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妖しき欲気が揺らぐ宵、市に咲く花紋の灯・上

 向井の屋敷には広々とした庭園がある。

 池には優美な橋が架かり、滝や石組みは西の古典『海霧冊(じりさつ)』を模した景観。


 そんな庭の一角。

 枯山水の石を拾っては弾き飛ばす背中が、ひとつ。



「……なにしてるの」


「戦ってる時にさ、そこらへんの小石も自在に扱えたらおもしれぇと思わない?」


 紫雫久(しずく)は真剣な顔つきで小石を弾き、角度を変え、また試す──研鑽というよりは実験に近い動きを繰り返している。


「思わないよ。

 そんなことよりこれ、打ち直してもらったから」


 柚珠葉(ゆずりは)が差し出したのは、剣警試験で砕かれたはずの紫雫久の刀。



 紫雫久はすらりと鞘を引き、刀身をじっと見つめる。

 水脈を思わせる刃紋には、井氏(いげたし)伝統の潮晶(ちょうしょう)が確かに息づいていた。


 一閃。

 続けて手首を返し、二、三度振る。


 鞘に収めた瞬間、近くを漂っていた葉がぱつりと切れて落ちた。



「――いや〜、返ってきてくれてよかった! こいついねぇと暇で暇で!」


 さっきまでの真剣な表情を崩して満足げに笑う紫雫久。

 その“暇”の犠牲になってしまった枯山水を見て、柚珠葉はため息を吐いた。



「で、この模様なに?」


 紫雫久が指したのは、はばきの近くに刻まれた“剣と三つ目”の紋様。


「何って、剣警士の証だよ。刀に紋を刻んで剣警省に登録されるの。

 まさかそれ知らずに試験受けたの?」

「いや…………」


「剣警士になった以上、剣士とは扱いが違うんだからね?

 他領での抜刀は許可されるけど私闘は禁止。最悪は剣藉の剥奪も――」


「そうじゃなくてさ、柚。……え? 俺、剣警なの?」


 きょとんとした顔。


 知らないのも無理もない。

 最終試験後、紫雫久は三日三晩眠り続け、その後一週間ほぼ寝たきりで治療に専念していた。

 ようやく庭を歩けるようになったのはつい最近だ。


 柚珠葉もまた、その間は手続きやら、剣警士として領内の揉め事処理で走り回っており、紫雫久とまともに顔を合わせていなかった。


「〜〜っ、とにかく! あんな様でも合格は合格。

 紫雫久は剣警士なんだから、その自覚を持ってね」


 柚珠葉はしっかりしろと言わんばかりに、紫雫久の胸元をぐいと押した。

 紫雫久は紋をのぞき込みながら、「へぇ……」だの「へぇ〜〜!」だのと、感情が追いつかない様子で声を漏らす。


「――じゃ、じゃあ、もっと修行を積まないとな!」


 勢いづいた紫雫久は、また枯山水から小石を拾い上げた。

 少々おかしな方向に気合いが入ったが、今日くらいは目を瞑ってやることにした。

 ここ何日もの間、彼の回復を心底案じていたのだ。甘くもなる。



「無事に回復したし、今日は――」


 ピシッ、と鋭い音。


「…………あ」


 弾かれた小石は目にも止まらぬ速さで屈折し、柚珠葉の頬をかすめた。


 つ……と細い赤線が走り、血が滲む。



「……紫! 雫! 久!!」


「うわぁ! ご、ごめんって!」


 鬼の形相の柚珠葉が懐へ手を伸ばす。

 “それ”を見て、紫雫久は反射で逃げ出した。


 踏み出した先は、枯山水。


 その瞬間、石がカタカタと震えた。

 踏みしめる足に浮遊感が襲う。


「――紫雫久!」


 柚珠葉の手が空を掴む。

 紫雫久は忽然と、姿を消した。



  《第四章:妖しき欲気が揺らぐ宵、市に咲く花紋の灯・上》



 降り立った先は、福田領。


 弾き飛ばした小石が、無意識のうちに転送陣の形に配置されていたのだ。


「……そんな偶然ある?」

「あるんだなぁ、これが」


 にわかに信じがたい表情を浮かべる瑪瑙羽(めのう)。

 紫雫久は酒を煽りながら返す。


「だって、一度見た陣だろ? 再現なんて簡単だって」

「あのねぇ……陣はかなり歴史ある術で、その分だけどんどん複雑化してるの。

 ましてや人を運ぶなんて、熟練したほんの一握りの術者にしかできないんだからね、本当は」


「ん〜〜美味い!」


 瑪瑙羽の早口を聞き流し、紫雫久は目の前の膳に舌鼓を打った。


「どれも絶品だけど、特にこの酒が最高だな」

「お、紫雫久もイケる口だねぇ〜」


 二人が飲むのは、福田領の銘酒『迅刃(じんじん)』。

 度数は三十に迫り、切れ味のある辛さを誇る。

 福田領では「これを一息で呑めて、ようやく一人前の剣士」とまで言われている。


 それを紫雫久は、酒樽を空にする勢いで飲んでいた。

 対する瑪瑙羽も酒には自信があったはずだが、気づけば箸が四本、五本に見え始めている。



「お、まだまだ行けるなぁ、瑪瑙羽」

「もちろん。地元の酒で酔うなんて格好つかないこと……」


 瑪瑙羽は杯を煽る合間、紫雫久の横顔にふと目を奪われる。


 結われていない髪は、笑うたび無造作に揺れて視線をさらい、桜色に染まった頬は血管の一本一本が透けてしまいそうな艶を帯びていた。


 だが、視線が首筋を辿れば、はだけた襟元から覗くのは生々しい傷痕だ。

 その不均衡さが、なぜか心を引きつける。


 快活な性格。

 そして、確かな剣技――



「紫雫久って、もてるでしょ」


「俺? 否定はしねぇけど、それだけだよ」

「それだけって?」


「好いてくれる子は多い。でもみんな最後は言うんだ。

 “でも、貴方は私と心中しようなんて思ってはくれないでしょう? ”って」


「へぇ……そんなこと言われるの」


 猪口の水面が静かに揺れている。

 紫雫久は、ふっと笑い酒を煽る。


「人の心も、これくらいすっきり分かりゃいいのにな!」


 続けて傾けた徳利は、もう空だった。



「そういや、この店……アレは置いてないのか? “天然”」

「天淵(てんえん)ね。

 本当は飲ませてあげたいんだけど、今は無いんだって」

「やっぱ幻の酒は、そう簡単にお目にかかれねぇかぁ」


「……いや、そういうわけじゃなくて……」


 瑪瑙羽は言葉を濁し、少しの間、杯を指で転がした。

 話すべきか迷っているようだ。


「……天淵は、その名の通り福田領の“天淵”って場所で造られててね。

 そこでしか採れない原料を使ってるから、希少なのは確かなんだけど……」


 伏せていた視線が、ちらりと紫雫久を掠める。


「――最近、そこで人が消えてるらしいんだよ」




『天淵』とは、福田領と高瀬領の境に位置する、山奥の底無しの淵である。

 天すら隠す深淵と称されるその場所は、年中濃い霧に覆われ、先の見通しはきかない。

 体の芯から凍み入るほど鋭く、耳を塞がれたような静けさが漂っていた。


 こんな場所、地図を頭に入れていたとしても一人で歩くには心許ないと紫雫久は思った。



「……だ、旦那。もう、目的は達しましたでしょう? 早く帰りましょうよ……」


 淵を覗き込む紫雫久に、声をかけてきたのは田氏(でんし)の蔵人(くらびと)。

 身体を縮こまらせ、霧の向こうを気にするように視線を泳がせている。


 元々は瑪瑙羽に通達された任務だった。

 しかしあの男が剣警士として動き出す様子は無い。


 紫雫久は、天淵飲みたさに、これを代わって引き受けたのだ。



「この淵に落ちる人間は、年間どれくらいいる?」

「数、ですか……? えぇと……底が見えませんから……」

「頻繁に起きることじゃないんだな?」


 蔵人は、はっきりと首を横に振った。


「ここは、職人以外は滅多に近づきませんし……

 それにこの霧でしょう? 好き好んで入りたい人間なんて、普通はいませんよ」


「おかしいな。俺は、ここで人が消えてるって話を聞いて来たんだが」


 その言葉に、蔵人の顔色が目に見えて変わった。


「頼みます、旦那……! こんなんじゃ、酒も安心して造れない……。

 なんでもしますから、どうか解決してくれ……!」



 蔵人の話によれば、ここ最近、霧の中を歩く見知らぬ人影が頻繁に現れるのだという。


 最初にそれを見たのは、数ヶ月前。

 天淵の原料を狙う盗人を警戒し、周辺の見回りをしていた時のことだった。

 霧の奥に、ゆらりと揺れる灯りと、それに付き従う人影が見えた。


 後をつけると、その足取りはおぼつかない。

 一目で、よそ者だと分かった。


 濃霧の中で影を追うのは骨が折れる。

 額を伝う汗が気になり、ほんの一瞬目を逸らした。その時——視界の端が、ぼう、と大きく明るんだ。


 慌てて見やると、さきほどまであった灯りも人影も、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。


「……これが、一度や二度じゃないんです。俺以外にも見た者は多い……」


「それは本当に人だったのか? 偶然そう見えただけじゃなくて?」

「いえ。私たちはこの霧の扱いをよく知っていますから……見間違えるはずがありません」


「どこかで時間を潰して、朝方にこっそり出てきてるって線は?」

「この森の中に屋根なんてありません。それに朝の霧は、今よりもっと冷えますし……」


 人が入ったのなら、出てこないのは不自然だ。

 それが確かに人間であるなら、なおさら“消える”理由が見当たらない。


 話を聞きながら、紫雫久は親指で中指の爪を撫でていた。



(……誰かが、意図的に消している)


 そんな可能性が、脳裏をよぎる。


「ここへ入っていった連中は、皆、提灯でも持っていたのか?」


「提灯……あぁ……いや、そう言われると、見ていないかもしれません。

 ただ……」


 蔵人は眉をひそめ、記憶を探るように続ける。


「皆、刀は帯びていたような気がします」


 

「……剣士が、何の目的でこんな場所に来るんだ」


 紫雫久の呟きは、霧に吸い込まれていった。




 今わかっている唯一の手がかりは、消えた剣士が森へ入る直前に立ち寄っていたという、麓の居酒屋。

 紫雫久は適当に酒とつまみを注文し、さりげなく店内を見渡す。


 客のほとんどは職人で、皆顔馴染みらしい。

 剣士らしき者は——この日、紫雫久を除いて一人もいなかった。


(やっぱり、剣士がここに来る理由は少ないか)


「へい、お待ち! 琥珀酒と、味噌田楽」

「ありがと。そういやさ、店主から俺に渡すものがあるって聞いてない?」

 

「渡すもの、ですか? ……すみません、ちょっと確認してきます」

「あぁいや、いい。あとで俺から行くよ」

「そうですか? ではごゆっくり!」


 森へ向かったのは皆剣士だという。

 ならば、剣士にだけ向けた秘密の伝言があるのでは——そう踏んだが、どうやら見当違いだったようだ。


(居酒屋と森は、関係ない……か)


 運ばれてきた味噌田楽にも、酒にも、特別な違和感はない。

 どこにでもある、ごく普通の居酒屋だ。



 やはり面倒でも、森の入口で張るしかないか。

 そう考え酒を煽った、その時。


「――知ってるか? 天淵のあたりには、“天走華(てんそうか)”が生えてるらしい」


 はっとして顔を上げる。


 天走華――

 この世に数本しか存在しないとされる幻の花。

 煎じて飲めば、天を翔けるほどの身体能力を得られる……誰もが知る伝説だ。


 ただし、それは“剣士なら”欲しがる話である。


(これを聞かされた剣士は、幻の花欲しさにこっそり天淵へ向かったわけだ)


 周囲の卓に耳を澄ませるが、声の主らしき姿はすでに消えていた。


 おそらく、天淵に天走華など生えていない。

 誰かが剣士を誘き出すために、囁いたのだろう。



(剣士は誘い込まれ、霧の中で消された……)


 だが、目的は何だ。そして、方法は。



「おいおい、こんなに暗いとまともに歩けねぇぞ」

「なぁ、そこの提灯、貸してくれよ」

「すみません。うちは貸してないんですよ……――」


 店の入口近くでのやりとりが、紫雫久の目に留まる。

 消えた剣士も、きっと同じように提灯を借りようとしたはずだ。


 しかし、この店では借りられない。

 それでも彼らは、天淵へ向かった。


(話では、剣士は“灯りと共に”歩いていたはず……)


 では、その灯りはどこから来た?



 紫雫久は胡坐をかき、頬杖をつく。

 左手の中指で、爪をゆっくりと擦った。


 人気のない山中。

 不自然な灯り。

 人が、忽然と消える。


(……なんだ)


 すとん、と考えが落ちる。


(俺は、それを知ってるじゃねぇか)




「ここの木を見てみろ。ここから、あの木へ繋ぐように赤い傷が走ってるだろ?」

「……あ、本当だ」

「全て結ぶと、ひとつの陣になる。――これを、“篝誘陣(かがりゆうじん)”って言う」

「へぇ……それで、これは一体……」


「人が消えてた原因だ」


 紫雫久は、再び蔵人を伴い、天淵の霧の中へ入っていた。

 神隠しの正体を説明するためである。



「この陣を踏んだ剣士が、術によって転送された。

 周りを漂っていた灯りは、この陣へ誘い込むための篝火だ」


 そして、この森の中には同様の陣が複数、巧妙に仕掛けられていた。


「で、まぁ……うっかり踏めば術は作動するわけだが……よっ」

「え、うわっ!?」


 説明の途中、紫雫久はいきなり蔵人を陣の上へ押しやった。



 蔵人の身体が転がり込むと、地を走る紋様が赤く輝く。

 攫われる——蔵人は顔を真っ青にしてぎゅっと目を瞑った。


 しかし、次の瞬間。

 辺りを舞う篝火は、ふっと霧散した。


 蔵人はその場に残ったまま、何事もなかったように転がっている。


「……?」


 混乱する蔵人をよそに、紫雫久は「おぉ」と感心した声を上げ、ぽんと手を打つ。


「今ので確定だな。この陣、剣士だけを選んで転送してる」

「……え?」

「だからお前らが間違って踏んでも、大丈夫ってわけだ」


「………………旦那、今、俺で試しました?」

「そんなわけねぇだろ!」


 にこりと笑う紫雫久を見て、蔵人は即座に確信した。

 ——絶対に嘘だ、と。


 蔵人の青ざめた表情に、紫雫久は慌てて首を振る。


「いやいや、陣を見ればわかるだろ?

 発動条件に刀の存在が含まれてる。実際、剣士かどうか判断するなんて、そこぐらいしかねぇしな」


「……じゃあ、消えた剣士たちは、どこに……?」

「あー……」


 紫雫久は横目で、発動済みの陣を見る。


 わずかに散る血の跡。

 陣に残る、少々暴力的なまでの強制転送力は、入った人間の安否を考慮していない。


 が、蔵人たちを無理に怖がらせる必要も無いだろう。

 伏せた目をそのままに言う。


「……陣に入ったのは剣士だ。上手くやってるはずだよ」


「そうですか。なら、良いのです……」


 蔵人は安堵したのか、口元を手で覆った。

 一瞬、声色が変わったように感じたが、紫雫久は気にせず続けた。



「つってもまぁ、自分とこの森に妙な細工されてたら、寝覚めも悪いだろ」


 そう言って足元の小石を拾い、霧の中へ軽く投げた。


 次の瞬間。

 あちこちで、ぼうっ、と火柱が立ち上がる。


 ひとつ、ふたつ……やがて、その数は十を超えた。


 火柱が次々と鎮まり、霧が元の深さを取り戻すと、森は再び静寂に包まれた。


「よし。他に質問はあるか?」

「いえ! 本当にありがとうございました! これで、ようやく酒が造れます!」

「その酒だが、出来上がったら——」

「えぇ! もちろん! 一番に旦那へ!」


 その言葉に、紫雫久は止めようもなく頬が緩んだ。

 このためにここまで来たようなものだ。


「このご恩、一生忘れません!」


 何度も頭を下げながら、仲間へ報告しに戻っていく蔵人。

 その背を見送り、紫雫久はゆっくりと森を振り返った。



「……さて」


 視線の先には、ひとつだけ残された篝誘陣。


 さっき、あえて手を付けなかったものだ。

 近くで観察すれば、以前、瑪瑙羽の兄弟子たちが連れ去られた陣よりも、明らかに洗練されているのがよくわかる。


 転送先も明確。

 こちらからの干渉を受け付けない回路。

 作動したことを感知する力もある。


「あちらさんの狙いは、何か」



 紫雫久は陣の上に、軽い調子で飛び乗る。


「行けばわかる」


 笑みを浮かべた瞬間、篝火が轟音とともに火柱となる。


 炙られた紙が、ばらばらに裂けていくような感覚が全身を包み込む。


 光の只中で——

 紫雫久の意識は、ふっと途切れた。

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