第2話:【プライドを捨てた歌姫、最底辺の職場へ】
1. 歌姫の「沈黙」
祭典の翌日。
聖詠学院のリアの自室は、葬儀のような静寂に包まれていた。
学院の医師からは「デバイスの不調による一時的な魔力逆流」と診断されたが、リアは確信していた。
原因はデバイスではない。
あの場を支配していた「数式の歪み」だ。
「……私の歌が、スペルミスだらけ?」
部屋の隅、高級なバイオ・シンセサイザーの前に座っても、指一本動かす気になれない。
学院で教わる魔法理論は、すべて『完成された聖歌』をいかに美しく、正確に出力するかというものだ。数式の裏側を、文字の意味を書き換えるなんて概念、歴史の教科書にすら載っていない。
リアは、机の上に置いた銀色のコインを見つめた。
作業着の少年——カイが残した『SAVE』の刻印。
指先でなぞるだけで、昨日のあの「澄み渡るような音」が耳の奥で蘇る。
「探し出さなきゃ。あんな音……一生かかっても、学院の授業じゃ届かない」
彼女は、純白のドレスを脱ぎ捨て、地味なフード付きの外套を羽織った。
行き先は、エリートが最も忌み嫌う場所——地下五百メートルの「排気区画」だ。
2. 世界の「裏側」
地下の空気は重く、機械油と錆の匂いが混じっていた。
最新の光ファイバーが張り巡らされた地上とは違い、ここは剥き出しの配管と、古い電磁波がノイズとなって飛び交う、文字通りの『吹き溜まり』だ。
「誰だ、あんた。こんな所に、上(地上)の人間が何の用だ?」
通路の分岐点で、リアはガラの悪い男たちに呼び止められた。
清掃局の職員を装ってはいるが、その目は明らかに獲物を探すハイエナのそれだ。
「……探し人です。清掃員の、カイという名前の少年を」
リアが震える声で答えると、男たちは顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべた。
「あぁ、あのバグ取りのガキか。あいつなら、この先の『第4圧力弁』で遊んでるぜ。だが、タダで通すわけにはいかねぇなぁ」
男たちがにじり寄る。
リアは反射的に喉のデバイスを起動しようとしたが、指が止まった。
昨日の暴走のトラウマが、彼女の喉を締め付けている。
その時だった。
「——おい、そいつは俺の『客』だ。手を出すと、そのデバイス、永久にノイズしか出ないようにしてやるぞ」
背後から、低く、退屈そうな声が響いた。
「……カイ!」
リアが叫ぶ。
そこには、昨日と同じ薄汚れた作業着を着て、長いスパナを肩に担いだカイが立っていた。
「あぁ? 調子に乗んなよ、小僧。たかが清掃員が……」
男の一人が、威嚇のために喉を震わせ、小さな『火花』の詠唱を始めようとした。
だが、カイはただ、指をパチンと鳴らした。
——カチッ。
音とも呼べないような微かな乾燥音。
次の瞬間、男が起動しようとしたデバイスが、青い火花を散らして沈黙した。
「……え、あ? 音が……出ねぇ……!?」
「お前のデバイスの『起動キー』、今、一時的に定数から外してやった。しばらくはただの鉄屑だ」
カイは欠伸をしながら、驚愕で固まる男たちの間を平然と通り抜け、リアの手を掴んだ。
「行くぞ。こんなところで歌姫様が襲われてニュースにでもなったら、俺の有給が削られる」
3. 未知の数式、未知の言葉
カイの拠点だという小さな倉庫。
そこは、リアの常識を根底から覆す場所だった。
壁一面に貼られた、見たこともない複雑な『文字』の羅列。
それは学院の最新教科書にあるどんな数式よりも美しく、規則的で、それでいて狂気を感じさせるほどの情報量を持っていた。
「……これ、全部あなたが書いたの?」
「暇つぶしだ。この世界のOSは、文字を音に変換する過程で、あまりにも多くの情報を切り捨てすぎている。俺はそれを、元の形に戻してるだけだ」
カイは古い椅子をリアに勧めると、無造作に一つの文字を指差した。
『F-L-O-W』
「お前の昨日の暴走は、この『FLOW(流れ)』の制御式に、不純物が混じってたせいだ。上の連中の数式は効率が悪すぎる」
リアは、食い入るようにその文字を見つめた。
今まで「ただの記号」だと思っていたものが、カイの解説を聞くうちに、音楽的な意味——いや、宇宙を記述する絶対的な真理として脳内に流れ込んでくる。
「教えて……カイ。その『文字』があれば、私も昨日みたいな暴走をさせずに済むの?」
カイは一瞬、黙り込んだ。
そして、少しだけ意地悪な笑みを浮かべる。
「教えるのはいいが、高くつくぞ。俺は『文字』を教える。その代わり、お前にはその喉を使って、俺の数式を実証してもらう」
「……実証?」
「あぁ。俺の声じゃ、出力のレンジが足りないんだ。世界を再構築するには、お前みたいなバカ高いレンジの『拡声器』が必要なんだよ」
歌姫を拡声器呼ばわりする無作法。
本来なら怒るべきところだったが、リアの胸は、これまでにない高鳴りを感じていた。
完成されたスクリプトを歌うだけの、操り人形の日々。
それが今、この地下の少年の手によって、全く新しい「音楽」へと書き換えられようとしている。
「……分かったわ。私の声、全部あげる。その代わり——私に、本当の歌を教えて」
地下の暗がりのなか、失われた『文字』を挟んで、二人の奇妙な契約が結ばれた。
それが、世界を調律する「最強の合唱」の幕開けであることに、まだ二人は気づいていない。




