第6話 紙の迷路
記録の消失は、私たちに二つのことを教えた。
一つは、敵が動き始めたこと。もう一つは、私たちの調査が核心に近づいている証拠だということ。
「原本が消えても、私の手帳に転記した内容がある。それに——」
カイは保管室の空いた棚を見つめながら言った。
「記録を盗んだということは、自らの関与を認めたようなものです。保管室の鍵を持つ人間は限られている。犯人の範囲は自ずと絞られる」
「ただし、物的証拠がなければ告発はできません。『鍵を持っていた』だけでは、状況証拠にすぎない」
「ええ。だから、別の角度から攻めましょう」
カイの提案は明快だった。
消えた記録の代わりに、資金の流れを「受け取り側」から追うのだ。
レンドル王国側には、支払い記録が残っている。カイが持参した写しには、どの商会にいくら支払われたかが正確に記されていた。一方、王宮側の貿易収入記録には、その一部しか反映されていない。
会計において、全ての取引は必ず二つの記録に現れる。支払う側と受け取る側。片方を消しても、もう片方が残る。これは複式簿記の根本原理であり、不正を追う者にとっての最大の武器だ。
「差額がどこに消えたか——それを示すには、王宮の歳入台帳と照合すればいい」
「歳入台帳は財務局の最重要書類です。さすがにあれを盗むのは困難でしょう。重すぎて、一人では持ち出せない」
私は少しだけ笑った。
歳入台帳は革装丁の巨大な冊子で、一冊あたり成人男性の腕の太さほどもある。五年分となると棚一段を丸ごと占める代物だ。
カイも、ごくわずかに口元を動かした。初めて見る、微笑みに近い表情だった。
歳入台帳は保管室の最奥、鉄格子の中に保管されている。
二人で台帳を開き、レンドル側の支払い記録と一行ずつ照合する作業を始めた。
窓のない地下室で、蝋燭の灯りを頼りに書類を読み解く。
修道院で写字を行う修道士のような根気が求められた。かつて中世の修道院では、一冊の写本を完成させるのに数年を費やしたという。彼らが羊皮紙に向き合った忍耐は、ある意味で記録というものの本質を体現している。正確さとは、地道な反復の先にしか存在しない。
石壁からは地下水の冷気が滲み出ている。
カイが自分の外套を脱いで、私の椅子の背にかけた。何も言わずに。
「……ありがとう」
「蝋燭の灯りでは手元が見えにくい。体が冷えると、集中力が落ちます」
合理的な説明だった。けれど、外套には温もりが残っていた。
三時間後、最初の明確な乖離を見つけた。
「ここです。四年前の第二四半期。レンドル側の支払い額と、歳入台帳の記載額に——明確な差額がある」
「金額は?」
「大きいです。そしてこの差額は、あの三つの幽霊商会への支払い分とほぼ一致する」
カイが手帳に記録した。
一つ見つかれば、二つ目は早い。同じパターンを追って、五年分の乖離を洗い出した。
全てを並べたとき、不正の全体像が浮かび上がった。
グランツ伯爵は宮廷顧問官の権限を使い、架空の取引を承認していた。レンドル王国に対して水増しした請求を行い、差額を幽霊商会経由で私的に吸い上げる。五年間の累計は——国家予算に匹敵する規模だった。
「これだけの額が動いていて、なぜ五年間も発覚しなかったのか」
カイが呟いた。
「取引承認と決済記録が、別々の部署に分かれていたからです。承認は宮廷顧問官室、決済記録は財務局、そして国際間の照合は——誰もしていなかった」
「縦割り行政の盲点ですね」
「ええ。一つ一つの部署は自分の担当範囲を正確にこなしている。けれど、部署をまたいで全体を見渡す仕組みがなかった。ヴォルフ前局長は、それに気づいた最初の人物だったのでしょう。そして——」
言葉を飲み込んだ。
気づいた人間がどうなったかは、もう知っている。
◇
翌日、異変が起きた。
出勤すると、財務局の入り口にノルト・グランツが立っていた。
軍服ではなく、伯爵家の紋章入りの礼服。公式の訪問だ。
「イルザ」
「グランツ副団長。財務局にどのようなご用件ですか」
「……父から聞いた。君が何か調べていると」
ノルトの碧い目が、かつてとは違う光を帯びていた。
焦り。あるいは——恐怖。十年間見てきた顔だからこそ、その変化がわかる。かつての自信に満ちた表情は消え、頬の線が強張っている。
「私は財務局の主任書記官として、通常の業務を行っているだけです」
「通常の業務なら、なぜレンドルの監査官と二人きりで保管室にこもっている。父の取引承認書を引っ張り出しているそうじゃないか」
(——誰が伝えた?)
保管室での私とカイの行動を、外部に知らせた人間がいる。
鍵を盗んだのと同一人物か。
「グランツ副団長。業務の詳細について、外部にご説明する義務は私にはありません」
「外部? 僕は君の婚約者だぞ」
「元、婚約者です。破棄の申し出は既に——」
「まだ受理されていない。つまり、まだ有効だ」
ノルトが一歩近づいた。
かつて、この距離は安心の距離だった。彼の体温を感じて、守られていると思えた距離。今は——圧迫でしかない。
「イルザ。君のためを思って言っている。父に逆らうのは賢明じゃない」
「先日も同じ言葉を聞きました。『君のためを思って』は、いつもあなたのためでしたね」
ノルトの顔が紅潮した。
初めて見る、余裕のない表情だった。
「……後悔するぞ」
「後悔なら、十年分しました。もう十分です」
ノルトが何か言おうとしたとき、背後から声がかかった。
「ヴァイル主任書記官、約束の時間です」
カイだった。
手帳を胸ポケットに入れたまま、無表情でノルトを見ている。
背は高くないが、姿勢の良さが存在感を作っている。
ノルトはカイを一瞥し、舌打ちをして去っていった。
軍靴の音が、廊下に不機嫌な響きを残した。
「……助かりました」
「約束はしていませんが」
「知っています」
カイの目が、ほんの一瞬、柔らかくなった。
その変化に気づいた自分に少し驚いた。この人の表情を、いつの間にか読めるようになっている。
「イルザ。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「保管室での私たちの動きを知っている人間は、限られているはずです。あなた、私、ベアタさん。そして——」
「ヘンリク」
「彼を信用していますか」
即答できなかった。
その沈黙が、答えになってしまったことを——自分が一番よくわかっていた。
「……確認します。私の方法で」
カイは頷いた。
その夜、私は一つの罠を仕掛けた。
ヘンリクにだけ、嘘の情報を伝えたのだ。
「明日、カイ監査官と西棟の古い書庫を調べる予定なの。五年前の商業登録の副本があるはずだから」
西棟の古い書庫には、実際にはそのような書類は保管されていない。
もしこの情報が漏れて、西棟に何らかの動きがあれば——ヘンリクが情報源だと確定する。
情報操作において、こうした手法は「毒入り情報」と呼ばれる。複数の疑わしい人物に、それぞれ異なる偽情報を与え、どの情報が漏洩したかで犯人を特定する。古くから諜報の世界で使われてきた方法だ。
眠れない夜だった。
信じた背中に、疑いの刃を向けている自分が嫌だった。
けれど。
マティアス局長は、信じた結果、一人で重荷を背負い続けた。ヴォルフ前局長は、信じた結果、命を落としたかもしれない。
信じることと確かめることは、矛盾しない。
むしろ——確かめた上で信じることこそが、本当の信頼なのだと、私は自分に言い聞かせた。




