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ご老人はぷるぷると震える手で杖をつきながらにこやかに笑った。
底抜けに明るい笑い声が、場の空気を無視して広い部屋に響き渡った。
驚いたシアーシャの弄っていた置物がパキンと音を立てて折れ、シャナイアが腰かけていた犬の銅像の首が捥げる。
「まぁーま! せっかくきたと、ゆるりとしてかれや!」
「……まさか、このおじいちゃんが当主なんですか?」
シアーシャは壊してしまった置物をこっそりと隠しながら、上機嫌なご老人を観察した。実年齢で言えば彼女の方が遥かに上のはずだが、やはり老いさらばえた生物を見るとそう呼びたくなるものらしい。
イサナは警戒を隠さずにご老人の顔をじっくりと見つめると、首を横に振った。
「そんなはずはないわ。顔はもう覚えてないけど、代替わりしたのが二十年前。当時の年齢が二十前後だから四十くらいのはずよ」
ジグに手を引かれて隣に腰かけている皺だらけのご老人は、どう見ても六十は超えている。
多少老けて見えるにしても無理があるし、少し呆けたようなところも含めて壮年期にはとても見えない。
「わしも若い頃ぁイケとってのう? アキツんとこのせがれとあらしまわったもんじゃよ! むかーしっからあいつは気取り屋でのぅ……負かした相手にも情けかけよんば! きにくわねぇだそれが!」
「……なるほど」
そして何より、
「……ちょっと、何呑気にしてるのよ」
おぼつかない手で杖を振り回して全く内容の分からない世間話をし始めてしまったご老人。
彼を横目にイサナがじっとりと汗を伝わせて、尤もらしく相槌を打っているジグを睨んだ。刀こそ抜いていないが、臨戦態勢一歩手前になっている。あるいは、意識を縫うように現れたご老人に警戒し損ねたと言ってもいい。
しかしジグはさして気にした様子もなく話に付き合っている。
時折振り回された杖が当たるのにも構わず、椅子から落ちないように支えてやっていた。
比較的な冷淡な行動を取る彼にしては珍しい対応に、イサナが驚いて目を丸くした。あんな丁寧な対応など、彼女は一度もしてもらったことがない。
「そう急くな、当主とやらが来るまで時間はある。……人生の先達を、粗末に扱うものではない」
彼女の言いたいことは分かる。
このご老人は他に類を見ないほどの使い手だ。それこそ、ジグやイサナにすら気配を悟らせないほどの域にいる人物。老人特有の気配のなさだけでは説明のつかないそれは、たとえ老いて衰えていようとも疑いようがない。
魔術ではなく足運びだけでそれをやっていることは、ジグの感覚と魔女二人も気づかなかったことからも分かる。
だからこそジグも敬うのだ。
遥か高みにいる剣の先達を。察知すら難しい歩法の極みを無意識の段階にまで昇華した偉人を。
それにこのご老人には害意や悪意がない。
呆けて忘れたのか、あるいは隠しているのか。いずれにしろ、敵対しないのであればどちらでも構わなかった。
「……そう」
イサナはまだ不満そうだったが、今目を向けるべき問題はそこではないと警戒を緩めた。
「にしても、遅いねぇ。あれだけ慌てていたくせに、腰が重いことだ」
シャナイアが折れた犬の首をそっと脇によけながら、まだ見ぬ当主に苦言を呈する。
確かに、すぐに呼びに行くと言わんばかりの様子だった割には遅い。事を軽く見ているのか、呑気なのか。
それを合図にしたという訳ではないが、扉の奥から複数の足音が聞こえてきた。
ようやくお出ましのようだ。
「―――約束もなく来た分際で、随分と好き勝手言ってくれる」
従者に扉を開かせて、壮年の男性が足を踏み入れる。
扉越しでも聞こえていたシャナイアの憎まれ口に返しながら、堂々と姿を現した。
恰幅のいい体つきだが、ブクブクと太っているわけではない。
程よく動いて、程よく食べた体とでも呼べばよいか。この時代には少数派な、裕福な環境で生まれ育った者が持つ特有の体格。
意外なことに腕も立ちそうだ。剣の腕も鍛えているが、当主としての仕事が忙しくて鈍っているといったところか。
「タギリ家当主、セイザン=タギリだ」
アルクゥラで最も力を持つ部族……つまり現在のラクシャナを統べる立場に最も近い男は、居丈高にそう名乗った。
彼は数人の護衛を侍らせて、高圧的な空気を滲ませたままジグたちを無遠慮に睥睨する。
視線はジグを素通りして、類稀な美貌を持つシアーシャとシャナイアに吸い寄せられた。
ねっとりと見つめた後にイサナへ向かう。視線は顔から始まり、同族を示す耳へ伝い、最後には額の紋様に。
「ふん……ジィンの者か。その忌々しい面構え、よく覚えておる」
「あっそ、私は覚えてないわ」
過去の因縁を感じさせるセイザンの物言いにイサナはすげなく返す。
彼は挑発とも取れる態度に小さく眉をピクリと動かすと、腕を組んで顎をしゃくった。
「……それで、追い出された負け犬が何をしに参った? 故郷が恋しくでもなったか」
「ハッ! まともに伝言もできないとは、剣の腕といい随分と質の悪い門番ね。ラクシャナも落ちたものだわ」
イサナの過激な嘲りに護衛たちが殺気立つ。剣の腕を重んじる彼らにとって侮られることは何よりも耐えがたい罵倒だった。
「下らん言い合いがご所望ならお引き取り願おうか。こう見えて忙しい身でな」
しかしセイザンだけは軽く流してしまい、感情をまるで揺らさない。
当主という責任ある立場の者が安易に挑発に乗らないのは当然なのだが、ジグは彼の反応が少しだけ気になった。
「そっちが呼び出しておいてよく言うわね」
このまま帰られても困るのはこちらだ。
イサナは懐から書状を取り出すと、口論もそこそこに本題へ入る。
タギリ家から救援を求める書状が届いたこと、ラーマで起きたことなどをイサナが端的に説明していく。
セイザンは無言のままそれを聞いていた。
こちらが彼の反応を窺っていることには気づいていないはずだが、上に立つ者として内心を読ませぬ癖がついているのだろう。
「確かにこれは我がタギリ家の書状だ。印も間違いない」
「なら……」
「―――が、私が書いた覚えはない」
「偽物だって言うの?」
言葉を遮ったセイザンがわずかに視線を泳がせる。
ジグの眼は何かを誤魔化すように動いた彼の視線と、ほんの一瞬だけ動いた耳を捉えていた。
「……いや、恐らく心配性な家の者が書いたのだろう。誰の仕業かはこちらで調べる。それより……」
ジグの視線に気づいたセイザンはすぐに取り繕うと、話を本題に戻す。
「タギリ家の印が使われている以上、これは正式な要請だ。救援に感謝するぞ、ハリアンの冒険者よ」
「……」
ハリアンの部分を強調したそれは、既にアルクゥラはジィンの居場所ではないのだと……お前たちはジィンスゥ・ヤなのだと知らしめるようだった。
「はいはいどうも。で、円滑に仕事をするためにも情報の共有がしたいんだけど」
イサナの心を、古傷を抉ろうとする言葉の刃は、しかし彼女には届かない。
彼女にとってそんなことはもうどうでもいい。
今を生きる彼女にとって、過去のことは過去のことと割り切っている。
翠の眼を鋭く細めた彼女は、音もなく距離を詰める。
独特の歩法を用いたそれに周囲の護衛たちが反応できぬ中、額の紋様を見せつけるように髪をかき上げてセイザンの顔を真っ向から見据えた。
「この原因不明な魔獣の活性化と、目撃例がない新種の発生。これについていくつか聞きたいことがあるんだけど。卑賎な田舎猟師風情にご教示願えるかしら―――ご当主サマ?」




