語らるるは、頂に至る道・果
前日の大雨が花弁を洗い流し、視界を覆っていた桜並木は、どこか寂しげに葉を揺らしていた。
枝の隙間から空を仰ぎ、澄々は「呆気ない」と思う。
どれほど美しかったとしても、欠けてしまえばその途端、澄々の興味を引くに値しない。
誰ひとりとして、葉桜を見上げる者などいなかった。
「――なぁ、聞いたか? 澄々。
宏花兄さんが、剣警試験に招集されたらしい」
屋敷に戻ると、兄弟弟子たちが興奮気味に迎えた。
門前から妙にざわついていた空気は、その一報によるものらしい。
「宮中の役人が、わざわざ書状を持ってきたってよ」
「こりゃ下手すりゃ、最年少記録かもしれねぇぞ!」
「五参家に加えて剣警士もいるとなりゃ、黒木の天下も近いな!」
「…………あっそ」
口々に騒ぐ彼らを薄目で眺め、澄々は乾いた返事を返す。
隠す気もなく、不満が全身から滲んでいた。
「そう邪険にするなよ。お前だって幼い頃から世話になってるんだから」
見かねた兄弟子が、澄々の肩を軽く叩く。
それでも、一度への字に曲がった口は戻らない。
「そうだぞ。お前の産着は俺が着せてやったんだから」
ふわりと、桃を洗ったような甘い香りが漂う。
背後から回された両手が肩を抱き、わずかな重みが背に預けられた。
「……宏花」
忌々しげに吐かれた名に、宏花は「呼び捨てはやめろ」と笑い、澄々の柔らかな頬をつまむ。
「殺気がだだ漏れ。だから俺の接近に気づけないんだよ」
「うるさいな、離れて」
澄々は腕を振り、宏花の体温から逃れる。
この人を食ったような兄弟子といると、いつからか心が落ち着かなくなっていた。
「玄燈様のところへ行っていたのか?」
「あぁ。“表の”柳木として赴く旨を伝えてきた。黒木とは切り離しておいた方がいいだろうと思ってな」
兄弟子たちが話を継ぐ。だが澄々は、自分の爪をいじりながら、その場を離れられずにいた。
「それでも、玄燈様はお喜びになっただろう?
こんな優秀な弟子に育って」
耳がぴくりと動く。
「……そんなことはないよ。
目立つなと、釘を刺されただけだ」
宏花の言葉に、澄々の肩から力が抜ける。
(父上に、褒められて……いない……)
小さく、安堵の息を吐いた。
「……それで、何人か連れて行ってもいいらしい。
澄々、お前も来るか?」
「ぅわっ!」
不意に、視界いっぱいへ滑り込んできた杏色の瞳。
澄々は、心臓が飛び出るかと思った。
「な、何!?」
「いや、お前も試験についてくるかって」
透けるような肌に沿って流れる藍褐色の髪が、さらりと唇を掠める。
――触れたい、と、思ってしまう。
「……ん?」
持ち上がりかけた手を勢いよく振り下ろし、澄々は叫んだ。
「行かない! 勝手にしろ!」
子犬が吠えるような声音だった。
宏花はくすりと笑い、澄々の頭を撫でる。
「わかったよ。……じゃあ、行ってくるな」
「……知らない。宏花なんか、行ったってすぐ蹴落とされて死ぬだけだ」
ぶすくれたまま、澄々はその手を振り払い踵を返す。
その時の宏花の表情を、知る者はいない。
――次に見た宏花は、苦痛に悶える獣だった。
「ゔーッ! んゔ……っ、ン゙」
部屋に敷かれた布団の上で、全身に刻まれた痛みにのたうち、声にならぬ悲鳴を上げる。
繋がれた四肢は、身を捩るたびにがちゃがちゃと耳障りな音を立てた。
口枷に塞がれた声は、何を叫んでいるのか。
澄々は、敷居の外でただ立ち尽くしていた。
あと三日は戻らぬはずだった兄弟子は、雨の中、身を引きずりながら裏門へと辿り着いた。
掃除に出た家士が気づかなければ、そのまま息絶えていたかもしれない。
(宏花は……失敗したわけじゃない。これは……むしろ、生き残ってしまった……)
本来は、己の剣技を試す場であったはずだ。
だが彼は、明らかに何かを“入れられて”いた。
(俺が一緒に行っていれば……いや、俺がもっと強ければ)
宏花は――こんなにも苦しまずに済んだのかもしれない。
(俺が願ったからだ。失敗すればいいと。……宏花が、弱くなればいいと)
暴れる宏花の傍らで、黒木玄燈は付ききりで治療にあたった。
普段は殺すことしか知らぬ男が、ひとりを生かすために寝食を削る。
それを目の前にしても、澄々にはもうどうでもよかった。
それ以上に――
口枷に押し込められた声。はだけた着物。手枷に擦れる手首。苦痛に歪む眉。
そして、日に日に青黒く蠢きを増していく右脚から、目が離せなかった。
遠くを走っていたはずの背中が、今、自分の足元に伏せている。
(……ずっと、こうしたかったんだ。こうすれば宏花は、俺と一緒に……)
澄々を埋め尽くしていたのは、感謝にも似た、最悪の感情。
「――きれい、」
その言葉が、口から零れ落ちた瞬間。
胸の奥がゆっくりと黒く染まっていくのを感じた。
《第十四章:語らるるは、頂に至る道・果》
七年――それほどの歳月を経ても、この感情との折り合いはつかない。
自ら許可を出しておきながら、他人の目に晒されることを厭う自分がいる。
宏花には見抜かれているのだろう。
あの頃と変わらぬ桃の香りが、すぐ傍にある。
それが、彼なりの気遣いであることを、澄々は感じ取っていた。
それでも――どこかに、道が開けると信じて。
澄々は伏せていた目をゆっくりと上げた。
「――つまり、七年前の剣警試験は人体実験の場だったってことか?」
「あぁ。あの時、才ある剣士たちが立ち向かったのは呪いだった。
結果として……途中で逃げ出した俺を除き、二百五十六の剣士、全員が命を落とした」
その言葉に、部屋の空気は重みを増す。
「……俺は幼かったから、皆が助けようとしてくれたんだ。彼らは誉高き剣士だったよ」
宏花が淡々と語るその間にも、右脚に巣食う呪いは、ゆらりと不気味に蠢いている。
「高瀬があんな手段を取ってまで、何をしようとしていたのかは分からないが……それを今も必要としていることだけは確かだ」
「澄々を拘束したのが何よりの証拠だな。
見たところ、何かを“入れた”類の呪いだと思うが……おそらく、これはまだ“生きて”いる」
「その場合、何を入れたかが重要だね。
方法は…………ぁ、」
瑪瑙羽は言いかけた言葉を、そこで呑み込んだ。
その繊細な反応に、宏花は小さく首を横に振る。
「気にするな。今さら思い出して辛くなるようなことは、もう無いよ」
「でも、だからといって私たちが安易に踏み込んでいいわけではありません」
真剣な眼差しに一瞬だけ目を瞬かせ、宏花はすぐに破顔した。
「ははっ……本当に良い子だ。澄々は良い友人を得たな」
宏花は傍らの澄々の頬に触れるように撫でながら言う。
その仕草に、眉間へわずかに皺を寄せつつも抗わず、澄々は低く呟いた。
「……いいから、説明」
「あぁ、こいつを入れた方法だったな。
最初は酒に紛れていた。それで三分の一ほどが死んだが……あの時はまだ、警戒心を試されている段階だと思っていた」
花衣霞は、わずかに顔を顰める。
「次に、全員で洞窟に閉じ込められた。中は、息もできないほどの怨霊に満ちていた」
「ちょうど、俺たちが魔境走で入った場所と同じだ」
具体的な光景を思い描いてしまい、瑪瑙羽は青ざめる。
あの洞窟に逃げ場などなく、全身を怨念に嬲られるようなものだ。
「生き残れた者は、全体の二割にも満たなかった。
それでも正気を保てず、殺し合いに至る者さえいた」
「……その間、高瀬は何をしていたんだ?」
紫雫久が低く問う。
「高瀬? ――笑っていたよ」
視界の端が、赤く滲む。
右手が、ぴくりと痙攣した。
紫雫久だけではない。全員が言葉にできぬ怒りを抱いていた。
「……それからは、ただ呪いを濃くしていく作業だ。
怨沼に沈めたり、怨念で満たした人間と…………、まぁ、いろいろだな」
宏花はそこで、話は終わりとばかりに両手を軽く上げた。
「聞く限り、高瀬も手法を探っていたのだろう」
「だが……なんとなく見えてきたものもある」
紫雫久は、中指の爪を擦りながら思考を巡らせる。
「全てに共通するのは、怨念。そして――耐久力。
強い念に耐えうる“器”を作ろうとしていたんだろう」
「器って……そんな強い怨念なんか、どこに――」
「まさか、」
澄々が弾かれたように顔を上げる。
視線がかち合い、紫雫久は静かに頷いた。
「あぁ。高瀬が望んだのは、上の器だ」
その場にいた全員が、息を呑む。
澄々は思わず、宏花を支える腕に力を込めた。
「つまり、高瀬は上殿の復活を企んでいると……?」
「おそらくは。……その先に見据えているのが、我欲か信仰かはわからないが」
宏花の右脚に巣食う呪いが、まるでこちらを嘲笑うかのように、その色をいっそう濃くした。
(――こんなものを相手に、どうやって……)
ほんの一欠片しか無いはずの呪いを前に、紫雫久は頭の先から冷えていくような恐れを抱いた。
ふと、視界の端を濃い朱の凧がよぎった。
窓の外へ目をやれば、その数は一つや二つではない。
「何の凧だ?」
「あぁ、ほら……もうすぐ上殿の祝いの日があるだろ?
黒木では、慶賀の意を表して凧を上げるんだ」
「殿上祭…………」
年に一度、刃浦全土で催される一大祭。
紫雫久はその名を転がしながら、中指の爪を静かに擦った。
「てことは、宮籬は今、その準備に追われて……」
――ゴホッ、ゴホッ!
不意に、花衣霞が体勢を崩して咳き込んだ。
「花衣霞!?」
紫雫久は慌ててその肩を支える。
口元を覆う手には、わずかに血が滲んでいた。
「……問題ない。伍剣に動きがあったようだ」
「伍剣って、私たちの奪われた……?」
「あぁ。花衣霞が、佐藤の血を使って追っていたんだ」
花衣霞は水を含み、口元を拭う。
呼吸は、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「伍剣の霊力が強まっている。
――より効果的な場所へ移された可能性が高い」
「それって、つまり……」
「あぁ。我々にとっては――逆の意味になる」
刃浦の空を、じわりと雲が覆っていく。
やがて厚みを増したそれは陽を遮り、世界から色を奪い取っていった。
紫雫久は、右手を誰かに掴まれたような錯覚を覚えた。
「――煌羅嘉様。伍剣の移送、完了いたしました」
高瀬家の奥殿へと続く廊下の手前で、家士に呼び止められる。
煌羅嘉は、そのまま奥殿に背を向けた。
「あぁ。それで何か…………」
「はい、何か……?」
いつものように即座に下がるよう命じられると思っていた家士は、戸惑いを隠せない。
「……いや。異常は無かったか」
「はっ。無事に宮籬へとお運びいたしました」
その報告に、煌羅嘉はわずかに目を細める。
「……何事も、無ければよい。何事も……」
隙間風に吹き消える蝋燭のような声色。
それは、煌羅嘉にはあまりにも似つかわしくない響きだった。
「無事であれば、それでいい。
すべてが終わる……殿上祭までに」
その視線は、奥殿へと静かに注がれていた。




