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十年待った愛の終わりは、知らない家族の笑顔でした  作者: 渚月(なづき)


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10/10

第10話 手のひらの光

グランツ伯爵の裁きから一週間が経った。


王宮は表面上の平静を取り戻しつつあったが、その内側では大きな変化が静かに進んでいた。


司法府の審理で、伯爵の罪状は全面的に認定された。


五年間にわたる横領、証拠隠滅、脅迫による情報操作。ヴォルフ前局長の死についても、伯爵家から押収された書類の中に口止め料の記録が見つかり、再調査が開始された。


ノルトは直接的な横領への関与は認められなかったが、父の不正を知りながら黙認していたとして、近衛騎士団の除籍と三年間の蟄居が命じられた。テレーゼと子どもの存在についても、欺瞞の手段として利用した責任が問われた。


財務局長の後任として、私の名前が正式に挙がっていた。


宰相の推薦、王太子の承認。異例の若さだったが、もはや反対する声は上がらなかった。


辞職届は、まだ私の手元にあった。


「イルザ。決めたの?」


ベアタが茶を淹れながら聞いた。


今日の茶葉は、少し甘めのもの。以前なら苦い茶葉を選んでいたはずだ——つまりベアタは、私がもう疲れてはいないと見抜いている。


「……気が早いわ、ベアタ」


「あなたがまだ迷っているなら、もう少し苦い茶葉にしたわよ」


幼馴染の目が笑っている。


黒髪を厳しくまとめた端正な顔が、こんなふうに柔らかくなるのは、私の前だけだ。


「実はね、一つだけ確かめたいことがあるの。それが済んだら——決めるわ」


確かめたいこと。


それは、ヴォルフ前局長の死の真相だった。


グランツ伯爵の審理が始まり、押収された伯爵家の書類の中から、新たな事実が明らかになりつつあった。ヴォルフ前局長の「落馬事故」に関して、当時の馬番への口止め料の記録が見つかったのだ。さらに、国外に移住した検死医への送金記録も。


事故ではなかった。


五年前に、恩師は殺されたのだ。


報せを聞いたとき、私は執務室で一人だった。


机の角を三回叩こうとして——やめた。


もう、そうしなくても呼吸は整えられる。


この数週間で、私は変わった。一人で震える必要がなくなったから。


代わりに、引き出しの奥からあの白紙の便箋を取り出した。


ヴォルフ前局長の印章が押された、最初の「手がかり」。


マティアス局長が残してくれたもの。


恩師の無念と、弟子の覚悟が、この一枚の紙に込められていた。


「……先生。マティアス局長。あなたたちが守ろうとしたものは、ちゃんと——届きました」


涙は出なかった。


その代わり、胸の奥に静かな温もりが広がった。


記録は人の記憶より正直だ。そして——記録を守ろうとした人の想いもまた、正直に伝わる。


ヘンリクはその後、自ら財務局を辞した。


「もう一度、自分の力でやり直したい」と言った彼に、私は引き留めなかった。ただ、最後に推薦状を書いた。彼の実務能力は本物だったから。


去り際に、ヘンリクが言った。


「イルザ様。いつか——胸を張って、あなたの前に立てる日が来たら……また一緒に働かせてください」


「待っているわ」


それは社交辞令ではなかった。



午後、カイが財務局に現れた。


今日はいつもと少し違った。手帳を持っていない代わりに、一通の公文書を手にしていた。


「イルザ。正式にご報告です。レンドル王国はグランツ伯爵による横領分の返還交渉を、本国の財務協定更改に含める方針を固めました」


「穏便な解決ですね」


「ええ。両国にとって、最善の形です。賠償ではなく協定の一部として処理することで、外交的な亀裂を避けられる」


カイの表情は相変わらず乏しかった。けれど、私にはもう——その中にある感情が読める。


口元のわずかな緩み。目線の柔らかさ。声の低音に混じる温度。全て、出会った頃には見えなかったものだ。


「それと——もう一つ」


「何ですか」


「レンドル王国は、この国との財務協定更改にあたり、常駐の連絡官を置くことを提案しています」


「常駐の連絡官?」


「ええ。財務局と直接連携できる、監査経験のある人物を。両国間の取引を常時照合し、今回のような不正が再び起こらないよう監視する役割です」


私はカイを見た。


「……候補は、もう決まっているのですか」


「本人の意思確認が、まだです」


カイの灰色の目が、初めて——揺れていた。


あの冷静な瞳の奥に、明らかな感情が見えた。それは、言葉にするのが苦手な人の、精一杯の表現だった。


無表情のこの人が、こんなに多くの言葉を選んでいるのを見たのは初めてだった。


「カイ」


「はい」


「意思確認は——必要ですか?」


カイが一瞬、目を見張った。


それから——ごく小さく、笑った。本当に、小さな笑みだった。不器用で、ぎこちない。けれど、確かな笑み。


「……不要かもしれません」


その日の夕方、私は宰相府に向かった。


辞職届を手に。


オスヴァルト宰相は、いつもの椅子に座っていた。


黒い手袋。合わせた指先。この人の前に立つのは、もう何度目だろう。


「ヴァイル嬢。決めたかね」


「はい」


私は辞職届を差し出した。


宰相がそれを受け取ろうとしたとき——私は、その紙を自分の手で二つに裂いた。


宰相の眉が上がった。あの冷徹な政治家が、驚いた顔を見せるのは初めてだった。


「残ります。——ただし、条件があります」


「条件?」


「財務局の管理体系を刷新させてください。今回の不正が二度と起こらないよう、取引承認と決済記録の照合を制度化する。部署をまたいだ監査の仕組みを作り、一人の人間が全てを握れないようにする。そして——」


「そして?」


「マティアス・レーヴェ前局長と、ダグラス・ヴォルフ前々局長の名誉を、正式に回復してください。二人はこの国の財務を命懸けで守ろうとした。その事実が、記録に残るべきです」


宰相は長い間、沈黙した。


黒い手袋の指先を合わせて——やがて、静かに頷いた。


「承認する。——ヴァイル財務局長」


初めて、その肩書を呼ばれた。


重かった。けれど——不思議と、軽かった。それは一人で背負う重さではなく、支えてくれた人たちと分かち合える重さだったからだ。


宰相府を出ると、春の風が廊下を吹き抜けていた。


季節がいつの間にか変わっている。あの秋の式典から、もう半年が過ぎたのだ。


石壁に反射する光が、秋の赤ではなく、春の金色に変わっていた。


正門前の広場を横切ると、石段の下にカイが立っていた。


手帳は持っていない。代わりに——新しい手帳を手にしていた。


「新しい記録帳ですか」


「ええ。常駐連絡官としての業務用に」


「もう決まったのですか」


「本人の意思は不要だと、ある人に言われたので」


私は笑った。声に出して笑うのは、いつぶりだろう。


広場を歩く人々が振り返るくらい、大きな声で笑ったかもしれない。


カイが少し戸惑った顔をして——それから、自分も笑った。


不器用で、ぎこちない笑顔だった。


けれど、私はそれがとても好きだと思った。


「カイ。一つだけ聞いていい?」


「何ですか」


「最初に保管室で私に『どちら側の人間ですか』と聞いたとき、もし私が『わからない』と答えていたら——どうしていましたか」


カイは少し考えてから、答えた。


「同じことをしたと思います。ただ、手帳は渡さなかったでしょうね」


「手帳を渡すのは、特別なこと?」


「——二度目はない、という程度には」


その言葉の重さを、私は受け取った。


この人は感情を言葉にするのが苦手だ。けれど——行動で、確かに伝えてくれる。


石段を二人で降りた。


カイが差し出した手を、私は取った。


温かい手だった。


手帳を握り続けた、記録する人の手。ペンだこが少しだけ固い。


「ねえ、カイ」


「はい」


「十年待った愛の終わりは、知らない家族の笑顔だった。——でも、その終わりがなかったら、あなたには会えなかった」


カイは何も答えなかった。


ただ、握った手に、ほんの少しだけ力を込めた。


それで——十分だった。


春風が広場の花を揺らしている。


半年前、ノルトの凱旋で花弁が舞ったのと同じ広場。けれど今、この場所は全く違う意味を持っている。


手のひらの中にある温もりが、新しい季節の始まりを告げていた。


——先生の言葉は、ずっと正しかった。


けれど時々、記録にも残せないものがある。


今この手のひらにある光のようなものが、きっとそうだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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