僥堕に揺れる影灯
「――これがお前たちの信じる、“神”の姿だ」
宗峯の邪声に、民衆の視線が一斉に釘付けとなる。
祭殿に跪く、目隠しをされた男。
その背後で、刀を掲げる男。
人々の瞳に宿るのは、わずかな恐れと――これから幕を開ける“何か”への、抗いがたい期待だった。
「駄目だ! ……ッ澄々! どうして!」
紫雫久は、自らの動きを封じ込める澄々へ叫ぶ。
止めなければならない。宏花も、煌羅嘉も。
「大人しくしててくれ。
……俺たちの目的は、最初からただ一人だ」
その声は硬い。
一切の揺らぎも、迷いも無かった。
(どういうことだ……わざわざ復活の儀を実行させて、何が…………)
紫雫久の中紅花の瞳が、答えを探すように彷徨う。
その視線の先で、煌羅嘉が掲げた刀を強く握り込む。
呼応するように、伍剣が一斉に宙へ舞い上がった。
五方へ切先を向け、円環を描くその姿に、民衆は思わず息を呑む。
――天杭王牙
煌羅嘉の声が響いた瞬間、伍剣の切先が一斉に宏花へ向き、牙のように襲いかかる。
「宏花ッ!」
紫雫久が叫んだ、その時だった。
ふっと、体を縛っていた拘束が解ける。
視界の端を、澄々の背中が鋭く掠めていった。
澄々は祭殿の影へ片手をつき、大きく息を吸い込む。
同時に、宏花の顎がゆっくりと持ち上がった。
――罰示神降ろし
澄々と宏花、二人の声が重なった。
《第二十章:僥堕に揺らぐ影灯》
瞬間、濃密な蝋梅の香りが祭殿を覆い尽くした。
咽せ返るほど甘いその香に、視界がぐらりと揺らぐ。
「――ぐッ」
澄々は、力の限り影を掴み締める。
伍剣の切先は、宏花の眼前で止まっていた。
(……まだだッ、まだ、足りない……ッ)
心拍が、祭囃子のように耳奥で鳴り狂う。
ひと息吐けば、そのまま倒れ込んでしまいそうなほどの疲労感が全身を蝕んでいた。
床を抉る指先から、じわりと血が滲む。
伍剣の切先が、微かに揺れた。
かたかたと震えるその不安定な刃先は――わずかに、宗峯を指し示す。
(……あいつ、無茶なことを……!)
二人の意図を悟った紫雫久が、刀へ手を伸ばしたその時――
「煌羅嘉!!」
宗峯の怒号が祭殿を震わせた。
振り上げたままの刀を、煌羅嘉の手が反射的に握り締める。
宏花を睨み据えるその視線の端で、ふと、伍剣のひとつが揺らいだ。
煌羅嘉の口元が、微かに開く。
(――――あ、いける)
その瞬間。
音も、香りも消え失せ、ただ白だけが広がった。
「――ぐ、あ゙ぁぁあっ!!」
伍剣が、宗峯の首を、腕を、腹を、脚を、そして心臓を貫いた。
その瞬間、夥しい量の黒い靄が空を覆い尽くし、滝のように宗峯へ降り注ぐ。
大地が揺れ、湿った腐臭が漂う。
こめかみを万力で締め上げられるような頭痛に、民衆は苦悶の声を漏らした。
「これが……?」
「そんな、まさか……!」
「これが……殿上様……?」
「あ゙あぁぁあっ!」
宗峯の咆哮を中心に、凄まじい突風が巻き起こる。
民衆は薙ぎ倒され、瓦屋根が宙を舞った。
その瞳は既に、人の色をしていなかった。
崩れ落ちる宏花の身体を、澄々が間一髪で抱き止める。
「宏花……! 宏花……!」
叫ぶように名を呼び、強く抱き締めた。
「……何泣いてんだよ。まだ終わってないぞ」
「見えてないくせに」
軽く鼻を啜りながら、澄々は宏花の目隠しを外す。
久方ぶりに向けられた杏色の瞳を見た瞬間、涙が溢れた。
その時、宏花の瞳がわずかに見開かれる。
「避けろ!」
叫びと同時に、澄々は宏花に蹴り飛ばされた。
直後、二人がいた場所の床が、まるで巨岩でも落ちてきたかのように抉れる。
「……上の怒りか。いや……戯れ、だな」
靄が降る。
誰も、最初はそれが何かわからなかった。
「こんなもの……」
「……災害じゃないか……ッ!」
誰かの悲鳴混じりの声が広がる。
恐怖は瞬く間に伝染し、人々は我先にと、散り散りに逃げ始めた。
「逃げろ!」
「どけ!」
「押さないで!」
「皆、落ち着け! 屋根の下に……ッ! くそッ!」
鵜匡の声も、飛び交う靄に遮られ、民衆には届かない。
「早く! こっちの道から――ッ!」
民衆を誘導する柚珠葉へ、黒い靄が迫る。
咄嗟に身構える――だが、衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けると、目の前には紫羽色の髪が揺れていた。
「しず……」
二年ぶりに交わる視線。
その瞬間、心の奥で何かが、かちりと噛み合った気がした。
「柚! みんなを安全な場所に頼む!」
「……わかった!」
二人は同時に駆け出す。
互いに背を向けながら、その足取りに迷いは無かった。
「柚珠葉! これを使え!」
澄々の声と共に、光る小石が投げ渡される。
「これは……?」
「――ひぃッ! 助けてくれ!」
悲鳴に振り向く。
黒い靄が、民へと迫っていた。
柚珠葉が駆け出した、その瞬間――靄が目前で軌道を逸らす。
「大丈夫か!?」
民は震えながら何度も頷いた。
その手から、雫型の石が転がり落ちる。
澄々から渡されたものと、同じ石だった。
「これは何だ!? どこで手に入れた!」
「祭りの前に……福田が配ってた……ッ!
ほとんどのやつが、持ってるはず……!」
(これが――)
柚珠葉は石を高く掲げ、大きく息を吸い込む。
「この石が、悪霊を退ける!
慌てるな! 屋根の下へ逃げろ!
持つ者は、持たぬ者と共に!」
その声に、民衆は一斉に懐を探った。
取り出された雫型の石が、淡く光を返す。
黒い靄に覆われた宮籬の中で――それは、確かな希望の灯火のように見えた。
「――ぐあ゙ぁぁあっ!!」
宗峯を覆っていた靄が、やがて龍の形を成していく。
「……上だ」
「花衣霞たちが見たのは、これか……ゔッ」
紫雫久が胸元を押さえる。
「紫雫久!」
「……大丈夫。先祖からの念だ。こっちも暴れたがってるんだろうな」
「ゔぐぁあッ!」
宗峯が雄叫びを上げながら、その身に突き立つ伍剣を一本ずつ引き抜いていく。
靄が傷口を次々と塞ぐ。
心臓を貫く最後の一振りを抜いた瞬間、龍は宗峯の心臓を潜り抜け、その身体へ絡みついた。
ゆっくりと、視線が紫雫久を捉える。
「――お前の憎悪が……私を、呼んだ……」
二重にも三重にも揺らぐ声が、にたりと嗤う。
持ち上がった人差し指が、紫雫久を――井上の血を指し示した。
「井上澪一…………お前の、憎悪は……繰り返す……」
「誰にも……止められない……ッ!」
振り抜かれた剣圧に耐えきれず、紫雫久は膝をつく。
「……立てるか、紫雫久」
鵜匡が、紫雫久へ手を差し伸べた。
一瞬ためらったその手を、鵜匡は強く掴み返す。
「あれが何なのか……紫雫久には、わかっているね?」
紫雫久の握る刀が、大きく脈打つ。
「はい…………あれは……俺が斬らなければいけない」
龍の咆哮が、祭殿を震わせる。
「良い子だ。じゃあ……そっちは任せたよ」
鵜匡の掌から、確かな温もりが伝わる。
紫雫久はその手を、力強く握り返した。
「はい! 鵜匡さんは、あの靄を頼みます」
「ふふ……ははっ! 久しぶりに、腕が鳴るなぁ!」
着物を捲り上げる腕の筋が、縄のように隆起する。
「それじゃあ佐藤花衣霞。君に……紫雫久を任せるよ」
鵜匡は並び立つ花衣霞の手を取り、紫雫久の手へ重ね合わせる。
二人の手をしっかり握らせると、そのまま背を向けた。
刀を抜き、静かに構える。
――潮流一拍
その一閃で、風波が変わる。
無秩序に飛来していた靄が気流へ呑まれ、一箇所へ収束していく。
跳躍し、身体を捻る。
旋回の勢いを乗せたまま、波を裂くように一太刀。
靄は、一息に霧散した。
その無駄のない太刀筋に、紫雫久は興奮を隠せぬまま花衣霞の手を握る。
「花衣霞!」
「うん……上の核が安定する前に」
上へ向けられた二つの切先が、びりびりと震えを伝えていた。
「最後の仕上げだ、澄々」
宏花の声が、静かに落ちる。
澄々は、無慈悲だな、と小さく笑みをこぼした。
「わかってるよ……うん……」
青黒く、まだらに染まった宏花の右脚。
そっと触れる澄々の指先は、かすかに震えていた。
「悪いけど、俺、知ってるから」
「何を?」
「――全部」
思わず顔を上げる。
宏花は、花が綻ぶように笑っていた。
伸ばされた手が、澄々の頬を撫で、耳を摘まむ。
柔く揉まれる感触に澄々は目を細めた。
「全部知ってて、ここにいるんだよ。嬉しい?」
頬骨が震え、奥歯を強く噛み締める。
「……うれ……ッ、うれしい……」
絞り出すような声に、宏花は澄々を抱きしめた。
ゆっくりと、その頭を撫でる。
幼い頃、歯が痛いと泣く澄々をあやした時のように。
「だから、お前がやらなきゃいけないんだ」
「……うん」
閉じた瞳から、涙が零れ落ちる。
「これが無くなっても……まだ、好きでいてくれる?」
開いた瞼の奥から、蘇芳の瞳が覗く。
その瞳は、もう揺らがなかった。
「そういう宏花が、大好きだよ」
澄々が刀を抜く。
伸びる影が、宏花の右脚へ絡みついた。
切先が、ゆっくりと右脚へ触れる。
片腕は、宏花を抱きしめたまま。
宏花もまた、澄々の背へ腕を回し、強く掴まる。
「大丈夫。……俺だけを見てて」
振り上げられた刀へ、宏花は静かに頷いた。
――ガンッ!




