花雫
降り頻る上の怒りに、刃浦の民は抗う術を持たなかった。
それでも、震える掌の中には確かに、希望の灯火が残されていた。
それは、赤子の涙ほどの一雫。
地響きと共に唸り昇る、龍の怒り。
人々はただ、掌の石を握り締めていた。
一筋の涙が頬を伝い落ちた、その時――
――ぱりん
硝子細工がほどけるような音が響いた。
空いっぱいに広がっていたのは、黒く禍々しい靄ではない。
天色の空と、この地を埋め尽くすほどの桜吹雪。
その中心を、一筋の澪が降り注ぐ。
天女のようにも、希望の涙のようにも思えた温かな雫は、迎える花の腕にそっと抱き止められた。
その瞬間――刃浦に、再び色が芽吹いた。
これは、刃浦に伝わる花と雫の愛の物語。
以来、殿上院は花の大庭園として、刃浦の民に親しまれている。
《第二十三章:花雫》
「――盛りすぎじゃね?」
紫雫久は瓦版から顔を上げ、眉を寄せた。
「そしてそして、その一雫を模した石が、こちら。
名付けて“澪の石”と申します」
瑪瑙羽が卓へ、タンッと石を置く。
「初穂料はお気持ちで! さぁ皆さん、今なら並ばずにお手にできますよ!
……って感じか? よく考えたよなぁ」
澄々が商人の口調を真似ながら、石を覗き込む。
あの日、祭りで配られていた石から、蝋梅の香りだけが抜け落ちていることに目を細めた。
「平和なもんだ。
まぁ、あの日刃浦の民を救ったのは、間違いなく瑪瑙羽だけどな」
澄々の腕の中から、宏花が手を伸ばし、瑪瑙羽の頭を撫でる。
銀灰色の髪が、くすぐったそうに揺れた。
「父上を説得するには、ここまでやらないと。
それに、民がこれを手にできたのは柚珠葉の号令のおかげだよ。私の考えなんて、まだまだ甘かった」
瑪瑙羽は、掌の中で淡く光る石を大事そうに握り込む。
澄々も小さく笑い、酒を注いだ。
「……え? お前ら、俺の話聞いてる?」
紫雫久だけが、瓦版を手にしたまま取り残されていた。
「私は良い話だと思うよ?
空から降ってくる紫雫久ちゃん、とても綺麗だったし」
「綺麗って、さよちゃん……。俺、あの時ほんとに貧血で死にそうだったんだよ?」
酒瓶を運んできたさよが、肩をすくめる。
桜が満開を迎えた春の日。
紫雫久たちは、向井領にある浜ゆら庵の二階で花見をしていた。
「ごめんね、書き入れ時に貸切なんて」
「いいえ〜。その分、紫雫久ちゃんがたくさん飲んでくれるんでしょう?」
いつも通りの、したたかな口ぶりに、紫雫久は思わず笑みを零す。
「任せなって! 明日から店休んでもいいくらい、飲んでやるよ」
腕を捲った紫雫久の手から、やんわりと猪口が奪われた。
「……まだ病み上がりだから。加減して」
猪口を受け取った花衣霞が、そのまま酒を煽る。
「あっ、花衣霞! それ珍しいやつだったのに――」
文句を言いかけた紫雫久の顔へ、ふと影が落ちる。
顎を指先で掬われた。
「……んっ、」
覆い被さるような、深い口づけ。
吐息の隙間で、甘い酒の香りが行き交う。
「……これで良い?」
「……………………はい」
そっと口元を拭いながら微笑む花衣霞に、紫雫久は顔を真っ赤にし、小さく声を漏らした。
「お、いいなぁ。澄々、アレやってよ」
「宏花は一滴でも眠くなるんだから駄目」
こちらも見ずに蒲鉾に酢味噌を乗せる澄々。
宏花はわざとらしく大きなため息をついて、澄々の方へ体重をかけた。
紫雫久は赤らむ頬を誤魔化すように、箸を探す。
その視界の端で、さよが盆で顔を隠したまま固まっていた。
「……さよちゃん? 何してるの?」
「わ、わわ私は何も見てないよ! どうぞごゆっくり!」
慌てふためくさよに、紫雫久ははっと口を開いた。
「まさか、さよちゃんまで……!」
殿上祭での一件以来、もともと密かな人気を集めていた花衣霞は、さらに多くの女性たちから支持を得ていたのだ。
「さよちゃんでも絶対駄目だからね!」
「え? な、何が……?」
凄む紫雫久に困惑するさよの肩へ、柔らかな手がそっと置かれる。
「さよさんのこと、困らせないでよ。……紫雫久」
「柚!」
さよの背後から、柚珠葉が口を挟む。
その表情には、どこか張り詰めたものがあった。
「……招待してきたの、そっちでしょ」
目を逸らし、小声でぼやく柚珠葉に、紫雫久は昔、道場の掃除当番で揉めた翌朝の情景を思い出していた。
相変わらず、素直じゃない。
「遅いぞ、柚!」
紫雫久の大声に、柚珠葉はふっと肩の力を抜き、「うるさいな」と呟きながら腰を下ろした。
「いつものお願いね」
「はぁい」
自然に交わされるやり取りに、今度は紫雫久が目を丸くする。
「柚、お前……いつから壊れずにさよちゃんと話せるようになったんだ?」
「失礼な。普通に話せるよ。それに……」
柚珠葉とさよが、ちらりと視線を交わす。
そして再び、紫雫久へ向き直った。
「私たち、婚約してるから」
「エ!!!???」
刃浦中へ響き渡りそうな声だった。
「え、だ、誰と、誰が……?」
「私と、おさよさん」
柚珠葉が、自分とさよを順に指差す。
「な、なんでそんな……大事なこと……言ってくれないんだよ……」
紫雫久はよろよろと、隣に座る花衣霞の腕へ縋りついた。
その様子に、柚珠葉は呆れたように肩をすくめる。
「何でもなにも、あんたが全然うちに帰ってこないからでしょ?」
どきりと、紫雫久は胸元を押さえた。
何度か誘われていたものの、妙に気まずくて、ここまで避け続けていたのだ。
「部屋もあるんだから、さっさと顔出しに来て。
父上も待ってるし、他にも話したいことあるんだから」
「……うん、わかった。あとで行くよ」
その返事を聞き、柚珠葉はゆっくりと酒を傾けた。
「――あとさ、あれもどうにかしてほしいんだよね」
止まらない柚珠葉に、さよは“たまに実家へ帰ってきた兄に、小言が止まらない母”を思い出していた。
「井上の名を興したいって人たち、毎日うちに来るんだけど」
「井上のぉ?」
紫雫久は、心の底から意味がわからないという顔をした。
だが、あり得ないと思っているのは紫雫久だけで、お家再興の空気は刃浦全土に広がっていた。
「近頃は、井上の名に憧れを抱く剣士もいる」
花衣霞は、蒸したかれいの身を丁寧にほぐしながら言う。
「なんでそんな……」
「それだよ。それのおかげ」
柚珠葉は困惑する紫雫久の手元を、とんとんと指差した。
そこにあるのは、“花雫”の瓦版。
希望を描いたその物語は、
井上の忌み名を濯ぎ、
紫雫久を“悪魔”から“希望”へと変えていた。
瓦版を静かに睨む紫雫久へ、花衣霞の声が静かに落ちる。
「……仕方ない。福田瑪瑙羽は、紫雫久が悪魔と呼ばれることを、誰より嫌っていた」
「瑪瑙羽? なんでそこで瑪瑙羽の名前が出るんだ?」
「それを書いたのは、福田瑪瑙羽だ」
紫雫久は、弾かれたように顔を上げた。
瑪瑙羽は、一度だってそんな話を口にしなかったというのに。
酒を酌み交わし、朗らかに笑うその横顔に、紫雫久は大きく息を吐く。
「……降参だ。刃浦を変えたのは、間違いなく瑪瑙羽の力だよ」
そう言って微笑み、瑪瑙羽の方へ乾杯するように猪口を掲げる。
煽った酒は、妙にすっきりと喉を通っていった。
「で? どうするの?」
「何が?」
柚珠葉の問いに、紫雫久は手酌のままきょとんと顔を上げた。
横から伸びた花衣霞の手が、そっと徳利の傾きを直す。
「井上家」
「あぁ、無い無い。澪一だって、神でも何でもないんだから。
それより家といえばさ、高氏の領主は決まったのか?」
宗峯亡き後、高瀬家は高氏の領主権を剥奪されていた。
紫雫久の問いに、柚珠葉は堪えきれないように笑みを零す。
「あぁ、面白かったよ。紫雫久も見ればよかったのに」
つい先日まで高氏では、領主権を懸けて各家の代表が剣を交える武闘会が開かれていた。
家の大小を問わず、すべての高氏家が参加する大規模な大会。
「百を超える家を薙ぎ倒して、優勝したのは高瀬煌羅嘉。
ほんと、笑っちゃうくらい強かったんだから」
「ははっ! 煌羅嘉がその辺のやつに負けるわけないだろ!」
当然の結果だと言わんばかりに、紫雫久は声を上げて笑った。
煌羅嘉は高氏のすべてを、その実力だけで黙らせたのだ。
「ってことは、あいつ領主になったのか?
なんか、あいつだけ人生がやたら早く進んでいくな」
「――お前たちが、のんびりしすぎなんだ」
座敷に、凛とした声が響いた。
「うわっ、煌羅嘉!」
「“うわっ”とは何だ。忙しい中、わざわざ来てやったんだ。
……お前が呼ぶから」
不機嫌そうに土産の酒瓶を卓へ置く煌羅嘉に、紫雫久は“少し前にも似た光景を見たな”と目を細める。
だが次の瞬間、その酒瓶を見て顔色を変えた。
「うわー! お前これ、“金鴉ノ”じゃん!
おい、澄々! 瑪瑙羽! すごいの来たぞ!」
飛び上がって喜んだ紫雫久は、酒瓶を抱えて澄々たちの卓へ駆けていく。
煌羅嘉は深々と息を吐き、指先で卓を三度叩いた。
「……お前も、大変なやつと一緒になったな」
「君ほどではない」
花衣霞が静かに応じる。
「茶化すな。俺は婚儀以来、一度も会ってないんだよ」
婚姻関係こそ結んでいるが、宮籬との関係は今も保留のままだ。
あれはそもそも、宗峯の計画の一部として結ばれたもの。
自らの手で葬った父の三回忌までは、自身の領地のために尽くすつもりでいる。
ぼんやりと右の掌を見つめていると、ひときわ大きな歓声が耳に届いた。
視線を向ければ、紫雫久と澄々、瑪瑙羽が“金鴉ノ”の味に感激して騒いでいる。
「……悪くないな」
煌羅嘉はわずかに口端を緩め、静かに酒を煽った。
「――綺麗な桜」
桜並木を歩く誰かのつぶやきが、宏花の耳をくすぐる。
うつらうつらと揺れる重たい瞼を、陽の光が柔らかく照らす。
つい先ほど、膝の上から無理やり奪った口づけには、酒の味が残っていたようだ。
宏花は窓際へもたれ、外の花見客たちをぼんやりと眺めた。
微かに聞こえてくるのは、刃浦の民の笑い声。
「ほんと。今年は開花が早いらしいね」
「来年はどうかしらね」
そこに確かにある未来へ、宏花は静かに微笑む。
そのままゆっくりと、眠りについた。
――終




