80話 「分かりきった結末」
ガサ、ガサ。落ち葉を踏むたびに小さな音が立つ。それはもう目と鼻の先にまで迫った森の木々から落ちたものだ。ゆっくりとした足取りなことも相まって、歩くファルベの足裏に葉っぱを踏み潰す感覚を与えてくる。
そうして、ファルベはようやく辿り着いた。過去からの因縁と決別する場所。自分の罪を雪ぐ場所。そして、「冒険者狩り」という存在を終わらせる場所。
「……はっ、はっ」
息が荒くなる。頭に血が上っているのか、血の気が引いているのか、分からなくなってくる。己の両足が確かに地面と接地できているのか不安になるほど足元の感覚が薄い。そして、自分の感情が、高揚しているのか、冷静であるのかすら分からなかった。
そんな今まで味わったことのない不思議な感覚を味わっている内に、一歩、森に足を踏み入れる。――直後、
「――ッ!」
皮膚がひりつくような感覚を覚えた。棘が突き刺さったかのような痛覚。それはファルベに纏わりつく「呪い」のことではない。森の奥から異様なほど放たれる――「殺気」だ。
その瞬間、ファルベは大きく横に飛ぶ。もはや脳が判断をした結果ではなく、ほとんど無意識的な行動だった。そして、さっきまでファルベがいた場所には、
「――――!」
大きく開いた口から、叫び声を上げる魔物の姿があった。地面はその魔物がいる場所だけ深く抉り取られており、飛びのいていなかったら、奴の下敷きになって潰されていただろう。
先制攻撃でこちらを確実に殺しにくる魔物に舌打ちして、一度距離を取る。
しかし、凄まじい速度で迫ってくる魔物にその行動は効果が薄く、即座に距離を詰めてくる。視界が埋め尽くされるほどの巨体から振り下ろされる太い爪。それの一本一本が大人の腕ほどの太さを持ち、擦っただけでも十分な致命傷になり得るだろう。
魔物は普通の冒険者では反応すらできない速度で攻撃を繰り出す。だが、普段のファルベであればそれすら回避するのはさほど苦じゃない。何せファルベは敵の攻撃を見てから回避するというよりは、本能で感じ取った殺気から予測し、回避するので、攻撃が見切れるかどうかはそれほど関係がないのだ。
ただ、今のファルベはそうじゃない。何故なら、
「……い、っ……」
避けようと踏み込んだ瞬間、全身を貫く痛みがファルベを襲う。地面が針の山にすら感じる足裏の痛みが、ファルベの回避を妨害する。天に見限られたかのような奇跡的なタイミングでの痛覚に内心で毒づくも、魔物はそんなファルベの事情など知る由もない。
魔物の爪は目前。死を具現化したような凶悪なそれは、空を切って迫る。
この距離では回避はもう間に合わない。飛びのいたとしても、ファルベが空中にいる間に無惨に切り裂かれるのがオチだ。だから、ファルベは腰に刺した鞘から飾り気のない無骨な長剣を抜き、爪の側面に滑り込ませる。
甲高い金属音を立て、火花を散らしながら接触する長剣は、何とか爪をずらすことに成功し、ファルベのすぐ横の地面を突き刺すのみだった。
だが、それで安心する暇はない。間髪入れずに向かってくるもう一方の腕を全身を大きく翻し、回避する。ギリギリで回避して反撃を狙いたいところだが、今のファルベには常に身体を蝕む呪いがあるため、失敗する恐れがある。故に大袈裟気味な回避を心がける。
両腕による攻撃を避け切っても、次はその巨体を生かしたタックルを強行してくる。自分の攻撃が連続して避けられたことで頭に血が上っているのか、その攻撃の殺意は先程より一層高まっている。
バックステップで距離を取ろうとしたファルベの行動を予測したかのような攻撃は、彼にとっては脅威でしかなく、ファルベは近くにそびえる樹木に一息で飛び乗る。
突進してきた魔物は当然の如くファルベの登った木をへし折る。足場が崩れてしまったことで、その上にいたファルベも落ちて、魔物の攻撃範囲に入る――筈だったが、木が折られる直前に、別の木に飛び移り、逃げていた。
「くそっ……分かっちゃいたけど、攻撃する隙がねえ……」
激しい攻撃には大きな隙があるわけでもなく、凄まじいスピードで繰り出されるそれはその勢いが衰える様子もない。
ファルベ自身に有効的な攻撃手段がないので、隙があったところでどうにもならなさそうではあるが。
「何か……弱点みたいなやつがないのか……」
逃げながら思考を巡らせる。全身を硬い甲殻で覆われており、それは攻撃スキルですら弾く強度を誇っている。
ファルベの刃も通らないことは確認済みで、だからこそこうして逃げる選択をしているわけだが。
後ろから魔物が、木々を押し倒し、へし折りながら突っ込んでくる。ずっと逃げ続けていたらこの辺り一帯を更地にしてしまうのではないかと思ってしまうが、
「ぐ……あぁ……」
逃げ続けていても依然変わりなく激痛は襲ってくる。魔物の攻撃以上に厄介な「呪い」のせいで、この辺りを更地にするまで逃げ続けることはできない。いずれ疲弊し、魔物に捕らわれ、食われるか殺されるかしかなくなる。
「考えろ、考えろ、考えろ」
奴に対して有効的な手段はないか。大きなダメージを与えられずとも、動きを止めたり、隙を作れるものはないか。
ふと、何かが思いつきそうになる。そういえば、以前にも全身が刃の通らない皮膚で覆われた魔物と戦った。黒い体毛の熊のような魔物だ。あの時は相手の目を潰して、自身の匂いが付着した外套を撒き餌に隙を作ったのだが、
「それ、こいつに通用するか……?」
奴の眼球付近も甲殻が守っていて、少しでも狙いが逸れれば、弾かれてしまう。そして、見上げるほどの体格には似合わず小さく、そこだけピンポイントで狙うのは、中々難しい。そして、失敗した場合、攻撃は弾かれ逆にファルベに大きな隙ができてしまう。
それに、外套もないからそもそも注意を逸らせるものがない。
「駄目だ。他に何か……何かないか……」
痛みに耐えながら、不規則に生える木々を駆け抜ける。背後には依然変わりなく追いかけ続ける存在がいて、それがファルベの心に少しづつ焦りを生み出している。
あの時、何をした? 力量差をどうやって埋めた?
刃が通らない相手だったとしても、どうしても硬くはできない部位があった筈だ。眼球や関節、腕や足の付け根もそうだ。そんな生物であれ、弱い部分は存在する。そこを狙えば動きを止めることができる……筈だが、
「無理くせえ……」
チラリと後ろを振り返って、様子を見るも、そもそも敵の攻撃を掻い潜って反撃をすることすら難しいのに、その上で関節や眼球を狙いに行くのはほとんど不可能に近い。
せめて「呪い」さえなければ、こうして逃げ続ける必要もなかっただろうが、それは考えても仕方がない。
このまま真っ直ぐに走っていても、すぐに追い付かれる。入り組んだ獣道から更なる逃げ道を探す。そのために周囲に視線を走らせる――次の瞬間。
――奴に、追い付かれていた。
「なっ――!」
夜闇の中でも真っ赤に染まる二つの光は、確かに、ファルベのすぐ傍にいた。いつのまに追いつかれたのか。足音も、風切り音も、何も聞こえなかった。近づかれた感覚など、少しもなかった。
だが、追いつかれたという事実はそこに確かに存在する。一瞬の内で思考が高速回転し、脳内にある情報から対応策を引っ張り出す。
まず最初に見えたのが、大きく開かれた口。上と下で合わせて数十本ある牙が、さらけ出される。ただ大きく口を開けただけ。それが人を容易く壊すことができる武器であると、即座に分かった。
勢いよく飛び込んでくる口は防げない。膂力の差は歴然で、どうやったって押し返せない。なら、躱すしかない。
だが、再び木に登って退避するのも通用しないだろう。同じ手を何度も食らってくれるほど相手も間抜けじゃない。そして、このまま直線上で逃げ続けたとしても、逃げきれない。逃げるしかない場面で、逃げられる選択肢が無――いや、まだ一つある。もっと言うなら、それしかない。だから、迷わずその選択肢を選んだ。
ファルベは瞬時に体を反転し、魔物に向かっていく。魔物から逃げる方向じゃなく、突っ込んでいったのだ。
魔物は飛び込んできた。つまり、地に足をつけて追いかけてきているわけじゃない。その巨軀は、低空飛行でもしているかのように宙に浮いている。
だから、ファルベは飛び込んでくる魔物に突っ込み、姿勢を倒し、頭が地面に触れてしまうのではないかというぐらいに低く、スライディングする。
ガチン!と大きな音を立てて、さっきまでファルベのいた場所で、牙と牙が閉じられる。そして、少しの間だけ慣性に従って低空飛行した後、木々を倒しながら着地する。
振り向いた魔物が再びファルベを視界に捉えようとして、見失っていることに気づく。魔物は索敵を開始するために、鼻をひくつかせる。そして、憎くて憎くてたまらない対象とよく似た、懐かしい匂いを感じ取った直後、
「――セアアアアアッ!」
大きな掛け声とともに、膝関節に向かって腰だめに構えた長剣を振り抜く。予想した通り、関節部分には甲殻がなく、他の部位に比べたら防御力は低い。
ファルベの狙い通りなら、長剣は関節部分を斬り刻み、魔物の行動の阻害ができる――筈だった。
だが、関節に食い込んだ長剣はその場で停止するに留まった。これ以上力を入れても得物は小刻みに揺れるだけで、斬るには至らない。
力が足りないわけじゃない。得物の切れ味のせいでもない。確かに関節は他の部分に比べれば、柔らかかった。それは長剣が食い込んだところからも感じ取れる。
ただ、魔物にとっては柔らかい部分でも、それでも鋼で作られた刃より強度が高かったというだけだ。
「何だよ……それ、笑えねえっての!」
手に届く範囲では一番柔らかい筈の部分に刃が通らなかった以上、ファルベに出来ることは完全になくなった。せめて小さくとも傷がつくのなら、何度も攻撃して少しづつでもダメージを蓄積させていこうとするだろうが、そもそも強度的に敵わないとなればその希望もない。
魔物は長剣を肉体に擦り付けてくるファルベが鬱陶しかったのか、怒りの咆哮を上げて、暴れ出した。
右足に斬りつけていたファルベは当然、足の付近に立っていて、魔物の大暴れで真っ先に被害に遭った。
ファルベの横幅より太い魔物の足は彼の身体を容赦なく蹴り飛ばし、
「グ……ハッ……!」
避けきれず食らってしまったファルベは綺麗な弧を描いて飛んでいった。そして、勢いよく樹木の幹にぶつかって、その場に崩れ落ちる。
喉の奥が熱い。いや、そこだけじゃなく、全身が熱い。何かが喉奥に溜まっているような感覚が気持ち悪い。その気持ち悪さに耐えきれず、咳き込んでそれを吐き出そうとする。そこから出てきたのは、どす黒い液体。
それが、自分の血液であることに気づいたのは、数秒後のことだった。
――痛い。自分の口から血が出たと認識した直後に感じたのは、それだった。痛みを熱さと錯覚していた。全身に感じる熱は、強烈な痛みを誤認していた結果だ。
この痛みは、「呪い」のせいじゃない。単純な暴力から発生した痛みだ。
ゆっくりと、痛む首を動かして、顔を上げる。魔物からの追撃がないか確認するためだ。だが、ファルベはどうやら随分遠くまで飛ばされたようで、見える範囲に魔物の姿は確認できない。
だが、それは安心できる要素でもない。奴が見失ったファルベを再度発見するのに恐らくそれほど時間は必要ない。このまま動けずにいれば、ここまで追いかけてきて、トドメを刺しにくる筈だ。
「あぁ――俺は、死ぬのか……」
痛みで立ち上がれないファルベは、自分の末路を悟る。
分かっていた結果だった。予想できた結末だった。理解していた結論だった。覆しようのない、事実だった。
頑張ってそれに抗ってはみたものの、ファルベのような人間には、どうにもできないものだった。
でも、これはこれでいいかもしれない。あの村の人たちは、ファルベが朝になっても帰って来なければ、死んだとみなしてスッキリするだろう。
ルナも、一人だけで何とかやっていけるほど成長した。他人と関わろうとして、友人という関係も構築できるほど成長していた。
ラウラも、ファルベの望んだ結果ならそれを認めてくれるだろう。彼女は非情ではないが、誰かが望んだことに口を出すような人間ではない。「その人」の考えを尊重する傾向にある。
だから、ここで死んだところで、誰にも迷惑がかからない。その筈、だというのに――
「……死にたく、ない……」
ファルベの口から溢れてきたのは、そんな情けない言葉だった。
死にたくなかった。殺されたくなかった。どうしてか、理由は自分でもよく分からなかったけれど、確かにそれを考えていた。
しかし、ファルベの身体はそんな事情も知らぬ存ぜぬと熱を失っていき、意識が虚ろになり始める。
薄れていく意識の中、自分の過去の記憶が脳裏によぎる。様々な出来事が、映像のように鮮明に映る。
――これが、走馬灯か。
他人事のようにそう考え、そして直後、意識が脳裏に渦巻くその映像に飲み込まれていって――




