第8話 裏返る信頼
ベアタの情報は正確だった。
——この幼馴染の情報網は、時に王宮の公式伝達より速い。
翌日の朝議で、リヒト・グランツ伯爵は先手を打った。
王太子と宰相の前で、「レンドルの監査官が不当な内政干渉を行っている」と声高に訴えたのだ。
「陛下不在の折、外国の官吏が我が国の財務記録を漁り回るなど、主権の侵害に等しい。ヴァイル主任書記官は個人的な恨みから、この監査官と結託して国家機密を外国に流出させている可能性すらある」
巧妙な論法だった。
不正を追及する側を「売国者」に仕立て上げる。攻撃こそ最大の防御——権力者が追い詰められたときの常套手段だ。事実の検証を求める声を「感情的な報復」にすり替え、追及者の信用を先に潰す。
宰相が黒い手袋の指先を合わせて沈黙しているのが、伝え聞いた報告から読み取れた。王太子は窓の外を見ている。二人とも、伯爵の言葉を遮らなかった。
私は朝議に出席する身分ではない。しかし、宰相の侍従を通じて、一通の書面を提出していた。
昨夜、ベアタの報告を受けてから徹夜で仕上げた書面だ。蝋燭が二本燃え尽きるまでかかった。
「——宰相閣下、ヴァイル主任書記官より書面が届いております」
オスヴァルト宰相がそれを読み上げた。
内容は簡潔だった。
過去五年間の歳入台帳と、レンドル側の支払い記録との間に生じている差額の一覧。数値の羅列ではなく、「どの取引承認が、誰の署名のもとに行われ、どの商会に資金が流れたか」を系統立てて示した図表。
感情は一切排してある。事実と記録だけで構成された、純粋な報告書。
そして最後に一文。
「本書面の内容について、宮廷顧問官グランツ伯爵にご説明をいただければ幸いです」
グランツ伯爵の顔色が変わったと、後にベアタが教えてくれた。
「蒼白になった後、紅潮して、また蒼白になった。あの伯爵が、あそこまで動揺するのを初めて見たわ。薄い笑みが、完全に消えていた」
朝議はグランツ伯爵の訴えを「検討する」として一旦保留となった。しかし、私の書面の内容は朝議の出席者全員が目にしている。もう伯爵が「知らない」とは言えない状況だ。
午後、予想通りの反撃が来た。
ヘンリクが青ざめた顔で走ってきた。
「イルザ様、グランツ伯爵がこちらに向かっています。近衛兵を四人連れて——」
「……来たわね」
私は執務室の椅子に座ったまま、書類を整理し続けた。
心臓は速く打っていたが、手は震えなかった。もう震える段階は過ぎた。
この数週間で、私の中の何かが変わった。恐怖が消えたのではない。恐怖の先に、為すべきことが見えるようになったのだ。
扉が開き、グランツ伯爵が入ってきた。
薄い笑みは消えていた。代わりに、剥き出しの敵意があった。恰幅のよい体が、威圧するように部屋を埋める。
「ヴァイル嬢。あの書面は何のつもりだ」
「事実の報告です」
「事実? でたらめだ。レンドルの監査官に吹き込まれた偽情報を——」
「伯爵。歳入台帳の原本は王宮の地下金庫にあります。誰でも閲覧可能です。私の書面の内容が正確かどうか、ご自身でお確かめになれば——」
「黙れ」
伯爵の声が、初めて荒くなった。
品のある低音が裂けるように崩れた。
「お前はただの書記官だ。侯爵家の娘だからといって、伯爵家に楯突いてよい理由にはならん」
「おっしゃる通り、私はただの書記官です。ただし、記録を正確に管理する書記官です」
伯爵が一歩近づいた。
近衛兵たちが、その背後で居心地悪そうに立っている。彼らも、これが正当な命令なのかどうか迷っているのだ。
そのとき、扉の向こうで靴音が止まり、冷静な声が割って入った。
「グランツ伯爵。財務局内での威圧行為は、王宮規定の第七条に違反します」
カイが扉枠に肩をもたせかけるようにして立っていた。
「外国人が口を挟むな」
「私は両国間の財務協定に基づく正式な監査官です。監査業務への妨害は、協定第十二条により外交問題となります。——それは伯爵が本日の朝議で問題にされた『主権の侵害』よりも、遥かに深刻な事態を招きますが」
伯爵の顎が引き締まった。
カイの指摘は正確だった。伯爵自身が「外交問題」を持ち出したからこそ、その論理は自分にも跳ね返る。自ら作った論理の檻に、自ら嵌まった形だ。
長い沈黙の後、伯爵は踵を返した。
「覚えておけ、ヴァイル嬢」
それだけ言い残して、近衛兵とともに去っていった。
残されたのは、重い靴音の残響と、かすかな葡萄酒の匂いだけだった。
◇
伯爵が去った後、私はヘンリクに目を向けた。
「ヘンリク」
「は、はい」
「少し話があるの。座って」
ヘンリクが椅子に座った。
眼鏡の奥の目が、不安に揺れている。いつも書類を抱えている腕が、今は膝の上で所在なく重なっていた。
「単刀直入に聞くわ。グランツ伯爵に、私の調査内容を伝えていたのは——あなたね」
ヘンリクの顔から血の気が引いた。
数秒の沈黙。それが全てを物語っていた。
「……はい」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「いつから?」
「二年前からです。実家の借金を、伯爵家に肩代わりしてもらいました。その代わりに、財務局の情報を定期的に——」
「保管室の記録を盗んだのも?」
「……はい。局長の鍵を金庫から持ち出して、伯爵の使用人に渡しました」
ヘンリクの肩が震えていた。
泣いているのだと気づいた。眼鏡を外して目元を拭う手が、痛々しいほど震えている。
「イルザ様、申し訳ありません。本当に——あなたを裏切りたくはなかった。でも、実家が……母が……母の療養費が足りなくて、借金をしたら……」
「わかっているわ」
私の声は、自分で思ったより穏やかだった。
怒りはある。けれどそれ以上に——こういう形で人を追い詰める仕組みそのものへの怒りが、大きかった。ヘンリクは歯車の一つに過ぎない。本当の敵は、歯車を回す側にいる。
「ヘンリク。あなたがしたことは、取り返しがつかない部分もある。でも、今ここで正直に話してくれたことには、意味がある」
「……え?」
「あなたの証言が、もう一つの証拠になるのよ。グランツ伯爵が、王宮内部の人間を脅迫して情報操作をしていた——その証拠に」
ヘンリクの目が大きく見開かれた。
「私の証言で……伯爵を?」
「ええ。ただし、証言するかどうかは——あなた自身が決めること。強制はしない」
ヘンリクは長い間、黙っていた。
窓から差し込む夕陽が、彼の涙の跡を光らせていた。
やがて、眼鏡を外して目元を拭い、まっすぐに私を見た。
「……証言します。もう、嘘をつき続けるのは限界でした」
その夜、全ての証拠が揃った。
歳入台帳の乖離。幽霊商会の実態。筆跡の一致。テレーゼの証言。ヘンリクの証言。そして、ヴォルフ前局長が遺した報告書。
一つ一つは小さな断片だった。けれど、組み合わせれば——誰も否定できない全体像になる。
カイが手帳の最後のページを閉じた。
「明日、告発しますか」
「ええ。王太子殿下と宰相閣下に、正式な報告書を提出します」
カイの手帳が、机の上に静かに置かれた。
「イルザ。これを」
「あなたの手帳?」
「五年分の照合記録の全てが、ここにあります。レンドル側の証拠として、あなたの報告書に添付してください」
手帳を受け取ったとき、指先が触れた。
カイの指は思ったより温かかった。手帳を握り続けた人の、確かな温度。
「……ありがとう、カイ」
名前を呼んだのは、初めてだった気がする。
カイは少し驚いた顔をして——それから、ごく小さく頷いた。
「一緒に終わらせましょう」
その言葉は、財務の不正についてだけではない——と、私は思った。
十年分の嘘。五年分の隠蔽。そして、これからの真実。
全てを、明日終わらせる。




