54話 「勝機の少ない賭け」
目の前に現れたそれが森から跳躍してきたのだと理解するのに、少し時間を必要とした。それほどまでにこの怪物は唐突に現れたのだ。
「――!」
ついさっきまで馬車があった場所に居座るそれは、鋼鉄も噛み砕けそうな顎を開き、雄叫びをあげる。人の頭より大きい口腔から見える太く鋭い牙が、人間に本能的な恐怖を与える。
赤く光る双眸がギョロギョロと滑らかに動き、何かを探している。そして、ある一点を見つけると、再び轟音が響く。鳴き声、いや叫び声だ。
怪物がその方向を向けている先には、今さっき通りがかった、馬車があった。
護衛の冒険者すらつけていない馬車にこの怪物が襲いかかると、まず助からないだろう。御者も、中にいる人物も死なせるわけにはいかない。
ルナは自分の魔力を解放し、目の前の怪物に攻撃しようとする。発動すれば制御が効かず、周囲を巻き込んで暴走する魔力がどんな魔物であろうと押しつぶす。それは恐らく、この怪物も同じだろう。有機物も無機物も等しく薙ぎ払うその暴力をまともに食らったら、ひとたまりもない。
だから、倒せるかどうかは不明でも、一発食らわせてやろうとして、
「あ……だめ……!」
途中でなんとか抑え込む。
ルナが攻撃しようとした怪物と、馬車はそれほど離れていない。それも当然だ。だって、方向を変えて進路を変更したのは、怪物が降り立つ直前だったのだから。
つまりルナが本気で(外套の効果もあるので、本当の意味で本気とは言い難いが)魔力を放てば、怪物に対して大きなダメージを期待できるだろうが、馬車にもその影響が及ぶ。
馬車の乗客を助けようとして自分で危害を加えるのはまさに本末転倒としか言いようがない。それに気づいて、ルナは攻撃を止めた。
だが、それでは怪物の凶行を止められない。馬車に向けて異様な殺気を放つそれは、今まさに馬車に向かって丸太のような腕を振り上げている。
ルナは魔力を除けば、ただの少女に過ぎない。身体能力が特別高いわけでもないし、スキルも使えない。
何もできないでいることに歯噛みしながら、馬車が押し潰され、投げ飛ばされるのを見届ける――その直前、
「――ハァッ!」
女性のかけ声と共に、怪物の腕に何か小さな玉のようなものがぶつかって、小さな爆発が起きる。
腕を振り下ろさんとしていた怪物は腕を引き戻し、その玉を投げた張本人に目を向ける。
「まあ、あの程度の威力じゃあ傷一つつかないだろうねえ。……チッ、まさかあんたが出張ってくるなんて、ツイてない……」
ラウラはどうやらこの怪物について何か知っていそうだが、それを聞いている暇はない。
彼女の言った通り、怪物は爆発を受けた箇所に傷一つついておらず、攻撃を止められたのも偶然のようなものだ。
怪物はラウラに視線を向けて、呻き声をあげる。誰から見ても分かるほどの殺気が放たれ、ルナは自分の足がすくむのを感じた。
だが、ラウラは計算通りとでも言いたげに口角を上げ、大きく息を吸い込むと、
「――今だッ!」
何かに向けてそう呼びかける。直後、その言葉の意味を理解する。
ラウラに目を向け、道路から背を向けた怪物の後ろを、馬車が走り抜ける。ラウラはこの怪物を倒すつもりはなかったのだ。この状況における彼女の勝利条件は、御者と乗客の安全確保だ。一度国境壁を超えてしまえば、襲われる心配はなくなる。
だから、一瞬でも気を引いて、馬車の動きを把握できなくすればそれでよかった。
そして、攻撃の邪魔をしたラウラに注意が向かい、逃げ去る馬車を追うことはないだろうと思っていた。が、
「――――!!」
再びの叫びが発せられ、興味を失ったようにラウラから目を外し、馬車に向けて跳躍した。
ラウラはそれに対応して動き出そうとするも、人間の足で巨大な体を有する怪物の飛距離を詰めることはできない。
高速で走る馬車に追随する怪物に追いつけるとしたら、自分の魔力を放った反動で高速移動できるルナだけだ。
以前、馬車から転がり落ちる際に、着地の衝撃から身を守るため地面に魔力をぶつけ、吹き飛んでいったことがあった。それと同じことをすれば、恐らく追いつける――いや、怪物の跳躍より速く動いて先回りができる。
だが、もしできたとして、ルナに何ができる。魔力を制御できない今、怪物の進行方向に先回りして待ち構えても、反撃はできない。
それ以外ではただの少女でしかないルナに一体、何ができるというのか。
馬車は国境壁までまだ距離があり、怪物はもうすぐそこまで迫っている。時間がない。迷っている時間なんて、ない。だから、
――賭けに出ることにした。
身体の内から解放された魔力が地面に衝突し、ルナが弾かれたように吹き飛ぶ。外套を揺らして飛んだルナは狙い通り怪物を先回りして馬車付近に到達し、そこで足をつけ、勢いを止める。
地面に足をつけて勢いを止めたせいで靴底がすり減った気がするが、関係ない。
ルナは、ラウラの言葉を思い出す。どんな相手にも慈悲の心で受け入れ、傷つけてはいけない相手だと認識しなくてはいけない。
今まで練習してきて、一度もできなかったことだ。けれど、やらなければ、次はない。
大きく一度深呼吸してから、ルナは――己の魔力を解放した。




