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輪は巡り、道は逃れ得ずして

 降り続く雪のやんだ朝は、清々しいほどの冬晴れのだった。

 柚珠葉(ゆずりは)は目を覚ましてからしばらく、布団から出ることができずにいた。


 重だるい体を押して顔を洗い、髪を結い上げたところで、ふと――刀の手入れをしようと思い立った。



 刀身に打粉を打つ。

 目に留まるのは、波打ち際を思わせる潮晶(ちょうしょう)の刃紋。


 その刀を持つことは、井氏(いげたし)の剣士として認められた証。そう教えられてきた。


 ……だが、柚珠葉はそうは思わなかった。


 幼い修行時代の頃。

 隣にいた男の振るう木刀には、自然と潮晶が現れていたからだ。



(潮晶は職人が刻むものではない……。

 本来は、正しい剣技を極めた者の刀に、自然と宿るものだった……)



 紫雫久(しずく)の剣は、それほどまでに強く、美しく、そして正しかった。



(……刀に愛された男は、刀を裏切り、世界から弾かれる……)



 心が静まるほどに、思い浮かぶのは紫雫久のことだった。


「――チッ」


 その思考を振り払うように、柚珠葉は大きく舌打ちをした。


 彼との美しい記憶は、すべてあの日の御神庫(ごしんこ)での一戦に塗り潰される。

 彼の腹を貫いた、この手に残る感触が、ひどく不快だった。


(それでも、忘れてはいけない。あいつのせいで、父上は命を奪われたんだから)


 柄をはめ、目釘を差し込む。

 ぴたりと収まるその感触に、心がわずかに落ち着いた。

 怒りの在り処は、まだここにある。


 ……そうでなければ、今日を生きていけない。



 深く息を吐き、刀を鞘へと収める。

 その時、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。


「失礼します!」


 声とともに、襖が勢いよく引き開けられる。


「領主様が……! 領主様が、お戻りになられました!」



 理解が追いつかぬまま、柚珠葉は玄関へと駆け出していた。




 《第十七章:輪は巡り、道は逃れ得ずして》




「……領主様は、拘束されてからずっと、高瀬の奥殿にいらしたのね」


 涙はすでに落ち着き、時折鼻を啜る柚珠葉を卓へ座らせる。

 さよは、少し熱めの茶を差し出した。


「高瀬は私を利用するために……嘘を言ったんだと思う」


 鵜匡(うきょう)の処刑を告げられ、紫雫久へと明確な殺意を宿したあの時。

 高瀬が語ったのは、黒木領での剣番所襲撃の話だった。



「でも、そんなことはどうでもいい。

 私が紫雫久を恨む原因は、全部……自分で作り出していただけなんだ」

「……それは、どうして?」


 柚珠葉は卓の上で、両手を強く握りしめる。




「――紫雫久は、どこにいる?」


「し、紫雫久……ですか……?」


 鵜匡の言葉に、柚珠葉の頬が引き攣った。

 再会の抱擁に残っていた温もりが、急激に冷めていく。

 現実が、無遠慮に顔を覗かせるようだった。


 柚珠葉だけではない。家士の誰もが、その名に視線を落とす。

 それを見た鵜匡は――奥屋敷に現れた黒木家の子息の言葉が、真実であると確信した。



「柚珠葉、大事な話をしよう」


 手にした文箱が、ずしりと重みを伝えていた。




 鵜匡が語ったのは、井氏創世の剣士・井上澪一(みいち)の日記と、その一家の記録。

 そして、それらすべてを抱えていた紫雫久のこと。


 これまで信じてきた世界がそのまま裏返るような、信じがたい話だった。

 刃浦の主たる殿上(とのかみ)の存在を疑うことなど、ありえない。


 それでも、紫雫久の行動ひとつひとつを思い返せば、不思議と納得ができてしまった。




「……紫雫久は、ふざけてなんかなかったんだ。一度だって。

 右手を使わなくなった時も、大事な時に家を離れた時も、全部」


 柚珠葉は握りしめた手を見つめ、静かに言葉を落としていく。


「私が気づかなかったの。私を一番に見てくれないことに苛立って、私が……紫雫久のことを、まるで見ていなかったの」


 力なく震える肩を、さよはただ見つめることしかできなかった。



「何度も酷いことを言った。何も知らないくせに、なんてことも言った。

 知らないのは、私の方なのに……」


 瞬きのたびに、ぽたり、ぽたりと涙が柚珠葉の手を濡らす。

 その雫は重なり、まるでその手を包み込むように大きく滲んでいった。



「でも、紫雫久は一度も私を責めなかった。言い返さないの、あの子。

 昔からそう。怒られたり、責任を押し付けられたり……そういう時に受け入れて、全部我慢しちゃうの」


 そうならないように、そうしなくていいように――

 隣で手を握っていたのは、自分だったはずなのに。


「私、知ってるのに……知ってるはずだったのに…………!」



 強く目を閉じ、こぼれ落ちたのは祈りにも似た言葉。


「ごめん……ごめんね、紫雫久…………。謝ることしかできなくて、ごめん……」




「柚くん」


 さよは涙に濡れた柚珠葉の手を、そっと包み込む。

 その痛みが、自分のことのように胸に響いた。



「柚くん、柚くん。まだ間に合うはずだわ、だって――」


 さよが厨房の奥へ視線を向けたその時、勝手口から紫烏色の髪が消えていくところだった。

 柚珠葉がその視線を追った時には、そこにはすでに静かな闇だけが残っていた。



「紫雫久……?」

「柚くん、あのね――」


 さよの言葉を遮るように、柚珠葉は首を横に振る。


「いるわけないのはわかってる。それに、今会ったら私、また酷いことを言ってしまいそうだから」


 重ねられたさよの指を、親指でそっと撫でる。

 あれほど冷え切っていた指先は、今では眠りを誘うほどの温もりを帯びていた。



「そうだよね。まだ私にもできることがあるかもしれないよね」

「……えぇ、きっと」


 二人は同じ、涙に濡れた笑みを浮かべて見つめ合った。

 月光を遮るもののない、冬晴れの夜だった。










「――で、この蝋梅の香りが厄除けに有効らしい」


 黒木領・黒静楼(こくせいろう)の一室。

 紫雫久は左手に持った箸の先で、香袋を指し示した。


「陰陽術が刃浦で嫌われてる理由も、これか。

 発動するたびに匂いが残るのが厄介だと思ってたが、それなりに意味はあったんだな」


 澄々(すず)は影絵でみみずくを作る。壁を滑るように飛ぶその影に合わせて、蝋梅の香りが部屋にふわりと広がった。


「その術も、知らないことだらけだな」

「知ろうにも、文献がほとんど残ってないからな」


 澄々の隣で米を飲み込んだ宏花(ひろか)が応じた。

 茶碗が空になり、皿に残っていた魚の切り身が澄々の皿へと移される。


「美味しくなかった?」

「美味いよ。食べな」


 言葉とは裏腹に淡々とした調子で言う宏花に、澄々はわずかに眉を下げて笑った。

 鍋で甘辛く焼いた鰤に、蒸し焼きの卵を少し添え、一気に頬張る。味がよく染みていて美味い。



「紫雫久、その香袋を貸してもらうことってできる、かな?」


 おずおずと瑪瑙羽(めのう)が手を挙げる。


「これを? んー……本人に聞く前に持ってきちゃったからなぁ」

「ちょっとでいいの! 中の香材を、ほんの少しだけ……」


 少し悩む紫雫久に、瑪瑙羽はなおも食い下がる。

 その様子に、これからの自衛のために必要としているのかもしれないと思い至る。


「まぁいいか。後でさよちゃんには言っておくよ。お前からでもいいけど」

「ありがとう!」


 香袋を受け取った瑪瑙羽は、大事そうに香材を取り出し、その匂いを確かめるように嗅いだ。

 ただ珍しい香りに惹かれただけなのかもしれない、とも思った。



「あとはこれ。たぶん殿上院の禁域に繋がる地図だと思うんだけど……」


 紫雫久は、重ねた二枚の紙を広げて見せる。


花衣霞(かいか)、ここって壁しか無かったよな?」

「……うん。私たちが向こうの役人に呼び止められたあたりだ」


 紫雫久が箸の頭で指す場所は、その禁域の入口を示していた。


「今は入口を潰されたのか、それとも……特別な方法があるのか」


 紫雫久の箸先が、扉の描かれた部分をとんとんと叩く。



「……清井宗進(きよいそうしん)は、その香袋を肌身離さず持ち歩いていたと言ったか?」

「あぁ、眠る時も懐に入れていたらしい」


 紫雫久の返答を受け、宏花は頬杖をついた左の人差し指で、頬を二度軽く叩いた。


「……“幽現(ゆうげん)”か?」


 隣に座る澄々へ視線を向け、ぽつりと呟く。


「可能性は高いね。

 俺たちは術を使っている間、視界が二重に見えている。あの世とこの世が重なって見えている、と言ってもいい」


「二重? それって、こんな風に?」


 紫雫久は、清井宗進の遺した二枚の紙を重ね合わせる。


「あぁ、そうだ。簡単に言えばな。

 蝋梅の香りで目が眩んだことがあるだろ? 俺たちはその先で、幽界を見ている。

 長年その香りと共にあった清井宗進にも、それが見えていたのかもしれないな」


 澄々は鰤と焼いた長葱をほぐし、その中に豆腐を包んで口に運んだ。



 紫雫久は、二枚の紙を見比べ、中指の爪を擦る。


「じゃあ、あれか? 扉があるのは幽界で、こっちの世界の俺たちには壁にしか見えなかったってことか。

 宗進さんの“わかるやつにはわかる”って言葉にも頷けるな」


「もし扉の先が幽界ならば、より(かみ)の生域に近い可能性がある」

「行く価値は、かなりありそうだな」


 紫雫久はにやりと笑みを浮かべ、花衣霞を見る。

 しかし花衣霞は、“禁域”という言葉に対して乗り気ではなかった。


「……紫雫久は、行かない方がいい」


 その言葉に、紫雫久は大きく目を見開く。


「えー! どうして!」

「禁域とされる場所で、紫雫久が命を落とすのを何度も視てきた。

 挙げ連ねれば……すべて話すのに三日はかかる」


「そ、そんなに……?」


 花衣霞の予知夢には幾度も助けられてきた。

 その花衣霞が、助けられる自信がないと言う。


 紫雫久と禁域は、それほど相性が悪いらしい。



「じゃあ俺と一緒に行くか? 幽現を見るにも、その方が安全だろ」


 澄々は味噌汁の椀の蓋を戻しながら言った。

 紫雫久は自身の好奇心と天秤にかけ、渋々ながら澄々の提案を受け入れることにした。



「……花衣霞を頼むな、澄々。俺はその間、無明野(むあきの)に行ってくるよ」


「えっ、そんな場所に何の用事があるの!?」


 その地名に、瑪瑙羽は青ざめた表情を浮かべる。


「あるんだよ。……もう一度、あいつに会わないと」


 右手をやわらかく握り込む。

 決着をつけるためには、こちらも相手を知らなければならない。



「“禁域”と“死地”は、違うのか?」


 ぽつりと落とされた宏花の言葉に、花衣霞は難しい顔をした。


 そのままたっぷり考え、懐から取り出した紡響(つむぎきょう)を紫雫久によく見せる。

 紫雫久は小さく笑い、その片割れを懐から取り出して応じた。


「大丈夫、ちょっと話してくるだけだよ」

「かすり傷一つでも、私は大きな声でわんわんと泣く」


「はは、それは………………それは、少し見てみたいな」

「紫雫久」


「冗談だって!」


 表情を失った花衣霞に、紫雫久は笑いながら両手でその頬を包む。

 開け放たれた窓の外を、黒い蝶が音もなく横切ったことには気づかないまま。


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