玻璃桜と滴りの侯
「紫雫久、そろそろ起きないと稽古に間に合わな――」
襖を開けた柚珠葉は、その場で凍りついた。
紫雫久が寝間着のまま、静かに涙を流していたからだ。
表情は伴わず、どこか遠くを見ているような眼差しで、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
溢れ落ちる涙の粒は、床に落ちる前にきらりと光った。
それは悲嘆というより、理由のわからない余韻。
「……ど、どうしたの、紫雫久」
動揺を隠せないまま、そっと顔を覗き込む。
紫雫久が涙を流す姿など、これまで一度も見たことがなかった。
「――? おぉ、柚。いたのか」
「いたのか、じゃない。何かあったの?」
「何かって?」
紫雫久はぱちぱちと瞬きをする。
濡れて濃くなった睫毛が、小さく揺れた。
「だって……涙、出てる」
「涙? …………あぁ。起きたら、すんげぇ目が痛くてさ。
多分まつげかな。洗い流そうと思って」
そう言って目を軽く擦り、紫雫久は柚珠葉と目を合わせる。
「柚の方が泣きそうじゃん。なんかあったのか?」
「……なんでもないよ」
頬に触れる紫雫久の手は温かい。
胸の奥で立ち上がりかけた不安は、静かに撫で伏せられた。
その手に、そっと自分の手を重ねる。
柚珠葉はこの手が好きだった。
刀を握れば稽古中であろうと容赦なく人を斬るこの手が、自分に触れるときだけ柔らかくなる――そう感じられるのが、たまらなく嬉しかった。
恥ずかしくて、それを伝えることは無いのだけれど。
「……目、もう痛くないの」
「あぁ。ほら見てよ、このまつげ。長くね?」
紫雫久は無邪気に、涙に混じって掌に残った睫毛を差し出す。
まるで戦利品を誇る猫のような仕草だった。
「見せなくていいから」
そう言いながらも、柚珠葉はその掌から目を離せなかった。
《第五章:玻璃桜と滴りの候》
向井領から見て北に広がる広大な土地――黒木領。
五領の中でもとりわけ刃浦随一の歓楽地として名高く、海と山の双方に面したその地には娯楽を求める人が絶え間なく行き交う。
常にどこかが騒がしく、“陽の落ちぬ街”と呼ばれる領地だ。
そんな街を治めるのは、黒木家。
諜報と暗殺を生業とし、その全貌は深い霧に包まれている一族。
当主・黒木玄燈は領内最強と噂されているが、戦った記録は残っておらず、その影すら見た者はいない。
「なんでそんな家が、領主なんてやってんだろうな」
「……あんまり、こういう場所でそんな話しないでよ」
「だって気にならね? 俺だったら表に出ずに隠れてたいけどなぁ。……あ、今度澄々に聞いてみようかな」
「本当にやめて。そうやって他家に首突っ込んでいかないで」
「すみません、若。今一度まっすぐお立ちいただけますでしょうか?」
「はぁ〜い…………」
店員の声に気の抜けた返事を返し、紫雫久は足を揃え直す。
背筋を伸ばし、姿勢正しく前を向いた。
二人は稽古を中断し、急遽、黒木領内に店を構える仕立て屋を訪れていた。
数日後に開かれる夜会へ招かれたためである。
「いつもの格好じゃ、だめなのか?」
「時と場に合った服装が求められる催しなの。
むしろ、私たちが呼ばれる方が珍しいくらい。完全に大人の社交場なんだから」
紫雫久は気乗りしない顔で腕を伸ばす。
店員は終始にこやかに、腕や脚へと巻尺を滑らせていった。
「なんだって、わざわざ異国の貴族様が剣警士なんて招くんだよ……」
紫雫久の心は、すでに半分帰路についていた。
「背を丸めていては、せっかくの美丈夫が台無しですよ」
店の奥から顔を出したのは、この店の支配人。
杖をつくこの男は鵜匡とも親しいらしく、突然の来店にも快く応じてくれた。
「どちらにお招きいただいたのですかな?」
「なんだっけ……あの、“出るな”みたいな名前の」
「ヴェルナー侯爵ね。適当に覚えないで」
ヴェルナー・フォン・エーベルヴァルト。
異国から黒木領へ移り住んだ貴族であり、美しい珍品の蒐集家としても知られる人物だ。
自身の洋館で催す夜会に、今年の剣警試験を突破した剣警士を招いたのである。
「ヴェルナー侯爵、ですか……」
その名に、紫雫久の採寸を担当していた店員が、わずかに眉をひそめた。
「なんだ、訳ありか?」
「あまり良い噂は聞きません。
彼を中心とした社交界では、ときおり――人が消えるのです」
「それって、どういう…………」
「お客様に対して失礼ですよ」
支配人がぴしゃりと遮る。
「――根拠のない噂話です。どうかお気を悪くなさらないでくださいね」
そう言って支配人は、採寸を終えた従業員を伴い、店の奥へと引っ込んでしまった。
“人が消える”――この一言だけが、紫雫久の心の中を漂ったまま。
大通りの裏手。長屋の並ぶ小道を抜け、緩やかな坂を上る。
その先、細い階段を登り切った場所に、アーチ型の石柱が印象的な洋館が姿を現す。
エーベルヴァルト邸。
夜会に招かれた洋装の大人たちで、館内は華やかなざわめきに満ちていた。
「ごきげんよう」
「本日はお目にかかれて光栄です」
「まあ、素敵なお召し物で――」
聞き慣れない挨拶が飛び交う中、紫雫久と柚珠葉は応接間の壁際に並んで立っていた。
「素敵なタイをお召しですわね。それはどちらで?」
「久絹であつらえていただきましたの。そちらは?」
「アタクシも。
……でも、ひとつだけ心残りがございますの」
「あら、どうして?」
「大事なお話を聞きそびれてしまったの。ここで人が消えるってお話……」
「だから、そういうのを現場で口にしないでって、何度も言ってるでしょ」
「あ、おい、勝手にやめるなよ」
暇を持て余した少年たちは、初めて耳にする社交界の言い回しを真似て、囁き合っていた。
白の立襟シャツに漆黒のタキシード。
その内側にはそれぞれ、黒紫と天鵞絨のベストを差し色として忍ばせている。
細かな装飾や配色はすべて“久絹”の支配人の見立てによるものだ。
物珍しさも手伝ってか、彼らを遠目に眺めながら、ひそひそと噂話に花を咲かせる令嬢の姿も見え始めていた。
「――お、やっと見つけた。
お前ら、壁の花なんかやってるともったいねぇぞ」
声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのは澄々だった。
シャツもタキシードも黒で統一した装いは、まるで西洋の聖騎士を思わせる。
襟や袖口に施された控えめな刺繍が、抑制の効いた洒落心を覗かせていた。
「お前、やっぱりかっこいいんだな」
紫雫久が素直に口にすると、澄々は笑って手を伸ばした。
「お前は……髪を結えば、少しは奥ゆかしく見えるな」
首元でゆるくまとめた紫烏色の髪をひとすくいして、軽く口付ける。
遠巻きに様子を窺っていた令嬢たちの一団が、ざわりと色めき立った。
「それ、なんかの挨拶?」
「知らん。こんなんやってる人多かったから、そうなんじゃないか?」
「……やるとしたら、手だから」
思わず柚珠葉が訂正を入れるが、紫雫久と澄々は揃って、
「だいたい一緒じゃない?」
と首を傾げる。
物事をざっくり理解するところは、どうやら二人ともよく似ているらしい。
柚珠葉は小さく息をつき、苦笑混じりにその様子を眺めた。
今度は、応接間の入り口付近から、人の波が大きくうねるのが見えた。
まるで潮目が変わったかのように、視線とざわめきが一箇所へと吸い寄せられていく。
その中心で靡くのは、金密舵の髪――煌羅嘉の姿だった。
白を基調としたタキシードの袖口、襟、裾には、惜しげもなく金の縁取りが施されている。
カフスには宝石があしらわれ、動くたびに光を弾いた。
肩から流れるマントは、この部屋一帯の色調すら塗り替えてしまいそうな存在感を放ち、好みなど関係なく人々の目を引き寄せる。
「わ〜流石。華美に脚が生えて歩いてきたかと思った」
「黴なら裸足で逃げ出すよ」
柚珠葉の言葉に、紫雫久は苦笑しつつもう一度煌羅嘉へ視線を送る。
だが、周囲にはすでに人垣ができており、気軽に声をかけられる様子ではなかった。
「もー大変だよ、人多くって!」
そんな声とともに、ぼやきながら紫雫久たちの前に現れたのは瑪瑙羽。
「どうして高瀬ってこう……どこでも目立たないと気が済まないのかな?」
「いやぁ、お前も…………」
紫雫久は、そこで言葉を濁す。
灰青を基調としたタキシードは、一見落ち着いていながら、よく見れば全体に繊細な刺繍が走っている。
胸元のシャツには控えめなフリルがあしらわれ、柔らかな華やぎを添えていた。
銀灰の髪は、高い位置で結うだけでなく、三つ編みを織り交ぜた技巧的なまとめ方で、後ろ姿にまで視線を誘う。
どこぞの貴族だと言われても、何ひとつ不思議ではない。
「やっぱり派手!? なるべく地味にしてってお願いしたんだけど、姉さんたちが……」
「派手ではあるけど、洒落てるよ。見立ては悪くない」
「でも派手は派手じゃん!」
慰めにならなかったらしく、瑪瑙羽の眉尻はさらに降下してしまう。
紫雫久は助けを求めて澄々を探すが、その姿は見当たらない。
「澄々は?」
「あれでも黒木領の領主子息だからね。挨拶したい人は多いみたい」
「柚はいいのか?」
「私は……このまま誰にも見つからずに帰りたい」
げんなりした顔で、さらに壁際へと身を寄せる柚珠葉。
公的な場で“五参家の子息”を演じるのは、昔から得意ではなかった。
「もったいねぇなぁ。
ああやって堂々と入ってくればいいのに。
それとも、後ろからスッと入ってきて全員を黙らせるってのはどう?」
紫雫久が冗談めかして続けようとした、その時だった。
――カツン、と。
応接間に、革靴の凜とした音がひとつ響く。
それは、ざわめきを断ち切る合図のようでもあり、神楽鈴が場を清める音にも似ていた。
白い革靴。白のタキシード。
背を流れる濃墨の髪が、それを際立たせる。
いつものように高い位置で結わず、髪は下ろされていた。
左右のハチから表層をすくい、中央をかんざしでまとめただけの簡素な結い方。
その抑制が、かえって気品を強調している。
服装だけではない。
清流のように涼やかで、触れれば切れる冷たさを秘めた歩み。
誰もが見つめ、誰一人として声をかけられない。
花衣霞が、そこにいた。
紫雫久が先ほど思い描いた――
“何も特別なことはしていないのに、すべての視線を奪う登場”を、現実として体現して。
「佐藤花衣霞って、洋装も着るんだね」と、耳打ちをする瑪瑙羽の言葉も、紫雫久にはほとんど聞こえない。
曖昧に返事をする途中――花衣霞が、こちらを見た。
目の前で柏手を打たれたかのような衝撃。
音もなく、確かに胸の奥を打つ感覚。
次の瞬間、花衣霞は進路を変え紫雫久の方へと歩みを向けた。
理由はわからない。
ただ、その一歩一歩が近づくたびに、心臓の鼓動だけが早まっていく。
(な、何を話せばいい?
趣味? 飯? 得意な剣技?
……違う、挨拶だ。挨拶って、どう始めるんだ?)
思考はまとまりを失い、顔の血の気は忙しく行き来する。
落ち着けと命じるほど、体は言うことをきかなかった。
――あろうことか。
花衣霞は、その場でふっと頬を緩めた。
梅の花がひとつ、音もなく開いたかのような微笑。
空気がわずかに温度を持ち、場の緊張が解ける。
そのはずなのに、紫雫久の胸は締め付けられる。
逃げ出したいほど、心臓が痛かった。
やがて花衣霞は足を止め、ゆっくりと手を伸ばし――
――テーブルに並べられたチョコレートをひとつ手に取った。
丸く、指でつまめるほどの小さな錆色の粒を、静かに口元へ。
たっぷりとした動作でチョコレートを堪能した花衣霞は、満足してその場を離れていく。
残されたテーブルには、次々とチョコレートに手を伸ばす人々で溢れた。
その喧騒をよそに紫雫久は、その場に力なくしゃがみ込んだ。
顔を覆い、熱を帯びた頬を隠す。
行儀が悪いと柚珠葉に叱られても、立ち上がれる気がしなかった。
恥ずかしかった。
第一に、勝手に話しかけられると思い込み、無駄に緊張していたこと。
第二に、チョコレートを口に運ぶその瞬間、指に触れて歪んだ唇を見て、
かつて口付けられた日の柔らかさを思い出してしまったこと。
(……俺、やっぱおかしいかもしれない)
理由もわからない。
ただ、熱くなる頬を冷ましたくて、紫雫久は柚珠葉の手を取って、自分の頬に当てた。
しばらく柚珠葉の手の冷たさに身を預けていると、突然、頬を軽く叩かれた。
「紫雫久、立って。ヴェルナー侯爵が来た」
会場の中でもひときわ目を引く、頭ひとつ抜けた背の高さ。
刃浦ではあまり見かけない異国の佇まい――整えられた髭をたくわえ、短く刈り込んだ髪の紳士だった。
ヴェルナーは控えめな身振りで客人たちの注意を集めた。
「お集まりくださった皆々様、ありがとうございます。
この夜会で結ばれる縁が、皆様にとって実り多きものとなりますよう」
通訳を介さずとも、言葉は滑らかに届く。
刃浦に長く暮らしてきたのだと、瑪瑙羽が解説を入れた。
恭しい一礼に、洋館は拍手で溢れた。
どこか芝居がかった空気に、紫雫久の胸は先日の苦い記憶がかすめる。
「今夜は、ぜひ皆様にご覧いただきたい一品がございます」
ヴェルナーは、どこか愉しげに笑った。
「ご存知の通り、僕は珍しいものに目がありません。それを自慢するためにこの館を建てたようなものですから」
会場に笑いが起こる。
どうやら、これはお決まりの挨拶らしい。
「今夜の芸術は、とても大きく、そして――美しい。
このために、館の造りを改めました。
どうぞこちらへ。中庭へご案内いたします」
ヴェルナーに導かれ、客人たちは応接間を出て、右手奥の部屋へと進む。
壁の一面は、大きな布で覆われていた。
「ここは、その芸術を鑑賞するためだけの部屋です。
近くでご覧いただくこともできますが……毎夜、というわけにはいきませんからね」
含みを持たせた言い回しの後、ヴェルナーが布を引く。
現れたのは、大きな窓。
思わず、客人たちから感嘆の声が漏れる。
そして視線は、自然とその先――中庭の中心へと集まった。
月明かりの下に立つ、大きな桜の木。
だが、花の季節はとうに過ぎているはずだ。
疑問は、窓を開け、近づいた瞬間に氷解する。
夜の闇の中でも、花弁の一枚一枚が、ありありと輝いて見える理由。
それは――この桜が、生木ではなかったからだ。
花も、枝も、幹も。
すべてが“玻璃”でできている。
花弁は淡く、冷たく煌めく。
風に揺れることもないのに、そこに在るだけで、まるで息づいているかのようだった。
「玻璃桜と申します」
ヴェルナーの声が、静かに夜気を切る。
「花弁をご覧になったことがある方はいらっしゃるかもしれません。
ですが、木そのものがすべて玻璃でできているものは……ここにしかないでしょう」
人々は吸い寄せられるように桜の下へ集まる。
月光を反射する無数の光に、誰もが夢中になった。
(表で扱えない禁止物が、こうも堂々と……)
紫雫久は、玻璃桜の冷たい輝きを前に、
“ヴェルナー侯爵の夜会では、人が消える”――その噂を、何度も頭の中で転がしていた。
(少なくとも、清廉潔白な人間では無いんだろうな。
それこそ……あの裏夜市の人間と同じ……)
玻璃桜の花弁は、もともと裏夜市で取引される類の占具だ。
紫雫久にも覚えがある。
見る者の恐怖心に反応する桜。
直接的な害は無いが、立派な禁指定呪具だった。
(侯爵はこの桜で何をするつもりだ?
それとも、ただの蒐集癖か?)
「――でも、よかったわ。今日は大きなお披露目があったから」
「貴女、社交の場は苦手ですものね。前だったら、そうはいかなかったでしょう?」
耳に触れる囁きに、紫雫久は思わず振り返る。
「以前は、どう違ったんですか?」
不意の問いに、令嬢たちは小さく悲鳴を上げた。
扇子で口元を隠し、恥じらいながら応じる。
「どう、というと……?」
「おれ……いや、私は今夜が初めての招待でした。前は、何か違ったのですか?」
「いいえ、大したことではありませんの。ただ……」
「以前は、ヴェルナー様が一人一人に挨拶をなさるまで、こういった“本題”にはうつらなかったものですから」
控えめな令嬢の言葉を補うように、巻毛の令嬢は続ける。
「彼女、人付き合いが苦手で。しかもお相手は異国の方でしょう? 順番が回ってくるまで、ずっと青ざめていましたの」
「きっと、丁寧な方なのでしょうけれど……誰かと目を合わせるのは、慣れていないもので……」
「あぁ。それが、今回は無くなりそうで安心、というわけですね。
そこまで苦手なら、参加を断るという選択は?」
「社交場は、家と家が縁を結ぶ場ですもの。
招待を受けた以上、断るという選択肢はありませんわ」
令嬢たちの背を見送りながら、紫雫久は考える。
あの怯えたご令嬢は――
きっと、玻璃桜に“良い結果”を伝えてしまっただろう。
(どうか、このまま無事に館を去れると良いんだが……)
続いて周囲を見回す。
部屋の中は、玻璃桜に魅せられて中庭へ降りる人々と、降りずに談笑を続ける小さな輪とが、くっきりと分かれていた。
紫雫久は飲み物をひとつ受け取り、談笑の“島”を、ひとつずつ観察していった。
(……いた)
狙い通りの話題を見つけ、壁にもたれかかる。
「――もう、すでに一人くらい消えてるんじゃないか?」
「最近は聞かないだろ。ただの偶然じゃないのか」
「いや、俺は侯爵だと睨んでるね。
消えた奴ら、共通点が“ここ”しかないって話じゃないか」
「……そう言われると……。そういえば、上田のご令嬢は?」
「翡翠色のドレスの?」
「そうそう。鈴蘭の髪飾りをつけてた」
「――!」
紫雫久の手に、思わず力が入る。
その特徴は、先ほど話した令嬢と一致していた。
「もう帰ったんじゃないか? 連れもいなかっただろ」
「だといいがね……。最近、何度も呼ばれてただろ?
あの家、そこまで栄えているわけでもない――あぁ、日高様お久しぶりで――」
話題が逸れたのを機に、紫雫久はその場を離れた。
(慎重に、標的を選んでいるのか。だとしたら――)
「ねぇ、すごいよ紫雫久! 見た!?」
走り出す思考を遮るように、今度は無邪気な声が飛ぶ。
「この世のものとは思えない技術だよ! どうやって作ってるんだろう!」
「あー……うん」
「何その返事! まだちゃんと見てないでしょ!」
美しいものに目がない瑪瑙羽に手を引かれ、半ば強引に、玻璃桜の前へと連れていかれる。
近くで見ると、確かに圧巻だった。
巨大な瑠璃の塊でありながら、継ぎ目は一切ない。
まるで、最初からそこに“生えていた”かのようだ。
視線を巡らせると、ちょうど煌羅嘉も中庭へ降りていた。
紫雫久は悪戯心から、その隣へ並び立った。
「……なぁ、煌羅嘉ン家にもあんの? 玻璃桜」
「フン。ただ光るだけの置物だ。邪魔にしかならん」
「じゃあ、お前ン家にやたらある金の置き物はどうなんだよ」
「……また刀を抜かせたいか」
「深い意味はねぇって! 面白ぇなお前!」
笑いながら背を叩く紫雫久に、煌羅嘉は露骨に不機嫌な顔をして「帰る」と踵を返す。
紫雫久が慌てて引き止めようと追いかけた瞬間、煌羅嘉がふいに振り向いた。
「……ひとつ忠告しておく。ヴェルナー侯爵は異常だ」
「どういう意味だ?」
「奴の左目は義眼だ。虹彩は――玻璃桜でできている」
「――!」
「気づかなかったのか。お前もまだまだだな」
勝ち誇ったように笑い、紫雫久の頭を二度叩くと、煌羅嘉はそのまま邸を後にした。
金白の背をぼんやりと見送り、紫雫久は思考を巡らせる。
左の中指の爪を、親指でゆっくり擦りながら。
ヴェルナー侯爵の夜会では、稀に人が消える。
規則性はなく、被害者同士の関係性もない。
――否。
あるとすれば、“感情”。
判定基準は、玻璃桜。
これまでは、義眼に埋め込まれた玻璃桜の欠片を介して測っていたのだろう。
だが、今日のこの人数だ。
大きな玻璃桜を使い、一度に“選別”を行う方が効率的だ。
だから今回は、個別の挨拶がなかった。
この夜会で、ヴェルナーはすでに“最も恐怖を感じやすい人物”を選んでいる。
最近、被害が出ていなかったのは、“その時”を待っていたからだ。
機が熟すまで、何度も招待を出せばいい。
相手が断ることは、無いのだから…………
(――危ない)
紫雫久は顔を上げ、周囲を見回した。
翡翠色のドレスが、友人と共に帰路についていることを願いながら。
しかし、その願いは叶わない。
人気のない廊下へ向かう、
翡翠色の背が、はっきりと視界に入った。
「――チッ、また……」
駆け出す背中を見つけ、柚珠葉は小さく舌打ちを溢した。
どんな場所だろうと、この男が大人しくしていてくれたことが無い。
「あれ、もしかして向井鵜匡さんの」
「――ぁ、ええ。父がお世話に……?」
まただ。
追おうにも呼び止められて、この場を動けない。
(だから、そばにいてほしかったのにあいつ……)
それから四人ほど挨拶をした頃に、柚珠葉は違和感を抱いた。
こちらに戻ってこないにせよ、その姿すら長い間見かけていない。
「……ねぇ、紫雫久のこと見た?」
近くを通りがかった澄々に、小さく問いかける。
「いや。…………探すか?」
「頼めるかな」
「いいよ。お前、人気者だからなぁ」
澄々は笑ってその場を離れていく。
この間にも、柚珠葉を引き止める声は止まなかった。
まるで、一分の隙も逃さないように。
紫雫久は、令嬢の後を追った。
行き着いた先は、化粧室へと続く廊下だった。
個室は狭く、外に面した場所でもない。
隣は物置で、壁も薄い。隠し扉を設ける余地など見当たらなかった。
(ここで張っていれば、ひとまずは……)
その時、廊下の突き当たりに掛けられた鏡が、ふと目に入る。
くもっていて、像は歪んでいた。照明も乏しく、なおさら見えづらい。
――覗き込む鏡の奥で、一瞬、
玻璃桜の花弁が、はらりと散った気がした。
「――ッ!」
振り返る暇もなく、口元を布で塞がれる。
反射的に腰元へ手を伸ばすが、刀は入り口で預けていた。
指先は、空を切る。
布からは、甘くも苦い、得体の知れない香りがした。
逃れようともがくが、相手の腕力は一枚上だ。
紫雫久は体重を後ろへ預け、相手ごと後退する。
背中が壁に叩きつけられ、鈍い衝撃が走った。
一瞬、腕の力が緩む。
――だが、遅かった。
逃げようとした腕に、力が入らない。
急激な眠気が、意識を沈めていく。
抗えず、瞼が、ゆっくりと落ちた。
――カチ、カチ、カチ
一定の拍子を刻む、金属音。
――カチ、カチ、カチ
音に合わせ、体がゆっくり揺すられる。
温かい。日向ぼっこのような柔い微睡。
――カチ、カチ、カチ
『見て。紫雫久、とってもよく眠ってる』
聞き覚えのない声。
けれど、不思議と違和感はなかった。
まだ眠っていたいと思わせる、奇妙な安心感。
――カチ、カチ、カチ
『ごめんね。これを全部飲んだら……
美味しいもの、食べさせてあげるからね』
口元を、優しく拭われる。
その指は――赤く、濡れていた。
――ボゥ……ン
低く唸る鐘の音に導かれるように、紫雫久は目を開けた。
滲む視界の中、何度も瞬きをする。
「素晴らしい!
これでも、まだ涙を流しませんか!」
視界を埋め尽くすのは、ヴェルナー侯爵だった。
紫雫久の座る椅子の肘掛けに手をつき、顔を覗き込んでいる。
「どんな夢を見ましたか?」
「……腕の中で……眠る……母の……」
「おや、珍しい。
こういう時は、大抵――思い出したくもない惨劇や、後悔のワンシーンを見るものですがね」
ヴェルナーは、コツコツと足音を立てて室内を歩く。
紫雫久は、さきほど自分が何を口にしたのかすら、理解できないほどに思考が働かないのを感じた。
この部屋には、独特な香りが漂っている。
鼻を啜ると、ヴェルナーが得意げに笑った。
「気づきましたか?
これは凍涙の香炉です。人の悲しみを、増幅させる香でしてね」
「嗅ぐだけで、大抵の人間は泣きます。
ですが……さすがは、僕が見込んだ人だ。これくらいでは、泣きませんね」
(……泣かないことを、喜んでる? 逆じゃないのか……?)
「……お前、恐怖心の強い人間を、選んでたんじゃないのか?」
「恐怖心? ああ、そういう趣向の方もいますね。
ですが、僕は違います」
ヴェルナーは両手を広げ、恍惚とした表情で語る。
「僕が欲しいのは、“涙”です。
涙は素晴らしい。
一粒一粒に、その人間の本心が凝縮されている!」
紫雫久は眉を寄せる。
(それなら、恐怖を感じやすい人間を攫えば――)
思考を読んだかのように、ヴェルナーはくすりと笑う。
「簡単に恐怖を感じる人間の涙など、そこらの水道水と同じです」
「泣かない人間が、感情の最終地点として泣いてしまった時――
その涙こそ、僕は愛している」
ヴェルナーは愛おしそうに、机に並ぶ小瓶へ頬をすり寄せる。
「蒐集家ですから。
そのために、この館を建て、そのために……目も、取りました」
ヴェルナーは左目を外し、掌に乗せて見せる。
無邪気な声と、淡々とした仕草。
そのちぐはぐさに、背筋を冷たいものが走った。
「じゃあ……
俺が今から、あくびして涙流しても、解放されないってわけか?」
言い終わるより早く、
ヴェルナーの手が、紫雫久の口を強く押さえつけた。
乱暴に掴まれ、頭を背もたれに叩きつけられる。
(……なんで変態って、時々、力加減ってものを知らないんだ)
「生理的な涙というのはですね、
感情が伴わないんですよ……こうやって……」
「……ん゙っ、ぐ、……ぁ……えっ」
指が口内に割り入り、舌を捕まえる。
そのまま、喉の奥へと侵入してくる。
痛み、不快感、息苦しさ。
舌の根をなぞられるたび喉がひくつき、鼻の奥にツンとした痛みが走る。
視界が滲み、
無理矢理に舌を引き出された瞬間――涙が落ちた。
「……うーん。ダメですね。まったく、そそられない」
「ゔぇ……っ、ゲホッ……、は……っゔ…………!」
解放された紫雫久は、空えずきが止まらなかった。
喉の奥を、裏返されたような感覚。
抵抗はできなかった。
手足は肘掛けと脚に固定され、視線を逸らすことすら叶わない。
これまで、何人がここで涙を搾り取られたのか。
その数が決して少なくないことは、拘束の徹底ぶりが雄弁に物語っていた。
「はー……はー……っ」
荒い息の合間に睨みつけると、ヴェルナーは手を拭きながら、心底満足そうに微笑んだ。
――どこまで耐えるのか。
――何によって、涙を流すのか。
それを知りたくて、
ヴェルナーの全身は、泡立つように高揚していた。
(せめて、柚が気づいてくれれば……)
駆け出す前に柚珠葉へ一言声をかけておくべきだったと後悔する。
これでも一応、五参家の子息を演じる柚珠葉を気遣ったつもりだったのだ。
それでも、しばらく姿が見えなければ不審に思うはずだ。
……今はそれに賭けるしかない。
「人は、どんな時に涙を流すと思いますか?」
ヴェルナーが、楽しげに足音を響かせながら紫雫久の前を往復する。
「悲しい時、寂しい時、悔しい時……
んー……あとは、喪失感を覚えた時でしょうか」
照明は暗く、部屋の全貌は見えない。だが、そう広くもないようだった。
「心に穴が空いたような絶望感。
それは大抵、大事なものを失った時に訪れます」
コツリと足音をひとつ鳴らし、ヴェルナーは立ち止まる。
「――これは、あなたの“大事なもの”ですか?」
その手にあったのは、紫雫久の刀だった。
紫雫久は眉一つ動かさず、ただ次の手を待つ。
ヴェルナーはその反応を見て、つまらなそうに息を吐いた。
「…………これを折ったところで、あなたは泣かないでしょうね。
最近、砕いたばかりだと聞きましたし、新鮮味もありません」
そう言って、刀を無造作にテーブルへ戻す。
(こいつ……いつから、俺のことを知ってる)
ぞわりと寒気が頬を伝った。
最初から、狙われていたのは自分だったのかもしれない。
「では、これはどうでしょう?」
次に差し出されたのは、小さな瓶だった。
中には柳鼠色の髪が数本。
ところどころ、血が付着したように赤く染まっている。
「…………」
ほんの一瞬。
紫雫久の眉が、わずかに歪む。
ヴェルナーはそれを見逃さず、感心したように首を傾げた。
「なるほど。
この場合、あなたは“怒り”を感じるのですね」
「やはり、剣の腕が確かな人間は、闘争心が上位に来る……」
観察するように身を乗り出し紫雫久の顔を覗き込む。
そして、思い出したように言った。
「ちなみに――向井柚珠葉さんは、ここへは来られませんよ」
「――ッ!」
瞬間。
右手首の枷が弾け、紫雫久の右手がヴェルナーの喉を掴んだ。
咄嗟に両手で手首を掴むが、喉に食い込む指までは抑えきれない。
「……やはり……ッ、凡人向けの拘束では……ア゙……駄目でしたか……!」
顔をみるみる赤く染めながらも、ヴェルナーの瞳は三日月のように歪んでいた。
ふいに、手首を掴むヴェルナーの両手が、僅かに滑る。
そしてそのまま――ひと思いに、交差した。
「――ア゙ッ! ぐぅ……ッ!!」
骨が擦れる、鈍い音。
右手首が折れ、指先の感覚が一気に途切れた。
肘掛けへと引き戻された右腕は、先がだらりと垂れ下がる。
(くそ……マジで、容赦ねぇな……!)
冷や汗と吐き気が込み上げる。
目頭が、じわりと熱くなった。
「良いですね……その涙にはわずかに、悔しさが滲んでいます」
ヴェルナーは弾んだ声で続ける。
「こういうのは“緩急”です!
激しい痛みの先に訪れる凪で、
あなたがどんな精神状態で涙を流すのか見てみたい!」
目の前を踊るように回るヴェルナーの姿に、紫雫久は確かな怒りを覚えた。
(……痛みが引いたら斬る。絶対斬る。絶対斬る、絶対斬る、絶対斬――)
「――イ゙ッ!!」
手首の痛みから意識を逸らそうとした、その瞬間だった。
唐突に、目の奥を氷柱で貫かれたような鋭利な痛みが走る。
あまりの衝撃に、思考が凍りつく。
視界は一瞬で白濁した闇に覆われた。
大雨に打たれたように視界が歪む。
痛みに押し流されるように涙が溢れ、頬を伝って幾筋もの滝となる。
「霜涙縛をご存知ですか?」
そう言いながら、ヴェルナーは手中の水晶を容赦なく叩いた。
「ア゙ッ!!」
同時に、瞳の奥で何かが弾ける。
紫雫久は閉じることもできない目で虚空を見つめ、荒い呼吸を吐き出した。
「この水晶は、ふふ、あなたの涙です。
禁術なので――口外は禁物ですよ?」
ヴェルナーは、水晶を慈しむように撫でる。
そのたび、目の奥を絞り潰されるような痛みが走り、制御不能な涙が溢れ出す。
やめてくれと叫びたい喉は、悲鳴を上げるばかりで役に立たない。
(……くそ。誰だよ、この変態にこんな術教えた奴……)
霜涙縛の本当の恐ろしさは、目の痛みではなかった。
――悲しくも、悔しくもないのに。
意思とは無関係に、泣かされていること。
それを強制され続けると、思考は鈍り、鼻腔は痛み、身体は鉛のように重くなる。
すべてを放り出して、意識を手放したくなる。
だが、それすら、目の奥を穿つ激痛が許さない。
「今のご気分は、いかがですか?」
痛みの連鎖が途切れ、荒く息を吐く紫雫久を、ヴェルナーは興味深そうに見下ろした。
「……お前、力加減…間違えるなよ……?
……死ねば……泣いてやれねぇからさぁ……」
霜涙縛の余韻で、ぽろりと一粒、涙を零しながら紫雫久は言う。
その姿に、ヴェルナーは思わず口元を押さえた。
「――殺すもんですか!
確かに殺しても良いとは聞いていますけどね!」
抑えきれない興奮とともに、再び水晶へと手を伸ばす。
この強靭でしなやかな“刃”を、今すぐへし折ってしまいたい――
その衝動が、ヴェルナーの瞳を異様な光で満たした。
「涙が枯れるまで楽しみましょう! さぁ……!」
振り下ろされる右手が、水晶に触れることは無かった。
「――――あれ?」
遅れて、とさり、という音。
右手が、転がっていた。
「――あ、あ゙あ゙あ゙ぁぁッ!!」
腰が抜けるように尻餅をつき、血の噴き出る右手首を押さえて喚く。
床に落ちた水晶が跳ね、鈍い痛みが再び紫雫久を襲った。
瞬きをした拍子に零れた涙は、
柔らかな指先によって、そっと掬い取られる。
視界が白く染まる。
痛みではなく――目の前に片膝をつく、美丈夫のせいで。
「紫雫久、遅くなってごめん」
花衣霞が、静かに目を合わせる。
ゆっくりと頬に触れ、赤くなった目元を親指がなぞった。
紫雫久の瞳からもう一粒、涙が落ちた。
その一粒の熱さに思わず、花衣霞は紫雫久を抱きしめる。
他にやるべきことは分かっていた。それでも。
今、抱きしめなければ。
この男は、音もなく壊れてしまう気がした。
(……やっぱり俺、変かもしれない)
花衣霞の体温が伝わるたび、嵐に叩き回されていた心が、ゆっくりと鎮まっていくのを感じる。
その反面、どうしようもなく泣きたい気持ちが膨らんでいくのだ。
ぼやけた視界の端で、影がゆらりと立ち上がるのが見えた。
ヴェルナーだ。
「――ッ花衣霞!」
反射的に声が出る。
だが花衣霞は「大丈夫」と短く返し、その身を離そうとしない。
ヴェルナーが、こちらへ一歩踏み出した、その時。
ちり、と微かな鈴の音。
同時に、ヴェルナーの頬を一閃が掠めた。
影の隙間から姿を現した澄々は、静かに刀を床へ突き立てる。
次の瞬間、ヴェルナーは呻き声を上げる。
左足が、まるで床に縫い留められたかのようだった。
(……“幽鈴”。影を操る刀……
間近で見ると、ぞっとする技だな……)
澄々の漆黒の刀が、ヴェルナーの影を貫いていた。
「無事か、紫雫久」
「……あ、おう。とりあえずは」
「ならいい。とっととずらかろう。お前の腕もあるし……
おい、佐藤花衣霞。いつまでくっついてる気だ」
澄々は手を伸ばし、花衣霞の髪が落とす影を引いた。
その動きに、花衣霞の髪もわずかに引き寄せられる。
花衣霞は不快そうに小さく頭を振る。
そして、不満げな顔を隠そうともせず拘束具へと手をかけた。
「第一、あんたの方が近いんだから、それくらい斬ってくれよ」
「それは君が……戦わなくてもいいと言ったから」
「……入った瞬間に右手斬り落とした奴が、よく言う」
「なぁ、侯爵。どっちが悪いと思う?」
澄々が苦々しげに肩越しに振り返ると同時に――
「エリィ!!」
ヴェルナーの叫びが、空気を裂いた。
それを合図に、影が跳ねた。
床を舐めるように伸びた黒が、意思を持った獣のように弾ける。
澄々は一瞬の迷いもなく踏み込み、刀を抜いた。
構えた刹那――
受け止めたのは、短剣。
甲高い金属音が夜気を裂き、火花が散る。
そこに立っていたのは、瑠璃紺色のドレスの婦人だった。
手には短剣。
衣擦れひとつ立てず、すでに次の間合いを測っている。
「……エリザベス・フォン・エーベルヴァルト。
表に一切出てこないから、実在しないと思っていたが……」
澄々は軽く首を回し、肩の力を抜く。
改めて彼女へ向き直ると、戦場には似つかわしくないほど恭しく、一礼した。
「奥様直々にご挨拶とは、恐悦至極にございます」
「お初にお目にかかりますわ。
さっそくだけれど……一曲お相手くださる?」
言い終わるより早く、エリザベスは跳んだ。
床を蹴る音が遅れて響く。
一気に距離を詰め、振り下ろされる脚。
交差させた腕で受け止めるが、みしみしと嫌な音を立てる。
続く高い跳躍。
旋回の合間に、短剣が白線のように閃いた。
澄々はその軌道を瞬時に読み、刃を受け流す。
同時に、指先から隠し毒針を放った。
狙いは首。
一撃必殺の角度――
だが、それは常識外の動きでかわされた。
関節の一つひとつが、異様なほど柔らかい。
骨格の限界を無視した捻り。
それでいて動きは鋭く、しなやかに締まった筋肉が一撃一撃に確かな重量を宿している。
「美しい所作ですね。バレエでも?」
「ご明察」
返答と同時に、鞭のようにしなる蹴り。
澄々は半歩引き、かわしながら刀を振る。
凡庸な一振り。
エリザベスは身をひねり、避け――た、はずだった。
ぱっくりと、首元が裂ける。
「……どう、して……!」
喉元に手を当て、理解が追いつかない瞳が澄々を映す。
「避けられていましたよ。“体は”」
刀身を避けたことで伸びきった影が、無防備に幽鈴の間合いへ滑り込んでいた。
それを見越し、あえて大きく、隙のある振りを選んだのだ。
驚きと、苦悶の表情が入り混じる。
喉からはひゅーひゅーと空気の抜ける音。
エリザベスは喉を押さえながら崩れ落ち、
やがて血の塊をごぽりと吐き、動かなくなった。
その様子を確認した――その時。
視界の端で、ヴェルナーが水晶へ手を伸ばすのが見えた。
「――!」
澄々は即座に反応する。
足元の机を蹴り、そこに置かれていた紫雫久の刀を掴み取ると、躊躇なく投げ放った。
紫雫久は、刀を受け取ると同時に抜刀。
勢いのまま、体ごと回転し振り抜く。
一閃。
刃はヴェルナーの腹を深々と裂き、水晶に触れる前に、その身体は力を失って崩れ落ちた。
「――ゴホッ! ……あぁ、シズク……貴方だけが、僕を……」
這いずり、声を振るわせるヴェルナー。
溢れる涙の感情は、何か。
「……あの空虚な……偽りの神を、信仰――ゴホッゴホッ! ……民とは、違う………………」
紫雫久へと伸ばされた赤い手は、届くことなく空を切り、力なく落ちる。
(……民……何の話だ?
……あぁくそ、腕が……痛…………)
深く息を吐き、全身から力を失った身体がふらりと傾ぐ――
その身体は、すぐ背後から伸びた腕に受け止められた。
花衣霞だった。
「柚……柚珠葉、は……?」
「……大丈夫。彼は客人に捕まって、身動きが取れないだけだから」
「はぁ……よかった…………」
花衣霞の肩口へ、紫雫久は縋るように頬を寄せると、そのまま静かに涙をこぼした。
その体温と重みを受け止めた瞬間、花衣霞の心臓が、どくりと一つ大きく脈打つ。
(……本当に……まず、他人の心配が先に立つ……)
「紫雫久、ここを離れよう」
「うん…………」
ぐずる子どものような曖昧な返事を返しながら、紫雫久は両腕を持ち上げ、花衣霞の首へと回す。
一拍だけ逡巡してから、花衣霞はその体を横抱きにし、部屋を後にした。
次に見た景色は、朝陽の差し込む穏やかな障子の影と布団。
泣き疲れ、花衣霞の腕の中で意識を手放した紫雫久が目を覚ました時、
そこはもう向井の家だった。
赤く腫れて重たい瞼をゆっくりと瞬かせ、紫雫久は深く息を吐く。
「………………何度目だ、これ……」
花衣霞に助けられ、礼を言いそびれたのは。
毎回のように意識を失ってしまう自分の不甲斐なさと、――まさか、呆れられてはいないだろうか、という焦り。
あんな目に遭った後でも、気になるのは花衣霞のことばかりだった。
「こいつ弱ぇなって思われてたら……やだなぁ~~~~~~」
虚脱感に身を委ねるように、紫雫久は背中から布団へ倒れ込んだ。
「嫌でも起きてきなさいよ」
「柚ぅ、助けてぇ~」
柚珠葉の呆れた声を頼りに、いつもの日常へと手を伸ばす。
右手を上げようとして、痛みに顔をしかめた。
「……私は、助けられなかったよ」
「ん? なん――うわ」
うまく開かない瞼と、聞き逃したそのつぶやきは、
柚珠葉が持ってきた冷たい手拭いによって、そっと覆われてしまった。
柚珠葉の話では、澄々が後ほど向井家を訪れ、事の顛末を説明してくれるらしい。
痛む右手では、しばらく稽古もままならない。
それなら――今は、もう少し眠っていよう。
紫雫久は手拭いの下で目を閉じた。
願わくば、侯爵が死に際に残した言葉を、今は深く考えずに済むように。
どうか、くだらなくて、楽しげな夢を。
「柚が蜂に追いかけられて、凧で飛んで逃げる夢が見たい」
「なにそれ」




