第7話 偽りの敵
罠の結果は、翌日のうちに出た。
——待つ時間は、一晩で十分だった。
西棟の古い書庫に、グランツ伯爵家の使用人が出入りしていたことを、ベアタが教えてくれた。
「書庫の鍵番に聞いたの。伯爵家の者が、古い商業登録の副本を探しに来たと。鍵番は不審に思ったけれど、宮廷顧問官の名を出されて断れなかったそうよ」
心臓が冷えた。
ヘンリクに伝えた嘘の情報が、そのままグランツ伯爵側に流れている。
私の最も信頼していた後輩が、裏切り者だった。
感情を押し殺して、まず事実を整理した。
ヘンリクはいつから、なぜグランツ伯爵側と通じていたのか。動機は何か。感情に流されて行動すれば、判断を誤る。怒りは後回しだ。
ベアタに頼んで、さらに調べてもらった。
「ヘンリク・ファルケの実家は、三年前に事業が傾いている。かなりの負債を抱えていたらしいわ。その負債が——二年前に、突然解消されている」
「誰が肩代わりを」
「直接の証拠はないけれど、時期的にグランツ伯爵家の影響力が及ぶ金融業者が関わっている可能性が高い」
借金を盾に、情報提供を強いられていた。
脅迫による協力者の獲得は、権力者が用いる古典的な手法だ。相手の弱みを握り、選択肢を奪う。表向きは「善意の援助」に見せかけながら、裏では永久の服従を強いる。
ヘンリクの「温厚そうな笑顔」の裏に、どれほどの重荷があったのか。
書類を抱えて走り回る姿。いつも最後まで残って報告書を仕上げる勤勉さ。あれは誠実さだったのか、それとも——罪悪感の裏返しだったのか。
(——それでも、裏切りは裏切りだ。)
同情はある。けれど、彼の流した情報によって、記録が盗まれ、調査が妨害された。マティアス局長の死にも、間接的に関わっている可能性がある。
この事実を、まだヘンリクには伝えない。
泳がせておく方が、グランツ伯爵側の動きを読みやすい。
カイにだけ、事実を共有した。
「ヘンリクが裏切り者だったとして、彼を通じてグランツ伯爵にこちらの動きが筒抜けになっている」
「逆に言えば、こちらが流す情報を操作できるということです。ヘンリクは、意図せず私たちの武器になり得る」
「偽情報で誘導する?」
「ええ。本命の証拠は別の場所から固めて、ヘンリクには偽の進捗を見せ続ける」
冷徹な作戦だった。けれど、必要なことだ。
感情に溺れれば、またマティアス局長と同じ道を歩むことになる。
◇
その日の午後、もう一つの転機が訪れた。
王太子の侍従が再び私を呼び出し、今度は宰相府の会議室に通された。
オスヴァルト宰相と、エルヴィン王太子が同席していた。
そしてもう一人——テレーゼ・ダーリングが、部屋の隅に座っていた。
ノルトの内縁の妻。あの式典で見た、柔らかい金の巻き毛の女性。
儚い雰囲気はそのままだったが、今日は——目の色が違った。
私を見る目には、敵意ではなく——怯えと、そして覚悟があった。
「ヴァイル嬢、座りなさい」
宰相が手袋の指先を合わせて言った。
「テレーゼ・ダーリング嬢が、王太子殿下に証言を申し出た。彼女の話を聞いてほしい」
テレーゼが、震える声で話し始めた。
「……私はノルト様に、こう言われていました。『本国の婚約者との縁は、もうすぐ切れる。お前が正妻になれる』と。だから、子どもも産みました。北方の駐屯地で、二人きりで暮らしながら。でも——帰還してから、何も変わらない。約束はいつも先延ばしにされて」
テレーゼの手が、膝の上で白くなるほど握り締められていた。
小さな手だった。この手で子どもを育て、見知らぬ土地で一人耐えてきたのだ。
「そしてある日、伯爵——ノルトの父上に呼ばれました。『お前と子どもの存在は、使い道がある。ヴァイル家の娘を追い出す材料になる。だから黙っていろ』と」
(——使い道。)
テレーゼも、ノルトとその父に利用されていたのだ。
私を排除するための「道具」として。あの凱旋式典で馬車に同乗していたのは、偶然ではなく演出だった。
「それだけではありません」
テレーゼの目に、初めて怒りが灯った。
儚さの下に隠されていた芯の強さが、一瞬だけ顔を覗かせた。
「伯爵は私に、ノルト様の手紙を代筆させていました。北方にいた三年間、ノルト様が『イルザ様に出していた手紙』の多くは——私が書いたものです。伯爵に指示されて」
部屋が静まった。
「帰ってくる」とだけ書かれた手紙。
四十二通のうち、何通がノルト本人の言葉だったのだろう。あの素っ気ない文面は、ノルトの無骨さだと思っていた。けれど本当は——他人が書いた、感情のない文字だったのかもしれない。
不思議と、怒りより先に——脱力が来た。
十年間の「つながり」が、どこまで本物だったのか。もはや確かめようもない。
「テレーゼ様。お話しいただいて、ありがとうございます」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「私とあなたは、同じ男と同じ家に——利用されていた側ですね」
テレーゼの目から涙がこぼれた。
「……ごめんなさい。あなたの十年を——」
「あなたが謝ることではありません。あなたもまた、騙されていた。私たちは共に——被害者です」
宰相が咳払いをした。
「テレーゼ嬢の証言は、グランツ伯爵家の組織的な隠蔽工作を裏づけるものだ。ヴァイル嬢、この証言を調査の一環として記録に含めることを許可する」
「はい、宰相閣下」
会議室を出たとき、テレーゼが廊下で私を待っていた。
「ヴァイル様——イルザ様」
「はい」
「あの人の……ノルトの本当の手紙は、数通だけでした。最初の一年だけ。それ以降は全て、伯爵の指示です」
最初の一年だけ。
つまり——ノルトは、少なくとも最初は、確かに私に手紙を書いていた。
それが救いなのか残酷なのか、判断がつかなかった。
けれど——知ることができてよかったと思った。曖昧なまま抱えるより、事実を知る方が、ずっと楽だ。
「教えてくれて、ありがとう」
テレーゼは小さく頷いて、侍従に導かれて去っていった。
その後ろ姿は、出会ったときより少しだけ背筋が伸びていた。
その夕方、カイが財務局の廊下で私を見つけた。
「テレーゼ・ダーリング嬢が証言したと聞きました。これで——」
「ええ。グランツ伯爵の動機と手口が、財務不正だけでなく、私的な隠蔽工作にまで及んでいたことが証明できます」
「証拠は揃いつつある。あとは——」
「あとは、最後の壁です」
最後の壁。それはグランツ伯爵自身の口から、不正を認めさせること。
あるいは、認めざるを得ない状況に追い込むこと。
カイが手帳を閉じて、私の目を見た。
「イルザ。一つ、個人的なことを聞いてもいいですか」
「何ですか」
「十年間——つらくなかったですか」
不意を突かれた。
カイがこういう質問をするとは思わなかった。この人は常に事実と論理で会話を組み立てる。「つらかったか」は、事実でも論理でもない。
「……つらいとは思わないようにしていました。考えても仕方がないから」
「今は?」
「今は——」
言葉を探した。
けれど、見つからなかった。代わりに、カイの手帳を見た。
「あなたの手帳に、答えが書いてあるんじゃないですか」
「残念ながら、人の感情は記録できません」
真面目な顔で言うカイを見て、私は小さく笑った。
「——今は、少しだけ楽です。一人ではないから」
カイは何も答えなかった。
けれど、歩き出すとき——いつもより半歩分、近い距離を歩いてくれた。
その距離の変化を、私の体は正確に感じ取っていた。
夜、自室に戻ると、ベアタからの伝言が届いていた。
「至急会いたい。グランツ伯爵が、明日の朝議で先手を打つつもりだという情報が入った」
指先が震えた。
明日。時間がない。
机の角を三回叩いて——深く息を吸った。




