廻りて今、破はすぐそこに
雪を踏み締める荷運びの音と、飛び交う掛け声。
殿上院の中に響けば、木を打ち据える音すら、不思議と神聖なものに聞こえた。
「宗峯様! こちらの祭殿も、間もなく完成にございます」
「励めよ」
「はっ!」
殿上院の一角。大庭へ迫り出すように、新たに建設される祭殿。
完成を目前に、職人たちは活気づいていた。
「あぁ……ここに殿上様が御出でなさるなんて」
「信じられねぇよな! 俺は末代まで語り継ぐ」
「今の殿上様が……五代目か? 民のために御決断くださって」
「本当に。ありがてぇよなぁ」
「――平和なものですね」
「殿中では面を外せと、言わなかったか?」
「誰も、見てはいませんよ」
視線を外へ向けたまま言う宗峯に、朧面主はくつくつと笑う。
祭殿と殿中を隔てる御簾の内側。
外の喧騒から切り離されたその場所は、狭く、暗く、華やかさとは無縁だ。
「良いのですか? アレは、復活するにはまだ足りないでしょう」
「良い。佐藤の伍剣に細工が見つかった。
あれではどのみち、碌な復活はしないだろう」
「佐藤……やはり、創世の血は邪魔でしかありませんね」
朧面主は、爪と肉の隙間の汚れをこそぎ落としながらつぶやく。
「なに、方法などいくらでもある。
要は……私が英雄になれれば良いのだ」
宗峯は朧面主を見やり、にやりと笑った。
「民衆がこれから信じるのは、ここに置かれたただの人形だ。
これまでと、大差ない」
小さく置かれた座布団。
刃浦の主が鎮座するには、あまりにもお粗末だった。
「お前は井上紫雫久を誘き出し、ここで刀を抜かせればいい。
上の御前で刀を抜いた裏切り者の井上。それを私が処刑する。
――これで、民は高瀬宗峯を救世の英雄と讃えるだろう」
宗峯が、ゆっくりと朧面を剥がす。
浮かび上がる表情は、面よりもなお無機質だった。
「……周回を繰り返して、ずいぶん簡潔な答えに落ち着きましたね」
「悪いか?」
「いいえ。
宗峯様の、仰せの通りに」
恭しく下げられた頭に合わせ、雪色の髪がしなだれ落ちる。
雪糸の隙間から覗く首筋を、宗峯はじっと見据えていた。
《第十八章:廻りて今、破はすぐそこに》
「――じゃ、始めるぞ」
澄々の声が落ちるや否や、蝋梅の香りに包まれた。
眉間に岩を詰め込まれたようなだるさとともに、視界の端が黒く滲む。
「――ッ」
「まだ、もう少し進めるぞ」
澄々は花衣霞の影に重ねた手を、ぐっと押し込む。
さらに濃くなる蝋梅の香りに、足元が揺らぐような感覚が走り、船酔いにも似た不快感が込み上げた。
「ちゃんと目を開けろ。そろそろ見えてくるはずだ」
花衣霞は眉間を押さえていた手を離し、前を見据える。
ぼやけていた視界はやがて輪郭を結び――目の前の壁の奥に、扉が浮かび上がった。
「これが、幽現。普段は見えない幽界の景色で……おそらく、清井宗進に見えていたものだ」
殿上院の内殿へと続く廊下。
澄々と花衣霞は、清井宗進の遺した地図で“扉”として描かれていた壁の前に立っていた。
「君たちは、毎度この痛みに耐えているのか」
「いや? 今はもう慣れたもんだけど。段階を踏めるだけありがたいと思えよ〜」
痛みに眉を寄せる花衣霞。
澄々は軽く笑い、幽界の扉を押し開けた。
その先に広がっていたのは、果ての見えない、ただの黒。
冷気だけが立ち上るその黒へ、澄々は慣れた様子で踏み入る。
花衣霞はわずかに躊躇い、指先でそっと触れた。
水のように、やわらかな弾力。
ひとつ、大きく息を吐き――
その黒の中へと身をくぐらせた。
水の中を歩くような重だるさに、夢の中の不自由さを思い出しかけたその時、ふと体が軽くなる。
視界が開け、目の前には静かな山間が広がっていた。
「こんな場所に繋がってるとはな。どうりで、あの絵と間取りが合わないわけだ」
澄々は道端に生える木の葉をちぎり、ふっと息を吹きかけて飛ばす。
花衣霞はその言葉を聞き流しながら、点在する岩に括られた注連縄へと視線を落とす。
その注連縄には、見覚えがあった。
「もう痛みは引いたか? あんまり長く発動してると俺も危ないんだ。手短にいくぞ」
花衣霞の顔を覗き込んだ澄々は、そのまま先へと歩き出した。
返事を待たないせっかちな気質は、木氏の気風以上に際立っていると花衣霞は思う。
「陰陽術は、近くに触れる人間にも幽現の影響を与えることができると言ったが」
花衣霞は、少し先を行く澄々の背に言葉を投げる。
「あぁ。それが今、お前に与えてる影響だ」
「以前、柳木宏花に“猫”を借りた時には、何も感じなかったが――」
「それ!」
花衣霞の言葉に、澄々は勢いよく振り返った。
びし、と突きつけられた指に、思わず足を止める。
「宏花はそこの調整も上手すぎるんだよ!
俺にはまだその感覚がわからん。本当にすごい。最高。はぁ……」
一気にまくし立てたかと思えば、最後には肩を落とし、そのまま歩き出す。
岩を削っただけの、岸壁を歩いているとは思えない足取りだ。
「……なら、君ではなく柳木宏花がここに来ればよかったのでは?」
「それは無理」
背中越しに、硬い声が返る。
「何故?」
「俺が嫌だから。宏花はなんでか、お前のことをやたらと気に入ってるから」
表情を見ずともわかる。
その声音の低さが、心底気に食わないという感情を如実に示していた。
花衣霞はそのわかりやすい反応に、ふっと笑みをこぼし、歩調をわずかに速める。
「黒木澄々」
澄々の肘を掴み、強く自分の側へ引き寄せた。
「なん――、うわ」
その瞬間、澄々の進もうとしていた先の崖が、大きく崩れ落ちる。
あのまま進んでいれば、同じように転落していただろう。
「やはり……」
崩れ落ちる崖を見下ろし、花衣霞が呟く。
「もしかして、これが夢で見たあいつの死に場所か?」
花衣霞は黙って、わずかに頷いた。
前を走る紫雫久を追う焦燥と、落下するその姿に手が届かない無力感が胸を突く。
(やはり、ここに紫雫久を連れてこなくてよかった……)
「ていうかよぉ」
澄々が腕を組み、花衣霞を睨み据える。
「知ってたんなら、もうちょい早く言ってくんね?」
「……善処しよう」
その言葉にふっと笑みを溢し、澄々は別の道を探し始めた。
すれ違いざま、花衣霞の肩をひとつ叩く。
「禁域でこれじゃあ……宏花の言う通り、死地のあいつは大丈夫なのか?」
その言葉に花衣霞は答えられず、ただ紡響を強く握りしめた。
「……連絡、した方が良い……よな?」
再び訪れた無明野を前に、紫雫久は紡響を手に逡巡していた。
花衣霞と対になるこの鏡は、連絡用として開発されたものの、未だ有効な伝達に使われたことはない。
ことあるごとに花衣霞がその存在を印象づけてくるため、忘れることはなくなったが――
「逐一って……い、いつのことだ……?」
紫雫久にとって、過程を共有するという行為は未知の領域だった。
それでも、何かしてやりたいという気持ちだけが、紫雫久を悩ませる。
(無明野に着いたぞーって?
いや、最初から行くって言ってるんだからそりゃ居るだろ。
これでもし紅霞坂なんかにいるんだとしたら、予定が変わってるんだから……。
でも最終的に無明野行くんだったら問題なくね? 寄り道を報告されてもなぁ)
ばりばりと頭を掻く。
思考が散らばりかけたその時、紡響がぼんやりと光を帯び、文字が浮かび上がった。
――殿内幽着
花衣霞からの伝達だった。
「殿中の……幽現の、先に着いたんだな。よかっ…………」
言いかけて、はっとする。
「これが……、そうか……」
紫雫久は、確かな温もりを胸に感じながら、紡響に文字を送った。
――無明野着
「――よし」
一呼吸置き、無明野の入口――黒く冷たく、先の見えない鳥居を潜った。
闇の中を、一匹の蝶が目の前を掠めた。
追うように踏み出した先に現れたのは、床に物が散乱した一室。
その奥。
上段には、仏のような笑みを浮かべて座す存在があった。
「今回は、えらく簡単に迎え入れたな――綺夜」
「えぇ。貴方はここを訪れると、話していたでしょう?」
合わせた両手に頬を寄せる。
浮かぶ笑みの底は、見えない。
「お前は、」
なぜだか妙に緊張した。
すべてを知った上で言葉を紡がされているような……綺夜の視線には、抗えない焦燥があった。
「……お前は俺に、帰郷骨をくれたよな」
「えぇ、お役に立てたなら何よりです」
懐から取り出した木箱に、綺夜はどこか懐かしむような視線を向ける。
「これは井上の血を辿るための道具だったはずだ。
だが、朧面主はこれを見るなり血相を変えて“渡せ”と叫んだ」
いつも人を翻弄し愉悦を浮かべる朧面主からは想像もつかない、まるで仮面が剥がれ落ちたかのような様相だった。
「なぜ、あいつはこれを欲しがった?
これには、道具としてだけじゃない別の意味があるのか?」
紫雫久の問いに、綺夜の弄んでいた指先が止まる。
そして――
「あっはは! それだけのために?」
突き抜けるような笑い声だった。
綺夜はまるで寄席でも見たかのように笑い、目尻の涙を拭う。
「貴方は本当に……その力があれば刃浦なんていくらでも書き換えられるでしょうに。
あんな糟の方が興味がありますか……ふふっ」
紫雫久は刀に触れそうになる右手を、深く息を吐いて押し留めた。
この手の相手の価値観に、正面から反応していてはこちらが保たない。
綺夜は笑いを引き摺りながら続ける。
「えぇ、えぇ。さぞこの木箱が欲しいでしょうね。
だって――私を殺せるかもしれないのだから」
「……は? これが……?」
紫雫久は思わず手元を見た。
(こんな、占具に近い呪具が? ましてやこれは使い終わったやつだってのに……)
「貴方の疑問ももっともでしょう。
帰郷骨が私を殺すのではありません。
彼は、私由来の“物”を媒介に、私へ攻撃をしたいのです」
「物なら何でも良いってことか?
いや、それ以前に何でわざわざそんな回りくどいこと……」
綺夜が指を、く、と曲げた。
その動きに呼応するように、木箱が紫雫久の手から綺夜の元へと引き寄せられる。
「あれは……私との勝負には勝てないんです」
箱から帰郷骨を取り出す。
掌に乗ったそれは、砂のようにさらさらと形を失い、消えていく。
「決して弱い個体ではないですが……あぁ、貴方はよく知っていますね。
私との勝負には勝てないんです。絶対に」
綺夜の浮かべる笑みに、背筋が凍る。
喜怒哀楽のいずれにも属さない笑みだった。
「能力なんかじゃあない……そういう、仕組みなんです」
綺夜は木箱をぐしゃりと握り潰す。
粉々になった箱はこぼれ落ち、塵となる。
「……朧面主は、お前に正面からでは勝てないから、奇襲に賭けてるってことか?」
「えぇ」
にこりと笑った。
(箱を欲した理由を探れば、あいつの弱味も握れるかと思ったが……結局、綺夜が規格外なだけか)
「複雑な師弟関係だな」
「いいえ、私が師でなくとも。この仕組みは変わりません」
(……ん?)
綺夜の言葉に、何かが引っかかる。
右手は自然と、中指の爪を擦っていた。
(あいつは“仕組み”と二度言った。
力の拮抗や契約なら、こんな言い方はしない……)
揺れるつま先が、赤い鞠を転がす。
(勝てないだけで、殺せないわけじゃない……個人的な制約じゃなくもっと広い、世界の“仕組み”のような…………)
「いや……まさか、」
思わず漏れた声に、綺夜はうっそりと笑みを浮かべた。
まるで、その推測を肯定するかのように。
「……朧面主の、真名を教えろ」
紫雫久の声が、空間を凪がせる。
「それが俺の願いだ」
「――嫌ですねぇ、」
綺夜がそう口にした瞬間には、すでに背中を床に打ちつけていた。
紫雫久の左手が首を掴み押さえ、耳元には刀が突き刺さっている。
「せっかちですね」
「お前に合わせていたら、また有耶無耶にされかねないからな」
ぐ、と体重をかける。
気道を塞いでいるはずなのに赤くもならない首に、目の前の存在が人でないことを痛感する。
「剣が強い方が優位でしたっけ?
そういう刃浦のルールも、見直した方が良いと思いますけど……ねッ」
「……ッ!」
綺夜の足が鳩尾を蹴り抜き、体が吹き飛ぶ。
「ですが、たまにはそれに則ってみましょうか。私が勝ったら、多めに対価をいただきましょう」
綺夜の手に黒い蝶が群がり、やがて刀へと変わる。
立ち上がった綺夜は、左手に握る刀を軽く回す。
襷でも揺らしているかのような、柔らかな動きだった。
(左か……少し厄介だな)
紫雫久は右手の刀を握り直す。
どくん、と刀が喉を鳴らした。
それを合図に踏み込む。
振りかぶった刃は綺夜の鍔に受け止められ、鈍い音を響かせた。
力をかける間もなくいなされ、下がる肩に刃が掠る。
受け身を取るのが半拍遅れた。
「――くそ、」
床に散らばる雑貨を蹴散らし、再び間合いを詰める。
綺夜は構えすら取らない。
なのに、なぜか隙が見えない。
紫雫久は倒れた棚を蹴り、半身を浮かせるように回転した。
鍔同士がぶつかり、火花が散る。
またも受け流される軌道。
その流れに合わせ、紫雫久は刀を左手へ滑らせる。
回転の勢いを殺さぬまま右手へ戻し、そのまま耳元へ斬り上げた。
綺夜の耳の付け根から、ぱっと血がしぶく。
一拍遅れて、綺夜は飛沫をちらと見た。
「……あれに刀を抜かせただけありますね」
「二人の悪魔に刀を抜かせたなんて、刃浦で俺だけなんじゃないか?」
「悪魔は貴方もでしょう?」
首筋の血を気にも留めず、笑みを浮かべる綺夜。
それは不気味というには陳腐で、胃の奥が重く痛むような光景だった。
「……本物には負けるよ」
紫雫久は刀を構え直す。
右手の指がわずかに震え始めたのを感じ、その刻限を悟る。
(……次で仕留める)
そう思った時、綺夜が自身の刀を指でなぞった。
瞬く間に蝶の群れが紫雫久の視界を埋める。
――羽の隙間から、綺夜の笑みが浮かぶ。
(まずい……!)
視界の端が、わずかに光った瞬間、
鋭い風切り音が目の前を掠めた。
咄嗟に頭を仰け反らせなければ、目をやられていた。
次いで、床を踏み込む音が聞こえる。
(来る!)
しかし構えに衝撃は来ない。
一瞬の疑問。その隙に、二の腕へ振り抜かれる。
「――ッあ゙」
裂けた袖の隙間から血が覗く。
どくどくと溢れる赤は、着物を広く染めていく。
(……困ったな、花衣霞が泣く)
「たかだか人間が感じ取れる五感に頼っていては、いけませんよ。
ここは、貴方の住む世界とは違うのですから」
膝をつく紫雫久のもとへ、綺夜が歩み寄る。
その影はゆらりと濃く、床に映っていた。
「対価は何にしましょう?
呪いをかけますか? それとも記憶でも良いですね。
貴方の場合……腕でも、もら――ゔ、ぐぁ……ッ」
突然、綺夜が崩れ落ちる。
押さえた脇腹から、血が滴っていた。
「……陰陽術……。なぜ貴方が使えているんでしょう?」
睨みつける綺夜の視線の先。
紫雫久は、その刀で綺夜の“影”を深く突き刺していた。
「やっぱりこの術は幽界のものだったか……。使っている時の感覚を聞いておいてよかった。
……お前が、ここは違う世界だって言うから、ピンときたんだよ」
紫雫久が息を詰まらせながら、にやりと笑う。
心臓を何かに掴まれているかのような強い疲労感が、全身を覆っていた。
(これが澄々の感じている圧迫感か……。確かにこれは、しんどいな……)
「綺夜! 朧面主の真名を教えろッ!」
蹲る綺夜に向かって叫ぶ。
さらに刺し込んだ右手は、すでに限界を訴えている。
床を照らす蝋燭の火が、大きく揺らいだ。
「これで勝った気に……ならないでくださいね」
綺夜の手が床を這った瞬間、影を思い切り引き寄せた。
紫雫久は足を取られ、床を滑る。
「――ッ!」
気づけば、その体は綺夜の檻の中にあった。
両腕は綺夜の手によって床に縫い止められ、
胴体は馬乗りになった綺夜に押さえつけられている。
しな垂れる雪色の髪が外界を遮り、綺夜だけが視界を埋めていた。
「はぁ……っ、はっ、……ぁ……」
思考が白く塗り潰される感覚。
戦闘の最中に何も考えられなくなったのは、初めてのことだった。
綺夜がゆっくりと、確実に笑みを浮かべる。
「対価は……ここにしましょう……ね……」
綺夜の手が、着物の合わせ目を潜り、鳩尾をなぞる。
くすぐったさすら感じず、ただ息を吐くことしかできずに、その指の感覚を追う。
「一本だけですから……」
着物を剥がれ、晒された鳩尾に鳥肌が立つ。
そこへ、綺夜の口がゆっくりと近づく。
「……少し、痛みますよ」
「――ひ、ぅ……ぁ……ッ! あ゙ぁ!」
紫雫久の体を駆け抜けたのは、視界が赤く染まるほどの痛み。
鳩尾を鋸で削られるような痛み。
もがいても逃れられない痛み。
「あ゙ーーッ、ん、ぐゔ……ッ、うあ゙」
やがて、意識が二重、三重に遠のいていく。
痛いのか、痛くないのか、それすらわからなくなっていく。
深い沼に沈むような倦怠感。
頭の先から寒さが這い上がり、視界が黒く滲んでいく。
視界の中できらめく埃を目で追い始めた頃――
「有り難く、頂戴致しました」
綺夜が、口元を手で拭った。
そして、ゆっくりと耳元に口を寄せる。
『久遠 依更羅』
「しっかり、覚えていてくださいね」
「どうした? 気配の方向が変わったか?」
幽界の森を歩く中、ふと立ち止まった花衣霞に、澄々が声をかける。
「……いや、なんでもない」
花衣霞は胸をよぎったわずかな嫌な予感に、紡響を握りしめた。
あれ以来、紫雫久からの連絡は無い。
「便りがないのは元気な証って言うだろ?
あいつは強いよ。心配しすぎだって」
澄々は隣に並び、肩を軽くぶつけた。
「それより、伍剣の気配はこっちで合ってるんだよな?」
「あぁ……。この洞窟の奥だ」
山中に隠れるように、密やかに口を開ける大きな穴。
地下へ続くように開いた洞窟の奥は、先が見えない。
底から、わずかに伍剣の気配を感じた。
「お前が伍剣に細工をしてくれて助かったよ。じゃなきゃ、ここでいつまでも彷徨うところだった」
澄々は懐からマッチ箱を取り出し、火をつける。
小型の龕灯を手に、洞窟の奥を照らした。
「この先に伍剣があるなら……取り戻しちまえば、あちらさんも復活の儀はできないだろ」
急かすように進む澄々の背中。
花衣霞は紡響に文字を送り、足元の灯りを追った。
洞窟の奥で、二人は立ち止まる。
灯りが照らしたのは、二人の頭よりも低い位置にある木の扉だった。
「猫の勝手口みたいだなぁ」
呑気に呟く澄々の言葉を無視して、花衣霞は扉を引き、中へ進む。
「なんか言えよ、幽現切るぞ」
「…………あ」
小言に返ってきた花衣霞の一言に、澄々は子供かよ、と思いながら扉をくぐる。
そして、その先へ目をやり――
「…………あ」
同じ言葉をこぼした。
そこにいたのは、龍。
絵巻でしか見たことのない空想上の生き物が、目の前で息をしていた。
一枚一枚が、手を広げたよりも大きな鱗。
長屋を三周はできそうなほどの体躯。
眠る瞳がもし開かれようものなら、睨まれるこちらは蛙どころか、蝌蚪に等しい。
「これは……実在するのか?」
「そりゃぁ……俺たちが見てるのは幽界で、幻覚じゃないから……」
「……では、戦闘になれば」
「確実に、俺たちが死ぬだろうな」
龍から目を逸らさぬまま、小声で交わされる会話。
ずるり、ととぐろが動く気配に、二人はすかさず近くの岩陰へ身を潜めた。
「清井宗進は、思ったより勇敢だったみたいだな」
「あれは、伍剣と繋がっている」
「……あれって、あの龍のことか?」
花衣霞の言葉に、澄々は岩の隙間から龍を見る。
眠る龍の周囲は黒い靄に覆われ、その輪郭は曖昧だった。
「まぁ確かに、あれはでかい生き物っていうより、いろんな念が寄り集まってできたものに見えるな」
蠢く群魂。
それらは忌避と醜悪さを放っていた。
「それと伍剣が、どう繋がってるって?」
「殿上は、伍剣を介して刃浦の怨念を集め、その存在を維持してきた。
伍剣の向く先は、この龍と繋がっている」
花衣霞は目を閉じ、静かに言った。
「おい、その言い方だと……あれが上ってことに…………は?」
澄々の口から、低い声が漏れた。
彼は脳の処理を超えると、一旦不機嫌になるのだなと花衣霞は思った。
「てことは何だ。上は、ずっとここに眠ってたってことか?」
「わからない。ただ……殿上院では長らく、殿上のために生贄の魂を捧げる儀式を行い続けていた」
澄々は目を細め、手で口元を覆ったまま、ぶつぶつと呟き始めた。
「つまり、ここに怨念を注ぎ込み、上の養分にしていた。……あぁ、幽界との接続も意味するな。
高瀬が必死に剣を量産し、念を集めてきたのはそのためか。
怨念に満たされ、この龍が目覚めれば…………上の自我も復活する」
花衣霞はその呟きに、静かに耳を傾けていた。
「でも、復活するには宏花みたいな器が必要なはずだ。これは上の本体じゃないのか?
……いや、違うな。これが上の核となる部分で、それを現界させるための現世の器が必要なのか。
どっちにしろ……宏花に危険が及ぶなら、こいつは消さないといけないな」
怒りの波動が、蝋梅の香りを通して花衣霞にも伝わってくる。
慌てて掴んだ腕は、血が通っていないかのように冷たかった。
「待て、黒木澄々。
あれが殿上の核だとしても、それに触れられるのは紫雫久の刀だけだ」
「だとしても、これを目の前にして何もしないのか?」
澄々の冷ややかな視線に、花衣霞の指先がわずかに揺らいだ。
「しかし……それでは…………」
どうにか落ち着かせようと巡らせた視線に、奇妙な箱が映った。
龍のとぐろの中心。
黒い靄に霞む中、守られるように置かれた箱が見える。
「あの箱は何だ」
「……箱?」
花衣霞の言葉に、澄々も龍の中心へ視線を巡らせた。
じっと観察する瞳が、ゆっくりと二度瞬いた。
「……なぁ、お前。あの箱取れるか?」
「とぐろが緩まれば」
花衣霞の返事に、澄々はにやりと笑みを浮かべる。
「十三だ」
その声には緊張と興奮が滲んでいた。
澄々は岩陰から出て、龍の正面へしゃがみ込む。
「心臓が十三鳴る間に、片をつけろ」
そう言って澄々は地面に手をつき、大きく息を吐く。
そして、言葉を落とす。
――罰示神降ろし
澄々の影が濁流のように龍へ向かう。
同時に、花衣霞も走り出した。
影が龍へ触れた瞬間、
――グォォォオオッ!!
咆哮が洞窟を揺らした。
龍がうねり、とぐろが開く。
花衣霞は壁を蹴り、刀を抜きながら体を捻る。
旋回によって生まれた風が、靄をかき分ける。
「――ッ!」
花衣霞の目がわずかに見開かれた。
靄の先には、箱の他に――龍を貫く刀が刺さっていた。
(これは…………)
注視する間もなく、再びとぐろが狭まるのを感じた。
迫る刻限に、花衣霞は刀を握り直す。
――幻華遊離
刀の斬流に乗り、箱が宙へ浮く。
落ちる体が龍へ触れる寸前で、一閃を放つ。
巻き起こる旋風を利用し、花衣霞は箱と共に澄々の元へ戻った。
しゃがみ込む澄々の足元には、血が散っている。
「黒木澄々……!」
肩で息をする澄々から、返事はない。
なおも続く咆哮を背に、花衣霞は澄々の肩を抱え、洞窟を出た。
とぐろの中心で、刀だけがじっと、その様子を見ていた。
「――そこで何をしている」
背後から聞こえた声に、反射的に振り返る。
「……煌羅嘉」
心配そうな表情を浮かべる煌羅嘉に、柚珠葉はそっと息を吐いた。
これまでの誤解を改めてから、柚珠葉は紫雫久のために何かできないかと、殿上院を訪れていたのだ。
「また父上に呼び出されたのか?」
「ううん。それより、ありがとう……父上のこと」
「大したことはしていない。無事に戻れたか」
「うん……煌羅嘉は、」
“知っているのか”
そう聞こうとして、途中でやめた。
無闇矢鱈に話しても良いのか、判断が遅れる。
「ここには、もう来ない方が良い。特に、殿上祭の日は」
言いかけた言葉を言い直すか迷ううちに、煌羅嘉の言葉が続く。
「……どうして?」
「殿上祭の日、父上は井上紫雫久に刀傷沙汰を起こさせ、民衆の前で処刑を行うつもりだ。
いくら憎い相手とはいえ、それを見るのは……辛いだろう」
寂しさの滲む声に、柚珠葉は煌羅嘉の方を見ることができなかった。
心を寄せてくれる相手に応えられないことが、こんなにも苦しいのかと実感した。
それでも進まなくてはいけない。
あの時の紫雫久も、そうだったのだろうか。
「ありがとう、煌羅嘉」
(……どうにか、紫雫久が誰かを殺してしまう前に止めないと)
ふと、柚珠葉の脳裏に硝子細工の蓮の花が浮かんだ。
あれは確か、福田の山で瑪瑙羽たちを助けた時に譲り受けた――
柚珠葉は胸の前で、ぎゅっと手を握る。
(頼むよ、紫雫久……!)
「――ッ!」
はっと目を開く。
何かに呼ばれた気がして、紫雫久は飛び起きた。
そこは、無明野の外だった。
(外…………あっ、!)
無明野でのことを思い出し、慌てて襟を開けて鳩尾を見る。
綺夜に喰われた、その場所。
抉られるような痛みを感じていたそこには傷口ひとつなく、爪ほどの鬱血痕だけが散っていた。
それはまるで、桜の花びらのようにも見えた。
切り裂かれた二の腕にも傷はなく、着物にも裂けた痕は残っていない。
「恐ろしいな、悪魔って。
……全く、仕組みがわからん」
そう零しながら、紫雫久は紡響を手に取った。
無明野脱――と送りかけたところで、背後から足音がする。
「紫雫久」
振り返ればそこには、花衣霞と澄々の姿があった。
「どうして? 料亭に集合しようって……」
駆け寄る紫雫久に、花衣霞は髪に散った砂を払った。
その手つきは、綿毛に触れるように優しい。
「私が……落ち着かなくて」
「なんだよ、俺に会いたくなったって?」
揶揄うように言う紫雫久に、花衣霞は微笑む。
「うん。紫雫久が隣にいないと、私は駄目だ」
「そっ…………」
顔から火が出るかと思った。
紫雫久は忙しなく瞬きをしながら、別の話題を探す。
「そ、それより、禁域はどうだったんだ? 何があった?」
視線を彷徨わせながら言葉を紡ぐ。
目を向けた澄々は、こちらも見ずに真剣な顔で冊子を読んでいた。
「……何を読んでるんだ?」
不思議そうに見る紫雫久に、花衣霞はぽつりと答える。
「禁域の奥にあったのは二つ。
殿上の核と、あの本だ」
澄々は冊子から顔を上げ、笑みを向ける。
その頬は、わずかに上気していた。
「これは最高だ。陰陽術の、全てが書いてある」
「――えらく、ご機嫌じゃないか」
「えっ! わ、わかります……?」
黒静楼の一室。
宏花は窓辺で風に当たりながら、瑪瑙羽に声をかけた。
「いやぁ、さすがの観察眼ですね!」
なぜだか嬉しそうな瑪瑙羽の反応に、宏花は少し戸惑う。
(思いっきり襖を開けて、笑みも隠さず、一歩一歩跳ねるように歩いてきたのを見て、何が観察眼なんだか……)
宏花はキセルの吸い殻を灰落としに叩いた。
子供と紫煙は似合わない。
宏花は、久しく会っていない弟弟子のことを思い出していた。
「実は、私にも何かできることはないかなって思って、父上に――」
――チリン
鈴が鳴った瞬間、宏花は瑪瑙羽を押し入れに押し込めた。
「えっ、な、何……!?」
驚く瑪瑙羽の頬を両手で包み、宏花は声を落として言う。
「ここから出るな。音を立てるな。
……大丈夫だから、目を閉じてろ」
暗がりの中でもよく見える、杏色の瞳だった。
「わかったな?」
瑪瑙羽は訳もわからぬまま、必死に頷いた。
宏花は、涙の滲みかけた目尻にふっと笑みを零し、優しく口づける。
押し入れが閉じられたのと、部屋の襖が破られたのは、ほぼ同時だった。
駆け込む足音は、刀が鞘を滑る音と重なり、鋭く響いた。
数多の切っ先に囲まれた中心で、宏花は静かに紫煙を吐き出す。
「……料理の席でどたばたと。高瀬の品も落ちたねぇ」
剣士たちの切っ先は揺れない。
張り詰めた緊張の中、煙だけが揺蕩っていた。
(全部で八……悪くない数だが、ちと狭いな……)
宏花は座布団の下に仕込んだ小刀の感触を確かめながら、押し入れを横目で見る。
退けられない状況では、なかった。
「見たところ、剣を持ち始めて一年目といったところか?
俺を捕まえるのに素人を寄越すなんて、随分――」
「――だから、私が来てやったんだよ」
その声に、ざっと全身の血が引いた。
剣士たちが避けた先から、豪奢な着物と、淡い金密舵の髪が現れる。
それは、闇の中で突如爆ぜる火薬のような恐怖だった。
「た……高瀬、宗峯…………」
瞬きも忘れ、無意識に腰が引ける。
(だ、だめだ……戦わないと。これでは、みんな……)
頭では理解しつつも、指一本すら、自分の命令を聞かなかった。
燻らせていたキセルが、いつ落ちたのかもわからなかった。
近づく宗峯の一歩一歩に、宏花は身を引きずるように後退する。
とん、と背中が壁に当たった時、その身を襲ったのは絶望だった。
「そんなに怖がらなくても良いではないか。久しぶりの再会だというのに」
「――ひ、」
宗峯が、耳横の髪をするりと撫で梳く。
「随分探した……」
足首に指先が触れた瞬間、あの時の記憶が胃の奥から反転した。
「宏花……また、愉しもうではないか」
耳元で響く宗峯の嗤い声が、全身を支配する。
宏花は白よりも色のない顔で、全ての力を抜いた。
「……運び出せ。祭りの日まで、目を離すなよ」
宗峯は家士に指示を出し、立ち上がる。
手を縛られ、担がれてもなお抵抗しない宏花を見下ろし、口元を歪めた。
その冷ややかな視線が、一瞬だけ押し入れへ向けられる。
「どんなものでも、役に立つ時はあるな」
瑪瑙羽は闇の中で、声が漏れそうになるのを必死に堪えた。
両手で口を強く覆う。
それでも、大粒の涙だけは止められなかった。
気配を殺し、嵐が過ぎ去るのを待つ。
自分に何もできないことなど、考えるまでもなく思い知らされていた。
ただ、宏花に言われたことだけを繰り返す。
そうして、どれほど時が経ったのか。
聞き慣れた足音が、部屋へ近づいてきた。
「――つまり、上には、現世と繋がる媒介が必要ってことか?」
「あの刀のような媒介がある限り、殿上は何度でも復活するだろう」
「うまく引き剥がして叩かないと、意味がないだろうな」
「あんな厄災相手に、繊細な技を求められるなんて――何だ」
部屋に入った紫雫久が、異変を察知する。
卓は散乱し、明らかに誰かが押し入った痕跡が残っていた。
「瑪瑙羽と、宏花は……?」
言うより先に、体が動いていた。
押し入れを勢いよく開ける。
「瑪瑙羽!」
押し入れの奥で震える瑪瑙羽に、光が差し込む。
「大丈夫か!? 何があった!」
「し、しず……紫雫久……! うわぁぁぁっ」
堰を切ったように泣き出す瑪瑙羽を抱きしめる。
「よしよし、よく頑張った」
紫雫久の柔らかな声色が、瑪瑙羽の心をかき乱す。
「なにも、なにもできなかった……っ! 私……!
ひ、宏花さんが……」
その名に、澄々の色を失った視線が飛ぶ。
花衣霞が咄嗟に肩を掴まなければ、右手の針が瑪瑙羽の顎を貫いていた。
「うん。宏花がお前を守ってくれたんだな」
「うぅ……ッ、私……」
「……高瀬が、乗り込んできたのか」
花衣霞の問いに、瑪瑙羽は頷く。
「高瀬宗峯が、」
「高瀬宗峯だと!?」
澄々が、堪えきれず声を荒げる。
「どうりで……余裕が無いと思った」
床に散ったキセルを拾い上げ、強く握りしめる。
「宏花……ッ、宏花!」
外では、殿上祭の始まりを待ちわびる鐘の音が響いていた。




