転の刻、憎悪は火と成る
布告
来る殿上祭において、上殿が民前に御出座し、直に言葉を下される。
これは従来の例に拠らぬ異例の沙汰にして、ひとえに時勢を鑑み、広く民心の安寧と結束を図らんがための御意によるものである。
これに伴い、殿上院の一部を開放する。
拝謁を許される者は、定められた規儀に従い、粛然としてこれに臨むべし。
礼を失し、あるいは命に背く者は、厳罰をもってこれに処す。
以上、違えることなかれ。
殿上院
その知らせが刃浦に舞い込んだのは、冷えた風が四肢の末を凍らせる雪の日。
民衆にとってそれは、曇天の続く空に差し込む一条の陽光のような報せだった。
各領に設けられた高札の前には、人々が絶え間なく押し寄せる。
戦火の燻りが日常となった今では、むしろ珍しい光景となった。
「久しぶりの吉報だわ」
「刃浦を守ってくださるのは、殿上様以外にいない」
「近頃は高瀬以外、機能しておらんからな……」
民衆は口々に喜びを漏らした。
「煌羅嘉様、これで刃浦は殿上様とひとつになれるのですね!」
高札を見上げる民のひとりが興奮気味に声をかける。
煌羅嘉は努めて笑みを浮かべ、曖昧に応じた。
「……あぁ。これで……すべては良き方へ向かう……」
その呟きは、民衆の歓声に呑まれ、かき消えた。
煌羅嘉の脳裏を巡るのは、父・宗峯から突如告げられた通達。
――これより、高瀬家の指揮は煌羅嘉に継がせる。一同、彼の命に服せよ。
(父上は……刃浦をまとめたその先で、高瀬家をどうなさるおつもりなのか……。
だが、今は――都合がいい)
「……奥の間を解放する。準備を整えよ」
「はっ!」
家士は足早にその場を辞した。
高札の前では、民衆が言葉を交わし、歓声を重ねている。
――だが、煌羅嘉の目には、そのすべてが空虚な作り物のように映っていた。
「やはり殿上様は、我らをお見捨てにはならぬ……!」
「これで波も、穏やかになれば良いのだけれど」
上という存在ひとつで、安堵と歓喜に満ちる民の声。
それを遠くに聞きながら、紫雫久は笠を深く被り、その場を静かに離れた。
《第十六章:転の刻、憎悪は火と成る》
――カシャンッ
夜半、賑わいを終えた浜ゆら庵には似つかわしくない音が響いた。
「……紫雫久ちゃん……? 本当に、紫雫久ちゃんなの?」
取り落とした茶器を離れ、震える指が月に照らされた頬へと伸びる。
そこには確かな温もりがあり、確かに実体があった。
「そうだよ。久しぶりだね、おさよちゃん」
死んだと噂されてから二年。
日ごとに薄れていくはずの面影と、変わらぬ微笑みがそこにあった。
「もう少し、すまなそうにすればいいのに」
「ごめんね。顔を見たら安心しちゃって」
「……変わらないのね、紫雫久ちゃんって」
さよは目尻に滲むものを隠すように、そっと厨房へと引いた。
向井家での一件以来、足を踏み入れられなかった向井領。
それでも、舌に馴染むゆらの茶は変わらず温かく、紫雫久はようやくこの地に戻ってきたのだと実感した。
「今日はどうして来てくれたの?
私に会いに……ってわけじゃないんでしょう?」
さよの微笑みに、紫雫久は眉を下げ、わずかに笑みを返す。
この席で、この卓で、この距離で頬杖をつき、上目遣いに見つめるさよに会いたい者など、この刃浦に数え切れぬほどいるというのに。
「相変わらず厳しいね。でも……うん、今日は大事なことを聞きに来たんだ」
紫雫久は手元の湯呑みを静かに回した。
「さよちゃんの――御父上について」
さよの大きな瞳が、素早く二度瞬く。
「私の……?」
「そう。およそ三年前まで殿上院に勤めていた、清井宗進。
退職の記録もないまま、名だけが消された人物だ。
彼は休みのたびに、浜ゆら庵へ外出申請をしていた。それは、家族に会うために」
さよの顔色はみるみる陰り、視線は机の上を彷徨う。
「……清井宗進がいなくなったのは、向井で起きた、面とあまぐやしの件と関係しているよね。
あの時、御父上から何を聞いた?」
「な……私の父は、そんな人じゃないわ。誰かと間違えているんじゃない?」
声を震わせ、両手を強く握りしめて膝へ落とす。
対話を拒むように貼り付いた笑み――だが、それで怯む紫雫久ではなかった。
「あの面の裏まで見て、正気でいられる人間なんて剣士くらいだ。
あの時、詳細な特徴を言えたのは……さよちゃんがあの面を知っていたからだよ」
紫雫久は静かに身を乗り出す。
「さよちゃん、教えて。御父上は、宮中の何から刃浦を守ろうとしたの?」
その問いに、さよの顔は次第に歪み、やがて両手で覆われる。涙がこぼれ落ちた。
「……あぁ、やっぱり……紫雫久ちゃんなら、気づいてくれると思ってた……」
決壊した涙は頬を濡らし続ける。
紫雫久はそっと手を伸ばし、その袖で涙を拭った。
「ありがとう、紫雫久ちゃん。
……私ね、刃浦がざわめいているとわかっていても、このことを誰かに話す勇気がなかった。
あの日、父上は必死の形相で、言伝だけを残していなくなったの。
“誰にもこのことは言うな。言っていいのは、刃浦を本気で救おうとする者だけだ”って」
さよが持ってきたのは、花の香りを宿した香袋と、一枚の紙だった。
香袋からは、どこか嗅ぎ慣れた香りが漂う。
「……蝋梅? 珍しいな」
「知ってるの?」
「あぁ、いろいろあって」
澄々をはじめ、陰陽術を用いる際に漂う、あの強い花の香り――それがまさに蝋梅だった。
「この香りに、何か意味があるの?」
「これはね、父上がお守りとして持たせてくれたものなの。
厄を避けるからって。
最後に会った時父上からは、強く念を押されたわ」
紫雫久は香袋を手に取り、間近で観察する。
術の痕跡はない。ただの香袋にしか見えない。
(つまり、この蝋梅の香りそのものに、意味があるのか……)
中指の爪を擦る。
その癖を見て、さよはそっと笑みをこぼした。
「これは父上とお揃いでね、勤めの間も肌身離さず持っていると言っていたわ」
「宮中でも?
……“厄”って、上のことかと思ってたけど……宮中に持ち込んで、咎められなかったのか……?」
ぶつぶつと独り言のように思考を巡らせる紫雫久。
さよは、ぬるくなった湯呑みに静かに茶を注いだ。
「他に、宗進さんは宮中のことを話していなかった? そうだ、面の話は?」
「あの不思議な面を殿上様へお渡しするのが、父上の勤めだと聞いたわ。
大切なお勤めだから、お守りの香りを強くするんだって」
紫雫久の視線が、ゆっくりと斜め上へ滑る。
(清井宗進は、受声人を送り届ける“渡し手”だった。つまり、面と常に隣り合う立場……。
あぁ、剣士でもない人間が面を扱うなら、防ぐ手立ては必要になる)
「この蝋梅の香りは、怨念が嫌うもの……ということか。
だから娘に身を守る術として渡した……。
御父上は、近くこの刃浦に怨念が降り注ぐことを予期していたのかもしれないな」
「父上が……? そんな恐ろしいこと、どうして……」
さよは思わず口元を手で覆った。
「宗進さんは、殿上について、どう思っていた?」
「尊敬していたわ。
面をお渡しするといっても、儀式の間に入ることは許されないから、お姿を見たことはないけれど……それでも、その圧倒的な存在感は敬服に値する、と」
「……うん、そうだね」
紫雫久は湯呑みをぐいと飲み干す。
(おそらく宗進は、見てしまったんだ。上の真の姿と、儀式の実態を。
だからこれ以上の被害を防ぐために、御霊響面を持ち出した……)
あまぐやしの頭上――岸に残されていた足跡が脳裏に浮かぶ。
人が、抗う間もなく海へ追い落とされたような痕跡。
(岸壁まで追い詰められた宗進は、面とともに海へ落ちた。
それが海叫群魂へと変じ、あの事件を引き起こした)
「紫雫久ちゃん?」
不意に黙り込んだ紫雫久を、さよが不安げに覗き込む。
紫雫久はゆるく首を振り、やわらかな笑みを浮かべた。
「ううん。不思議な縁だなと思って」
言いながら、紫雫久はもう一枚の紙を手に取った。
そこには、手書きの図面のような、迷路めいた絵が描かれている。
「これは……?」
さよは静かに首を振った。
「何が描かれているのかは教えてくれなかったわ。ただ、わかる者にはわかるとだけ」
もう一度、紙面へ視線を落とす。
屋敷の間取り図にも見えるが、それにしては壁や床がところどころ欠けている。
順路を辿ろうにも、不自然に途切れた箇所が多く、繋がらない。
「……他に、似たような紙はもらってない?」
「ううん。父上からもらったのは、この紙一枚と香袋だけよ」
その時、蝋梅の香りがふと鼻先をかすめた。
(まさか……――)
「さよちゃん、その香袋を開けてみてくれない?」
「これを?」
さよが巾着の結びを解く。
中には綿と蝋梅の香材――そして、それらに埋もれるように折り畳まれた一枚の紙があった。
「似たような、絵柄?」
「うん。でも、少しずつ違う……」
紫雫久は二枚を見比べ、そっと重ね合わせた。
「すごい……ぴったり重なるわ」
二枚の絵は欠けた部分を補い合うように重なり、ひとつの図を形作る。
それは間取り図であり、同時にどこかへ至る順路を示していた。
「これは……どこかで見たことがある気がするんだけどな……」
図面を前に、紫雫久は眉を寄せる。
記憶を手繰るように、指先がとん、と机を叩いた。
「なんだか特徴的ね。大きなお屋敷かしら?」
「屋敷…………あ、」
弾かれたように顔を上げ、紫雫久は素早く目を瞬かせる。
「どこかで見たんじゃない。俺――ここを歩いたんだ」
「知ってる場所なの?」
「うん。殿上院の内殿が描かれてるんだよ、これ」
さらりと告げる紫雫久に、さよは一瞬、言葉を失った。
「内殿って……殿上院のお役人さんでも、ほんのひと握りの人しか立ち入れない禁域のような場所よ?」
「そうなんだよね。
この前潜入した時は、途中で止められちゃって。でも、大体の間取りは覚えてる」
「………………紫雫久ちゃん……いないと思ったら、そんなところにはいたのね」
たっぷり考えた後、真剣な眼差しを向けるさよを見て、紫雫久はふっと頬を緩めた。
常識の枠の中にいながらも、変に度胸のあるその気質は、どこか瑪瑙羽に似ている。
「てことは、宗進さんは殿上院の中の“ある場所”へ行けって言ってるのか。
この廊下を進むと…………おかしいな」
図の一点で、紫雫久の指が止まる。
「おかしいって?」
「俺の記憶だと、ここは扉じゃなくて、壁だったはずなんだ」
「じゃあ、父上の書き間違い?」
「そんなはずは……」
花衣霞とともに潜入した時の記憶を辿る。
あの時は、廊下の先の一室が気になり、歩みを進めていた。
(でも、役人に止められて……その場所は、この扉さしかかる直前じゃなかったか?)
紫雫久たちを呼び止めた役人の声は震えていた。
まるで、そちらへ向かうことに怯えているようにも、恐れているようにも思えた。
「……もしかしたら、本当の禁域があるのかもしれない」
ただならぬ気配に、さよはごくりと唾を飲み込む。
「紫雫久ちゃん…………」
その時、夜の街を駆ける足音が響き、やがて浜ゆら庵の前で止まった。
咄嗟にさよを背にかばい、紫雫久は入口へと視線を据える。
人影が、店先でゆらりと揺れる。
中の様子を窺うように、所在なく佇んでいた。
静かな緊張が満ちたのち、ぽつりと声が落ちる。
「……おさよさん、いる……?」
弱々しく、迷い子のような声だった。
「私……柚珠葉なんだけど……ごめん、こんな夜遅くに……灯りが見えたから……」
その声の主に、紫雫久は息を呑んだ。
柚珠葉にだけはこの訪問を悟られてはならない――そう警戒していたはずなのに。
あまりの間の悪さに、思わず唇を噛む。
「おさよさん、開けるよ……?」
そう言うや否や、影の手が戸口へと伸びる。
動けぬまま、視線だけがその影を追ってしまう。
「紫雫久ちゃん、こっち……!」
さよに腕を引かれ、紫雫久ははっと我に返る。
そのまま香袋と図面を押し付けられ、厨房へと押し込められた。
「――柚くん? どうしたの、こんな時間に」
「あ……ご、ごめんね。
訪ねるつもりはなかったんだけど、灯りが見えて……」
店の戸口に立つ柚珠葉は、月光を背にしているせいで表情が読み取れない。
だが、その立ち姿にはどこか拠り所のない、危うさが滲んでいた。
さよはそっと歩み寄り、俯く顔を覗き込む。
「柚く…………、ど、どうしたの……!?」
その目は泣き腫らし、真っ赤に充血していた。
顔色は青白く、憔悴しきっている。
まるで今まさに奈落へ突き落とされる途上にあるかのような、深い絶望を湛えた表情だった。
さよが両手を包み込む。指先は氷のように冷たい。
「…………ち、父上……が……」
空気の漏れるような、か細い声。
厨房の奥に潜む紫雫久の背にも、冷や汗が伝った。
「父上が、」
「……何か、あったの……?」
さよの問いに、柚珠葉は強く首を振る。
「父上、が……帰ってきた……無事に……」
「本当に!? それは良いこと、ではないの……?」
柚珠葉は小さく頷いた。
よかった、よかったと、何度も呟きながら。
それでも――その顔色は、さらに青ざめていく。
「なら、どうして?」
「私……わた、酷いことを……ッ、あんな……!」
言葉を紡ぐたびにその表情は歪んでいく。
全身を震わせ、大粒の涙がこぼれ落ちる。
重ねた手に縋るように、身体を縮こませた。
「わたしは……なんて、ことを……」
膝を折るその姿は、ここにいない何かへ許しを乞うかのようだった。
「ひどい……紫雫久に、酷いことをした……ッ!
私、あの子に、紫雫久に……!」
剥き出しの神経のような叫びを、夜と――さよの両腕が、静かに包み込んだ。




