84話 「光明」
遠のきかけていた感覚が戻ってくる。手足に血が通い、手に触れる地面の感触も、その冷たさも感じられる。少し嗅覚に意識を向けると、木々や少し濡れた地面の独特な匂いも感じられる。そして、自分の罪を突きつける「呪い」の痛みも知覚できる。
そして、
「――ああ、思い出した。全部、思い出したよ」
ファルベは木にもたれ掛かった状態のままで、目を開ける。長く、永く、永遠にも思えるような走馬灯のような何かは終わった。だけどまだ、ファルベは死んでいない。
「どうして俺はここにいるのか。何の為に、俺が今も生きているのか。全部」
忘れてはいけない記憶を、忘れまいとしていた記憶を、やっと。
「何で、忘れちまってたんだよ。俺は。あの日のことを」
全部、思い出した。自分でも、どうして忘れていたのか、不思議でならない。
今の自分が始まった記憶。他の誰にもできなかったことを、ラウラが叶えてくれた記憶。そして、誰よりも重い罪を背負い、「死」を望まれる自分が、それでもまだ生き続ける理由。
「……あれからも色々あったからな。仕方ないっちゃ仕方ないか」
ラウラと別れてから二年。その間に起きた出来事も含めて考えると、もっと昔のように感じる。だから、頭の片隅の、もっと奥にしまい込まれてしまっても仕方がない。
とはいえ、過去の記憶を見ることで初心に帰ることができた。それによって、思い出すべきものを思い出せた。
「俺は、まだ、死ねない」
死ぬ前に、やらないといけないことがある。こんなところで、むざむざと殺される訳にはいかない。
死を受け入れていた先程と違って、全身に怒りにも似た熱が駆け巡る。飛びかけていた意識の首根っこを捕らえて引き摺り出す。脳が活性化して、急激に思考が加速し始める。
「俺には、まだ……やらなきゃいけねえことがあんだよ……」
ファルベはそう言って、上体を起こそうとする。手を突き、腹筋に力を入れると、途端に腹を裂かれるような痛みが走る。
「ぐ……ああぁ……っ!」
何度もファルベを苦しめた痛みに、再び呻き声を上げる。ほんの少し身体を起こそうとするだけでも痛みを与えようとしてくる容赦のなさは、一向に変化を見せないようだ。
「クソッ……があああ!」
もはやヤケクソ気味に叫んで、直後、歯が欠けるほど強く食いしばって、無理矢理に身体を起こす。
――痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて泣きそうなほど痛くて、悲しくなるほど痛くて、虚しくなるほど痛くて、何も考えられないほど痛くて――でも、
「耐えられねえ、もんじゃねえよ!」
気力を振り絞って、ようやく起き上がる。フラつく足取りで、不安定にも程があるが、それでも、ファルベは立ち上がった。
だが、まだあの魔物に受けたダメージは蓄積しているようで、足にしっかりと力が入らない。
「は……はぁ、はぁ……」
ファルベ荒い息を何度も吐いて、少しでも痛みを和らげる。体温が熱いせいか、外気はそれほど寒い訳でもないのに、白い息が漏れ出す。
地面に突き刺さった長剣をゆっくりと引き抜く。夜の光に照らされて鈍色に輝く刃が土を散らしながら、その身を晒す。
手に馴染んだグリップの感覚。ずしりと伝わってくる重み。それが、いつもより一層重く感じる。一息で振り上げ、何度か振って、感覚を確かめる。
そうして、ちゃんと扱えることを確認した直後、
「――――ッ!」
森の奥から大きな、とても大きな叫び声が聞こえた。
「……来るか」
飾り気のない無骨な長剣を構えて、叫び声の主を待ち構える。そして、その時はすぐに訪れる。
木々が押し倒され、へし折られ、複雑に入り組んでいる筈の獣道を直線距離で踏破してくる漆黒の魔物。全身を刃より硬い甲殻で纏った大型の魔物。それは、憎しみが漏れ出しているかのような赤い瞳でこちらを見下ろす。
魔物は空気を揺るがす叫び声をもう一度上げて、間髪入れずに襲いかかってくる。
鋭い爪が、頭よりもっと高い位置から振り下ろされる。何度も何度も避けた攻撃ではあるが、その脅威は依然変わらない。直撃すれば即死は免れない鋭利な爪は猛スピードで迫ってくる。
呪いの影響によって反応がワンテンポ遅れたファルベは、しかし紙一重でそれを回避する。
「ああ、クソッ……衰えてねえな、やっぱり」
そもそもまともにダメージを与えていないのだから、当然といえば当然の話だ。
ファルベは畳み掛けるように繰り出される攻撃を躱しながら思考を巡らせる。
まず、魔物の弱点からだ。見たところ、目に見える弱点はない。全身の至る所は鎧のように甲殻で包まれていて、それの耐久度を上回るスキルでないと突破はできない。そして、ファルベが攻撃できるスキルを持っていない以上、どう足掻いても不可能だ。
そして、関節部分のような、体の構造的に脆い部分。そこすら貫通できないのはついさっき実体験で証明済みだ。
つまり、どこを何度攻撃したとして、奴に傷一つつけることはできない訳だ。だが、
「何か、引っかかるよな……」
どうして、そこまで硬くなる必要があるのか。魔物には自然治癒能力が付いており、一見致命傷に見えてもあっさり修復してしまう。小型の魔物ですらそんな能力があるのだから、今目の前にいる魔物のように巨大な魔物なら当然、所有している筈だ。
一部例外もあるが、基本的に魔物も必要だから進化を遂げるのだ。
「……なら、あいつだって硬くなるべくしてなってるってことだから……」
その理由が必ずある筈だ。
極論、魔物に硬さは必要ないのだ。何故なら、確実に死ぬようなダメージでなければ、時間経過でいずれ治るからだ。だからこそ、奴の「硬い」という特徴が異様に映る。
傷なんて治せばいい。そもそも傷を受け付けない身体に進化する理由がない。治せるものはわざわざ効かないように進化せずに、むしろ割り切って獲物を殺す方向に進化させた方がよほど効率がいい。
だが、理由のない変化など、突然変異でもなければあり得ない。
「なら……もしかして」
何かが喉元まで出かかっているのが分かる。
一度、思考を変えてみる。例えば、硬い物質で何かを覆う時、何故そうする必要があるのか。後から外部を補修するのではなく、元々傷が付かないように硬いもので囲う必要があるのか。それは――
「そんなの……『中身を守るため』に決まってる」
内側に少しでも傷ついたら、取り返しが付かないものがあれば、そうする必要がある筈だ。それなら、傷がついた後で補修してからでは意味がなく、最初から外側を硬くしておかなくてはいけない。
「パッと見で弱点がない以上、十中八九そうだろうな」
外側に弱点がないのも納得だ。全て、硬い甲殻の内側にしまっているだから。そうすることで外部から攻撃を受けても致命傷にならないようにしているのだ。
その性質こそ、奴の弱点が中にあることの証拠であり、この場におけるファルベの唯一の希望だ。
「となると、問題は……」
どうやって外殻を破壊するか。最悪、外殻を壊さずとも内側のある「何か」を露呈させることができればいい。その、手段。
ファルベの長剣は魔物の外殻に弾かれ、傷一つ付かない。関節部分も同様だ。
「なら、出来ることは、後一つしかねえ……」
魔物も生物だ。その構成上、必ず外と中を繋げる器官は存在する。自分の内側だけで完結する生物はいないからだ。
「目か、口。どっちかから直接体内に攻撃を叩き込むしかねえ。これで体内まで刃が通らなかったら笑い話だな……いやそもそも、どうすれば届くんだ?」
ただでさえ避けるので精一杯な状態。加えてファルベは慢性的な体調不良と行動阻害。ハンデというにはあまりに重すぎる。
しかし、やらなくてはいえない。もはやファルベの選択肢に撤退も、諦めも、ないのだから。
「それでも、やるしかねえな」
魔物の攻撃を掻い潜りながら、ファルベは覚悟を決める。
ファルベは軽く腕を振るう。そして、直後感覚を研ぎ澄まし、それを発動する。
「失敗する可能性があるから、できる限り避けたかったが……ま、結果オーライってとこだな」
ニヤリと口元を歪め、ファルベは笑う。その理由は、奴の目にあった。
暗闇の中でも赤く光る双眸が、その光を失い、真っ黒に塗りつぶされている。
ファルベのスキルである「着色」。その能力の応用で自分から離れた場所にも色を付けることができる。
ただし、着色する前に目に見えない液体状の物質を相手の眼球に当てなくてはいけない。ただでさえ魔物の目はその巨体と不釣り合いに小さく当てにくい上に、「呪い」による行動阻害もあって不確定要素が多く、安定しないため避けていた。
とはいえ、結果的に成功したので選択としては正しかったようだ。
そして、
「――――ッ!」
魔物が、再び咆哮を上げる。
「――それを、待ってたんだよ!」
大きく咆哮を上げる魔物に怯むことなく、ファルベは駆け出す。
狙いは口。咆哮を上げるために開けたそこは確実にダメージが通る筈だ。だが、位置の高さを考えて、ファルベがジャンプしただけでは届かない。
だが、ここは森の中だ。足場は腐るほどある。
ファルベは先ほどまでもたれ掛かっていた木に向かって走り、幹を駆け上がる。そして、魔物の頭部と同じ高さまで登ると、幹を蹴り、跳躍する。
身を翻して中を舞うファルベは恐ろしい形相で叫ぶ魔物に真っ直ぐ狙いを定めて、
「――ァァアアアア!」
握り締めた長剣を魔物の口腔へ突っ込む。肉を裂く鈍く、確かな手応えをその掌で感じた直後、より深くへ押し込む。
魔物は痛みに喘ぐように全身を揺らし、ファルベの腕を噛みちぎろうと口を閉じる。彼はそれを事前に予測し、口を閉じようと動きを見せた段階で得物とそれを握る腕を引き抜く。
ガチン!と大きな音を立てて閉じた凶悪な牙は空気だけを噛み砕くことしかできなかった。
「痛えかよ……クソ野郎」
因縁深い相手に一矢報いたことに少しだけ達成感のようなものを感じながら、ファルベは悪態をつく。逃げっぱなしで死を覚悟していたさっきよりは文句を言えるだけ心に余裕ができたということだ。
「でも、思ってたよりダメージが少ねえな……やっぱ体内が弱点、ってのは安易過ぎたか?」
苦しんでいる、確かに苦しんではいるのだ。だが、これだけで倒せるようなダメージを負わせることはできていないようだし、このままではすぐに回復してしまう。
そうすればまたさっきの状況に逆戻りだ。もう一度同じ手が通じる相手でもない。恐らく次の機会はないだろう。
であれば、痛みで動きが鈍っている今、畳み掛けないといけない。
即座にファルベは判断を下す。
「ここで、やるしかねえ」
周囲に視線を走らせ、効果的な攻撃になりうるものを探す。
この辺りにある利用出来そうなものは、折れた大木の欠片、それに魔物が暴れ回ったことで地面が掘り起こされ、地表に現れた岩くらいのものだ。
これでは到底ダメージになりそうにない。周辺に有効な手段がない以上、残された手札は、
「――ハァッ!」
ファルベが思い切り投げつけたのは――鞘だ。長剣の刃に合うように象られた鞘は先に行くほど細身になっており、先端は刃ほどでは無いにせよ鋭利な形になっている。
さらに、鞘の先には鋼製の金具が取り付けられている。
風を切り分けながら飛ぶ鞘は、狙い違わず魔物の黒く塗りつぶされた眼球に突き刺さり、
「――――ッ!」
潰された右目から血飛沫を上げながら魔物は叫ぶ。だが、当然これで終わりな訳じゃない。
ファルベは得物を空中に放り投げる。クルクルと回転しながら重力に引かれて落ちてくる長剣の刃の部分を掴むと、投擲する。
鞘に続いて投げられた長剣は刃がファルベの方に向いたまま、魔物の方向に飛ぶ。直後、右目に突き刺さったままの鞘に長剣のグリップ部分が衝突し、鞘が押し込まれる形になる。先程より深く突き刺さった鞘はもはや魔物の身体にほとんど隠れてしまっている。
鞘とぶつかって弾かれた長剣はしばらく宙を舞った後、地面に落ちた。それをすぐに回収し、魔物に向き直る。
「ここまですれば、流石にちょっとは堪えるだろ……」
半ば願望のような予測を立てて、ファルベは距離を取る。追撃しようかとも考えたが、もはや投擲できるものが見当たらず、直接攻撃しに行くしかない。
それも選択肢の一つではあるのだが、ファルベが動き出す寸前で、
「おいおいおいおいおい……」
魔物の動きに、異変が生じた。苦しみもがくような動きを見せた直後、もの凄い勢いで暴れ出した。それはもはやファルベという存在だけじゃなく、世界を壊そうとせんばかりで、やたらめったら当たり散らす。
地面を抉り、木々を薙ぎ倒し、隠れて眠る小動物たちを殺し尽くし、何もかもを壊し続ける。
「それは、いくらなんでも……」
やり過ぎだ。今や魔物の眼中にファルベはいない。とにかく近くにあるもの、自分に近づいたものを反射的に叩き潰す暴力装置へと成り果てた。
あんなものの近くに寄ればファルベは攻撃するまもなく無残な肉塊へと変貌させられるだろう。
夜空を彩るように大木や岩、土、死骸が宙に舞い、血飛沫と泥が入り乱れる地獄絵図。
どうにかしようにもどうにもできない。そして、何より厄介なのが、
「さっきまでより、断然速くなってる」
先程まではファルベを殺す――つまり、獲物を認識してその対象に狙いを定めていたが、今度は脳を介した行動ではない。思考という過程をすっ飛ばして攻撃に移っているのだ。
それ故に攻撃と攻撃の間に隙が無くなり、手のつけようのない速度に変化した。
――まずい。
瞬間的にファルベの脳裏によぎったのは、その思考だった。この状況に至っては、スキルで視界を潰したのも鞘で大きくダメージを与えたのもほぼ意味が無くなったからだ。
そもそもファルベを狙おうとしないので、眼球を塗りつぶすことに利点はなく、思考放棄をしている魔物に対して痛覚がまともに機能するとも思えない。
今までやってきたことが全て無視され、こちらからは手の打ちようがない。まさに、万策尽きた、というやつだ。
――まずいまずいまずいまずい。
思考を加速されるが打開する手は思いつかない。どう足掻いても魔物の動きを止めるのは不可能であり、この場からすぐに逃げなければ、いずれファルベもこの異常なまでの破壊行動に巻き込まれて死ぬ。
そして、ここに来た時点で、ファルベに逃げの選択肢はない。
つまり、ファルベの命が散るのも時間の問題だ。
まずい。その言葉が延々とファルベの頭の中を回る。逃げなくてはいけないのに逃げられない。自分の新たな人生の始まりを思い出してしまって死にたくなくなったのに、もうすぐで死ぬ。だから――
――詰んだ。
その理解に至った。
ファルベに死を押し付ける殺意の塊は、周囲を破壊し尽くし、こちらに向かって走り出す。ファルベのことは意識にないだろうから、これは完全な偶然だろう。
天にも見放されたファルベはもう立ち尽くすことしか出来ず、ゆっくりと目を瞑る。
諦めたくなかった。最後まで抗いたかった。死にたく、なかった。けれどどうしようもなかった。
もうすぐ死ぬ。すぐに死ぬ。あっさりと死ぬ。無残に死ぬ。意味もなく死ぬ。何の成果も残せず死ぬ。やらなくてはいけないことが残っているのに死ぬ。何も出来ず死ぬ。
目を瞑って、意識を手放す。どうせ無理なら、せめて意識の無い内に。そうして、無駄な思考を捨てた瞬間――
――音が、聞こえた。
風を切って何かが向かってくる音が聞こえた。それは魔物の方向から聞こえる音では無い。全く別の、どこか遠くから聞こえる音だ。
何の音か理解ができず、ファルベは目を開ける。
そして――
夜を照らす一条の光の軌跡が、目の前を通り過ぎてて――
軌跡の一番前にあった「何か」がファルベに向かってくる魔物に直撃し、甲高い音と、とてつもない衝撃波、それに視界を白く染める眩い光が夜の闇を覆い尽くした。




