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春雷・下

 平屋建てが一般的なこの時代にあって、高瀬領の屋敷だけは異様だった。

 誰もが競うように月に近づき、屋根の端が月の輪郭を削る。


 紫雫久(しずく)は窓の外の月を仰ぎ――こんなにも近くに見えたのは初めてだ、と息を呑んだ。



 鴉の羽音が静寂を裂く。

 降り立った先は、同じく月明かりに照らされる澄々(すず)の腕だった。


「珍しいな。鳩は使わないのか?」

「木氏(もくし)は昔から鴉だよ。夜なら目立たねぇだろ?」


「こんだけ月が近いと意味ねぇけどな」と冗談めかしつつ、澄々は伝書鴉の足から文を外す。


 諜報・暗殺を生業とする黒木家が、この時刻にわざわざ何を運んでくるのか。

 一瞬の警戒は、澄々の表情で即座に霧散した。



「――ふっ、またやってる」


 ふわりと顔を緩め、綿毛でも口に含んだような柔らかい声で呟く。

 文を追うその眼差しは、誰が見ても“愛おしいもの”へ向けるそれだった。


「なんだ、恋文か?」

 隅に置けないやつだ、とからかう紫雫久。



 澄々は鼻先を指で掻きながら、少しだけ困ったように眉を下げながら言った。


「あー……うちで飼ってる“猫”がさ、俺が見てやんねぇと危なっかしくて。

 だから、報告」


「猫?生まれたばかりなのか?」

「いや。……でも、いつまで経っても目が離せないんだ。

 自覚がねぇんだよ、あのこは」


 澄々は親指で紙を撫でる。


「へぇ。そういうところが、かわいいんだ?」

「かわいい……あぁ、かわいいよ。

 普段は放っといてくれって顔してるのに、帰ればちゃんと出迎えに来てくれるしさ。

 脚が悪いんだから、待っててくれればいいのに」


「そうか」

「もう五年くらいになるか。

 ……病気や怪我なら治りゃいいが、呪いってのは、終わりのねぇ苦しみだ」


「お前、いつかやらかしそうだもんなぁ」 

 

 そう苦笑しながら、書き終えた返事を鴉に託す。

 鴉が夜気を切って飛び立つのを見送り、澄々は月を仰いで大きくあくびをした。


「そろそろ寝るわ。明日も試験だろ? さっさと終わらせて帰りてぇな」

「退屈じゃなければいいよ、俺は」


 紫雫久の言葉に、澄々は喉の奥でくつりと笑い、「俺には挑発してくんなよ?」と肩をすくめて、自室へと戻っていった。



 澄々は、月明かりの下に――愛しいものへと続く道を見ていた。

 その背中を見送りながら、紫雫久はふと胸に影が差すのを感じる。

 


 月を見ても、誰の顔も浮かびやしなかった。



 いつか、この月を共に眺めてくれる誰かは訪れるのだろうか。


 そうであればいい、と。

 淡い祈りのような思いを胸に、紫雫久は静かに目を閉じた。




 《第三章:春雷・下》



「第二次試験は、幻迷宮(げんめいきゅう)を行う。――全員、整列して座禅を組め!」


 

 剣警試験二日目、大広間には緊張した面持ちの受験者たちが座した。

 香が焚かれた瞬間、空気が波打つように歪む。

 その歪みに身を沈めるようにして、試験が幕を開けた。


 

 “幻迷宮(げんめいきゅう)”――

 幻術の世界での振る舞いにおいて、剣警として民事を裁くに相応しいか、“正義”と“判断力”が問われる試験。



 酩酊にも似た幻術特有の感覚が薄れ、柚珠葉(ゆずりは)が目を開けると……そこは、見慣れた向井領の街並みだった。


(異常なし……か?)


 歩き始めた矢先、通りの向こうで椅子が倒れる音、器の割れる音が響く。

「潮路屋(しおじや)」からのようだ。



 中では、見覚えのある漁師二人が取っ組み合っている。

 昼から酒を出す店で、揉め事は日常茶飯事――現実でも見慣れた光景だ。



「店主、何があった?」

「そりゃまあ、いつも通りさ。金がどうだのツケがどうだの……やるなら外でやれってね」


「……それだけ?」

「それだけって……どうした? ここじゃよくあるだろ?」


 あまりにも“いつも通り”。

 試験のための幻術にしては取るに足らない揉め事に拍子抜ける。


(刀も、怪異も、なし……?)


 戸惑いながらも、店主に言われるまま取っ組み合いを引き剥がし、事情を整理し、代金の支払いと補填を調停する。

 二人は柚珠葉の仲裁に抵抗する様子も、異形のものに取り憑かれた様子も無く話がまとまる。

 そうこうしているうち、潮路屋にまた日常の喧噪が戻ってきた。


 ――その瞬間、視界がぐらりと揺れた。



 終わりの印のような揺れ方だった。

 

 まさかこれだけで、何を判断したと言うのか? 

 当惑する柚珠葉の耳に、猪口を置く音が妙に響いた。



「おう、柚珠葉。お前んとこの紫雫久だがな――」


 さっきまで喧嘩していた漁師が、ひとり酒を呷っていた。

 その声は妙に遠く、妙に近い。


「紫雫久が……何ですか?」


「聞いたぜ。あいつ、井上っていうんだってな。

 “裏切り者”の、井上」



 耳鳴りが、どくりと脈打つ。


「それを、どこで……」

「ここらじゃ皆知ってるさ。あいつには裏切り者の血が流れてる。

 ――現におかしいくらい強ぇしなぁ……」


 漁師はにたりと口端を歪めた。


「さすが、上(かみ)を喰った刀――」


「黙れっ!!」


 漁師の胸ぐらに掴みかかる。

 衝撃で膳が揺れ、倒れた徳利からはしとどに酒がこぼれていく。



「お前に何がわかる!お前なんかに……紫雫久の……!」


「井上紫雫久の何を知っていると言うんだ? 柚珠葉よ」


 その声は、さっきまでの漁師のものではなかった。

 目の前の顔がぼやけ、輪郭が歪む。


 頭の奥が、灼けるように痛い。

 音も光も遠のいていく。



「可哀想なお前さんに教えといてやるよ。

 ――井上紫雫久を信じるな。あいつは必ず、お前を裏切る」


 瞬間、何かが耳元でぱちんと弾けた。


「――はっ!!」


 気がつくとそこは数刻前と変わらぬ大広間。試験は終わり、現実へ戻っていた。


 柚珠葉は荒い息を整え、冷えた水を口に含む。

 まだ心臓が、痛いほど脈打っている。


 隣では、紫雫久が静かに座禅を組んだまま目を閉じていた。


 

 ――あいつは必ず、お前を裏切る。


 幻の言葉が、耳の奥で何度も反響する。

 まさか裏切り者の血が、本当に――


「……そんなわけない。あれは幻覚だ」



 ふと膝元を見ると、合格を示す赤い折り鶴が置かれていた。

 本当にあの程度の揉め事で、試験は終わったらしい。


「お前も、さっさと終わらせてきなよ」


 今は、ただ紫雫久の声が聞きたかった。

 その声だけが、幻と現の境目を確かめてくれる気がした。





 あれから、二刻経っても三刻経っても、柚珠葉の胸に巣くう不安は晴れなかった。

 日暮れはとうに過ぎ、夜四ツに差しかかろうとしている。


「紫雫久、まだ戻っていないの?」


 敷居の外から遠慮がちに投げかけられる瑪瑙羽(めのう)の問いに、柚珠葉は静かに首を振る。

 試験中に見た幻覚の残滓が胸の奥でざらつき、不吉な予感をかき立てていた。


「瑪瑙羽の試験は、どんな内容だった?」

「私? 私は本当に運が良かったよ。ただの失せ物探しだった」

 

 運が良かったと言う割に、その視線は下を向いている。


「そうじゃないと、私みたいなのが二次試験まで突破できるわけないじゃない。柚珠葉は?」

「あぁ、私は……似たような……」


 返事をしつつも、胸のざわめきは消えない。

 試験を終え、白い折り鶴を受け取った者たちは次々と屋敷を後にし、残っているのは柚珠葉を含めわずか数名。

 明らかに、紫雫久だけが大広間に残されていた。



 居ても立っても居られず廊下に出ると、縁側で鴉を飛ばしている澄々の姿が目に入る。


「黒木澄々、試験の内容は何だった?」

「澄々でいいよ。でなんだ、試験? 俺は桔梗座の店番だったが……」


 柚珠葉の顔に影が落ちる。

 力が抜けかけた身体を澄々が反射的に支え、覗き込むように尋ねた。


「おい、大丈夫か? 体調でも悪いのか? ……って、これはどういう状況だ」

「わ、わからない……でも、紫雫久がまだ戻ってきてないんだって」

「こんな夜中まで? 試験が始まったのは、日が昇ってすぐだったろ」


 柚珠葉の指先に、わずかだが確かな力がこもる。


「……やっぱり変だ。紫雫久のところに、行かないと」



 大広間へ足を向けたその時。

 廊下の奥からざわつく声が伝わってきた。


 声の方を見ると、凛とした夜気をたたえ真っ直ぐ廊下を歩む花衣霞(かいか)がいた。

 その腕には——横抱きにされ力なく眠る紫雫久の姿。


「――紫雫久!」


 柚珠葉は息を呑み、駆け寄った。

 近づけば、紫雫久の口元にうっすら血がついている。



「何があった!?」

「試験中、吐血と共に目覚め、そのまま意識を失った」


 掴みかからん勢いの柚珠葉に、花衣霞は静かに告げた。

 だが、紫雫久を抱える腕は強く、剥がれぬ決意を帯びている。


「幻惑の時間が長すぎた。治癒のため、安静が要る」


 そう言うと、花衣霞は紫雫久を部屋へ運び込み、迷いなく襖を閉めた。

 柚珠葉の舌打ちを、閉ざされた襖が弾いた。

 

 




 その時のことを何度問いただされても、紫雫久には「わからない」としか答えようがなかった。


 幻術の中に入ってからは、見知らぬ暗がりで息の詰まるような緊張の中、ただひたすらに刀を振るっていた記憶だけが断片的に残っている。

 一度意識を取り戻した時に吐血したことも、そのまま倒れたことも、まるで他人事のように思えるほど曖昧だ。



「……やっぱり父上が言っていたように、変だよ、この試験」

「そうか?まぁ、柚が無事なら問題ないんじゃない?」


 紫雫久は、ほっけの開きの背骨を箸先でつまみ上げながら気楽な声を出す。


「一番危ない目に遭ってる人が何を言ってるの……。今日で全部終わりなんだから、ほんとに無理だけはしないでよ」

「平気平気。むしろ絶好調すぎるくらい」


「……そりゃ、佐藤家直々の治癒法を受けて、調子悪くなる方が難しいよ」

「佐藤? 何で?」

「何でって……、こっちが知りたいよ」


 紫雫久は、引っかかった小骨に喉を鳴らす。

 なぜ――考える暇も無く、外では銅羅の音が鳴り響いた。



「最終試験は――影剋戦(えいこくせん)を行う」


 中庭に集められた受験者は、数十名ほどにまで減っていた。

 初日には百を超えていたことを思えば、この三日での脱落率は想像以上だ。


 “影剋戦”――

 舞台に現れる己を写した影と正面から戦い抜く試練。

 己を知り、己を超えること。剣道においてそれ以上の修行はない。

 


「準備が整った者から影顕台(えいけんだい)へ上がり、戦闘を開始せよ。

 己の影に勝利した者から順に、剣警の資格を授与する。――始め!」


 号令と同時に、受験者たちは一斉に舞台へ駆け出した。

 煌羅嘉(きらか)や澄々も迷いなく先陣を切る。

 

 そして意外にも、瑪瑙羽が真っ先に影顕台へと上がるのが見えた。

 紫雫久は驚いて柚珠葉を肘でつついた。



 舞台上では、影と剣士の斬撃が次々と火花を散らし、風圧が渦を巻く。

 

 影は本人の技をそのまま写す。

 癖も速度も同じゆえに、間合いの読みが一手ずれるだけで斬られてしまう。

 技量のある者ほど影も鋭利になり、戦場は一瞬一瞬が命のやり取りに等しく緊張していく。


 中でも煌羅嘉は目を引いた。

 金密陀の髪を揺らし、覇鋼を振るうたびに稲光のような残光が奔る。

 影の斬撃と煌羅嘉の斬撃が交錯すると、まるで金屏風に描かれた龍が躍ったように見えた。


 その隣では澄々が影と渡り合っていた。

 だが、腰の刀は抜かれていない。

 拳だけで影の斬撃を払い、足さばきで距離を制し、影の刃をすれすれでいなしていく。


「澄々、ステゴロで突破する気か?珍しいな」

「木氏の刀は幽鈴(ゆうれい)でしょ。暗闇が本分なんだし、こんなに開けた場所じゃ相性最悪だよ」

「あぁ、なるほど」


 紫雫久は、魔境走での澄々を思い返し納得した。

 それでも相手に間合いを読ませぬ幽歩(ゆうほ)の足運びは、陽光の下でもどこか不気味な静けさをまとっている。

 こうして木氏伝統の型を見るたび、紫雫久は「やっぱり一度くらい鴉の邪魔をしてやればよかった」と後悔した。



「ところで紫雫久は行かないの?」

「いや、俺と戦うのに誰か巻き込まれないか心配でさぁ……。減るまで待つ。柚は?」

「一旦、様子見。やっぱり……ただの試験には見えないから」


「気にしすぎ――おっと」


 突風。

 舞台の余波で瓦礫が飛散し、柚珠葉に向かって木片が吹き飛んでくる。

 紫雫久は反射的に前へ踏み込み、鞘でそれを弾き返した。

 軽いはずの破片が、ぶつかれば骨の一本は折りかねない勢いだ。


 出所へ目を向けると――


「高瀬煌羅嘉、合格――!」


 宣言が響き、今回の試験で最初の合格者となった煌羅嘉が、澄ました顔を崩さず影顕台を降りていく。

 続けて、


「黒木澄々、合格――!」


 汗に濡れる髪をかきあげ、どこか晴れやかな表情で澄々は舞台を後にした。

 勝敗より、早く帰路に就けることの方が嬉しいのだろう。




 合格者が続き、脱落者も運び出され、舞台上はだいぶ見晴らしが良くなってきた。

 その時、紫雫久は影と対峙する瑪瑙羽の姿に気づく。


 瑪瑙羽は明らかに怯えていた。

 影が一歩踏み出すたび、肩が震え、握る刀の切っ先は頼りなく揺れる。


「――ひっ!」


 影が静かに間合いを詰めた瞬間、瑪瑙羽は目をぎゅっと閉じ、胸の前で刀を抱えるように構えた。

 紫雫久は内心、「これはさすがに無理だ」と思った。


 しかし次の瞬間――


 影は瑪瑙羽の剣先をそっと掴むと、

 そのまま刃を自らの胸へ導き、

 ためらいなく――突き刺した。


「……え、な、どうして」


 手に伝わった“何かを貫いた感触”に、瑪瑙羽の顔から血の気が引く。

 影は反応する間もなく崩れ、砂のようにさらさらと消えていった。


「福田瑪瑙羽、合格――!」


 宣言に最も驚いていたのは当の本人だった。

 だが戦いを見ていた柚珠葉も、表情をこわばらせる。


(影顕台で生まれる影は、剣技のみを映すはず……。

 自分から死を選ぶ影なんて、聞いたことがない……)


「行こう、紫雫久。

 五参家は――すでに、罠に嵌っているのかもしれない……」








 柚珠葉の読みは、やはり正しかった。

 影顕台に足を踏み入れた瞬間、足元の影は伸び、ぶくりと脈打ち輪郭を得てゆく。

 そこに立ち上がったのは、自分と寸分違わぬ姿――だが、向けてくる剣技は、どこか薄く、どこか弱い。


(細工だ……最初は、“若芽を潰すため”だと思っていたけど)


 影から放たれる斬撃。

 それをいなすのに、柚珠葉は一切の力を要さなかった。

 

 半歩踏み込めば、切先がかすめる。

 頬、首筋、手首、足首――急所の筋を、柚珠葉は淡々と、音もなく断ち切る。


 影は致命傷こそ負わぬが、動ける範囲を徐々に奪われ、逃げ場を失っていく。

 しかし柚珠葉は、そんな影の窮地を気にも留めず、ただ思考の底に沈んでいた。



(もしかして、高瀬の狙いは、五参家の子息を剣警に置くこと……?)


 人質。

 ことを荒立てず、実権を握るための策。


 ついには刀を握る力すら失った影が膝をつく。

 

 斬撃の音は無い。

 ただ、水底に引きずり込まれるような、静謐すぎる一閃。


 影は抵抗もなく、淡い煙のように消えていった。

 

 本来ならここで、紫雫久の呆れた声が飛んでくるはずだった。


 だが、それがない。


(五参家が狙いなら……紫雫久は――)



 胸の奥を、冷たい予感が滑り落ちていく。

 舞台上に視線を走らせた瞬間、見慣れた紫烏色(しういろ)が目に飛び込んだ。


 地面に流れる髪。

 紫雫久は膝をつき、眼前には、刀の切先がぴたりと突きつけられていた。





「――お前は、誰だ……?」


 紫雫久の喉から、困惑が滴り落ちた。

 舌で唇を湿らせても味がしない。

 乾いた呼吸だけが胸に引っかかる。



 自分とそっくりの影。

 だが、最初の一撃を受けた瞬間――違和感が、骨の内側へ刺さる。


 型も動きも似ている。速さも重さも。

 だが、戦っている者の判断と、間合いの取り方が完全に違っていた。


 そして刀に乗っているのは、濁りきった殺意。


 紫雫久は、殺意を剣に乗せてはならぬと教え込まれてきた。

 だからこそ、この重さは知らない。


 影剋戦では起こるはずのない動き。

 その原因を探ろうとして気が散ったのか、右脇腹を深く斬り抉られる。


「――ゔッ」


 開く肉の感触に、片膝が崩れる。

 影は間髪入れず踏み込み、切先を喉元へ寄せた。


(……くそ、ここ数日、運の巡りが最悪じゃねぇか)


 額を脂汗が伝う。

 腹筋を締めて痛みをごまかし、迫る影を睨む。



 切先が微かに揺れた。

 

(――来る!)

 

 その瞬間――視界を、土煙が覆った。


「――!?」


 影と同時に身をひねり、回避する。

 瞬間、記憶の底の何かがきしんだ。


 この動き――前にもやった。

 回避の旋回。

 左腕を軸に立ち上がるまでの一連の流れ。

 

 知っているはずのない戦い方が、体に刻まれている。


 光が一筋、視界を裂いた。

 反射で受けるが、すぐさま次の斬撃が降りそそぐ。


(この戦い……確かに俺は…………)


 剣戟の合間に、断片的な記憶が濃く滲み出す。

 映像が、目の前の影と重なる。


 次の瞬間、記憶の通りに影が刀を振り上げる。

 

 紫雫久は迷わず脇腹へ一閃。

 すれ違いざま手首を返し、背へも斬撃を叩き込む。


「さっきのお返しだ」


 にたりと笑えば、影も同じ角度で笑う。

 と同時に、両者は構えも取らず踏み込む。

 

 鍔迫り合いの瞬間、風が一筋、舞台を駆け抜けた。

 


 影の刀は刃紋が赤黒く、まるで水面に漂う血溜まりのように蠢いている。


 その刀も、先の剣筋も見覚えがあった。

 ――幻迷宮の闇の中で、戦い続けた相手だ。


 斬撃を交わしながら、紫雫久は幻迷宮の記憶を手繰り寄せていく。

 

 勝機のためには、相手の謎を解かねばならない。

 

 

 太刀筋の基礎は、井氏(いげたし)の滄洌返(そうれつがえ)し。

 

 だが構えが違う。

 

 井氏は水平に構えることで精密さを生む流派。

 しかし影は、常に切先を下に垂らして構えている。


 そんな型、井氏には存在しない。

 だというのに――見れば見るほど理にかなっている。



(幻迷宮の時もそうだったが……こいつ、本当に隙がねぇ)


 急所を狙っても、その全てを受け流される。

 速さを上げても、踏み込んでも、懐には届かない。


 だが、どんな達人でも癖はある。そう信じ、紫雫久はじっと観察を続ける。

 その瞳はどこか熱に濡れていた。




 影の一閃は軽やかだ。

 だがその斬撃は手首を破壊するほど重い。

 しかも構えは緩く、予備動作は無い。


(……せめて、次が読めれば――いや、待てよ)


 振り下ろされる刃を受け流しつつ、刃の軌跡を凝視する。

 切先が視界の端へ流れる直前、すいと揺れた。


(――二発!)


 左、そして下からの連続斬撃。

 

 紫雫久はすべてを正確に受け止めた。

 刃と刃が擦れる音に、背筋がぞくりと粟立つ。


 読める。

 反射じゃない。

 狙いも、意志も、全部わかる。


(予備動作が無いんじゃねぇ、始まるのが早すぎただけ……!)



 戦場の空気が一段、二段と熱を増していく。

 

 防戦一方だった紫雫久の刃が影に触れ始める。

 影の癖そのものを取り込み、確実に迫っていく。


 これまでの動きには制限がかけられていたかのように、今は全てが軽く感じた。


 疲労も、傷口の痛みも、もう意識に入らなかった。


(あぁ……ずっと戦ってられんな、これ……!)


 そう思った、その瞬間――

 つきん、と耳の奥を針が刺した。


 苦悶の一瞬を、影が逃すはずがない。




 ――澪断冰式(みおだんひしき)


 ぞくりと肌が総毛立つ。

 咄嗟に刀を構えたが、半歩遅い。


「――い゙……ッ!」


 重い一撃が刀をへし折り、そのまま左肩に深く食い込む。

 鎖骨にまで届く痛みに、息が千切れる。


(まだ……だ……ッ!)

 

 震える左腕で影の後頭部を掴み寄せ、

 折れた刀を叩き込む。

 肩に刺さる刀が、より深くなっても。


 どく、どく――手に伝わる微かな鼓動。

 

 ど、く…………

 影は、静かに霧散した。




「――はぁっ!……い゙…っぐ…………は、あぁ…………」


 支えを失ってうずくまり、地面へ崩れ落ちる。

 遠くで自分の名を宣言する試験官の声がゆらゆら揺れる。


 荒い呼吸を必死につなぎ止める。

 左肩は燃えるように熱い。

 脈動がそこに心臓でもあるかのように痛みを撃ち続けた。


「紫雫久、顔を上げて。傷が見えない」


 水面を震わせるような低い声が、どこか遠くで響いた。

 だが今は耳に入ってこない。


 どうにか楽にならないかと、紫雫久は喉の奥で小さく唸った。


「紫雫久、大丈夫だから」


 肩に触れる指先。

 それが二の腕へと滑り、力がかかる。


「――いっ! あ゙、やめ……っ、……いた……ッ」


「大丈夫。すぐ終わるから」


「やだ……やだ、うぅ……っ」


 涙を堪えるように鼻をすすった。

 頭の中は痛い、辛い、怖い、それだけ。

 

 さっきからいやなことをするこいつは誰なんだ――そんな子どもじみた思考しか浮かばない。


 試験官たちが場を整理する中心で、ここだけが音を無くしていた。


 うずくまる頬に、そっと手が添えられる。

 ひやりとした温度が、灼けるような体温をすっと奪った。


 その冷たさに身を預けると、手はゆっくりと紫雫久の顎を掬い上げた。

 伏せていた視界に淡い光が差し込み、眩しさに目を細める。


 そこにいたのは――花衣霞だった。


「……さ、とう……かいか……?」


「うん」


 澄みきった空を閉じ込めたような瞳が、揺らぐ紫雫久をまっすぐに捉えている。

 その視線だけで、痛みが少しずつ沈んでいく気がした。


「大丈夫、紫雫久。痛いのはもう終わりだから」


「――ぇ?」


 端正な顔がゆっくりと近づき――そのまま唇が柔らかく触れた。


 薄く開いた唇の間に、ぬるりと舌が滑り込む。

 口内を飴のような何かが転がった。

 反射的に押し返そうとした舌は、花衣霞に阻まれる。


 紫雫久が喉を鳴らした瞬間、薬特有の苦い味が広がった。


 顎を伝う雫を軽く口で掬い、花衣霞が離れる。



 同時に、ぐらりと視界が傾き、全身から力が抜け落ちた。

 何も考えられない。ただ黒い布をかぶせられたように意識が沈んでいく。


「ゆっくり……おやすみ」


 彼に助けられたのは、何度目か。

 礼を言わなければ――そう思って手を伸ばし、花衣霞の濃墨の髪を一筋掴んだところで、


 ぷつり、


 意識は落ちた。

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