倖花の下、君は腕の中に落ちて
「紫雫久……花衣霞……ッ」
銀灰色の髪が、荒れ狂う風の中を彷徨う。
「澄々……、宏花さん……!」
雫型の石を握り締める。
この曇天では、祈りを込めたはずの光も淡い。
(やっぱり、これじゃ……)
視界が滲みかけた、その時だった。
「この石が、悪霊を退ける!
慌てるな! 屋根の下へ逃げろ!」
柳鼠色の髪の男が、石を空高く掲げていた。
「――持つ者は、持たぬ者と共に!」
「……柚珠葉…………」
逃げ惑うばかりだった民衆が、石を手に次々と寄り集まっていく。
それはまるで、柔らかく灯る燭台の群れのようだった。
瑪瑙羽は乱暴に涙を拭い、真っ直ぐ前を見据える。
祭殿の奥で揺れる、金密舵の髪。
靄が降り注ぐ中、その異変にすら気づいていないように座り込む姿へ向かって、瑪瑙羽は駆け出した。
「高瀬煌羅嘉!」
掴んだ肩に、数拍遅れて菜の花色の瞳が持ち上がる。
「……福田、瑪瑙羽……?」
迷い子のように無垢なその表情を前に、瑪瑙羽は怯みそうになる心を必死に押し留めた。
そして、さらに強く肩を掴む。
「高瀬の家士を、民を守るために動かしてください。
貴方にならできるはずです、高瀬 煌羅嘉!」
その叫びに、煌羅嘉の瞳がくるりと光を宿す。
「……どの立場で、俺に命令をしている」
「福田領主子息として、ご助言申し上げています」
二つの笑みが、静かに重なった。
《第二十二章:倖花の下、君は腕の中に落ちて》
――ガンッ!
花衣霞と宗峯、互いの鍔がぶつかり、火花を散らす。
拮抗する力比べの隙を縫い、紫雫久が背後へ回り込んだ。
背を狙い、刀を振り抜く。
「――ッ!」
薙ぎ払われた龍の尾が行く手を遮る。
切先が掠める寸前、紫雫久の身体は大きく吹き飛ばされた。
(……くそ、背にも目がありやがる)
強かに打った鳩尾が軋む。
綺夜に刻まれた痣は、未だ消えてはいなかった。
鍔迫り合いの中、花衣霞の右足がわずかに床を滑る。
その瞬間、紫雫久は足元の瓦礫を鋭く投げ放った。
龍の尾が揺れる。
その隙へ滑り込むように距離を詰め、振り上げた刀が宗峯の肩を斬り裂いた。
一瞬生まれた綻びに、花衣霞も鍔を押し上げる。
開いた胸元へ、一閃。
「――が、あ゙ぁッ!」
宗峯がたたらを踏み、後方へ跳び退く。
「花衣霞!」
勢いを殺しきれずよろけた花衣霞の背を、紫雫久が支えた。
「――ア゙ぁぁああッ!」
宗峯の呻きと共に、肩の傷口を黒い靄が埋めていく。
紫雫久と花衣霞は呼吸を合わせ、宗峯へ刃を向け続ける。
だが、その傷の大半は瞬く間に修復され、致命傷には至らない。
削られていくのは、こちらの体力ばかり。
焦燥が、じわじわと胸を灼いていく。
「紫雫久の刀傷を修復するたびに、宗峯は確実に削られている。
私が隙を作る。その間に――」
刀を握る花衣霞の手は白み、滲む疲労を隠せない。
「あぁ。……でも、なんかおかしいんだ。
修復すれば俺の血を吸収して、あいつも手負いになるはずなのに……
さっきから、俺の刀傷ばかりを優先して修復してる」
紫雫久の首筋を、一筋の汗が伝った。
「……選んでるのか? 何故……ッ!」
考える暇すら与えず、宗峯が踏み込んでくる。
花衣霞は紫雫久の前へ滑り込み、刀を構えた。
鋭く剣筋を見極め、刃を受け止める。
弾き合う剣戟が、二度、三度と立て続けに降り注ぐ。
花衣霞が刀を振り抜く。
宗峯の上体が、大きく開いた。
その瞬間――花衣霞の背後から、紫雫久が飛び出す。
落下の勢いを旋回へ乗せ、真っ直ぐ刀を振り下ろした。
(――まずい!)
迫る紫雫久を迎えたのは、龍の唅呀だった。
ぶわりと、全身が靄に呑み込まれる。
「――ぐ、あ゙ぁ……ッ」
全身を木槌で何度も叩き据えられるような激痛が走る。
その濁流の中で頭に響くのは、恨みと、執念。
「――邪魔をするな」
「刃浦は、私の――」
「許さない――憎悪の輪は、繰り返す――」
「――私は――英雄に――」
「新たな呪いは――ここで――」
「紫雫久!」
その瞬間、声が掻き消えた。
紫雫久は、花衣霞の声に弾かれるように刀を振り抜く。
「ギァァァアッ!」
龍の喉元が裂け、黒い靄が飛沫のように散った。
強く腕を引かれる。
ぶつかった先は、花衣霞の胸の中だった。
「紫雫久……!」
ほのかに香る木蓮が、荒れ狂う紫雫久の心拍を静かに鎮めていく。
「花衣霞、今……」
「一瞬、上の靄の中に呑まれた。異常は無い?」
抱き締める花衣霞の腕の方が、痛いくらいだった。
「平気だ。それより……中で、声が聞こえた」
「声?」
紫雫久は、散らばった靄を再び集めていく龍を睨む。
「無数の怨念の中に、宗峯の執念と……あれは、上の声だった」
(“新たな呪い”、そして、“繰り返す”……
上は、この戦いの中で何かを動かし始めている……)
紫雫久は中指の爪を擦りながら、井上澪一の日記を思い返していた。
(奴は、井上澪一に斬られた時、何と言っていた……?)
刃浦の民に手をかけ、全ての因は自分にあるのだと嗤う上。
刀を突き刺す澪一へ向け、上は――
――「これは……始まり……次なる……災への、始まり…………」
上殺しから始まる呪い。
それは今も、変わらず刃浦に流れ続けていた。
(上が宗峯に降りた時、奴は“井上澪一の憎悪が、上を呼んだ”と言った……)
その念が、上の依代。
(もしかしたら、澄々や花衣霞が見た地下の刀は、井上澪一の刀だったのかもしれない。
そして、今の依代は……高瀬宗峯の、無念)
行き着く答えに、紫雫久は胸を震わせ、大きく深呼吸をした。
肺を上る息が、まるで雪山のように冷たく痛む。
「……上と同期した宗峯を斬ることは、つまり、次の上を生み出すってことか……?」
紫雫久の呟きに、花衣霞は目を見開く。
「だから、俺の刀傷を優先して修復するのは……上にとって、一石二鳥なんだ」
花衣霞は宗峯を見やる。
今しがた切り裂いた肘はそのまま、血を流し続けている。
「……私の傷による外傷、紫雫久の傷による内傷。
同時に、井上の血から復讐心を取り込み、上は動力を得る……」
花衣霞は、悔しげに瞳を歪めた。
「それでは、攻撃を与えること全てが……上にとって好都合ではないか」
紫雫久の左中指が、パチンと音を立てる。
「――いや、そうでもないかもしれない」
うねりを上げる龍の尾。
山崩れのように迫る靄を、紫雫久は大きく刀で薙ぎ払った。
「――ギアァアアアアッ!」
靄が霧散する。
龍は再びとぐろを巻き、靄を掻き集め始めた。
集めるということは――その分、失ったということ。
「俺の血は、確実に上へ届いてる。
要は……宗峯さえ斬らなければ良いんだ」
花衣霞は、眼前を漂う靄へ一閃を加える。
靄は散るだけで、その質量自体は失われない。
「宗峯から、上の核を引き剥がす……か」
「できるか? 花衣霞」
見上げる紫雫久の瞳に、花衣霞は静かに笑みを返した。
「紫雫久の頼みなら、何でも」
抜け落ちた天井から、靄の隙間を縫うように一筋の陽光が差し込む。
濃墨の髪が、眩く煌めいた。
「ただ、一つだけ――」
花衣霞は、自身の刀をゆっくりと握り直す。
「この技は、確実に一点を貫かなければならない。
少しでもずれれば、効果を失う」
「宗峯の動きを止める必要があるってことか。
それなら……」
紫雫久は、自らの右手を見た。
刀を握る指先は、細かく痙攣している。
いつこの手をすり抜けても、おかしくはない。
宗峯の動きを止め、その隙に顕になった核へ手をかけるには――足りない。
(それでも、やるしか……たとえ俺の魂を削ることになっても……)
「ッ、花衣霞!」
顔を上げたその時、花衣霞の背後へ、龍を纏った宗峯が迫っていた。
(構えが、間に合わな――ッ!)
手を伸ばした、その瞬間。
花衣霞の背後を、何かが鋭く掠めた。
宗峯は反射的に身を翻し、壁際へ跳び退く。
その場に転がったのは、布に包まれた何かだった。
布地には、じわりと血が滲んでいる。
「これは……」
花衣霞が布へ近づいた時、微かに蝋梅の香りが鼻先を掠めた。
「――投げるなよ。大事に扱え」
「しょうがないでしょ。緊急事態なんだから」
「……黒木澄々、柳木宏花」
声に振り向けば、そこには澄々と、その背に負われた宏花の姿があった。
「澄々、これは?」
「俺の大事なもの。それより、話は聞かせてもらった。
――あいつの動きを止めれば良いんだろ?」
澄々は、色の無い瞳で宗峯を真っ直ぐ睨む。
「そうだけど……できるのか?」
紫雫久の問いに、澄々はにやりと口角を吊り上げた。
「できるよ。“こいつ”があればな」
その指先が、布に包まれたそれを示していた。
「……宏花、降ろすよ」
澄々の甘くそよぐ声に応えるように、宏花が片脚を伸ばす。
支えを借りながら、静かに腰を下ろした。
紫雫久の視線が、厚みの少ない着物の裾に違和感を抱く前に、宏花の声が静かに響く。
「今から俺たちは、宗峯を“限りなく殺す寸前”の力で、この場に縫い止める。
大丈夫。恨みすら抱けないほど、苦しむだけだから」
目を細め、微笑む宏花の瞳に色は無い。
澄々と同じ性質を持つ人間なのだと、改めて痛感させられる。
宏花が説明を続ける間に、澄々はその背後へ座り込む。
抱き留めるように身を寄せ、宏花の手を取った。
指を絡め、重ね合わせる。
「俺たちの狙いは、あいつだけだ。
あとはお前らに任せるよ」
澄々の手が、紫雫久の腰を軽く叩く。
紫雫久と花衣霞は視線を交わし、小さく頷いた。
「機会は一度きりだ。
――準備は良いか?」
紫雫久の声に、四つの瞳が、宗峯と上へ真っ直ぐ向けられる。
「――グォォォオオッ!」
龍の咆哮が轟いた、その瞬間――
「澄々!」
紫雫久の叫びと同時に、澄々と宏花は重ねた手で影を掴んだ。
その口元には、妖しく笑みが浮かんでいる。
「――桔梗呪輪」
二人の声が重なった瞬間、布の中から影が一直線に奔る。
影は宗峯を捉え、その足元に桔梗の花を咲かせた。
刹那、宗峯の足が縫い止められる。
どれだけ抗おうとも、その場から動けない。
「――木」
「ガァッ!」
二人が唱えた途端、宗峯の体が大きく痙攣した。
「――火……土……」
肌はみるみる赤く染まり、痛みに力む血管が隆起する。
宗峯の手から伍剣が零れ落ち、膝が崩れる。
「――金……」
「――あ゙ぁあああッ! ぐ、ア゙ッ!! ぁ、やめ……ッ!」
過敏になった神経の発する痛みに、逃げ道は無い。
宗峯は蹲り、震える手を宏花へ伸ばした。
「やめてほしいか?
……お前は、そう言ってもやめてくれなかったじゃないか」
「――水」
「――ゔ、あ゙ぁあッ!」
宗峯は血走った瞳で、宏花を睨みつける。
「……でも、これで水に流してやるよ。
俺だって、暇じゃないんだ」
宏花の言葉に、宗峯の目が大きく見開かれた。
瞬間、宗峯から色が失われる。
「今だッ!!」
澄々の鋭い声が響く。
花衣霞が飛び出し、低く身を沈めて刀を構えた。
神楽鈴の音が澄み渡り、荒れ狂っていた風が止む。
その瞳は、ただ上の核だけを見据えていた。
「――雫露顕式」
振り抜かれる刀は、ただ一点を穿つ。
「――グォオオオオッ!」
どっと噴き上がる靄。
その中心には、鈍い赤黒の光を放つ上の核。
「紫雫久!」
構えたまま、花衣霞が声を張り上げる。
紫雫久の刀は、一直線に振り下ろされた。
「――ギァァッ!」
靄が幾重もの層となり、紫雫久の刃を拒む。
(届け……ッ、届け……!)
刃から滴る血が、少しずつその層を侵していく。
核の表面に、ひびが走った――その瞬間。
「――ギァアァア゙ア゙ア゙ッ!!!!!」
「――ッ!」
爆風が突き抜け、直後、体が浮いた。
うねる龍頭が、紫雫久ごと天へ突き上がる。
背を叩く暴風。
それでも、核へ食い込んだ刀を手放すわけにはいかなかった。
(くそッ! あと少し……あと少しで……!)
握り込む右手はとうに感覚を失っている。
破裂しそうなほど脈打つ心拍に、汗が滲んだそのとき、
風に煽られる髪の隙間から、不意に木蓮の香りが漂う。
花衣霞の言葉が脳裏を掠めた。
――井上の血から復讐心を取り込み、上は動力を得る……
紫雫久の瞳に、陽光が揺れる。
(こいつが円環の呪いなら……この血も、同じ――)
その瞬間、紫雫久は刀を握り直した。
柄を深く握り込み、自らの血を刀身から溢れさせる。
「……この輪廻を断つなら、この血も一緒だ」
核を覆う靄が、紫雫久の――井上の血へと塗り替わっていく。
「これで全部、刃浦に還そう」
静かな、呟きだった。
それは風に煽られることのない、確かな宣言。
血溜まりは、上の核を包み込むように揺らめいた。
紫雫久は、その全てを巻き込むように刀を振り抜く。
「――花融環式」
――ぱりん
祈りのようなその声は、光へ変わった。
砕け散った核が、空を覆う靄を切り裂いていく。
差し込む陽光を受け、それは煌めく緋色となって刃浦へ降り注ぐ。
「――綺麗……」
「桜の、花吹雪……?」
舞い落ちる光に、刃浦の民から安堵の声が漏れる。
人々は建物の陰から顔を出し、空を仰いだ。
歓声はやがて刃浦を包む。
ひとつひとつの声が、この地に色を取り戻していく。
「……あぁ、よかった。
これで、全部終わったんだ……」
もはや、刀を握る力は残っていなかった。
落下しながら、紫雫久は確かな満足感に胸を撫で下ろす。
失血による冷えが体の芯から広がり、意識も朦朧としていた。
ここから先を考える余力など、もう無い。
『――紫雫久』
滲む視界の中、誰かの声だけが鮮やかに響く。
『紫雫久、ありがとう。大きくなったね』
それは、記憶の底に眠っていた柔らかな声。
「……母、さん……」
声を追うように、左手を伸ばす。
もう動かせるのは、そこだけだった。
『かわいい紫雫久。私たちの紫雫久……。
でも、まだこっちには連れていってあげられないね……』
柔らかな風が、指先をくすぐる。
初めて、“家族”というものに触れた気がした。
『だから代わりに――これを、もらっていくね』
風が戯れるように、紫雫久の左腕へ結ばれた縁映結をゆるりと解いていく。
(あぁ、花衣霞に……結んでもらったものなのに……)
「――花衣霞……」
紫雫久の瞳から、一雫の涙が零れ落ちた。
「紫雫久!」
その瞬間、巻き上がる風が紫雫久の体を包み込む。
振り向けば、そこには両腕を広げた花衣霞がいた。
「花衣霞!」
紫雫久は、その腕へ手を伸ばし、笑みを浮かべる。
祭殿の中央。
まるで最初からそうであったかのように、二つの吐息が重なった。
抱きしめる両腕の中で、紫雫久が陽光に照らされる。
「ただいま、花衣霞」
「おかえり、紫雫久」
春の足音が、すぐそばを吹き抜けていった。




