第4話 信じた背中
マティアス局長の訃報は、王宮中に波紋を広げた。
死因は「心臓の発作による急逝」と公式に発表され、葬儀は三日後に執り行われることになった。
私は喪服の準備をする暇もなく、財務局に出勤した。
局長不在——いや、局長が亡くなった財務局を、誰かが動かさなければならない。実務上、それは私しかいなかった。
執務室に入ると、局長の椅子が空になっているのが目に入った。
昨日まで誰かが座っていた椅子。座面のへこみが、まだ主の体の形を覚えている。
「イルザ様、お加減は大丈夫ですか」
ヘンリクが温かい茶を持ってきてくれた。
眼鏡の奥の目が心配そうに揺れている。
「ありがとう、ヘンリク。大丈夫よ。今日の業務予定を確認させて」
「はい。それと、グランツ伯爵から面会の申し入れが来ています」
手が止まった。
リヒト・グランツ伯爵。ノルトの父にして、宮廷顧問官。
「……理由は?」
「局長の後任人事について、だそうです」
(——早い。速すぎる。)
局長が亡くなってまだ半日も経っていない。
後任の話をするには、あまりにも手回しが良い。まるで、この事態を予見していたかのように。
「午後に時間を取るわ。それまでに、局長の執務室の整理を始めたいの。手伝ってくれる?」
「もちろんです」
ヘンリクと共に局長室に入った。
整然と片付けられた部屋の中で、私は左の書棚、下から二段目を探した。
マティアス局長の最後の言葉。
「封蝋の押された——」
棚には古い参考書や制度解説書が並んでいるだけだった。
一冊ずつ引き出して確認するが、封蝋の押された書類は見つからない。
「イルザ様、何かお探しですか?」
「……いいえ。局長の私物の整理を考えていただけ」
嘘をついた。ヘンリクを疑っているわけではない。けれど、局長の遺言とも言える情報を、まだ誰にも共有する段階ではなかった。
午後、カイが財務局に現れた。
「局長の執務室を確認したいのですが」
「……実は、私も探し物をしていたところです」
二人きりになってから、私は局長の最後の言葉を伝えた。
カイは黙って聞いていた。手帳は開かず、ただ私の目を見ている。
「しかし、該当する書類は見つかりませんでした」
「棚が空になっている可能性は?」
「いえ、書籍は全て揃っています。ただ——」
私は再び棚を見た。下から二段目。
制度解説書を一冊引き出して、表紙を開いた。
奥付のページに、ごく小さな切り込みがあった。
表紙の裏側に、薄い封筒が貼り付けられている。本の一部に見えるよう巧妙に隠されていた。古くから用いられる秘匿の手法だ。書物の表紙と裏表紙の間に空間を設け、そこに文書を忍ばせる。かつて密使が外交文書を運ぶ際に使った方法と同じだ。
「——ありました」
封蝋は紫色。ヴォルフ前局長の個人印だった。
封を開けると、二枚の文書が出てきた。
一枚目は、ヴォルフ前局長直筆の報告書。グランツ伯爵が関与する不正取引の概要が、簡潔に記されていた。師の筆跡は整然としていて、感情を排した事実の列挙になっている。
二枚目は——名前の一覧だった。
不正に関わった人物のリスト。グランツ伯爵、取引に使われた商会の責任者、そして王宮内の協力者。
その中に、一つだけ消された名前があった。
インクで塗り潰されているが、文字の痕跡から推測できる。
マティアス・レーヴェ。
(——局長の名前が、不正関与者のリストにある?)
いや——消されている。つまり、ヴォルフ前局長は一度マティアスを疑ったが、後に名前を消した。疑いが晴れたのか、あるいは——マティアスが師のもとを訪れ、離反を告げたのか。
「ヴァイル主任書記官」
カイの声で我に返った。
「このリストの人物は、現在も王宮にいますか」
「一部は。確認が必要です」
「それと——消された名前。あれは局長のものでしょう」
「ええ」
「マティアス局長は、最初は不正に加担していたが、途中で離反した。そしてヴォルフ前局長がそれを認めた。そう読めます」
カイの分析は冷静だった。
そう——マティアス局長は「事なかれ主義の上司」などではなかった。五年間、一人で罪の意識と闘いながら、証拠を集め続けていたのだ。
その重さを思うと、胸が詰まった。
あの穏やかな笑顔が、どれほどの覚悟の上に保たれていたのか。
◇
午後遅く、リヒト・グランツ伯爵が財務局を訪れた。
恰幅のよい体に宮廷服を纏い、口元に薄い笑みを浮かべている。
「やあ、ヴァイル嬢。局長の急逝は痛ましいことだ。——葡萄酒はいかがかな? 良い年のものを持ってきたのだが」
交渉の場で飲み物を勧めるのは、この伯爵の常套手段だと聞いたことがある。相手が飲むか断るかで、心理的な優位を測る。
「お気持ちだけ頂戴いたします。ご用件を伺えますか」
「ふむ。本題に入ろう。局長の後任だが、私から王太子殿下に推薦を出そうと考えている。候補はグスタフ・メルツ。財務経験は浅いが、実直な男だ」
聞いたことのない名前だった。
財務経験が浅い人間を、なぜ局長に推すのか。答えは明らかだ——操りやすいからだ。自分の意のままに動く局長を据えれば、不正の隠蔽はさらに容易になる。
「恐れ入りますが、局長の後任選定は宰相府と王太子殿下の協議事項かと存じますが」
「もちろん。だが宮廷顧問官として、適切な人材を推薦する責務がある。……ヴァイル嬢、君も候補の一人だと聞いている」
「私はまだ辞職の意向を撤回しておりません」
「おや。辞職? それは困るな。ノルトの件は——まあ、若い男の過ちだ。大目に見てやってはくれまいか」
息子の裏切りを「若い男の過ち」と片づける。
この人にとって、私の十年はその程度のものなのだ。十年という時間の重さは、人によってまるで違う。
「グランツ伯爵。ノルト様の件と、私の人事は別の問題です」
「ふふ。君は聡い女性だ。だからこそ——賢明な判断をしてくれると信じているよ」
伯爵が去った後、私は椅子の背にもたれて目を閉じた。
「賢明な判断」。それは脅しだ。逆らうなという意味の。柔らかな言葉で包まれた、硬い刃。
しかし、私はもう十年前の私ではない。
夕方、ヘンリクが最後の報告書を持ってきた。
「イルザ様、今日の分はこれで全てです。あ、それとカイ・ベルトラン監査官から伝言です。明日の閲覧開始を一時間早めたいとのことです」
「わかったわ、ありがとう」
ヘンリクが一礼して部屋を出ようとしたとき、ふと足を止めた。
「イルザ様」
「何?」
「……お体、大事にしてくださいね」
穏やかな声だった。
私は微笑んで頷いた。
ヘンリクの背中が扉の向こうに消えてから、私はヴォルフ前局長のリストを再び見た。
不正関与者の名前の中に——ヘンリクの名前はない。
けれどこのリストは五年前のものだ。五年の間に、関係者が増えていない保証はどこにもない。
指先が冷たい。
信じたい。けれど、信じることと確認することは別だと、私はもう知っている。
机の角を三回叩いて、呼吸を整えた。
明日からは、もう一つの目を持たなければならない。
味方の顔をした敵が、すぐ近くにいるかもしれないという目を。
第5話 沈黙の棚
マティアス局長の葬儀から三日が経った。
王宮は表面上、平静を取り戻していたが、水面下では後任人事を巡る駆け引きが始まっていた。
葬儀には多くの王宮関係者が参列した。グランツ伯爵も弔辞を述べた。「優秀な人材を失った」と語る声は、よく通る美声だった。
その言葉の裏に何があるかを知っている私は、拳を膝の上で握り締めながら俯いていた。
私はその政治劇には関わらず、カイとともに記録の精査を続けた。
五年分の貿易決済記録を突き合わせる作業は、地味で、根気のいるものだ。華やかな立ち回りではなく、ひたすら文字と向き合う時間。
「ヴァイル主任書記官」
「長いので、イルザで構いません」
「……では、イルザ。この記録を見てください」
カイが手帳に書き写した数列を示した。
「過去五年間、特別貿易枠を通じてレンドルに請求された額と、レンドル側が実際に支払った額との差額を年度ごとに並べたものです」
五つの数が並んでいる。どれも大きい。しかし、それ以上に目を引いたのは——
「年々増えている」
「ええ。最初の年は控えめだった。けれど五年目には、初年度の約四倍に膨らんでいます」
横領とは本来、少額を少しずつ抜き取るのが常道だ。
不正において重要なのは、発覚しないこと。だから熟練した犯人ほど、慎重に少額を動かす。額が膨らんでいるということは、犯人は自分が発覚しないと確信している。あるいは、もう止められなくなっている。
欲は際限なく膨らむ。これは歴史が何度も証明してきたことだ。かつて大陸南方の交易都市で起きた大規模横領事件も、最初は港湾使用料の僅かな水増しから始まったが、最終的には都市の年間予算の三分の一が消えていた。
「カイ。この差額が流れた先を特定できますか」
「流れた先は追えます。問題は、中間の経路です。三つの幽霊商会から先が見えない」
私は棚から商業登録簿の写しを取り出した。
ベアタが調べてくれた情報を加えれば、商会の設立者の名前がわかるはずだ。
「設立者の名義は——全て別人。しかし、設立届の筆跡鑑定ができれば、同一人物かどうかがわかる」
「筆跡鑑定の権限は、財務局にはありませんね」
「ありません。それは司法府の管轄です。……けれど、比較対象があれば、推定はできる」
私は棚から一通の文書を抜き出した。グランツ伯爵が署名した取引承認書。
「この署名の筆運びと、商会設立届の筆跡を比較してみましょう。正式な鑑定ではありませんが、傾向は読み取れるはずです」
筆跡の分析には、文字の傾斜角、筆圧の変動、そして連綿——文字を繋げて書くときの癖が重要だ。同じ人物であっても意識的に筆跡を変えることは可能だが、文字の間隔比率は無意識に出る。これは筆跡学の基本原則で、人は文字の形は偽れても、文字間のリズムまでは偽りきれない。
カイが私の手元を覗き込んだ。
近い距離に少しだけ動揺したが、すぐに意識を書類に戻した。墨の匂いと、かすかに香る松脂の整髪料。この人の匂いを覚え始めていることに、自分で驚いた。
「……この『ル』の終筆。跳ね上げの角度が、三通とも一致しています」
「グランツ伯爵の署名とも?」
「はい。統計的に有意とまでは言えませんが——」
「状況証拠としては十分です。少なくとも、この線で追う価値がある」
カイが手帳に書き込みながら、小さく呟いた。
「あなたは優秀ですね」
事実を述べるような口調だった。
お世辞ではないとわかる。だからこそ、素直に受け取るのが難しかった。
「……優秀だったら、十年も騙されてはいません」
「それは別の話です」
カイは手帳から目を上げなかった。
けれど、その声には——温度があった。無機質な観測ではなく、何かを伝えようとする温度が。
◇
翌日、予想外の動きがあった。
エルヴィン王太子の侍従が、私を王太子の執務室に呼び出したのだ。
銀灰色の髪の王太子は、窓際に立って外を見ていた。
振り返った顔は若いが、目に迷いがある。判断を求められる立場にいながら、まだ自分の判断を信じきれていない人の目だ。
王太子は二十五歳。私より一つ年下。国王が病に伏して以来、実質的な国政判断を担っている。その重圧は察するに余りある。
「ヴァイル主任書記官。座ってくれ」
「恐れ入ります」
「マティアス局長の後任について、宰相と協議している。グランツ伯爵はメルツなる人物を推しているが——率直に聞く。適任か?」
「……率直にお答えしてよろしいのですか」
「ここでの会話は、記録に残さない」
王太子は窓辺から離れ、私の前の椅子に座った。
「メルツ氏の財務経験は二年未満です。通常、局長職には最低十年の実務経験が求められます」
「つまり、不適任だと」
「制度上の基準を満たしていない、と申し上げています」
王太子の口元がわずかに緩んだ。
「宰相が言っていた通りだ。君は感情ではなく制度で語る」
「それが財務官の務めですので」
「ヴァイル主任書記官。もう一つ聞きたい。——レンドルの監査官と何を調べている?」
直球だった。
私は一瞬考えて、正直に答えることにした。この人は——信じるに値すると、直感が告げていた。
「過去五年間の対レンドル貿易決済に、不審な乖離があります。その原因を精査しています」
「不審な乖離の規模は」
「レンドル国庫の年間損失が、両国間貿易収支の一割に相当する可能性があります」
王太子の表情が、初めて硬くなった。
「……それが事実なら、外交問題になる」
「はい。だからこそ、確実な証拠が必要です。推測だけでは、関与者を特定できません」
「関与者の目星はあるのか」
「宮廷顧問官室の管轄する取引承認に、不自然な点が集中しています」
私はそれ以上は言わなかった。グランツ伯爵の名前を出すには、まだ証拠が足りない。
王太子は椅子の肘掛けに手を置いて、しばらく沈黙した。
決断する直前に窓の外を見る癖——今日も同じだった。窓の向こうには、王宮の庭園が秋色に染まっている。
「わかった。調査を続けてくれ。必要な権限があれば、宰相を通じて手配する。ただし——」
「はい」
「公式な告発までは、この件を限られた人間のみに留めてほしい。宮中が混乱すれば、証拠隠滅の余地を与える」
「承知しました」
王太子の執務室を出たとき、胸の中で何かが少しだけ軽くなった。
味方が一人増えた。それも、最終判断を下せる立場の味方が。
けれど同時に、緊張も増した。
王太子が動いたということは、グランツ伯爵の側もいずれ気づく。時間は、私たちの味方ではなくなり始めている。
財務局に戻ると、ヘンリクが慌てた様子で待っていた。
「イルザ様、大変です。保管室の——」
「何があったの?」
「五年前の記録棚が……一部、空になっています。今朝はあったのに」
血の気が引いた。
私とカイが精査していた、まさにその記録が——消えた。
保管室に走ると、確かに棚の一角が空白になっていた。
三冊の記録帳が抜かれている。いずれも、幽霊商会の取引が記載されていた巻だ。棚に残った埃の形が、つい先ほどまで本が置かれていたことを示している。
「鍵は——」
「壊された形跡はありません。つまり、鍵を持つ人間の仕業です」
ヘンリクが青ざめた顔で言った。
鍵を持つのは、私と、宮廷顧問官——グランツ伯爵。
マティアス局長の鍵は、葬儀後に私が回収して金庫に保管したはずだ。
「ヘンリク。局長の鍵、金庫にあるか確認して」
ヘンリクが小走りに去り、すぐに戻ってきた。
「……ありません。金庫の中に、局長の鍵がありません」
誰かが金庫から鍵を持ち出し、記録を抜き取った。
金庫の暗証を知るのは、私とヘンリクだけだ。
(——ヘンリク?)
その考えが浮かんだ瞬間、後輩の不安そうな目が私を見ていた。
信じたい。信じたいけれど——。
「ヘンリク。昨夜、この執務室に来た?」
「いいえ。定時で帰宅しました」
「暗証を誰かに教えたことは?」
「ありません。絶対に」
嘘をついている顔には見えなかった。
けれど、嘘をつける人間は、いつも誠実な顔をしている。
記録が消えた。しかし——私たちの手元にはカイの手帳がある。
彼があの几帳面な字で書き写した内容は、原本と同じ精度を持つ。
「……カイに連絡を取るわ。それと、ヘンリク」
「はい」
「しばらく、保管室の出入りは私の許可制にします。あなたも含めて」
ヘンリクの目が、一瞬だけ揺れた。
それが傷ついたからなのか、別の理由なのか——今の私には、判断がつかなかった。




