
鹿野は短く言った。
机の上のノートには、手書きでこう書かれていた。
犬は花壇を荒らしていない。
犬は河川敷へ向かう人間を見ていた。
人間は吠え声を騒音と呼んだ。
犬にとっては、警告だった。
実央はその文字を見た。
「事件メモですか」
「相談記録です」
「タイトル、ついていますね」
ノートの上部には、太い字でこう書かれていた。
犬のせいにしないでください。
実央は、少しだけ笑った。
「そのままですね」
「そのままです」
「市役所の記録では、もう少し柔らかく書きます」
「だから伝わりにくいんですよ」
「柔らかくしないと苦情になります」
「犬は苦情出しません」
「人間が出すんです」
鹿野は、少しだけ面倒そうに頷いた。
「人間は手間ですね」
「市役所職員の前で言うことではありません」
「朝倉さんは、犬の前で人間の都合を言うので、おあいこです」
実央は言い返そうとして、やめた。
たしかにそうだった。
実央は鞄から書類を取り出した。
「今後、市役所から動物関連の相談が行くことがあると思います」
「書類、多いですか」
「必要な分は」
「必要な分が多いんですよ」
「こちらも、犬に吠えられる仕事は本来業務ではありません」
鹿野は少し笑った。
実央はその笑いを見て、初めてこの人が本当に少しだけ笑うのだと知った。
そのとき、外から足音が聞こえた。
晴江が、ムギを連れて通りかかったのだ。
ムギは大きな体で、ゆっくり歩いている。
晴江がこちらに気づいて会釈した。
ムギも、けもの係の入口の前で立ち止まる。
実央は反射的に半歩下がった。
でも、以前のようには逃げなかった。
ムギは実央を見る。
吠えない。
少しだけ尻尾を振る。
実央は、反射的に書類を胸の前に構えた。
「……これは、どういう状態ですか」
鹿野はムギを一瞥した。
「まあまあ好き、くらいです」
「雑ですね」
「犬の好感度を数値化しろって言われても困ります」
「市役所では、そういう曖昧な報告が一番困るんです」
ムギは、短く一度だけ吠えた。
低い声だった。
けれど、実央は肩を跳ねさせなかった。
鹿野は言った。
「挨拶です」
「今度は断定するんですね」
「今のはわかりやすいので」
晴江が笑い、ムギの頭を軽く撫でた。
実央は、書類を抱えたまま、ほんの少しだけ頭を下げた。
「こんにちは、ムギ」
ムギはもう一度、尻尾を振った。
けもの係の窓の外で、ムギが一度だけ短く吠えた。
それはもう、苦情の音には聞こえなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第一話では、「動物を人間の都合で悪者にしない」という作品の軸を描きました。
ムギは何かを壊した犬ではなく、人間が見ないふりをしたものを知らせていた犬でした。
鹿野蒼と朝倉実央は、まだ息の合った相棒ではありません。
でも、ここから少しずつ、動物の行動と人間の事情を一緒に見ていくことになります。




