第5話 沈黙の棚
——あの時抱いた違和感は、もう無視できるものではなかった。
マティアス局長の葬儀から三日が経った。
王宮は表向き、何事もなかったかのように静けさを取り戻している。だがその裏では、後任人事を巡る思惑が静かにぶつかり合っていた。廊下ですれ違う官吏たちの会話は一様に短く、笑顔はどこか硬い。
水面は凪いでいる。だが、その下では流れが変わっている。
私はその流れに加わるつもりはなかった。
少なくとも——今は。
「ヴァイル主任書記官」
記録室の長机に広げた帳簿の上で、ペンを走らせていたカイが顔を上げた。
「長いので、イルザで構いません」
「……では、イルザ。この記録を見てください」
差し出された手帳には、整然とした数字の列が並んでいた。五年分の貿易決済記録から抽出したものだ。彼の字は癖がなく、まるで印字されたかのように正確だった。
私は隣に立ち、視線を落とす。
「……この間隔」
「気づきましたか」
三か月ごとに現れる、不自然な差額。
それは偶然の揺らぎにしては規則的すぎる。だが、あまりに小さい。単体では見過ごされる程度の誤差だ。
「積み重なれば、無視できない額になりますね」
「はい。こちらが合計です」
カイが別の頁を開く。
そこに記された数字を見て、私は一度だけ瞬きをした。
——想定より多い。
声には出さない。だが、確信はあった。
「……誰かが意図的に抜いている」
「同意見です」
カイは淡々と頷いた。
「ただし、直接の証拠はまだありません。現時点では“異常値の集合”に過ぎない」
「ええ。だから——線を引く必要がある」
私は帳簿を閉じた。
「資金の流れを追いましょう。承認者、商会、輸送経路。すべてを紐づけていく」
「時間がかかります」
「かける価値はあるわ」
短く言い切ると、カイはわずかに目を細めた。
「あなたは優秀ですね」
事実確認のような口調だった。
お世辞ではない。だからこそ、返答に一瞬迷う。
「……優秀だったら、十年も騙されてはいません」
「それは別の話です」
即答だった。
私は思わず小さく息を吐いた。
議論する気はないらしい。その線引きは、彼らしい。
◇
その日の午後、私は一人で保管室に入った。
分厚い扉を閉めると、外の音はほとんど遮断される。古い紙とインクの匂いが満ちた空間。棚は天井近くまで並び、過去の記録が整然と収められている。
——沈黙の棚。
誰にも語られない事実が、ここにはある。
鍵を差し込み、目的の区画を開ける。
五年前。
ヴォルフ前局長が不正を追っていた時期の記録。
指先で背表紙をなぞりながら、一冊ずつ抜き出していく。埃が舞い、わずかに光を曇らせた。
机に並べ、頁をめくる。
数字。署名。承認印。
無機質な情報の連なり。
けれど——嘘はつかない。
「記録は人の記憶より正直だ」
ふと、師の声が蘇る。
私は手を止めなかった。
ページを繰る速度を、ほんのわずかに上げる。
やがて、一つの違和感に指が止まった。
「……ここ」
承認者の署名。
形式は整っている。だが——微妙に違う。
筆圧。線の流れ。終筆の癖。
同じ人物のものに見せかけているが、別人の手だ。
私は別の帳簿を引き寄せ、同じ名前の署名と並べた。
——やはり違う。
「偽造……?」
呟きは、誰にも届かない。
だが、その瞬間、点と点が線になり始めた。
小さな差額。
規則的な周期。
そして、偽造された承認。
偶然ではない。
構造だ。
私はゆっくりと息を吸い、机の角を三回叩いた。
心拍を整えるための、いつもの癖。
——まだだ。
これは“疑い”から“仮説”に変わっただけ。
証明には足りない。
だが、方向は見えた。
帳簿を閉じ、元の位置に戻す。
鍵をかける音が、やけに大きく響いた。
扉を開けると、外の空気が流れ込んでくる。
日常の気配。
人の気配。
その中に——
「……イルザ様」
振り返ると、ヘンリクが立っていた。
いつものように書類を抱え、穏やかな表情を浮かべている。
「お探ししました。こちらの確認をお願いしたくて」
差し出された書類を受け取る。
自然な動作。
何も変わらないように見える。
けれど。
「ありがとう。あとで目を通すわ」
微笑みながら答える。
彼もまた、いつものように一礼した。
その背中を見送りながら、私は視線を落とした。
——この人は、どちら側なのか。
まだ、答えは出ない。
だからこそ。
もう一つの目を持たなければならない。
感情ではなく、記録で判断する目を。
静かに、確実に。
真実に辿り着くために。




