余された理は血に染まる
――ドン!
――――ドン!
昼花火の音を遠くに、民衆は、殿上祭の開かれる宮籬へと押し寄せていた。
高瀬、佐藤、黒木、向井、福田。
五領と宮籬とを渡す五本の大橋は人で埋め尽くされ、活気に満ちていた。
「水菓子ー、水菓子はいかがかー!」
「りんご飴! 甘いよ!」
橋の麓では、人波を利用した商いも盛んだ。
人々は行きしなに買った思い思いの品を手に、今日という日を思い出にしていた。
「綺麗な石だな。どこで買ったんだ?」
「あっち。これは縁起の良い配り物なんだって」
「そりゃ、もらわにゃ損だな!」
行き交う人々の指先で、雫型の石が陽を弾いていた。
「――よく賑わっているな」
櫓から民衆を見下ろす宗峯は、呟いた。
「行商の届もない者がほとんどですがね。
本当に人間は、少し許せばどこまでもつけ上がる」
朧面主は面の内側から民衆を睨む。
民衆を見る目より、蠢く虫を見る目の方がまだ感情的だった。
「取り潰しますか?」
「良い。いくら稼ごうと、宵越しの金にもならん」
屋台の中には、福田領の“剣に独楽”の紋が散見される。
宗峯は、呑気なものだと視線から外した。
「それもそうですね」
朧面主は笑みをこぼし、窓枠に身を寄せた。
「あぁ……今から、楽しみですね」
民衆の笑顔。期待。善性の気の緩み。
これらが一気に反転すれば、もう一体二体、殿上を復活させられるだろう。
そう思った瞬間、自身の口元が吊り上がっていることに気づいた。
「では、井上紫雫久を迎えてまいりますね。
……ありがとうございます。宗峯様に拾っていただいてから私は、こんなにも人生は素晴らしいと知りました」
「私もだ」
宗峯が、朧面主の一礼する肩に手を乗せる。
「…………最期まで、楽しむといい」
昼花火の轟音が、言葉を掻き消した。
秘色の背が振り返ることは、無い。
《第十九章:余された理は血に染まる》
文が届いたのは、殿上祭の始まりを告げる鐘よりも早い朝方だった。
――表殿、薄氷の間にてひとり待つ
「……恋文じゃあるまいし」
紫雫久は卓へ投げ置き、酒を煽った。
文からは雪色の髪が落ち、差出人が朧面主であることを表していた。
「行くのか?」
澄々の声が飛ぶ。
見れば、いつものように魚を丁寧にほぐしているところだった。
「あぁ。あいつは上の復活にも関わってるだろうし……
宏花を助け出すにも、あいつは足止めしておいた方が良い」
宏花の名に、澄々の箸が一瞬止まる。
目を凝らして見ないとわからないほどの瞬間。箸は再び魚の小骨をつまんだ。
澄々はあれ以来、気味が悪いほど普段通りだった。
「私も行こう」
花衣霞は文を手に、紫雫久をまっすぐ見た。
「紫雫久一人では危険だ。相手は何を持って待ち構えているかわからない」
「うん……。でも、あいつの言う“ひとり”を無視できるほど、簡単な相手でも無いだろ?」
「しかし……っ」
尚も食い下がろうとする花衣霞に、紫雫久は笑みを浮かべる。
「それに、花衣霞にはやってもらいたいことがあるんだ。
殿上院が開かれてから、花衣霞は高瀬宗峯の動きを見ていてくれ」
何も言えず奥歯を噛む花衣霞。
紫雫久は、筑前煮の蒟蒻を花衣霞の皿へ移した。
「お前だから、頼むんだぜ?」
「…………わかった。では紫雫久も、深追いをしないと約束して。
目的は彼の命ではない」
「うん。約束」
絡む小指に、いつかの祭りの記憶が胸を掠めた。
――辰の刻
宮籬の開門に合わせ、橋前は大きな人だかりとなっていた。
仲間との談笑。屋台に並ぶ色とりどりの品々。
浮き足立つ民衆は、二つ隣を歩く人間の顔など気にも留めない。
「こんなに活気のある刃浦なんて、いつぶりだ?」
「高瀬のことだ。せいぜい、今のうちに楽しんでおけってことだろうな」
澄々は紫雫久へ視線を向けないまま、串を咥え言った。
「殿上が姿を現すのは、殿上院の大庭――巳の刻だ」
「あぁ。それまでに片をつけないとな」
紫雫久は、おもむろに小石を花衣霞へ渡した。
「……これは?」
「なんか配ってた。
暖簾に福田の紋も入ってたし、変なものじゃないと思うぞ」
手の中で煌めく小石は、硝子細工のように繊細な光を反射している。
雫型のそれを、澄々はじっと見つめた。
「どうかしたか?」
「……気のせいか、宏花の…………いや、何でもない」
澄々は視線を外し、言いかけた言葉を飲み込む。
その代わりのように、
「福田も大忙しだな。今朝も瑪瑙羽は、家に呼ばれて出て行っただろ?
まぁ、戦いになるよりはその方が安心だ」
そう言って、通りがかった振り売りから石を受け取った。
「なぁ、澄々…………」
「俺は神務区から回り込んで宏花を探す。
頼んだぜ。俺と宏花が会えるかは、お前にかかってるようなもんなんだから」
紫雫久の言葉を遮るように、澄々は続けた。
背中を軽く叩かれ、振り向いた時には、もうその姿は人波へ紛れている。
「……あまり、心配されたく無いのかもしれない」
「それでも、心配はしてやりたいよ」
宮籬の門は、もう目の前まで迫っていた。
朝五ツ半を告げる鐘が響く頃。
紫雫久と花衣霞は、大庭へと足を踏み入れた。
「おぉ……わざわざ作ったのか? あの舞台」
殿上院から大庭へと迫り出した舞台は、人で埋め尽くされた後方からでもよく見える。
期待に胸を膨らませる民衆を前に、花衣霞の表情は晴れない。
「どうした? まだ何か気になることがあるのか?」
「……あの“核”は……」
こぼれ落ちた呟きに、紫雫久はそっと耳を寄せた。
「私が見た時にはまだ、復活には力が足りないように感じた。
……にも関わらず、高瀬は何を見せるつもりなのか」
見えない思惑が、花衣霞の胸で靄のように燻っている。
「それも含めてさ、俺が聞いてくるよ。な?」
紫雫久が花衣霞の手を取り、柔らかく握った。
その、強く握り込むことのできない右手に、なぜかひどく安心してしまう。
「……夢の中では、この手を取ることができなかった」
「花衣霞ならできるよ。だってここは、現実だろ?」
「うん」
微笑みが重なった、その時だった。
二人の背を、強い風が吹き抜ける。
「――わっ……髪、伸びたな」
「綺麗だと思う」
花衣霞は、乱れた紫雫久の髪を優しく梳いた。
「でも戦いには邪魔だろ? 切るか」
刀を抜こうとする紫雫久を慌てて止め、花衣霞はそのまま髪を結い始める。
以前、佐藤の街でそうしたように。
「あ、これもあるぞ」
紫雫久が取り出したのは、あの時花衣霞が挿した簪だった。
「……持っていたのか」
「当たり前だろ! 桜の花弁がかわいいし、花衣霞がくれたものだしな」
「うん。似合っている」
桜の花弁を揺らす後ろ姿に、花衣霞は春の訪れを願った。
遠ざかる紫羽色の髪は、殿上院の影の中へ黒く溶けていく。
花衣霞は己の刀を撫で、祭殿を静かに睨み据えた。
「――柚珠葉」
「、父上」
「何を……珍しいな、玻蓮珠か」
「はい。以前……福田瑪瑙羽を助けた際に、いただいたものです」
「綺麗なものだ。扱いには気をつけるんだぞ」
鵜匡は柚珠葉の頭を軽く叩くように撫で、部屋を後にする。
柚珠葉は手の中の蓮を握り、窓の外に望む殿上院を見つめた。
大庭の賑わいとは裏腹に、殿中は人気もなく、本来の静謐を取り戻していた。
紫雫久は、欄間に嵌め込まれた飾り硝子を見上げる。
木目の温もりを断ち切るようなその冷たさは、まるで薄氷そのものだった。
――薄氷の間。
引き手を、静かに滑らせる。
部屋の中央には、氷瀑を思わせる雪色の髪が、こちらへ背を向けたまま鎮座していた。
「…………おや。絶好の機会だというのに。
斬り込んではこないのですか?」
静寂を破るように、朧面主が口を開く。
「斬りかかった瞬間、こっちがお陀仏だろ?」
紫雫久は鞘の先で、目の前の畳をとん、と叩いた。
次の瞬間、目の前を鏃が鋭く横切る。
「あといくつ仕込んであるんだ?」
「そう多くはありませんよ。宗峯様は、少々心配性でして」
朧面主は静かに立ち上がり、紫雫久を見据える。
きり、と鳴った右腕には、既に大太刀が握られていた。
「――では、楽しい時間を……」
朧面主の右足が、円を描くように畳を滑る。
「……始めましょうか」
大太刀が空を斬り、構えの姿勢となる。
同時に、欄間の硝子が一斉に割れた。
「ッ!」
煌めく破片に目を細める前に、朧面が眼前へ迫っていた。
胸ぐらを掴まれ、そのまま部屋の奥へ投げ飛ばされる。
受け身を取る勢いのまま、刀を抜いた。
「――ぐッ!」
振り下ろされる大太刀は、岩塊のように重い。
「その刃、いつまで保ちますかね?」
「心配、いらねぇよ!」
手首を返し、その重みを受け流す。
振り抜かれた刃を、畳へ背を落とすことで回避した。
大太刀の切っ先が畳へ深く突き刺さる。
その隙を縫い、朧面主の脇腹へ刀を振り上げた。
「……その腕、作り物のお前にはお似合いだな」
狙いの外れた二の腕から、血は滴らない。
裂けた着物の隙間から覗くのは、生身ではなく木目だった。
「えぇ。便利なものですよ」
振り上げた刃が紫雫久の頬を掠める。
そのまま手首を一回転し、続けざまに斬撃を叩き込んだ。
「貴方も、そうしてしまえば良かったのに。
こんな……脆い手を残しておかなくても」
「ただでさえ間合いが読めねぇのに……厄介な奴だな……ッ!」
紫雫久は、ふっと右手を離した。
瞬間、押さえを失った朧面主の刀身が前へ傾ぐ。
がら空きになった鳩尾へ、一閃。
受け身を利用し、奥の襖際へ距離を取る朧面主。
紫雫久はゆっくりと立ち上がる。
押さえた左肩からは、着物の色を変えるほど血が流れていた。
「――ッげほ、げほッ」
腹に深い傷を負った朧面主もまた、吐血しながら立ち上がる。
「……お前にも、多少は効くんだな」
「何を――」
紫雫久が、一気に間合いを詰める。
腹の傷をわずかに庇う左の軸足を狙い、姿勢を低くして斬り込んだ。
たたらを踏んで崩れた朧面主へ、そのまま馬乗りになる。
衝撃で、朧面主の面が床へと転がり落ちた。
紫雫久は右手の義手を、縫い止めるように深く突き刺す。
荒い呼吸だけが、部屋を満たしていた。
「……この腕……斬られた腕は、生えてこないんだな」
「何を、当たり前のことを……」
朧面主の眉間が、わずかに歪む。
「お前たちなら……その程度、繋ぎ直せるかと思ったが……」
紫雫久の手が、朧面主の心臓の上をゆっくりとなぞる。
その瞬間。
朧面主の背筋を、粘つくような悪寒が這った。
「悪魔も、人間とさほど変わらないんだな。
なぁ――久遠依更羅……」
その名を聞いた瞬間。
朧面主は、胃の奥からせり上がる嫌悪そのままに、紫雫久を蹴り飛ばした。
右手を留める刀ごと木が裂けるのも厭わず、無理やり上体を起こす。
「――ぅ、ゔエ゙っ……ッ、お゙えぇぇ!」
びちゃびちゃと、色の無い体液が畳を汚した。
震える肩は、寒気に侵されている。
「誰から……あぁ、あいつからだ。
あいつが、あいつだ、あいつの、あいつ、あいつだ……あいつから聞きましたね」
吐き出される声は、もはや独白に近い。
「許さない……あの……ッ、あの悪魔、怪物、ゔっぇ……」
腹を押さえ、蹲ったまま言葉を零し続ける。
「ははっ、ふ、ふふはは……。
これで魂を縛ったつもりですか? 井上紫雫久?」
「お前も、あいつと同じだ。
許さない……終わらせる。終わり。終わりです」
絶え間なく言葉を垂れ流しながら、朧面主はゆらりと立ち上がる。
その様子を、紫雫久は黙って見据えていた。
「……悪魔にとって、真名は命を握られているのと同じだ。
これでお前は……俺に勝つことはできないはずだ」
朧面主は言葉を止めた。
そして震える両手で顔を覆い、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
沈黙の後。
水面から浮かび上がるように、朧面主は顔を上げた。
「――えぇ」
紫雫久は一瞬たじろいだ。
この場に似つかわしくない、朗らかな笑みだった。
「なら、どうしますか? このまま私を殺しますか?」
無意識のうちに、刀を握る右手へ力がこもる。
「お前を無効化したも同然だ。今更、怖いものなんて――」
「ははっ! あっははは!!
甘い。甘いですよ。だから貴方は、何度も死にかけるんです」
そう言って朧面主は、後ろ手に部屋の奥の襖を開いた。
薄暗い小部屋。
その奥には、視界を遮る御簾。
「この御簾の向こうに、何があるかわかりますか?
上が御出でなさるのを、今か今かと待ち侘びる愚昧な民衆……」
「お前……ッ!」
紫雫久の心拍が、大きく二度鳴った。
「貴方を殺せずとも……貴方の守りたいものなど、すぐに壊してしまえますよ」
その時。
巳の刻を告げる鐘が、鳴り響いた。
御簾の向こうから微かに、口上を述べる宗峯の声が聞こえる。
その声に振り返った朧面主は――確かな違和感に、動きを止めた。
(――上を模した人形が、無い……?)
宗峯は確かに、そう計画を話していたはずだ。
(しかし儀は進行している。気づいていないのか?
それとも、裏切――ッ!)
隙を突いた紫雫久の体当たりが、その背を打つ。
体勢を崩し、膝をついた場所は、上が座すはずの座布団の上だった。
(警備は……誰もいないのか……!?)
巡らせる視線の中、遠くから近づく足音が響く。
朧面主はその音に、口元をにやりと歪めた。
「さぁ、井上紫雫久――私を、止めてみせてください」
「久遠、依更羅ぁぁッ!!」
紫雫久が、大きく刀を振り上げる。
『――上殿、御出であらせられる』
宗峯の口上に、民衆のざわめきが大きく膨れ上がる。
筋書き通りの展開に満足を覚えた、その時――
「紫雫久!」
声と共に、硝子の砕ける音が響いた。
その瞬間、紫雫久の体は石像のように硬直する。
(柚……!? なんで……!)
柚珠葉の存在に、一瞬、意識が逸れた。
『きゃあああっ!!』
御簾の向こうから劈く悲鳴が、意識を引き戻す。
顔に、濡れた何かが飛んだ。
そう思った瞬間には、目の前の朧面主から夥しい血飛沫が噴き上がっていた。
「……な、ぜ…………ッ……うら、……」
目を見開き呟いた朧面主が、そのまま崩れ落ちていく。
首筋には、鏃が深々と突き刺さっていた。
(何が……、何が起こってる……っ)
『警備は何をしている! 捕えろ!!』
御簾の向こうで、宗峯の怒号が飛ぶ。
「大人しくしろ!」
剣警士の怒声と共に、固まる紫雫久の体が押さえつけられる。
混乱の最中。
御簾が崩れ落ちたのは、紫雫久が膝をついたのと、ほぼ同時だった。
「……井上、紫雫久…………」
快晴の下。
名を呼ぶ宗峯の口端に、抑えきれない笑みが浮かぶのを見た。




