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妖しき欲気が揺らぐ宵、市に咲く花紋の灯・下

「──影座にお集いの皆々様。

 今宵も“名無き道”よりお運び頂き、まことに恐悦に存じます。


 影を乱さず歩む者だけが辿り着くこの座。

 名も素性も、戸口に置きて参るのがならいにございます。


 ここは裏世市(うらよいち)

 日の下では口にすらできぬ品々が、闇のあいだを静かに渡り歩く処。

 声も、身の内もここでは不要。

 欲のかたちと影の濃さこそ、今宵の通行手形にございましょう。


 さて──今宵の品は、すでに揃い申しました。


 未完の呪冊、

 嘆きを肥やす香、

 肉の価値を塗り替える一房、

 触れれば祟りの降る呪宝……。


 いずれも、表の世には名を残せぬ代物にございます。


 そして……恐らく皆さまも気付かれたことでしょう。

 久方ぶりに、“剣の(ことわり)”を宿す者が、今宵、この座に居合わせております。


 姿を明かすことは叶いませぬが……

 影だけでも、その気配は深き闇を切り裂く光のごとく、ひそやかに漂っております。


 どうぞ、心のままにお進みください。

 求むるものあらば、ためらいなどお捨てくだされ。

 影は偽らず、欲は隠せませぬゆえ。


 ──皆さまの影が何を呼び、何を散らすのか

 この朧面主(ろうめんしゅ)が、揺らめく闇の間より、見届けましょう……」




 《第三章:妖しき欲気が揺らぐ宵、市に咲く花紋の灯・下》




 耳鳴りに導かれるように、意識がゆっくりと浮かび上がった。


 瞼を開いた先にあったのは、年季の入った畳と——強く縄で縛られた、自分の両手首だった。

 縄は畳に突き刺された杭へと繋がれており、腕を上げようとしてもびくともしない。杭も縄も、逃がす意思を持たぬように、ただ頑として在る。


 胡座をかいた脚も同様だった。

 太ももと脹脛が左右それぞれまとめて縛られ、少し動かしただけで縄がきしむ。

 立ち上がることなど論外で、足を伸ばす余地すらない。


(……首が痛ぇな。どれくらい寝てた?)


 ゆっくりと視線を巡らせる。

 周囲には何も無い。ただ、すぐ目の前に四方を壁で囲まれているだけだ。

 どうやら、駕籠のような小箱に閉じ込められているらしい。


 中でも異様なのは、天井の低さだった。

 項垂れた頭をわずかに起こしただけで、額がぶつかりそうになる。


(……髪、邪魔だな)


 長く伸ばした髪が、視界をすだれのように覆い、先を曖昧にする。

 朝の手間を省くため、普段から髪を結うことをしてこなかったが——このときばかりは、初めてその怠慢を後悔した。


 埒が明かない、と一度目を閉じようとした、その時。


 すぐ近くで、茶器の蓋が触れ合うような、かすかな音がした。



「……誰だ?」


「ひっ……!」


 返ってきたのは、喉をつかえるような短い悲鳴。

 幼い声だった。


「そこに誰かいるんだろ……ん゙、喉が痛ぇ。水を一杯、もらえないか?」


 しばし、音が止まる。

 立ち去ったのかと思った矢先、目の前の壁が横にずれ、細い光が差し込んだ。

 どうやら、木の引き戸になっていたらしい。


 箱の内、左膝のあたり。

 遠慮がちに、水の入った湯呑みが置かれる。


 差し出した手は、やはり丸く、小さな子供のものだった。


「悪いな。俺、手が使えないんだ。飲ませてもらえるか?」

「え……」


 躊躇いを含んだ声。

 紫雫久は、追い打ちをかけるようにわざと大きく咳き込んだ。


 ぎし、と不快な音を立てて、引き戸が大きく開く。

 差し込む光に目を細めている間に、湯呑みが目の前へ差し出されていた。


「ありがとな……。あー……だめだ。これじゃ首も上げられねぇ」

「……そ、それなら……」


 子供は迷いながら、箱の上部に取り付けられた金具に手を伸ばし、天井を持ち上げた。


 開いたその瞬間。

 紫雫久は、ゆっくりと背筋を伸ばした。


 ばりぼり、と。

 背骨の一本一本が、無遠慮な音を立てる。


「……っ」

「……っは」


 思わず同時に吹き出す二人。

 その短い笑いで、子供の表情から警戒がすとんと落ちた。


「……飲ませてくれ」


 子供はおずおずと、湯呑みを紫雫久の口元へ運ぶ。


 唇に触れる髪を避けようと、紫雫久は頬にかかる髪を払った。

 露わになった顔を見た瞬間、子供は息を呑んだ。


 今まで見たことのないほど、澄んだ——花のようなかんばせが、そこにあった。


 水を嚥下するたび、喉元が上下する。

 零れた水が一筋、二筋と首筋を伝い、胸元へと吸い込まれていく。


 子供は、目を離すことができなかった。


「……珍しいか?」

「い、いえ……その……きれい、だと……」

「そうか? 変な趣味だな」


 胸元に注がれる視線を、傷跡を怖がっているのだと思った紫雫久は、首を傾げた。

 もしそれを恐れないのなら、この場所ではよく見るものなのかもしれない——そんなことを考えた。



 箱の外は、蔵のような空間だった。

 大小さまざまな箱が積み上げられ、質屋の奥蔵を思わせる。


 おそらく、篝誘陣で連れ去られた剣士たちは、皆こうしてここへ運ばれたのだろう。

 子供の手際を見る限り、この箱が使われたのは、一度や二度ではない。


「ところで、ここはどこだ? 俺はどうなる」

「……わ、わかりません。私はただの丁稚奉公(でっちぼうこう)なので……」


 視線を逸らして、子供はそう答えた。


「じゃあ話を変えよう。お前、いつからここにいる?」

「ふた月前からです」

「奉公は楽しいか?」

「はい。飯も美味しいし、読み書きも、みなさん優しく教えてくれます。

 それに……ここには珍しいものがいっぱいあって、見てるだけでも楽しいです」


 話ぶりから察するに、ここは表向きはそれなりに繁盛している店らしい。

 子供の身なりも良く、肌艶もいい。大店の可能性もある。


「珍しいものって、例えば?」

「えっと……きれいな硝子の桜の花びらとか。真珠みたいな色の勾玉。あ、これは呼ぶと返事をするんです。

 それから、大きな鏡。水面みたいに揺れていて、目が離せなくて……」


玻璃桜(はりざくら)呼応珠(こおうじゅ)寿喰鏡(じゅしょくきょう)……)


 紫雫久は、内心で舌打ちした。

 並べられた名は、どれも呪具ばかりだ。


 中でも寿喰鏡は、覗いた者の寿命を吸い取る。

 あの子も、すでに少なからず削られているだろう。


 どんな看板を掲げていようと。

 丁稚に碌な説明もせずこれらを扱わせる店が、まともであるはずがない。


 ——箱の中身も、きっとすべて同じだ。


(……で、俺もその()()ってわけか)


 そう考えながら、紫雫久は静かに息を吐いた。




 外の廊下を行き交う足音が近づき、やがて箱は再び閉じられた。

 外はやけに騒がしく、人の出入りする気配が絶えない。指示役らしい声に従い、蔵の奥から次々と箱が運び出されていく。


 ——これから商売が始まるのだろう。


 この世には、表向きには適当な看板を掲げながら、裏で違法な品を取引する「裏夜市(うらよいち)」を生業とする店が少なからず存在する。

 紫雫久も噂には聞いていたが、こうして実際に目の当たりにするのは初めてだった。


 裏夜市で扱われるのは、宮中から禁制を敷かれた呪具や占具、由来の知れぬ珍品、人に害をなす香——

 要するに、大っぴらには扱えない品ばかりだ。


(……この店、人も売るんだな)


 そう思った瞬間、紫雫久の入った箱ががたりと傾き、揺れ始めた。

 市の会場へと運ばれているのだろう。


 確かに、“剣士”にはそれなりの値がつく。


 剣技が確かなら養子として迎え、家を立て直すこともできる。

 用心棒として使うにも申し分ない。


 名家であれば放っておいても剣士は集まる。

 だが、傾いた家となれば話は別だ。金を積んででも、買えるなら買う。


 つまり、この先に待っているのは——

 見知らぬ誰かに買われ、見知らぬ家の子になる未来だ。


 率直に言って、それは困る。

 向井家以外の家に収まるつもりなど、微塵もなかった。



 剣士を誘い込む元凶は断った。

 それでもなお罠にかかる剣士がいるなら、能力の問題だろう。

 店の環境も悪くない以上、今すぐ潰す理由もない。


 裏夜市には、往々にして根深い闇がある。

 手を出すなら、後で改めて計画を練るべきだ。



(……あの子供には悪いが、少し手を借りるか)


 思考がまとまったところで、箱の揺れが止まった。

 ぎぎ、と引き戸が開き、外の光が差し込む。


 小刀が手首へ近づき、縄に刃が入れられる。

 見下ろす手は、子供のものではない。節くれ立った、無骨な男の手だった。


 ——好機。


 ぶつりと音を立てて縄が切れ、手首が自由になる。



 その瞬間、前へ重心をかけて飛び出した。

 掌底を、目の前の男の顎へ叩き込む——はず、だった。


「……ぁ?」

「おっと、暴れるなよ」



 突き出したはずの右手は、力なく垂れ下がるだけだった。

 紫雫久は男の胸元へ額を打ちつけるように倒れ込み、そのまま容易く受け止められる。


 指先が痺れ、腕も脚も言うことをきかない。

 体の芯に、じわじわと鈍い痺れが回っていく。


(……狭い場所にいたせいか? いや——まさか、あの水……)



「喉が渇いたって聞いたからよぉ」

 男は楽しげに続ける。

「小僧に、効きのいい薬を教えてやったんだ。どうだ? 美味かったか?」


 言葉が、出なかった。


 男は「まぁいいか」と一人ごちると、紫雫久を軽々と担ぎ上げる。

 抵抗する術は、もう残っていなかった。






 遠く、どこか深い場所で鉦が打ち鳴らされた。

 音は一度きりではなく、空気の層を裂くように、遅れて幾度も反響する。


 続いて響いたのは、男とも女とも判別のつかぬ声。

 澄んでいながら冷たく、形を持たぬまま場を支配する声だった。



『──影座にお集いの皆々様。

 今宵も“名無き道”よりお運び頂き、まことに恐悦に存じます。


 影を乱さず歩む者だけが辿り着くこの座。

 名も素性も、戸口に置きて参るのがならいにございます』



 紫雫久は、闇を映す回廊を担がれながら、その声を聞いていた。

 男の肩に押し付けられるたび、揺れが胃の奥まで響く。


 逃れようと、指に力を込める。

 だが、思うように力は宿らず、指先は自分のものとは思えなかった。



『さて──今宵の品は、すでに揃い申しました。


 未完の呪冊、

 嘆きを肥やす香、

 肉の価値を塗り替える一房、

 触れれば祟りの降る呪宝……。


 いずれも、表の世には名を残せぬ代物にございます』



 男が足を止め、畳の敷かれた一角へと紫雫久を投げ落とした。


「——ッ」


「商品だろ、大事に扱え」 声にしようとした言葉は、喉の奥で潰れた。

 舌が重く、思考の輪郭も曖昧になっていく。


 睨みつけると、男は面白そうに口角を上げ、「悪い悪い」と笑いながら紫雫久の身体を起こし、座らせた。

 人というより、位置の定まらない品を扱う仕草だった。


 その扱いに、遅れて怒りが湧く。

 だが、それさえ熱を帯びきらない。




『そして……お気づきの方も多かろう存じます。


 今宵は久方ぶりに、“剣の(ことわり)”を宿す者が、この座に居合わせております。


 姿を現すことは叶いませぬが……

 影のみでも、その気配は、闇を裂く刃のごとく、ひそやかに漂っております』



 男の指が、紫雫久の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。


「……なんだ、いい面してるじゃねぇか。惜しいな。もっと早く、見ておくんだった」

「――!」


 飛んだ唾が男の頬を濡らす。

 だが男は眉一つ動かさず、薄く笑って袖で拭った。


 左右の手首に、別々の器具が嵌められる。

 金具の冷たさが、じかに骨へ染み込んできた。



「今日はな、常連の中でも特に妙なのが来てる。そいつに、お前を勧めてやるよ。

 ……今に剣士でいられなくなるかもな」


 男は顔を寄せ、耳たぶを軽く噛み、愉しげに去っていった。



『──皆々様の影が、何を呼び、何を散らすのか。

 この朧面主(ろうめんしゅ)が、揺らめく闇の間より、見届けましょう……』


 その声と同時に、紫雫久の頭上へ白い光が降り注いだ。

 ここが舞台の真下であることを、嫌でも悟らされる。



 からくりが低く唸り、床が震える。

 身体ごと、ゆっくりと持ち上げられていった。


 闇に沈んだ空間に、ぽつぽつと灯りが瞬く。

 広さは測れず、気配だけが、無数に重なっている。


 観客との間には薄布が垂れ下がり、顔は見えない。

 だが、見られている感覚だけが、皮膚の裏にへばりついて離れなかった。


 やがて、がたん、とからくりが止まる。



「それでは……今宵の目玉。

 剣士の魂にございます」



 紫雫久の競りが、

 音もなく、始まった。






「此度の競売は、落とし札にて執り行います。

 皆々様、お手元の“影箱(えいばこ)”へ、札をお投じください」


 声の指示が下ると同時に、市は息を殺した。

 人の気配は濃いはずなのに、誰一人として声を発さない。


 聞こえるのは、

 コトリ。

 コトリ。

 木札が箱の内壁を撫で、底へ沈む、乾いた音だけだった。



「剣士の価値とは、その身に宿る剣技に他なりません。

 この花紋湧座(かもんゆうざ)にて、皆様の目に、しかと示しましょう……」


 朧面主の声と同時に、紫雫久の左手首に繋がれた器具が低く鳴いた。

 金属が引かれ、腕は抵抗も許されぬまま水平に伸ばされ、宙へと吊られる。


 奥より、花の彫刻を施した水盆が現れる。

 水面は一切揺れぬまま、ちょうど手首の真下へ据えられた。


 朧面主が歩み寄る。

 その顔は、表情というものを拒むかのような、凹凸のない面に覆われていた。



「ご覧ください。

 初雪のごとく白き肌。きめ細やかで、なお瑞々しい。

 この口溶けの良い膚へ刃を立てる感触――

 それを好まれる御方も、少なからずおられましょう」


 言葉が終わるより早く、小刀が紫雫久の手首を走った。



「――ぁッ!」


 声になりきらぬ悲鳴が喉を裂く。

 血は堰を切ったように零れ落ち、水盆へと吸い込まれていく。


 血と水が混ざり合い、水面にまだらな文様を描く。

 やがて、それは輪郭を得て、ひとつの形を結んだ。



「……これはこれは」


 水盆に浮かび上がったのは、巴旦杏(はたんきょう)の花紋。

 血で描かれたとは思えぬほど、濃く、鮮やかで、揺るぎない。


 完成と同時に、客席から低いどよめきが漏れた。

 驚嘆というより、欲に濡れた吐息だった。



「剣技の値が高ければ高いほど、花紋は濃く、明瞭になると申します。

 しかし……ここまで見事な紋は、わたくしも初めて目にいたしました。

 今後、再び拝めるかどうか――」


 言葉を濁す朧面主の声が、期待を煽る。


 簡易な止血が施される間に、水盆は客席の近くへと運ばれていった。

 花紋を前にした影たちは、息を潜め、次の札を滑らせる。

 木札の音は、先ほどよりも確かに増えていた。



 裂けた腕は熱を孕み、じくじくと鈍い痛みを訴え続ける。

 薬で霞む意識の中では、その痛みだけが現実に繋ぎ止める楔のように感じられた。


 紫雫久は重い瞼を持ち上げ、市の奥を見渡す。


 客席では、扇子を静かに掲げる影がいくつも見えた。

 それを見るや、従業員が近づき、耳元で囁く。

 その言葉は、やがて舞台上の朧面主へと届けられた。



「――剣士の髪を見たい、とのこと。


 紫烏色の髪は指通りも良く、

 その艶やかさは翠雫川(すいだがわ)の流れを思わせます。

 手元の慰みとしても、飽きることはございますまい」


 朧面主は櫛を入れ、紫雫久の髪を梳く。

 その櫛は、濡れた黒を映したまま、客席へと差し出された。


 扇子が、また一枚上がる。


 “顔が見たい”と言われれば、詩のようにその造作を語り、

 “声が聴きたい”と言われれば、音が出るまで、背を太い棒で打ち続けた。


 そのたびに、市の各所で木札が鳴る。

 その音が、胸の奥で泡立つように広がっていく。


 不思議と思考は冴えていった。



(……次は足の寸法が知りたい、か?

 まさか、そのために切り落とすなんてのは…………それだけは、勘弁だな)




 薬の名残と深い疲労が、まだ身体の端々に残っている。

 しかし――この短い時間で、紫雫久は確かに掴んでいた。

 ここがどの領か、この市がどう息づいているのか。そして、逃げ道の気配がどこにもないという事実も。


 まず、この市の場所は高瀬領だ。

 “翠雫川”

 朧面主の口にする比喩には、高氏の者なら誰もが情景を即座に思い浮かべるような地名が、無造作に、しかし意図的に紛れ込んでいる。

 客たちに世界を見せるための語りであり、同時に――この市が何処に根を張っているのか、朧面主の無意識が漏らした痕跡でもあった。


 次に、朧面主自身。

 声は面の細工でいかようにも変え、衣の下には布を重ねて身体の線を潰している。

 たとえ市の外で素顔に出会っても、誰もそれを“朧面主”と結びつけられないだろう。


 だが、それでも――

 ひとつだけ、()()()()()()があった。




「剣士の背丈が知りたい……。少々手間のかかる願いゆえ、ここでひとつ、彼が使っている刀をご覧いただきましょう」


 従業員が紫雫久の刀を抱えて客席へ向かう。

 客の注意が刀へ逸れた刹那、朧面主はふっと影のように紫雫久の背後へまわった。

 腰へ添えられた手が、体温を奪うように、ゆっくりと引き寄せる。


 瞬く間に鼻腔を満たしたのは、柔らかい甘さと、かすかな黴のざらつきが混ざりあった匂い。

 花紋湧座に血を落とした時も、背を打ち叩かれた時も、この香りがかすかに漂っていた。

 声や姿は変えられても、香りだけはごまかせない。


 そして、その香りは――


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 紫雫久がぽつりと漏らすと、朧面主の手がほんの僅かに止まった。

 だが、次の瞬間には何事も無かったように小刀を構え直している。



「酒を造るのに時間がかかるのは、ご存知でしょう? ()()


 声は――あの時の蔵人そのまま。

 低く湿り、耳朶の奥で深く反響するあの声色。


 縄を断つ小刀が、同じ調子で紫雫久の脹脛を裂いた。


「――ッ……座主っつっても、普段は勤勉なんだなぁ」

「まさか。もう辞めましたよ。

 貴方をこうして誘い出すための“顔”でしたから」

「顔?じゃあ……あの蔵人は」


「とうに奈落ですよ。

 今さら戻ってきても大変でしょう? だから、全部捨てておいてあげたんです」


 紫雫久の奥歯が強く噛み締められた。

 自分の足跡の裏に、何の罪もない一人が沈められていたとは。


「……俺を呼ぶために、よくもまぁ、こんな周りくどい真似ができるな」


「お気に召しましたか? ちょっとした“おもてなし”ですよ」


 耳元でくぐもる笑い声。

 その声音は、まるで心臓の裏側を指でなぞられたかのように、ぞわりと生温い。


「貴方を殺したがっている者がいましてね。

 でも、どうせなら――少し楽しんでからにしようと思ったんです。

 だって、こんな……」


 腰に回っていた手が、撫でる。

 落ちる指先は、臍のくぼみへ、静かに沈んでいき――


「勿体無いじゃないですか」


 紫雫久の喉がひくりと跳ねた。


 まるで蛇の腹の内側に閉じ込められたようだ。

 陣をくぐった瞬間からずっと、ぬめりつくような恐怖が張り付いていた。

 剣の刃筋だけを世界としてきた紫雫久ですら、初めて味わう類の、“名のない恐怖”。


 次の瞬間――


「――ッぐ!」


 太ももに深い痛みが突き刺さった。

 朧面主が、迷いもなく小刀を突き立てたのだ。


「聞いてます? 客が満足した頃、この取引は流します。

 だから、その後で……また遊びましょうね?」


「薬も切れた。拘束も……ほとんど無い。

 随分余裕じゃねぇか?」


「ええ。

 だって――貴方に、何ができるというんです?」


 最後の一本がぷつりと千切れた瞬間、

 手首の器具がガラガラと音を立てて天井へ引き上げられる。


 紫雫久の身体は宙へ吊られ、

 足は床を離れる寸前――そこで止まった。


 つま先では重心が定まらず、紫雫久の影は柳の枝のように揺れていた。

 わずかな動きのたび、吊り下げられた腕に鈍い痛みが走る。


 横目に映る朧面主は、顔のない仮面の奥で、確かに笑っている。




「皆様、すでにご覧いただいた通り。

 彼の刀には剣警士の刻印が刻まれております。

 かの試験を突破するほどの逸材――その剣を活かすも、殺すも……皆様次第にございます」


 客席を巡っていた刀が、抜き身のまま舞台へ戻され、刀掛けに掛けられる。

 金属の触れ合う乾いた音が、やけに大きく響いた。


 紫雫久は、着物の陰でゆっくりと足首を回す。

 続けて、ぐっ、と上下に曲げ伸ばし――


(……一回だ)


 呼吸は整っている。

 頭の中は、妙なほど静かだった。


 客席で、またひとつ扇子が上がる。


 ――その瞬間。


 紫雫久は、左足を蹴り上げた。


 弾ける音。

 次いで、空を裂くような金属音。


 刀が宙を舞い、回転しながら右手首の鎖を断ち切る。

 落下する刃は、最初からそこにあったかのように、紫雫久の掌へ収まった。


「おや、最後の悪あがきですか?」


「何言ってんだ。――ここからが見せ場だろ」


 紫雫久は、にやりと笑う。


 左腕の鎖を軸に跳躍。

 遠心力を殺さず、そのまま斬り込む。


 だが――


 甲高い音を立て、朧面主の鉄扇が刃を受け止めた。


「小細工ができぬよう、着替えまでさせたというのに。

 油断も隙もありませんね」

「子供の歯ってのは高く蹴り飛ばすもんだろ」

「私の知る風習とは、少々異なるようです」


 言葉と同時に、鎖が引かれる。

 紫雫久の身体は再び宙へ。今度は足先すら床に届かない。



「――捕えろ」


 その一言で、空気が裂けた。


 刀を持つ男たちが、ためらいもなく踏み込む。

 足音が重なり、畳が軋み、観客席のどよめきが一拍遅れて膨れ上がる。


 見上げる無数の視線。

 次の瞬間――


 紫雫久は腹筋に力を込め、身体を強引に折りたたんだ。

 鎖に両足を絡め、体重を一点に預ける。


 ――刃が閃く。


 金属が断ち切られる甲高い音と同時に、身体が宙へ投げ出された。


 落下。


 だが、ただ落ちるつもりはない。


 腰を捻り、視界を回転させ、迫る刃の角度を読む。

 一拍――否、半拍。


 重力と遠心力を味方につけ、刀を振り抜いた。


 最初の一人の喉元が、音もなく裂ける。

 返す刃で、二人目の手首。刀が畳に落ち、血が弾けた。


 着地。


 畳が沈み、鈍い衝撃が足裏から膝へ走る。


 間髪入れず、左右から刃が迫る。


 紫雫久は低く身を沈め、刃の下を潜り、肘で鳩尾を打つ。

 骨に当たる感触。

 息が潰れる音。


 背後――気配。


 振り向きざま、柄頭で顎を砕き、刀を奪って投げる。

 投擲された刃が、逃げ遅れた男の腿に突き刺さった。


 悲鳴。


 怒号。


 血の匂いが、一気に市を満たす。


 静寂で張り詰めていた空間が、音と恐怖で膨張し、歪んでいく。


「――ひ、怯むな! 数で押せ!」


 声が飛ぶ。

 だが、足は止まる。


 紫雫久の足運びは早く、低く、そして迷いがない。

 一歩ごとに位置が変わり、斬撃が交差する。


 刃と刃が噛み合い、火花が散る。

 受け流し、踏み込み、斬り返す。


 血が飛び、畳が滑る。

 足を取られた男の背を、容赦なく断つ。




 ――気付けば。


 舞台と客席を隔てていた薄布が、はらり、と舞い落ちた。


 露わになった舞台の中央。


 そこに立っていたのは、

 息を呑むほど美しい、血に濡れた剣士と、

 足元に転がる、もはや“形”を失った男たちだった。


 紫雫久の刀から、血が滴る。


 その切っ先が、ゆっくりと客席へ向けられた瞬間――


 悲鳴が、堰を切ったように溢れ出した。


 逃げ惑う足音。

 倒れる箱。

 踏み潰される布。


 まるで化粧箱をひっくり返したような喧騒が、この悪夢のような市を現実に引き戻す。



「――残念です。またお会いしましょう」


 声に振り向いた刹那、舞台袖で、秘色の羽織が一瞬だけ翻った。


 咄嗟に追うが、舞台袖にも、出口にも――誰一人いない。


(……やっぱり、逃げ慣れてやがる)



 外は闇だった。

 店も、人影もない。

 振り返ればそこは柳木に紛れた廃寺だった。


 参道を降り、通りを一本抜けた途端、そこには何事もなかったかのような日暮れない街の灯りが広がっていた。


 そこでようやく息をついた紫雫久は、適当な旅籠に身を寄せる。


 抜けたばかりの歯の空席を舌でなぞりながら、

(……今から向井に帰るの、ちょっと面倒だな)

 そう思って、目を閉じた。







「さすが紫雫久! 福田領の救世主!!」

「大したことしてねぇって」

「でもさ、こうやって天淵の滴が出回るようになったのは、紫雫久が解決してくれたからだよ〜」


 瑪瑙羽は機嫌良くしなだれかかり、隣に座る紫雫久の膝を叩いた。

 その瞬間、紫雫久の肩がわずかに強張る。


「――ッ」

「どうしたの? どこか怪我した?」


「平気、平気。とにかく――」

「見せて!」


 次の瞬間、真横には鬼気迫る瑪瑙羽の顔があった。あまりの近さに思わず息を呑む。


「領内で怪我させたんじゃ申し訳ないよ! ちゃんと見せて!」

「いや、だったら最初からお前が解決に乗り出せば……」

「それとこれとは別! やっぱり何か隠してるでしょ!?」


 止まらぬ勢いで、瑪瑙羽が襟元へと掴みかかる。


「何も隠してねぇから! 落ち着けって――――うわっ!」


 どさり、と紫雫久は床に倒れ、瑪瑙羽が馬乗りになる。

 拍子に袖が捲れ、両手首に残る深い痣と切り傷が露わになった。


「……これ、」




「何してんの」




 降り注ぐ冷ややかな声に、二人は同時に顔を上げた。

 座敷の襖を開けて立っていたのは、柚珠葉だった。


「おー、柚。久しぶり」

「久しぶりで済ませる気? とりあえず起きな」


 紫雫久が軽く笑みを向けるも、柚珠葉の視線は冷えたままだ。

 座敷に上がり、彼の前へひとつ、風呂敷包みを置く。


「福田領の揉め事を片付けたあと、麓の居酒屋でどんちゃん騒ぎ。

 その場にいた旗本と意気投合して、そのまま厄介になった――って聞いたけど」


「な、なんでそれを……?」


「その旗本から、うちにこれが届いたの。着物を汚したお詫びにって。

 紫雫久に渡してくれってさ」


 風呂敷を解くと、中には上等な着物が収められていた。

 秘色――あの面の男を思わせる、嫌に記憶に残る色。


 紫雫久は小さく息を吐いた。


「いいよ。俺の趣味じゃないし、仕舞っといて」

 手を振って、風呂敷を遠ざける。



「じゃあ良い頃合いだし、そろそろお暇しよう」

「えっ、もう帰っちゃうの?」


 今度は瑪瑙羽が声を上げる。

 このまま天淵の滴を飲み明かすつもりだったのだ。


「こんなんでもね、向井でやってもらいたいことは山ほどあるんだ。他領の揉め事に首突っ込んでる暇はねぇの」


 柚珠葉の声は穏やかだが、その奥には確かな怒気が滲んでいた。

 瑪瑙羽は思わず背筋を正す。


 しかし、紫雫久はまだ不満げに口を尖らせる。


「えぇ〜、せっかくだし、あと二、三日は――」

「だったら…………」


 柚珠葉が懐に手を伸ばす。

 それを見た瞬間、紫雫久は瑪瑙羽の背後に隠れた。反射的な動きだった。



「え、え? 何? 紫雫久どうしたの?」


 背後で小さく震える気配に、瑪瑙羽は困惑する。


「紫雫久は“これ”が昔から大っ嫌いなの」

 柚珠葉は掌を開く。

「……これを舐め切れるなら、まだ居てもいいよ」


 そこにあったのは、小さな飴玉の包み。

 どこにでもある、ただの飴。


「これ、百薬胆(ひゃくやくたん)? 確かにものすごく苦いけど……そんなに怖がるもの?」

「嫌なものは嫌なんだよ! どうにかしてくれよ瑪瑙羽!」

「えぇ……それはちょっと……」


 柚珠葉は一歩、距離を詰める。


「どうするの? 舐める? 帰る?」


 青ざめた紫雫久は、しばらく黙り込み――

 やがて、絞り出すように呟いた。


「………………か、帰る……」



 その返事に、柚珠葉は満足げに微笑み、飴をしまって紫雫久の手を引いた。

 素直に従うその姿に、瑪瑙羽は目を丸くする。


「飴ひとつで、あの紫雫久がここまで大人しくなるなんてね。世の中、不思議なもんだ」


 紫雫久は、この飴そのものが怖いのではなく、柚珠葉の“舐めさせ方”が嫌なのだと言いかけてやめた。

 そんなことを口にするのは、あまりにも……情けない。





 向井へ続く道すがら。

 紫雫久は天淵の滴を大きく煽った。


 鼻に抜ける香りはすっきりと甘く、軽い。

 まるで湖底へ沈み、静けさに抱かれるような感覚が広がっていく。


「あんまり飲み過ぎないでよ」

「わかってるって」


 思考は天淵の霧に覆われるように、少しずつ輪郭を失っていく。

 その中で、ひとつ、またひとつと、記憶が深淵へ沈んでいく。


 ――コトリ


 どこか遠くで、

 木箱へと札が滑り落ちる、あの音がした気がした。

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