第9話 静かな断罪
報告書は、二十三頁に及んだ。
一晩かけて書き上げた。蝋燭は三本目まで燃え尽き、窓の外が白み始める頃にようやくペンを置いた。
王太子の執務室に、関係者が集められた。
オスヴァルト宰相、エルヴィン王太子、カイ・ベルトラン監査官、ベアタ・ハルトマン侍女長、証言者としてテレーゼ・ダーリングとヘンリク・ファルケ。
そして——被告発者として、リヒト・グランツ伯爵とノルト・グランツが呼び出された。
部屋に入ったとき、ノルトと目が合った。
三年前まで手紙を送り合い、再会を夢見ていた人。今は——被告発者と告発者として向かい合う。
伯爵は最後まで余裕を見せようとしていた。
口元に薄い笑みを保ち、椅子に深く腰掛けている。しかし、黒い手袋をしたオスヴァルト宰相が報告書を読み始めると、その笑みは少しずつ固くなっていった。
「第一項。過去五年間にわたり、対レンドル特別貿易枠において、宮廷顧問官の権限を用いた架空取引の承認が行われていた。承認書の署名は、グランツ伯爵本人のものである」
「第二項。架空取引の決済金は、西方港町に設立された三つの商会を経由して流出している。これらの商会は実体を持たず、設立届の筆跡はグランツ伯爵の署名と高い一致を示す」
「第三項。レンドル王国側の支払い記録と本国の歳入台帳を照合した結果、五年間の差額総額は——」
宰相が金額を読み上げたとき、部屋の空気が凍った。
エルヴィン王太子の手が、肘掛けの上で白くなった。
「第四項。本件の発覚を防ぐため、グランツ伯爵は王宮内部の人間に対する脅迫および情報操作を行っていた。財務局書記官ヘンリク・ファルケに対する借金を利用した協力強要が、本人の証言により確認されている」
ヘンリクが小さく体を震わせたが、目を伏せなかった。
拳を膝の上で握り締めて、まっすぐ前を見ていた。
「第五項。五年前の財務局長ダグラス・ヴォルフの死亡については、直接的な証拠は現時点で得られていないものの、ヴォルフ前局長が不正を追及する報告書を作成していたこと、その報告書が局長の遺志により後任に託されていたことが確認された」
「第六項。テレーゼ・ダーリング嬢の証言により、グランツ伯爵がヴァイル主任書記官への手紙の代筆を指示し、婚約関係の維持を偽装していたことが確認された。これは主任書記官を財務局に繋ぎ止め、不正の隠蔽に利用する目的であったと推認される」
この項を聞いたとき、不思議な感覚があった。
自分の十年が「隠蔽の道具」だったと、公式の場で読み上げられる。痛みはある。けれど同時に——事実が言語化されたことへの安堵もあった。曖昧だったものが、ようやく形を得た。
宰相が報告書を閉じた。
「グランツ伯爵。弁明はあるか」
長い沈黙があった。
グランツ伯爵は——笑った。
諦めの笑いではなく、最後の虚勢を張るような、薄い笑みだった。
「証拠が巧妙に並べられているな。だが、ヴァイル嬢——いや、ヴァイル主任書記官。一つ聞きたい。これは国のためか? それとも、息子に捨てられた恨みか?」
部屋が沈黙した。
全員の目が私に向いた。
これは最後の攻撃だ。告発者の動機を「私怨」に貶めることで、証拠の信頼性を揺さぶろうとしている。
老獪な政治家らしい一手だった。
「……伯爵」
私は立ち上がった。声は静かだったが、一語一語を明確に発した。
「私が婚約者に裏切られたことと、王宮の財務に不正があることは、全く別の問題です。私は記録に基づいて報告しています。記録は、誰かの感情とは関係なく、事実を示します」
「仮に私がノルト様を深く愛していたとしても、あるいは何も感じていなかったとしても、この報告書の内容は一文字も変わりません。なぜなら——」
一呼吸置いた。
「恩師のヴォルフ前局長が遺した言葉があります。『記録は人の記憶より正直だ』と。この報告書は、その言葉の通りに作られています」
グランツ伯爵の笑みが、ようやく消えた。
口元が強張り、目の奥の光が消える。勝ち目がないと悟った人間の表情だった。
「弁明がないのであれば——」
エルヴィン王太子が立ち上がった。
窓の外を見ず、まっすぐにグランツ伯爵を見据えている。
いつもの迷いが消えていた。この瞬間のために、彼もまた覚悟を決めていたのだ。
「グランツ伯爵リヒト。宮廷顧問官の職を解き、爵位を剥奪する。詳細な処分は司法府の審理を経て決定する。身柄は衛兵に預ける」
王太子の声は若かったが、揺れはなかった。
「ノルト・グランツ副団長。近衛騎士団の職を解く。父の不正への関与の程度は、追加の審理で明らかにする」
ノルトが椅子から崩れ落ちるように立ち上がった。
金色の髪が乱れ、碧い目が血走っている。
「殿下、お待ちください——これは、この女の——」
「グランツ。もう一度だけ言う。報告書の内容に異議があるなら、審理の場で申し立てろ。ここで感情論を述べても、何も変わらない」
ノルトは口を開いたまま、声を出せずにいた。
「この女の」と言いかけて遮られた言葉の先は、おそらく「恨みだ」とか「復讐だ」だったのだろう。けれどその言葉は、もうどこにも届かない。
そして最後に——私を見た。
怒りでもなく、恨みでもなく、どこか虚ろな目で。
「……イルザ。本当に——十年、何だったんだ」
「私の方こそ、聞きたかったわ」
それが、ノルト・グランツと交わした最後の言葉だった。
◇
伯爵父子が衛兵に連行された後、部屋には静けさだけが残った。
テレーゼが、小さな声で王太子に尋ねた。
「殿下……私の子どもは、どうなるのでしょうか。伯爵家の——」
「ダーリング嬢。あなたの子に罪はない。養育と身分の保障は、宮廷が責任を持つ」
テレーゼが唇を噛んで、小さく頷いた。強張っていた肩から、ようやく力が抜けていく。
膝の上で握り締めていた手が、ようやくほどかれた。
ヘンリクも、膝に手を置いたまま動けなかった。
私は彼の前に歩み寄った。
「ヘンリク。あなたの証言が、決定的な力になったわ」
「……イルザ様。僕は、あなたを——」
「知っている。でも、あなたは最後に正しい選択をした。それは忘れない」
ヘンリクが深く息を吐いて、背中を丸めた。
長い間背負い続けた重荷が、ようやく下ろされたのだ。その安堵が、全身から力を奪っていた。
オスヴァルト宰相が、黒い手袋を外した。
初めて見る、素手の宰相。皺の多い、しかし力強い手だった。その手で、私に一通の書類を差し出した。
「ヴァイル嬢。君の辞職届は、ここにある。——君自身が決めるがいい。受理するか、取り下げるか」
辞職届を見た。
あの日、宰相府で書いた書類。感情が溢れそうだったあの日の自分の字が、少しだけ震えていた。
「……少し、時間をいただけますか」
「もちろん。急ぐ話ではない」
宰相が——初めて、微笑んだ。
冷徹な政治家の顔の奥に、温かなものが一瞬だけ覗いた。
執務室を出ると、廊下でカイが壁にもたれて立っていた。
手帳はもう持っていない。私に渡したからだ。両手がポケットに入っている。この人の「手持ち無沙汰」を初めて見た。
「終わりましたか」
「ええ。……あなたの手帳のおかげです」
「あれは道具に過ぎません。使いこなしたのは、あなたです」
カイの灰色の目が、夕陽で少しだけ温かい色に見えた。
「カイ。レンドルに帰るのは、いつですか」
「報告書の提出が終われば、すぐに。——通常は」
「通常は?」
「今回は、少し事情が違うので」
カイはそれ以上言わなかった。
けれど、「少し事情が違う」の意味を、私は——わかった気がした。
夕暮れの廊下を、二人で歩いた。
何も言わず、ただ隣を歩いた。
肩が触れるか触れないかの距離。
その距離が、今は何よりも心地よかった。




