語らるるは、頂に至る道・因
「ふざけるな!!」
若草の畳へ酒器が叩きつけられる。
乾いた破砕音とともに、酒の飛沫が散った。
それを浴びた家士は、びくりと身を縮める。
「も、申し訳ございません!」
畳につく指は震え、押しつけた額が、じわりと赤く染まる。
呼吸の音すらも躊躇うほど、皆、息を殺した。
眼下で怯える家士たちを見下ろしながらも、苛立ちは収まらない。
高瀬宗峯は鋭く睨み据え、刀置きから己の刀を取った。
「――ひぃ! い、命だけは、命だけは……!」
「取るに足らぬ命だ」
「御屋形さア゙――」
ずぶり、と喉を貫く。
誰も、指ひとつ動かせなかった。
思考を止めることでしか、身を守る方法が浮かばなかった。
引き抜いた刃を鞘へ収めながら、宗峯は顔色ひとつ変えずに続ける。
「黒木の牢屋敷はどうなった」
その問いに、誰一人として顔を上げられない。
「聞こえぬか!」
広間を震わせる怒号。
突き立てた鞘が、畳を鈍く凹ませた。
「……もうよい。これ以上、手を煩わせるな」
宗峯は再び刀に手をかける。
「――恐れながら!」
鋭く響いた声に、動きが止まった。
視線の先には、金密舵の髪が深く首を垂れている。
「いたのか、煌羅嘉」
切先が、その顎を掬い上げた。
「……恐れながら、申し上げます。
黒木の牢屋敷にて確認された死体は十二。内、十一は高氏の剣警士。
残るひとつは――柳木宏花のもの、と……」
首筋へ、刃が静かに食い込む。
「間違い無いのか?」
「……そ、それは――」
「現場はそのように申しております。
が、念のため私が確認して参りましょうか?」
煌羅嘉の言葉を遮ったのは、朧面主の声だった。
「頼めるか」
「ええ。腕も馴染んできたことですし、“災禍”の様子も見てまいります」
朧面主は右手を開いては握り、薄く笑みを浮かべる。
その腕からは、きりきりと歯車の軋む音が微かに鳴っていた。
「ここで取り逃すようなことなど、あってはならん。
必ず、“あの器”を手に入れなければ……」
怒りに震える刀は、煌羅嘉の首を離れ空を切った。
背を向ける宗峯に、朧面主は冷ややかな視線を向ける。
その表情はただ、現象を見る目だった。
「下がれ」
宗峯は刀を収め、用は済んだとばかりに家士へ告げる。
そのまま上座へ戻り、酒を煽った。
その様子に、煌羅嘉はようやく胸を撫で下ろし、そっと冷や汗を拭う。
「………………父上、もうひとつよろしいでしょうか」
「何だ」
煌羅嘉は乾いた唾を呑み込む。
「向井柚珠葉に、何をおっしゃいましたか」
酒器を持つ手が、わずかに止まる。
だが宗峯は、そのまま酒を煽った。
「……確か、燼花町に行ったのは向井柚珠葉だったな」
「っ父上、」
「あれも、成果を挙げられなかった報いを受けさせるべきか」
「父上!」
顔を上げた煌羅嘉の視界に入ったのは、
こちらを値踏みするように歪んだ、父の笑み。
(こんなもの……どちらが、悪魔か――)
無意識のうちに、歯がかちかちとわずかな音を立てる。
「……燼花町へ向かったのは、私です」
「そうか。ならば罰はお前が受けるか」
「承知しております」
再び垂れた頭に、宗峯の哄笑が降りかかる。
畳を抉る指先には血が滲み、奥歯がぎり、と鳴った。
《第十四章:語らるるは、頂に至る道・因》
涼やかな風の吹き抜ける窓枠から見える木々は、赤や黄色に色づき人々の目を楽しませる。
流行りの浮世絵にも似た絶景は、黒木領の特徴であり、この料亭の自慢でもあるらしい。
紫雫久は店主の話を聞いて、この場所をより好きになった。
「――では、ごゆっくりお過ごしください」
女中が静かに襖を閉めると、部屋は食欲を誘う香りで満たされた。
「なぁ花衣霞、知ってるか? 八角と似た実をつける葉があるらしい」
「うん。樒の実は形が似ている」
「だろ? この間摘んで食ったら……」
「待て。まさか先日の腹痛は」
俊敏な動きで、花衣霞は隣を見た。
紫雫久は手酌で酒を注いでいるところだった。
「あぁ、花衣霞の家の庭にあったから」
当たり前のように告げられる事実に、花衣霞は額に手を当て、深く息を吐いた。
看病に数日を費やした謎の腹痛の原因が、そんなものだったとは。
「……樒には強い毒性がある。危険だから、二度と近づかないで」
真剣な面持ちで、言い含める。
紫雫久は、美人が無表情になると途端に恐ろしいな、と見惚れていた。
「紫雫久は、私が手渡したものだけを口にしてくれたらいいのに……」
「そんなこと言って、この間看病してくれた時も“私のせいで”って謝ってたけど。
あれは何なんだ?」
「そ――」
「ん゙ンっ! ごほごほ!」
わざとらしく大きな咳払いが、部屋中に響いた。
「おい、汚いぞ瑪瑙羽」
「いやいや……食事中に毒だの腹下しだのの話してる人たちに言われたくないんだけど!」
瑪瑙羽は小さく拳を振り上げ、向かいに座る二人へ抗議する。
「黒木は鰻が美味しいねぇとか、漆器の艶が違うねぇとか、そういう話がしたいの私は!」
言い切ったあと、はっとして「違う、そうじゃなくて!」と慌てて訂正する。
くるくると忙しい瑪瑙羽に、紫雫久は笑みをこぼし、頬杖をついた。
「そんなことより、急に黒木まで呼びつけた理由は何なの?」
黒木領の牢屋敷での一件から五日後。
紫雫久たちは、澄々との約束どおり、黒木領の料亭を訪れていた。
「まぁ、肝心の澄々が一向に現れないんだがな」
「うーん……忙しいんじゃない?
剣番所があったところ、また仕切り直してるっていうし。
それに噂で聞いたんだけど、最近の澄々にはずっと何かが憑いてるみたいで――」
「すまん、遅くなった!」
「ぎゃあ!」
すぱん! と大きな音を立て、襖が開く。
現れたのは、件の澄々と――その腕に黙って横抱きにされている宏花だった。
「少し厄介な奴がいてなぁ。片付けに手間取ったんだ」
男を一人抱き抱えているとは思えないほど、軽やかな足取り。
反して、その異様さを指摘させない静かな圧が漂い、皆それぞれ、わずかに視線を逸らした。
「もう体はいいのか?」
「おかげさまで。まぁ、あれは体への負担というより、内側の問題なんだけどな」
澄々はそう言いながら、宏花を下ろす。
それは、一国の姫ですら経験したことがないほど、丁寧な所作だった。
「その話からするか?」
「あー……その前に、宏花のことを瑪瑙羽に紹介してやってくれるか?」
困惑の表情を浮かべる瑪瑙羽を見た澄々は、一瞬だけ視線を上にやり、あえて淡々と口にした。
「こちらは柳木宏花。俺の兄弟子で、家族で、この世で一番大事な人」
「はじめまして」
微笑みかける宏花に、瑪瑙羽は思わず目を瞬かせる。
(こんなにも美しい人がいるなんて……魅了されるというより、安易に触れれば戻れなくなりそうな……)
瑪瑙羽は挨拶を返しながら、高揚と、ほんの少しの恐れを抱いた。
「ふ、噂どおり見る目があるね、この子は」
「どうだか」
笑みを向ける宏花に、澄々は不満げに呟いた。
「じゃあ改めて教えてくれ。あの影の鬼について」
「そうだな……お前ら、木氏の刀“幽鈴”の特徴は知っているか?」
「影に直接干渉できるやつだろ? 影を斬れば、本体にも傷が……あれ?」
答えながら、紫雫久はわずかな違和感を覚えた。
「そう。先日、お前はそれを体験したはずだ――斬る側として」
牢屋敷での一件を思い出す。
あの時確かに、この手は影を捉えていた。
「あれは鬼だから斬れたわけじゃない。お前の刀が特別だからでもない。
もっと言えば、“幽鈴”だから影を斬れるわけでもない」
「俺の術がかかっているから、影が斬れるんだよ」
そう言って澄々は、卓に置かれた箸の影をつまみ上げ、宙で揺らしてみせた。
「だからか!」
瑪瑙羽は膝を叩いて声を上げる。
「どおりで再現できないはずだよ。幽鈴の刃紋を刻んでも、せいぜい相手の視覚を鈍らせて一拍遅らせる程度。影が斬れるなんて話が出てきたのも、ここ四十年かそこら……あー! なんで気づかなかったんだろ!」
興奮気味にまくし立てる。
悔しげに言葉を重ねながらも、その表情はどこか楽しそうだった。
「そもそも木氏はあまり刀を使わないからな。
昔は親父たちがこの力で暴れ回ったらしいし、それで情報が歪んだんだろう」
澄々は小鉢に残る高菜をつまみ、大根おろしと一緒に刺身へ乗せ、口に運んだ。
「で、その力ってのが陰陽道ってやつか」
「陰陽道……?」
瑪瑙羽は、その名を初めて聞く顔をした。
「そう。刃浦じゃ、もう伝承ですらほとんど聞かなくなったものだけどな」
陰陽道とは、その昔、安倍晴明の時代に栄えた呪術・占術の総称である。
「――だが、黒木家をはじめとした血筋には、その力が今も宿っていると聞いた」
花衣霞の言葉に、澄々は何かを思い出したように視線を向けた。
「そういえばお前、いつの間に口が上手くなったんだ?
黒木の鍛刀師に辿り着くなんて、佐藤花衣霞様じゃなかったら命は無いぞ」
「……命はあるが、背後は取られた」
忌々し気に呟く花衣霞に、宏花は片目を閉じて愛嬌を振りまく。
宏花に眠らされ、その身に入れ替わられたのは、黒木家の関係者から陰陽道の話を聞いた直後のことだった。
「今でこそ使える人間は減ってきたが、俺たちは昔から、多かれ少なかれこの力を扱える。
俺は影鬼式――自分の影を媒介に鬼を使役する力と、あとは他人の影に潜る術、それに悪霊の使役……まぁ、色々だ」
「へぇ、便利なもんだな」
紫雫久が興味深げに身を乗り出す。
「宏花は獣霊を式神化して使役できる。花衣霞も見たことがあるんじゃないか?」
「あぁ。世話になった」
「佐藤花衣霞のためなら、いくらでも貸してあげるよ」
「ちょっと、さっきから何なんだよ!」
宏花の軽い調子に、ついに澄々が詰め寄る。
しかし宏花は「うるさいな」と、その頬を指先で押し返した。
ぶすくれたまま酒をあおり、澄々は言葉を継ぐ。
声は、先ほどよりわずかに低く沈んでいた。
「便利は便利だが……刃浦じゃろくなことにならねぇ」
「それが、あの暴走か?」
澄々は小さく頷く。
「使えば使うほど、頭に靄がかかったみたいに理性が鈍る。
それに、何かに抑え込まれているようで息がつまる。本来の力を出し切れないような感覚もあるんだ」
「無理に使えば人格を失う。だから一部の場所を除いて、俺たちはほとんどこの力を使わない」
宏花は、少量のうなぎと大量の白米を一度に頬張りながら言った。
「その場所が牢屋敷ってことか。
だから澄々は、わざと捕まるような真似をしたんだな」
「それってもしかして、方角が関係してる?」
瑪瑙羽の言葉に、澄々はにやりと笑う。
「よく知ってるな」
「少しだけ風水をかじったことがあって……。
たしか黒木の牢屋敷って、かなりの凶方位だよね?」
「そうだ。俺たちの力が強くなるのは、大抵、刃浦では“凶”とされる場所ばかりだ」
その時、紫雫久の脳裏に、朧面主の語った言葉がよぎった。
――この二百年を、疑うくらいでないと。
左手は中指の爪を擦る。
口を開きかけては閉じ、それでも言葉がこぼれ落ちた。
「刃浦の吉凶は……上に都合のいいよう、定められている……?」
「さすが紫雫久。話が早くて助かるよ。
俺はずっと、その違和感を拭えずにいたんだ」
思えば、すべてが真逆だった。
上殺しの大罪人とされた井上澪一は、刃浦の民を守るために刃を振るい、
刃浦を平和へ導くはずの伍剣は、災いの媒介となり、
そして、刃浦の主たる上殿の御方は――刃浦を喰らう大怨霊。
「この歴史の中で、凶とされたものは、すべて同じ理由で淘汰されてきたのだろう。
……おそらく、その力も」
「あぁ。きっと上にとって都合が悪いんだろうな。
だから――俺たちも協力するよ」
思ってもない言葉だった。
どれほど深く交流を重ねようと、黒木家は個人との協力関係を結ばないものだと思っていたからだ。
「……いいのか?」
紫雫久が問うと、澄々はこともなげに眉を上げ答える。
「もちろん。こっちは命を助けられてるんだ」
――そのはにかんだ表情を見た時、はじめて“黒木澄々”という男に会えた気がした。
「ありがとうな、紫雫久。お前のおかげで、俺は……俺たちは、今日も笑えてる」
「…………あ、……俺……」
珍しく言葉に詰まる紫雫久。
澄々はわずかに笑みを浮かべるが、何も言わず、静かに手元の酒を注いだ。
紫雫久の心はふわりと浮き、このままどこかへ飛んでしまいそうだった。
思わず、隣に座る花衣霞の手を握る。
冷えた指先から、体温が混ざり合うように溶けていく。
握り返されるその手の確かな力が、紫雫久をここへ繋ぎ止めていた。
紫雫久は花衣霞の手をしっかりと握り直し、真っ直ぐに前を見据えた。
「――よし。
上が再び厄災となる前に、刃浦にとっての最善を探ろう。
まずは、奴に近づく高瀬の動向を探らないとな」
張りのある声が響き、部屋の空気がわずかに引き締まる。
「それならもう一つ、俺たちには“とっておき”がある」
澄々がそう言うと、宏花は箸を置き、目の前の膳を脇へどけた。
座ったまま澄々の方へ寄り、その身にもたれかかる。
足を崩し、投げ出された右脚。
宏花は黙したまま、その思考は読み取れない。
「え……な、何……?」
瑪瑙羽は思わず両手で顔を覆う。
目を離すことができない、倒錯的な緊張感が一瞬でこの部屋を支配していた。
宏花が、澄々をちらりと見やる。
「いいよ。見せてあげて」
その言葉を合図に、宏花は手を足首へと伸ばす。
「……佐藤花衣霞は、俺と手合わせをした時にここを狙ったな」
撫でる手つきは柔らかく、そして現実味に乏しい。
足袋と素足の隙間に潜る指が、視線を外すことを許さない。
「井上紫雫久は、ここの動きの悪さで正体を見破った」
指はそのまま脚を登る。
袴の裾が指にかかり、弛む皺すら作り物のようだった。
太腿のあたりまで伝い、ようやく行き止まる。
宏花の右脚が、皆の目にさらされた。
「こ、これって…………」
宏花の右脚は、つま先から膝上まで青黒くまだらに染まっていた。
およそ人の肌がする色ではない。
目を逸らしたくなるような醜悪さと、惹きつけられる魅力が混ざり合い、生気を感じられない絵のように映った。
「…………呪いか」
紫雫久が低く呟く。
黒く透ける血管には覚えがある。思わず、右腕に手を当てていた。
「これは、高瀬によって“作られた”呪いだ」
まだらの黒が、曇天の雲のようにゆらりと揺れる。
「そして――高瀬が俺を探していた理由でもある」




