黒点に満つる屍・下
「あの時、ちゃんと殺しておけばよかった」
土煙の中から、はっきりと向けられる殺意。
浮かび上がるのは、柳鼠色の髪。
「…………柚……」
二年ぶりに見る、柚珠葉の姿だった。
「我が家の伍剣だけでは飽き足らず、今度は剣番所?
ほんと、刃浦を壊すのが好きだね」
「誤解だ、柚。これは――」
「黙れ」
思わず、右手に力がこもる。
それほどまでに、柚珠葉の声は鋭く、紫雫久の心を刺した。
「あんなに仲の良かった黒木で大暴れするなんて、悪魔の考えることは恐ろしいね」
剣警士を立たせ、塵を払い、震える肩に手を添える。
口では紫雫久を貶めながら、その手つきは向井の家士へ向けるものと似ていた。
紫雫久は、唇を軽く舐めた。
「……高瀬の、ためか?」
「もちろん。それ以外にある?」
柚珠葉は眉を上げ、鼻で笑う。
“向井柚珠葉は、高瀬と同じ方向を向いているかもしれない”――花衣霞の言葉が、現実味を伴って胸に落ちた。
「無事なら、それでいいと思ってたけど……。
なぁ柚、自分が何に手を貸しているか、わかってるのか?」
「チッ……お前こそ、何をわかってて説教垂れてんの? 人殺しのくせに」
「――っ、だからそれは高瀬の――」
踏み出した一歩は、突きつけられた切先に阻まれた。
「…………向井を任されたのは、柚だろ?
この現状を鵜匡さんが知ったら――」
「その名前を口にするな!!」
びりびりと、空気そのものを震わせる怒号。
「お前が……! お前なんかが、二度と父上の名を口にするな!」
「なん……」
「お前のせいで、父上は死んだ! お前なんかを庇って!」
一瞬、視界が白く塗り潰される。
遠くで、耳鳴りが響いた。
「な、何かの間違いだろ……?」
「高瀬の領主から直接聞いた。お前のせいで……父上がお前なんかを庇うから、処刑せざるを得なかったと」
刃浦において、上殺しの井上は大罪だ。
それを匿う行動もまた、重い。
だとしても――それだけで?
「よ……よく考えろ柚。まず時期がおかしいだろ……? 二年も経って、何で今さら――」
「うるさい!」
柚珠葉は刀を床に叩きつけ、蹲り、頭を抱えた。
「うるさい! これが事実なんだよ!
お前がいなければ……なんで、お前の責任を私たちが……」
絞り出す声は湿り、震えている。
紫雫久は、右腕の血管を握り潰されるような痛みに目を細めた。
「だとしても……柚、鵜匡さんの……亡き骸は、見たのか?」
「え…………?」
はっと顔を上げる。
泳ぐ視線は、見慣れた色をしていた。
柚珠葉へ歩み寄り、その肩に手を伸ばした――その時。
影が、ゆらりと蠢いた。
「――柚! 逃げろ!」
咄嗟に肩を突き飛ばす。
――バンッ!
「……な」
「くそ……間に合わなかった……」
床には、墨汁をぶちまけたように広がる剣警士の死体。
鬼の影はそれを見届けると、ゆったりと部屋を巡り――ふっと気配を消した。
「――紫雫久」
左肩に応急処置を終えた花衣霞が、手を差し伸べる。
「どっちに行った?」
「旧影町の方角に」
「よし、行くぞ」
「待って……!」
立ち上がろうとした手を、柚珠葉が掴む。
「紫雫久、足が!」
「……あぁ、このくらい平気だよ」
庇った際、わずかに遅れた左足が衝撃を掠めていた。
骨は無事だが、皮膚は裂け、血が滲む。
紫雫久はその手をやわらかく外し、花衣霞の手を支えに立ち上がる。
そして、瞬き一つの間に、その背は闇へと溶けていった。
柚珠葉は力なく顔を覆い、小さく舌打ちをひとつこぼした。
《第十三章:黒点に満つる屍・下》
「――まだ追えるか?」
「あぁ、それほど遠くへは行っていない」
月明かりの無い夜道を駆ける。
頼りは、前を行く花衣霞だけだった。
「鬼はどこに向かってるんだ? 狙いは達したはずだろ」
「この先の旧影町には、まだもうひとつある」
「もうひとつって?」
「……黒木の牢屋敷だ」
黒木領の大罪人が収容されている屋敷。
そこも、つい数ヶ月前に高瀬の手に落ちたと噂に聞いた。
「そこには……澄々もいるじゃねぇか」
紫雫久は、嫌な汗を滲ませた。
いくら澄々といえど、拘束された身では、あの鬼の影に太刀打ちできるかは分からない。
「“帰り”だと願っちまうな。“向かってる”んだとすれば、ちと厄介だ」
「――帰っているよ」
「……え?」
紫雫久の呟きに、花衣霞がはっきりと返す。
「仕事が終われば、主人の元へ帰るものだろう?」
一瞬、耳を疑った。
花衣霞の声が、別人のものに聞こえたからだ。
「こっちだ」
次に聞こえた、小道へ誘う声は確かに花衣霞のものだった。
だが、一度生じた違和感は拭えない。
(……あまりにも迷いが無い。黒木の道に慣れすぎていないか?)
ふと湧いた疑念は、かつて花衣霞が語った“紫雫久を探した日々”に打ち消される。
(いや、二年も刃浦を渡り歩いたんだ。そのくらい、不自然じゃない……)
紫雫久は頭を振り、余計な思考を振り払った。
(それよりも、左足のせいで速度が出ないな……花衣霞にも合わせてもらっ――)
「――違う」
紫雫久の足が、ゆっくりと速度を落とす。
その気配に気づいた花衣霞も、同じように足を止めた。
振り返る足は、右をわずかに引きずっている。
(俺に合わせていたんじゃない。花衣霞も……同じように片足を庇って走っていただけだ)
今できた傷を庇う動きではない。
長年の傷が体に馴染んだような、自然すぎる違和感。
「……紫雫久?」
花衣霞が、訝しげに近づく。
「どうし――」
「お前は誰だ」
頬の横で、花衣霞の手が止まった。
「……どうした? 紫雫久」
声に揺らぎはない。
だが、木の影が濃く落ちるその顔はよく見えない。
それが、ひどく不気味だった。
「お前は花衣霞じゃない。誰だ」
硬く押し出す声。
花衣霞は、口元をわずかに歪める。
そして紫雫久の両肩を掴み、額が触れ合うほどに顔を寄せた。
「どうして違うとわかった? “愛ゆえに”なんて寒くるしいこと、言わないでくれよ?」
目の前で光る杏色の瞳。
まるで今宵の月を盗んできたかのように眩しい。
風に揺れ、頬を掠める藍褐色の髪。
目の前の男は、ほんの一瞬で、花衣霞ではなくなっていた。
「お前は……」
「同じ質問を何度もするなよ。答える気が失せる」
男は不機嫌を隠そうともせず、顔を歪めた。
「目的は何だ。花衣霞はどこにいる」
「ふっ……お前は賢いね。だから命が天に近いんだよ」
笑みを含みながら、男は両頬を包むように手を添えた。
ひやりとしたその手からは、不思議と敵意が感じられない。
「佐藤花衣霞は、ただ寝ているだけだ。
俺は、お前と……その懐の小鐘を澄々のもとへ持ち帰るのが目的だからな」
「小鐘って、お前――」
言いかけた、その瞬間。鋭い風切り音が走る。
「――おっと」
男は斬撃をひらりと躱し、その方向へ視線を向けた。
夜霧に揺れるのは濃墨の髪。
紫雫久の肩を抱き寄せ、切先を突きつける花衣霞の姿があった。
「紫雫久に触れる他人の手を斬り落とそうとするのは、悪い癖だと思うぞ?」
「二度は無いと思え、柳木宏花」
そう呼ばれた宏花は、花衣霞の鋭い視線を意にも介さず、人差し指でその切先をついと逸らす。
そのままの指で、花衣霞の顎に触れた。
「面白いなぁ、佐藤花衣霞は。つい、からかいたくなる」
「……お前、目的はいいのか?」
紫雫久の手が、宏花の手首を掴む。
わずかに耳が赤いのは照れか、それとも焦りか。宏花は小さく笑みを漏らした。
――ドォン……
遠くで爆ぜる音が響く。
宏花はその方角へ視線を送り、ぽつりと呟いた。
「少し観客が多いが、仕方ない」
「俺たちの心中の、手伝いをしてもらおうか」
振り返ったその表情は、ひどく穏やかだった。
爆発音の出どころは、黒木の牢屋敷。
まるで砲撃でも受けたかのように屋根は崩れ、煙が立ち上り、地には瓦礫が散乱していた。
その隙間をすり抜けていく。
宏花は、あれ以来ひと言も口を開いていない。
「……あの鬼は、きっちり高瀬の剣警士だけを狙っているな」
「この長屋は、彼らの住処になっていたのだろう」
牢屋敷の中で、この一帯だけが大きな足で踏み荒らされたように崩れている。
――いや、実際に踏み荒らされたのだろう。
宏花はそんな惨状には目もくれず、揚座敷のある奥の方へと進んでいく。
「あっちは……やけに静かだな」
人の気配はおろか、死の気配すらない。
ただ、ひたすらに闇だけが広がっている。
「……高瀬がここを制圧した時、罪人はみな処刑された。
その後に収容されたのは……黒木澄々だけだ」
「それって――」
紫雫久が振り返った、その瞬間。
視線の先で大きく屋根が崩れ落ちた。
地下の扉を開けた先は、六畳ほどに区切られた座敷。
薄暗い室内で、一本の蝋燭だけが灯っていた。
揺れる灯の合間に、鎖の擦れる音が響く。
「生きてるか? お莫迦さん」
宏花の声に、ゆっくりと浮かび上がった瞳が、やがて大きく見開かれる。
「――なん、で」
牢に繋がれた澄々が、掠れた声を絞り出す。
宙に吊られた手は空を切り、がしゃん、と重い音を立てた。
宏花は格子の一本を撫でながら、小さく笑みを零す。
「ひどい有様だな。三月ぶりか?」
「三月と十七日ぶりだね」
そう笑う澄々の目元には、深い隈が滲んでいた。
髪には艶がなく、声にも張りがない。
吊られ、落ちた袖の奥に覗く腕には、いくつもの傷が刻まれている。
おそらく――それは全身に及んでいるのだろう。
宏花は格子を開け、牢の中へと足を踏み入れる。
風のように軽やかな動きで、澄々の胡座へ収まるように腰を下ろした。
一瞬、腿に走る痛みに澄々は目を細める。
それでも宏花は、その身を預けるのをやめなかった。
「……怒ってる?」
「まさか。俺が怒ったことなんて、今まであったか?」
「たくさんあるよ。……ぁ、やめてよ、何日風呂に入ってないと――思って……」
首筋に顔を埋める宏花に、澄々は身を捩る。
だが腕の拘束のせいで、ほとんど意味をなさない。
「憂さ晴らしだよ。お前が俺に手を出せないなんて、今後あるかどうかもわからないんだから」
「……はっ、帰ったら覚悟してもらわないと」
宏花は笑みを浮かべ、耳元へ口を寄せた。
「嘘つけ。帰る気なんて、最初から無いくせに」
澄々の体が強張る。
蝋燭の灯がふっと消え、闇が満ちた。
「…………箱を、開けたのか?」
「お前はそう命じたか?」
「答えろ」
「お前こそ、あまり俺をなめるなよ」
闇の中で、互いの瞳だけがはっきりと浮かび上がる。
「黒木澄々。お前は――柳木宏花なんかじゃないだろ」
「――なぁ花衣霞、あいつは確かに“柳木宏花”って名乗ったんだよな?」
「うん、間違いなく」
「それだと……柳木宏花は、二人いることになる。
これを見てくれ」
紫雫久が手にしているのは、一冊の記録簿。
この牢屋敷に収容された囚人の名が記されている。
「澄々はここに、“柳木宏花”として収容されているんだ」
――木氏、黒木澄々(本名 柳木宏花)
紫雫久の指す先には、そう記されていた。
花衣霞はわずかに首を傾げる。
黒木澄々がその名を偽っているなど、思いもしなかった。
「だとしたら、あの者は一体……」
「元は逆だったとか? 名前と領主子息の立場を奪われて、復讐に来――」
言いかけて、背筋に嫌なものが走る。
ここへ来る直前、宏花が口にした“心中”という言葉が蘇った。
「黒木澄々は、身分を偽っていたと?」
「……仮説のひとつだ」
紫雫久は首を横に振り、冊子を閉じる。
何かを断ずるには情報が足りない。
だが――澄々を拘束するに至った高瀬には、それに値する根拠があったはずだ。
「花衣霞、この瓦礫をどかすぞ。
記録が残っているはずだ。……鬼の力でも、消しきれないはずだから」
花衣霞は静かに頷き、刀を構えた。
――幻華遊離
花衣霞の静謐な一振りに、大きな瓦礫は、まるで花弁が風に舞うかのごとく浮かび上がる。
そのまま音もなく着地させる、見事な手際。
紫雫久は笑みを抑えきれず肩を押しつけた。
瓦礫の下には、記録簿が溢れていた。
そのひとつひとつを捲っていく。
「当たりだな。ここには高瀬が持ち込んだ記録もいくつかある」
「隠したい何かが、あったのだろう」
この一角だけ、血痕が無いにもかかわらず損壊が激しい。
影の鬼を操る者の意図が、そこに潜んでいるようだった。
「――高瀬は以前から、“柳木宏花”のことを探していたようだ」
花衣霞の見つけた報告書には、柳木宏花捜索の命を受け、黒木家に潜入した高瀬の人間の足取りが記されていた。
「理由は……剣警試験の受験者だから? そんな理由で?」
「だが、この年の剣警試験は曰くつきだ」
「受験者全員が命を落としたっていう、アレか?」
「うん。それが今になって生き残りがいたとするなら……」
「口封じにしろ、探し出しておきたいわな」
報告書には空振りの日々が続いていたが、ある時から、とある噂を耳にするようになる。
――子息は、数年前から名を変えている。
高瀬の男は、その情報に飛びついた。
具体的な年数、そして元の名が“宏花”であることを掴む。
そしてついに、黒木澄々本人と対面するに至る。
新人だという高瀬の男に、澄々はにこやかに言った。
『気になることがあれば、なんでも聞いてくれ』
男は逸る心を押さえ、問いを投げる。
『自分も剣警試験に興味があるんです。どんなところでしたか?』
すると澄々は、まっすぐ男の目を見て言った。
『去年の試験は平和だったな。その前は……俺しか生き残れない、酷いものだったから』
男は心の中で歓喜した。
これで、求めていた情報は確定した――と。
「……どう考えても、わざとだろ」
紫雫久は報告書を読み、呆れたように息を吐く。
あまりにも露骨な餌だった。
「高瀬もこれを信じたってのか? こんなのに殺されかけたと思うと、自分が情けなくなるな」
ため息混じりに報告書を花衣霞へ渡す。
瓦礫と冊子の山に寝転び、頭の後ろで手を組んだ。
「黒木澄々は、高瀬の動き知ったうえで意図的に偽の情報を内部に流した。
自ら、罠にかかりに行くようなことまでして」
「……そこまでして、宏花のことを守りたかったんだろうな、あいつは」
月明かりの下で、“猫”の話をする澄々の表情を思い返す。
あれは確かに、この世でただ一つを見つめる目だった。
「だとしても、わざわざこんなところに捕まりに行くなんて。少しやりすぎじゃないか?」
「……こういった芽は、根本から摘み取らないといけないから」
花衣霞はわずかに目を逸らし、続ける。
「死んだと思われた方が……守れるものもある」
「最初はただ、わざとだと思ったんだ」
宏花は澄々に身を預けながら、やわらかく髪を梳いていく。
「俺の情報を餌に、高瀬の内情を引き出そうって。
現に、そのおかげでうちに潜んでいた裏切り者も、すべて一掃できたしな」
「…………」
「褒めてやってるんだから、いつもみたいに喜べよ」
澄々は黙したまま、表情を変えない。
「都合が悪くなるとすぐ黙る。いつまで経っても子どもだな」
「…………誰から聞いた」
観念したように口を開く澄々に、宏花は笑みをこぼす。
「誰も漏らしてないよ。
ただ、幼い心は心配してたんだ。“妙な噂が流れている”ってな」
「あいつ……」
「怒ってもいいが殺すなよ。若いのは貴重なんだから」
宏花は宥めるように口付け、ついでに口元の傷を舐めた。
「それに、俺にだって調べる力くらい残ってる。
お前は俺を腑抜けにしたかったみたいだがな――お前の知らないことなんて、いくらでもある」
「むかつく」
「ふっ、かわいいな」
宏花は、澄々から滲む殺気ごと抱き寄せた。
「でも、俺になろうなんてのは、かわいくないな。
どうして?」
「……都合がよかったからだよ」
「影鬼式を使うために?」
「……あぁ」
「確かに、この牢屋敷なら地上では使えない俺たちの力も存分に発揮できる。
俺になってここに拘束されれば、怪しまれずに留まることもできるな」
遠くで、水の滴る音がひとつ、静かに響いた。
「賢い、見事な作戦だ…………なんて、言うと思うか糞莫迦カス野郎」
「――っ」
髪を梳く手が、そのまま強く引き寄せる。
「お前の目的は、“柳木宏花としてここで死ぬこと”だろ?
剣番所を潰すだけなら、影鬼式なんて危ねぇ術を使う必要はねぇ。あれはついでだ。
影鬼式で頭を焼き切って、狂って死にてぇだけだろ。違うか?」
宏花の剣幕に、澄々は負けじと睨み返す。
「根本から潰さないと意味がないだろ!
柳木宏花は死んだと高瀬に認識させなきゃ、また宏花は……!」
「勝手なことしやがって、誰が頼んだ!
理由は何だよ。“俺を守りたくて”なんて言ったら、てめぇ容赦しねぇからな!」
「守るために決まってるだろ、ばか!」
――ごつ
鈍い音を立てて、澄々の頭突きが宏花に直撃した。
「…………だから、おねがい、ここからはなれて……」
項垂れ、絞り出すような声で訴える。
宏花はそんな澄々をやわらかく抱き寄せ、ゆっくりと頭を撫でた。
「ありがとうな。俺を、こんなにも愛してくれて」
「宏花……」
「でもな、俺も同じくらい愛してるんだよ」
ぐっ、と抱きしめる力が強まる。
その瞬間、澄々の背に悪寒が走った。
「――や、やめろ、宏花」
体の奥から魂を引き抜かれるような、冷たく不気味な感触。
「箱の中身なんて、見なくてもわかる。
あれは黒哭だろ?
鳴らせば、鬼とお前の魂が同時に屠れる」
そうと知らせず運ばせたことに、心底むかっ腹が立った。
「死にたいなら殺してやる。
でも、それは俺も一緒だ」
「やめろ! これは、命れ――ん゙ンッ」
ぶつけるような口付けで、その言葉を塞ぐ。
次第に視界の端から赤が滲み、耳鳴りに覆われていく。
澄々の影がみるみるうちに伸び、やがて鬼の形を成す。
「……俺を、ひとりにするなよ」
舌が切れるほどの、口付けだった。
「澄々!」
――バンッ!
揚座敷の地下へ足を踏み入れた瞬間、蝋梅の香りに満ちた爆風に襲われた。
花衣霞の腕の隙間から、宏花が壁へ叩きつけられるのが見える。
その体は、大きな鬼の手に磔にされていた。
「宏花!」
紫雫久は刀を抜き、鬼の腕へ一閃を放つ。
瞬間、血のように黒い影が弾ける。
鬼は咆哮を上げ、腕を引いた。
剣番所で見た鬼の影よりも、はるかに実体を伴った“影の鬼”だった。
「……術者に近ければ近いほど、その力は増す」
「あぁ。だが、これ以上は俺には斬れねぇと思ってくれ」
紫雫久は、刀の構えを静かに下ろす。
「黒木澄々にも、影響があるのか」
鬼を斬ったのと同じ箇所。澄々の腕も裂け、血が滴っていた。
だがそれ以上に、内なる激情にもがき苦しみ、低く呻いている。
「――げほっ、ちょうどいいところに来た。
俺が合図をしたら、その小鐘を鳴らせ」
瓦礫の中から立ち上がった宏花が、紫雫久の肩にもたれかかる。
「お前の望みは知らねぇが……その血筋なら、あいつと同じ“陰陽道”を使えるんじゃないのか?」
「……いつ調べた」
「残念ながら、お前は花衣霞を眠らせるのが一歩遅かったらしいな」
肩に置かれた手を、軽く叩く。
宏花は露骨に苦い顔をしたが、すぐに目を逸らした。
「まぁいい。どうせすぐ終わる」
そう呟いたまま、澄々のもとへと足を向けた。
――バンッ!
――バンッ!
地鳴りのような衝撃だった。
澄々が腕を振り上げるたび、鬼の影が壁を破壊する。
近づく宏花も幾度となく衝撃を浴びる。
全身は傷だらけだった。
左腕は垂れ下がり、血を滴らせている。
――バンッ!
澄々にはもはや、目の前の相手を判別する理性は残っていなかった。
――バンッ!
それでも宏花は、引き摺る足を止めない。
「――ア゙ア゙ァア゙あ゙!」
ようやく届いた手は震えていた。
片腕を伸ばし、澄々を抱きしめる。
「今だ、鳴らせ!!」
その声を合図に、紫雫久は宙に放った小鐘へ刀を振り抜いた。
――リン――ッ
「――ア゙ア゙ァ、ア゙あ゙ア゙!!」
「ゔ、ぐぁ……ッ」
鐘の音が響くと同時に、しゅうしゅうと音を立て、鬼の影が薄れていく。
澄々は声を上げ、力の限り、宏花に縋りついた。
肋骨の軋む鈍い音が響き、呼吸が詰まる。
(……やっと、これで……やっと、俺はこいつと……)
宏花が安堵しかけた、その時――
――リン――ッ
もう一度、紫雫久が刀を振り抜いた。
全身が宙に浮いたような感覚。
噛み合わぬまま無理に回されていた歯車が、ぴたりと噛み合ったかのように。
澄々の力が、次第に緩んでいく。
それと同時に、鬼の影も溶けるようにほどけ、澄々の影へと帰っていった。
「……な、なんで」
背後で、足音がひとつ。
振り返ると、そこにいたのは紫雫久。
「なんで、お前、何をし――ッ!」
振り下ろされた拳が、容赦なく叩き込まれる。
まともに受けた宏花の脳は揺れ、そのまま意識は闇へと沈んだ。
目を開けると、そこは上等な座敷だった。
(…………生きている)
宏花は右手を天井へかざし、ぼんやりと見つめる。
(俺だけ生きていてもしょうがない。
だが、あれは……)
紫雫久に託した小鐘――黒哭は、黒木家に伝わる呪具だった。
影鬼式に自我を喰われた者の魂ごと消滅させるための、最期の措置。
宏花はあのまま、澄々の腕に抱かれて死ぬはずだった。
それなのに、澄々はゆっくりと、穏やかに鬼を引き戻していた。
(あいつが何か……いや、何かできるとは思えない)
思考を巡らせるうち、再び眠気が差し込む。
昔から策を巡らせるのは、澄々の役目だった。
うつらうつらと、瞼が落ちかけたその時――
「なんだ、また寝るのか?」
「――っ! ぅ、あ゙」
声に飛び起きた拍子に、腹の奥が鈍く軋んだ。
「おいおい危ねぇな。ゆっくり起きろよ、お前けっこう酷いんだから」
「……お前、いつから……」
左へ視線をやると、枕元に膳を置き食事をする紫雫久がいた。
「……悪趣味」
「しょうがないだろ? 見てろって言われても、寝てるやつ見てても暇なだけだし」
ぶーたれる紫雫久に、宏花は大きく息を吐いた。
黒木の家で、こんなふうにわがままを言うのは澄々くらいのものだった。
「澄々は」
「気になるか?」
「当たり前だろ。お前が妙なことをしなければ、今ごろ俺たちは極楽浄土だ」
「お前たちは地獄じゃないか?」
「うるさいな。澄々がいれば、どこでも同じだ」
そう言って宏花は、力なく布団へ身を沈めた。
「……あの小鐘は、制御装置だろう?」
「あぁ。死をもってな」
「あれに刻まれた円の印は、鬼と術者を同時に完全な終わりへ導くものだ。
だから鳴らす瞬間、俺の刀で円を断ち切ってみた」
一度目は掠り、二度目で完全に断った。
「昔、円を刻んだ陣をこじ開けたことがあったから。
少し逃げ道があるだけで、かなり変わるんだ」
紫雫久は、煮物の人参を割くように箸を入れた。
「……それで、澄々は苦しみの中で死なずに済んだ、と。
誰に聞いたんだ、あの鐘の仕組み」
「いや、そんな暇は無かったよ。お前たちの意図に気づいたのは、牢屋敷に入ってからだ」
「お前…………」
(あの鐘を作ったやつは、死んで百年は経つっていうのに……それを、見ただけで?)
宏花は直感する。
こいつを放っておくには危険すぎる。
あまりにも、黒木について知られすぎた。
ゆっくりと布団から身を起こし、片膝をついて前傾姿勢をとる。
「どうした? 厠か?」
「あぁ…………」
油断している今なら、あるいは――
「悪いけど、遊ぶなら後ろのやつとにしてくんね?」
「え――んん゙っ」
一瞬で右腕を背後に取られ、口を塞がれる。
背中にのしかかる体重が、肋骨を容赦なく軋ませた。
「そんなんでよく、“腑抜けじゃない”なんて言えたね、宏花?」
「ん゙! ン゙ん゙ー!」
「……やるなら他所でやってくれ、黒木澄々」
後から部屋へ入ってきた花衣霞が、眉を顰める。
「わかってるって。
まぁお互い聞きたいこともあるだろうし、三日――いや、五日後にまたここで落ち合うのはどうだ?」
暴れる宏花を押さえ込みながら、澄々はにこやかに提案した。
宏花は口を覆う手に噛みつき、どうにか逃れる。
「――ぷはっ、離せ! 俺は行かない、から……な…………」
澄々は二人から視線を外さぬまま、宏花の首筋へ針を刺す。
がくりと力の抜ける宏花をよそに、その表情は一切変わらない。
その顔だけ見れば、ただ返事を待っているようにすら見える、一瞬の出来事だった。
「あぁ、五日後に、ここで」
紫雫久がなんとか応じると、澄々は宏花を担ぎ上げ、座敷を後にした。
「……いつも通りだ」
「うん。紫雫久のおかげ」
紫雫久は、隣に座る花衣霞へともたれかかる。
嵐が通り過ぎたような一夜だった。
もし、何も知らずにただ鐘を鳴らしていたら、二人は望みを叶えていたのだろうか。
死が全てを解決することなど、あるのだろうか。
望みの代償が自らの死なら。差し出すだろう。
少なくともあの夜――向井の伍剣を壊しに行ったあの夜は、そう思っていた。
「もし、全部俺が死んで解決しようとしたら、花衣霞はどうする?」
「例え話でも、紫雫久が死ぬのは許さない」
花衣霞は、こつりと額を当てた。
「ふふ、花衣霞はそういうの見飽きてるか」
開け放たれた窓から、どこか現実味のないまま、金木犀の香りだけが漂ってきた。




