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けもの係の事件メモ  作者: 秀人


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1/10

犬のせいにしないでください

元動物園飼育員のペット行動相談員が、動物たちの行動から人間の嘘を見つける。


『けもの係の事件メモ』第一話です。


郊外の住宅街で起きた花壇荒らし。

犯人扱いされたのは、大型の保護犬・ムギでした。


けれど、犬が吠えるのには、犬の理由がある。

鹿野蒼と朝倉実央、二人の最初の事件です。

朝倉実央は、市役所生活環境課の電話が三回目に鳴った時点で、今日の昼休みを諦めた。


受話器の向こうでは、怒った男の声がしている。


「ですから、何度も言っているでしょう。あの犬です。あの大きな犬。夜中に吠えるし、今度は花壇まで荒らされたんですよ」


実央は、机の上に置いたメモ用紙へ丁寧に文字を書いた。


大型犬。

夜間の吠え声。

共有花壇の被害。

飼い主への指導希望。


「ご連絡ありがとうございます。現地を確認のうえ、飼い主の方にもお話を伺います」


「確認じゃなくて、早くどうにかしてください。子どもが噛まれてからでは遅いんですから」


「噛みつきの被害は、現時点で発生していますか」


「そういう問題じゃないんですよ。危ない雰囲気なんです」


危ない雰囲気。


実央はペンを止めた。


雰囲気というものは、行政文書にとても書きづらい。


「承知しました。まずは事実確認を――」


「また事実確認ですか」


男の声が強くなる。


「役所はいつもそうだ。何か起きてからじゃないと動かない」


実央は、口元だけで息を吐いた。


生活環境課には、そういう言葉がよく届く。


犬の鳴き声。

野良猫への餌やり。

カラスのゴミ荒らし。

河川敷の不法投棄。

空き家の雑草。

近所の煙。

隣家の木の枝。

誰かの生活音。


どれも人の暮らしのすぐ横にあって、だからこそ感情が絡む。


実央は声を崩さずに言った。


「本日中に現地へ伺います。お名前をもう一度よろしいでしょうか」


「大沢です。大沢健二。町内会の役員もしています」


「大沢様ですね。ありがとうございます」


電話を切ると、実央はゆっくり受話器を置いた。


そして、机に突っ伏したい衝動をこらえた。


隣の席の先輩職員が、紙コップのコーヒーを持ったままこちらを見る。


「朝倉さん、また犬?」


「はい。大型犬です」


「苦手なのにねえ」


「部署配置の妙ですね」


「ものは言いようだね」


実央は書類をそろえ、タブレットを鞄に入れた。


動物は苦手だった。


犬も猫も鳥も、できれば一定の距離を保ちたい。


嫌いなのではない。


ただ、動く方向が読めない。


突然こちらを見る。

突然鳴く。

突然近づく。

突然走る。


人間なら、ある程度は表情や言葉で予測できる。


だが動物は、実央の理解できる言葉で説明してくれない。


なぜそんな自分が、生活環境課で動物関係の相談まで担当しているのか。


異動辞令を出した誰かに、今からでも理由を聞きたかった。


実央は鞄を持って立ち上がる。


「行ってきます」


「気をつけて。噛まれないように」


「縁起でもないこと言わないでください」


実央はそう返したが、内心では同じことを考えていた。


噛まれませんように。


できれば吠えられませんように。


もっと言えば、犬が家の中にいますように。


そう願いながら、市役所を出た。






苦情の出ている住宅街は、市役所からバスで十五分ほどの場所にあった。


古い家と新しい家が混ざる、郊外の静かな町だ。


大通りから少し入ると、道は細くなり、家々のあいだに小さな畑や空き地が残っている。


その先に、河川敷へ下りる道が見えた。


川は広くはない。


だが、草の茂った土手と、犬の散歩をする人の姿がよく似合う川だった。


実央は、苦情対象の家の前で足を止めた。


表札には、小森とある。


古い平屋の家だった。


庭には低い柵があり、その向こうに犬小屋と水皿が見える。


そして、いた。


大きな犬が。


黒と茶色と白が混ざった、毛の長い大型犬。


座っているだけで、実央の膝くらいまで頭がありそうだった。


犬は、実央を見る。


実央も、犬を見る。


一秒。


二秒。


犬が、吠えた。


「っ」


実央は、反射的に鞄を胸の前に抱えた。


太い声だった。


腹の奥に響くような声。


犬は柵の内側からこちらを見て、もう一度吠える。


実央は門の前で固まった。


家の中から、慌てたように女性が出てくる。


「ムギ、待って。大丈夫。すみません、すみません」


女性は六十代後半ほどで、白髪まじりの髪を後ろでまとめていた。


柔らかそうな顔をしているが、目元には疲れがにじんでいる。


「市役所の朝倉と申します。犬の鳴き声と花壇の件で、お話を伺いに来ました」


実央は名刺を差し出した。


女性はそれを受け取る。


「小森晴江です。わざわざすみません」


ムギと呼ばれた犬は、まだ低く喉を鳴らしていた。


吠えてはいない。


だが、こちらを見ている。


かなり見ている。


「この子、人が嫌いなわけじゃないんです。ただ、知らない人が来ると驚いてしまって」


「いえ、大丈夫です」


大丈夫ではなかった。


実央は、柵から一歩分だけ距離を取った。


晴江は困ったようにムギの首輪を押さえる。


「最近、近所の方にずいぶん言われてしまって。夜に吠えるのも、花壇のことも、全部この子だって」


「夜間、外へ出していることはありますか」


「ありません。夜は家の中に入れています」


「花壇の場所はご存じですか」


「はい。町内の共有花壇ですよね。でも、ムギはあそこまで行けません。散歩では通りますけど、夜にひとりで出たことなんて一度も」


晴江の声は、だんだん弱くなっていった。


「でも、皆さんがそう言うなら、私が気づいていないだけなのかもしれないって」


ムギが晴江を見上げる。


大きな体に似合わない、不安そうな目だった。


実央は、その目を見るのが少しだけ苦手だった。


犬は言葉を話さない。


だから、困る。


怒っているのか。

怖いのか。

何を考えているのか。


実央には、わからない。


「確認のため、庭やリードの状態を見せていただいてもよろしいですか」


「はい」


晴江は門を開けようとした。


その瞬間、実央は半歩下がった。


晴江が気づいて、申し訳なさそうに笑う。


「大丈夫です。ムギ、待て」


ムギは晴江の横に座った。


それでも大きい。


実央は息を整えて庭へ入った。


足元に土。

犬小屋。

水皿。

太いリード。

玄関近くの犬用ベッド。


特に壊れた様子はない。


柵も高く、門の鍵もかかる。


この犬が夜中にひとりで抜け出すには、かなり無理があるように見えた。


だが、実央は動物の専門家ではない。


見えるものを記録することはできる。


そこから意味を読むのは、また別のことだった。






共有花壇は、小森家から歩いて三分ほどの場所にあった。


住宅街の角にある小さな花壇で、町内会が管理しているらしい。


パンジーやマリーゴールドが植えられていたが、その一部が無残に倒れていた。


土が掘り返され、花の根が見えている。


花壇の前には、すでに数人の住民が集まっていた。


その中心にいたのが、大沢健二だった。


電話の声と同じ印象の男だった。


五十代。

体格はがっしりしていて、腕を組んでいる。

眉間に深いしわがある。


「市役所の方ですね」


「朝倉です。現地確認に伺いました」


「見てくださいよ、これ。ひどいでしょう」


大沢は花壇を指差した。


「毎晩犬が吠える。花壇は荒らされる。小森さんには悪いけど、あんな大きな保護犬を住宅街で飼うのは無理があるんです」


「ムギがここへ来たという目撃情報はありますか」


「夜中ですよ。誰もずっと見張ってはいません」


「足跡などは」


「ほら、そこ」


大沢が花壇の端を示す。


土の上に、丸い跡がいくつかあった。


たしかに、犬の足跡に見えなくもない。


実央はタブレットで写真を撮る。


「吠え声は、何時ごろですか」


「だいたい夜中の一時とか二時です。昨日もそうだった。ワンワンどころじゃないですよ。低い声で、ずっと」


「吠えていた方向はわかりますか」


「方向?」


「家のどちら側へ向かって吠えていたかです」


大沢は顔をしかめた。


「そんなこと、知りませんよ。うるさくて眠れないんです。方角まで聞き分けていられません」


周囲の住民が小さく頷く。


実央はメモを取った。


「小森さんは、夜は室内に入れていると話しています」


「じゃあ、室内から吠えているんでしょう。どちらにしても迷惑です」


「花壇については、まだムギによるものとは断定できません」


大沢の声が強くなった。


「じゃあ何ですか。人間がこんなことをするんですか」


その言葉に、実央は答えられなかった。


人間がこんなことをするのか。


する。


市役所にいると、それはよくわかる。


ただ、それをここで言っても、火に油を注ぐだけだった。


「専門の相談先にも確認します」


「専門?」


「ペットの行動相談をしている方です」


大沢は少し馬鹿にしたように笑った。


「犬の気持ちでも聞くんですか」


実央は、笑わなかった。


「犬の行動を確認します」


そう言いながら、自分でも思った。


犬の行動。


自分にはいちばんわからないものだ。






ペット行動相談所「けもの係」は、住宅街の端にあった。


川沿いの道から少し入った古い二階建ての建物。


一階が相談所、二階が住居らしい。


木の看板には、黒い文字で「けもの係」と書かれている。


その下に、小さな黒板が立てかけてあった。


ペットの行動相談、承ります。

犬・猫・鳥・その他。

人間の相談は応相談。


実央は最後の一文を見て、少しだけ眉を寄せた。


人間の相談は応相談。


どういう意味なのか。


入口の横には犬用の水皿、鉢植え、古びたリード、迷子猫のチラシが貼られた掲示板。


扉を開けると、ベルが軽く鳴った。


室内には、紙と木と、少しだけ動物の匂いがした。


獣臭い、というほどではない。


ただ、ここには生き物が出入りしているのだとわかる匂いだった。


「すみません」


返事はない。


棚には動物行動学の本、足跡図鑑、鳥の羽の標本、双眼鏡、手袋、リード、キャリーケースが並んでいる。


奥の床に、誰かが座っていた。


黒っぽい髪を雑に結んだ女性。


パーカーにワークパンツ。

足元は履き古したスニーカー。

服には白い毛が数本ついている。


彼女は床に広げた写真を分類していた。


猫の写真だ。


「市役所の朝倉と申します」


実央が言うと、女性は顔を上げた。


眠そうな目だった。


けれど、その奥に妙な鋭さがある。


「市役所の人」


「はい」


「犬、平気ですか」


いきなりだった。


実央は、正直に答えた。


「平気ではありません」


女性は少しだけ黙った。


それから、写真を一枚重ねる。


「正直でいいです」


「ありがとうございます、と言えばいいんでしょうか」


「言わなくていいです」


女性は立ち上がった。


背は実央と同じくらいだが、姿勢が少し緩い。


どこかだらしない。


だが、動きに無駄がない。


「鹿野蒼です。ここの人です」


「鹿野さんですね。犬の鳴き声と花壇荒らしについて、外部相談をお願いしたく――」


「犬の名前は」


「ムギです」


「年齢」


「そこまではまだ」


「犬種」


「大型の雑種だと思います」


「保護犬?」


実央は少し驚いた。


「はい。よくわかりましたね」


「そういう相談、だいたいそうなので」


鹿野は壁にかけてあった薄手のジャケットを羽織り、鞄を肩にかけた。


鞄の外側には、小さなライト、メジャー、双眼鏡、折りたたみのリードがついている。


「行きます」


「今からですか」


「犬は現場で見ないとわかりません」


「書類の説明が」


「歩きながらで」


実央は一瞬固まった。


鹿野はすでに扉へ向かっている。


「鹿野さん」


「はい」


「市役所としては、まず依頼内容を正式に共有してから」


「犬は正式に吠えません」


実央は言葉に詰まった。


この人は面倒だ。


かなり面倒だ。


だが、現場に出る気は早い。


実央は慌てて後を追った。






ムギは、鹿野を見た瞬間に吠えた。


太い声が庭に響く。


実央の肩が跳ねる。


鹿野は門の前で止まった。


それ以上は近づかない。


ムギを正面から見つめず、体を少し斜めにする。


手も出さない。


しゃがみもしない。


ただ、低い声で言った。


「はいはい。見えてる。近づかないから」


ムギはもう一度吠えた。


鹿野はまばたきしただけだった。


実央は小声で聞く。


「怖くないんですか」


「怖いですよ」


「そう見えません」


「怖いのと、慌てるのは別です」


鹿野はムギを見ている。


目。

耳。

尻尾。

背中。

足の置き方。

吠える間隔。


晴江が玄関から出てきた。


「あの、今度はどなたが」


「鹿野です。ペット行動相談所をしています。市役所からの依頼で来ました」


「まあ……すみません。こんなことで」


「犬のことなので、こんなことではないです」


鹿野は短く言った。


晴江は少し驚いたように目を開いた。


ムギは鹿野へ向かって吠え続けている。


だが、鹿野は少し首を傾げた。


「怒ってないですね」


実央は思わず聞き返した。


「これでですか」


「はい」


「かなり吠えていますけど」


「吠えるイコール怒ってる、ではないので」


鹿野はムギのほうを見たまま続けた。


「尻尾が高く固定されてない。重心も前に乗りきってない。耳は警戒してるけど、攻撃前の感じじゃない。吠え方も追い払うというより、知らせたいほうです」


「知らせたい?」


「この犬、困ってます」


ムギが、また吠えた。


晴江が不安そうに首輪を押さえる。


「ムギ、だめよ」


鹿野はすぐに言った。


「今は叱らなくていいです」


「え?」


「叱ると、知らせること自体がだめだと覚えます。まず、何を見て吠えてるのか見ます」


晴江は戸惑いながらも手を緩めた。


ムギは晴江の横に座った。


実央はその様子を見ていた。


さっきまで同じ犬なのに、少し印象が違って見える。


怖い犬。


うるさい犬。


そう思っていた。


けれど鹿野の言葉を聞いたあとだと、ムギの目はたしかに何かを訴えているようにも見えた。


いや、そう思い込み始めているだけかもしれない。


実央は、自分を落ち着かせるように書類を抱え直した。


鹿野は晴江に確認を取り、庭に入った。


ムギは吠えなかった。


じっと鹿野を見ている。


鹿野はムギの横を通るとき、手を出さずに言った。


「通ります」


ムギは鼻を動かした。


実央は門の外に残ろうとした。


鹿野が振り返る。


「朝倉さんも」


「私はここで記録を」


「現場見ないと、書類に現場のこと書けません」


正論だった。


実央は覚悟を決めて庭に入った。


ムギがこちらを見る。


実央は止まる。


ムギも止まる。


鹿野が言った。


「目を合わせすぎないで」


実央は慌てて視線をずらした。


「どこを見ればいいんですか」


「耳のあたり」


「耳」


「見るところがないなら、私の背中でもいいです」


「ではそうします」


「即答ですね」


「はい」


鹿野は少しだけ笑ったように見えた。






庭には、ムギの寝床があった。


玄関脇の屋根の下に犬用ベッド。

水皿。

太いリード。

ブラシ。

タオル。


鹿野は柵の高さ、門の鍵、リードの金具を順に確認する。


「抜け出した跡はないですね」


「やっぱり」


晴江が小さく言った。


鹿野は地面にしゃがむ。


庭の土を指で触り、匂いを嗅いだ。


実央は目を丸くする。


「土、嗅ぐんですか」


「嗅ぎます」


「そうですか」


「犬はもっと嗅いでます」


「比較対象が犬なんですね」


鹿野はムギの足元も見る。


肉球についた土。

毛に絡んだ草。

爪の間。


ムギは嫌がらずに待っている。


「ムギ、足見せて」


鹿野が低い声で言うと、ムギは少し戸惑ったあと、前足を浮かせた。


晴江が驚く。


「この子、初めての人には足なんて」


「嫌だったら引っ込めます。今は大丈夫」


鹿野は素早く確認し、すぐに足を離した。


「ありがとう」


ムギは鼻を鳴らした。


鹿野は立ち上がる。


「花壇の土、赤茶でしたよね」


実央はタブレットの写真を開いた。


「はい。こちらです」


「ここの土は黒い。粘りも違う。ムギの足についてるのは庭の土です」


「花壇には行っていない?」


「少なくとも最近、あの荒れ方をするほど入った跡はないです」


晴江の目に涙が浮かんだ。


「じゃあ、ムギじゃないんですね」


鹿野はすぐには頷かなかった。


「まだ全部は見てません。でも、花壇を荒らした犬ではなさそうです」


「よかった……」


晴江はムギの首元に手を置いた。


ムギは晴江に体を寄せる。


その大きな体が、急に子どもみたいに見えた。


実央は、胸の奥に小さな罪悪感を覚えた。


自分も、ムギを少し疑っていた。


怖い犬だから。

大きい犬だから。

吠えたから。


鹿野は庭の端へ歩く。


そこは河川敷側に面していた。


ムギは、庭のその一角に近づくと耳を立てた。


低く喉を鳴らす。


鹿野が止まる。


「夜、ムギはどちらに向かって吠えますか」


晴江はすぐに答えた。


「こっちです。川のほう。花壇は反対側なんですけど、皆さん、ムギが吠えるから花壇もこの子だって」


鹿野は、川へ続く細い道を見た。


「花壇じゃない」


実央が聞く。


「何がですか」


「ムギが見てたのは、花壇じゃなくて、その先です」


その先には、草の茂った河川敷があった。






花壇へ戻ると、大沢が待っていた。


腕を組んで、鹿野を見る。


「犬の専門家さんですか」


「鹿野です」


「どうです。あの犬でしょう」


「違います」


大沢の顔が動いた。


「何ですって?」


「ムギは花壇を荒らしていません」


鹿野はさらりと言った。


実央は心の中で頭を抱えた。


もう少し段階を踏んでほしかった。


大沢は声を荒げる。


「見ただけでわかるんですか」


「見ればある程度は」


「そんな馬鹿な」


鹿野は花壇の前にしゃがんだ。


「大型犬がここに入って掘ったなら、もっと縁が崩れます。体が当たるので。土の飛び方も違う。犬は前足で掘るので、掘った方向に癖が出ます。でもこれは、上から何かでかき混ぜてます」


「何かって」


「スコップか、移植ごてか、人間の手」


鹿野は土の中から細い繊維をつまみ上げた。


「軍手の糸もあります」


実央は急いで写真を撮る。


鹿野は続けた。


「この丸い跡、犬の足跡に見えますけど、肉球の配置が曖昧です。大型犬なら、もっと爪跡が出ます。体重もあるので沈み方が違う」


大沢は黙った。


周りの住民も、少しずつ顔を見合わせる。


鹿野は立ち上がった。


「犬はスコップ使いません」


実央は一瞬、反応に困った。


大沢も同じだった。


「それは……そうでしょうけど」


「なら、人間です」


言い方が雑だ。


だが、筋は通っていた。


実央は咳払いをする。


「現時点で、花壇の被害をムギによるものと断定する根拠は弱いと思われます。引き続き確認を――」


鹿野が花壇の奥を見ている。


「朝倉さん」


「はい」


「ここ、踏んでます」


「え?」


花壇の裏側、低い植え込みの陰に、靴跡があった。


犬のものではない。


人間の靴底の跡だ。


それも、同じ場所を何度か踏んでいる。


鹿野はその方向を見る。


花壇の裏から細い道があり、そこを進むと河川敷へ下りられる。


「夜、ここを通った人がいます」


大沢が口を開く。


「散歩の人じゃないですか」


「散歩なら道を通ります。ここは花壇の裏です」


鹿野は草の折れ方を見る。


「重いものを持ってたかも」


「なぜわかるんですか」


実央が聞くと、鹿野は地面を指した。


「片側だけ沈みが強い。歩幅も少し乱れてる。あと、ここ」


草の葉に、泥が擦れた跡。


人がしゃがんだか、荷物を置いたか。


鹿野は河川敷へ向かう。


「行きます」


実央は慌てて追いかけた。


「鹿野さん、勝手に進まないでください」


「犬はもう進んでます」


「犬はいません」


「匂いの話です」


「その説明で納得する市役所職員はいません」


「朝倉さんがいるので大丈夫です」


「私は納得していません」


そう言いながらも、実央は鹿野の後ろを歩いていた。






河川敷へ下りる道は、草が伸びていた。


昼間でも少し薄暗い。


土手の上には住宅街の音があるのに、下へ降りると急に静かになる。


川の水音。

草の揺れる音。

遠くの鳥の声。


鹿野は草むらの前で止まった。


「ここ、誰か入ってます」


実央には、ただの草むらに見えた。


「わかるんですか」


「草の倒れ方が同じ方向じゃないです。犬ならもっと低いところが割れます。これは人の膝か荷物」


鹿野は手袋をはめる。


「触ってもいいですか」


「待ってください」


実央はすぐに言った。


「不審物の可能性があるなら、まず警察へ連絡します。市役所としても、むやみに触れません」


鹿野は振り返った。


少しだけ目を細める。


「ちゃんとしてますね」


「仕事です」


「いいです」


「褒めてますか」


「たぶん」


「たぶんですか」


実央はスマートフォンを取り出し、警察と関係部署へ連絡した。


数分後、地域課の警察官が到着した。


草むらの中から見つかったのは、黒いビニール袋だった。


中には、薬品の空き箱、古い注射器、ラベルの剥がされた小瓶、使い捨て手袋が入っていた。


実央は顔をこわばらせた。


「これ、動物病院のものですか」


鹿野は袋の中を覗き込み、眉を寄せた。


「処分予定の薬品かも。使用済みか期限切れかは確認しないとわかりません」


警察官が袋を保全する。


「近くの動物病院に確認します」


鹿野は草むらの手前を見ていた。


「ムギ、これに反応したんですね」


「匂いですか」


「匂いもあります。あと、人です」


「人?」


「夜にここへ来た人を見てた。庭からこの方向は見えるので」


鹿野は土手の上を見上げた。


小森家の庭の一角が、かろうじて見える。


ムギが夜に吠えていた方向。


花壇ではなく、河川敷。


鹿野は低く言った。


「ムギは花壇を荒らしたんじゃない。ここに来る人間を知らせてたんです」


実央は黒い袋を見た。


それから、土手の上にある住宅街を見た。


大きな犬が、夜中に吠える。


人間たちは、それをうるさいと呼んだ。


でもムギは、何かを見ていた。


実央は、そのことを初めてはっきり理解した。






袋の中身は、近所の動物病院から出た処分予定品だとわかった。


ただし、正式な廃棄に回される前に一部がなくなっていた。


関係していたのは、動物病院の清掃委託会社で働いていた西田航平という男だった。


西田は住宅街の近くに住んでいた。


病院から持ち出した薬品を転売しようとしたが、思ったより扱いに困り、一時的に河川敷へ隠した。


深夜に様子を見に来るたび、ムギが吠えた。


西田は焦った。


そして、町内の花壇を荒らした。


大型犬の仕業に見えるよう、適当に丸い跡をつけ、土を散らした。


近所で評判の悪くなり始めていたムギを、さらに問題犬にするためだった。


「あの犬がうるさかったんです」


警察官に事情を聞かれた西田は、そう言ったらしい。


「どうせみんな、あの犬だと思うだろうって」


その言葉を実央が鹿野に伝えると、鹿野は表情を変えなかった。


ただ、声だけが少し低くなった。


「便利ですね」


「え?」


「犬のせいにすれば、人間は楽で」


実央は何も言えなかった。


鹿野は怒鳴らない。


大きな声も出さない。


けれど、その横顔は明らかに怒っていた。


動物を雑に扱う人には怖い。


実央は、初めてその意味を少しだけ理解した。






住民説明は、週末の午前に行われた。


場所は、町内会館の小さな集会室。


実央は、市役所職員として経緯を説明した。


花壇を荒らしたのはムギではなかったこと。

河川敷から不審物が見つかったこと。

警察が西田の関与を確認していること。

薬品類は適切に回収されたこと。


住民たちは、気まずそうに聞いていた。


大沢は腕を組んだまま黙っていた。


晴江は、部屋の端に座っていた。


ムギはいない。


鹿野は壁際に立っている。


実央が説明を終えると、大沢が小さく咳払いをした。


「まあ……犬じゃなかったなら、それは悪かったと思います」


晴江は、少しだけ頭を下げた。


「いえ。ムギが吠えていたのは事実ですから」


「でも、花壇は」


大沢は言葉を探した。


鹿野が口を開いた。


「ムギに言ってください」


室内の空気が止まった。


実央は慌てて鹿野を見る。


「鹿野さん」


「小森さんじゃなくて、ムギに言う話なので」


大沢は困った顔をした。


「犬に謝るんですか」


「犬のせいにしたので」


「いや、しかし」


「聞いてるかどうかは別です。人間側の問題です」


実央は額を押さえたくなった。


だが、鹿野の言っていることは間違っていない。


言い方が、行政向きではないだけだ。


大沢はしばらく黙っていた。


それから、晴江のほうを見た。


「小森さん。今度、犬を連れているときにでも……まあ、その」


晴江は少し笑った。


「はい」


説明会のあと、鹿野は晴江にムギの夜間環境について助言した。


河川敷側の窓から見える範囲を少し遮ること。

夜は安心できる寝場所を決めること。

吠えてから叱るより、吠える前の緊張に気づくこと。

散歩の時間帯を少し変えて、ムギが町の人に慣れる機会を作ること。

無理に触らせなくていいこと。

怖がる人との距離も守ること。


晴江は、一つ一つメモを取っていた。


「私、ムギに申し訳なくて」


「申し訳ないなら、これから見ればいいです」


鹿野は言った。


「ムギが何を見てるのか」


晴江は、ゆっくり頷いた。






数日後、実央は「けもの係」を訪れた。


外はよく晴れていた。


川沿いの道では、犬の散歩をする人が何人も見える。


けもの係の入口横には、相変わらず犬用の水皿が置いてあった。


黒板には新しく文字が書かれている。


迷子猫、帰宅しました。

ご協力ありがとうございました。


中に入ると、鹿野は机に向かって何かを書いていた。


机の上は散らかっている。


だが、動物の写真やメモは不思議と整理されていた。


「市役所の朝倉です」


「知ってます」


「一応、挨拶です」


「大事ですね」


「鹿野さんに言われると複雑です」


鹿野はペンを置いた。


「ムギの件ですか」


「はい。苦情は今のところ減っています。小森さんも、夜の環境を変えたそうです」


「よかったです」


鹿野は短く言った。


机の上のノートには、手書きでこう書かれていた。


犬は花壇を荒らしていない。

犬は河川敷へ向かう人間を見ていた。

人間は吠え声を騒音と呼んだ。

犬にとっては、警告だった。


実央はその文字を見た。


「事件メモですか」


「相談記録です」


「タイトル、ついていますね」


ノートの上部には、太い字でこう書かれていた。


犬のせいにしないでください。


実央は、少しだけ笑った。


「そのままですね」


「そのままです」


「市役所の記録では、もう少し柔らかく書きます」


「だから伝わりにくいんですよ」


「柔らかくしないと苦情になります」


「犬は苦情出しません」


「人間が出すんです」


鹿野は、少しだけ面倒そうに頷いた。


「人間は手間ですね」


「市役所職員の前で言うことではありません」


「朝倉さんは、犬の前で人間の都合を言うので、おあいこです」


実央は言い返そうとして、やめた。


たしかにそうだった。


実央は鞄から書類を取り出した。


「今後、市役所から動物関連の相談が行くことがあると思います」


「書類、多いですか」


「必要な分は」


「必要な分が多いんですよ」


「こちらも、犬に吠えられる仕事は本来業務ではありません」


鹿野は少し笑った。


実央はその笑いを見て、初めてこの人が本当に少しだけ笑うのだと知った。


そのとき、外から足音が聞こえた。


晴江が、ムギを連れて通りかかったのだ。


ムギは大きな体で、ゆっくり歩いている。


晴江がこちらに気づいて会釈した。


ムギも、けもの係の入口の前で立ち止まる。


実央は反射的に半歩下がった。


でも、以前のようには逃げなかった。


ムギは実央を見る。


吠えない。


少しだけ尻尾を振る。


実央は、反射的に書類を胸の前に構えた。


「……これは、どういう状態ですか」


鹿野はムギを一瞥した。


「まあまあ好き、くらいです」


「雑ですね」


「犬の好感度を数値化しろって言われても困ります」


「市役所では、そういう曖昧な報告が一番困るんです」


ムギは、短く一度だけ吠えた。


低い声だった。


けれど、実央は肩を跳ねさせなかった。


鹿野は言った。


「挨拶です」


「今度は断定するんですね」


「今のはわかりやすいので」


晴江が笑い、ムギの頭を軽く撫でた。


実央は、書類を抱えたまま、ほんの少しだけ頭を下げた。


「こんにちは、ムギ」


ムギはもう一度、尻尾を振った。


けもの係の窓の外で、ムギが一度だけ短く吠えた。


それはもう、苦情の音には聞こえなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第一話では、「動物を人間の都合で悪者にしない」という作品の軸を描きました。


ムギは何かを壊した犬ではなく、人間が見ないふりをしたものを知らせていた犬でした。


鹿野蒼と朝倉実央は、まだ息の合った相棒ではありません。

でも、ここから少しずつ、動物の行動と人間の事情を一緒に見ていくことになります。

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