第3話 落ちた仮面
カイ・ベルトランと交わした言葉が、翌日になっても胸の奥で響いていた。
記録が示す側——そう答えたのは咄嗟のことだったが、嘘ではなかった。
財務局での業務をこなしながら、私は並行して動き始めた。
まず必要なのは、あの三つの商会の実態を確認すること。西方の港町に拠点を置くというが、正規の商業登録があるかどうかすら怪しい。
この国では、商会の設立には地方領主の認可と、王都の商務局への届出が必要だ。二重の手続きを経ることで、実体のない商会が紛れ込むことを防ぐ仕組み——のはずだが、地方領主が黙認すれば、書類上だけの存在を作ることは不可能ではない。
ベアタが約束通り、侍女たちの情報網を使って調べてくれた。
王宮の侍女は、しばしば貴族の動向を最も早く知る立場にある。手紙の受け渡し、来客の応対、私室の清掃——日常の業務の中で、自然と情報が集まるのだ。
「三つとも、登録上は存在するわ。でも奇妙な共通点がある」
昼休みの庭園で、ベアタはお茶を淹れながら低く告げた。
今日の茶葉は、少し苦めのものだった。私が疲れているときに選ぶ種類。この人は昔からそうだ。言葉よりも先に、行動で気遣いを見せる。
「三つとも、設立が同じ年。五年前の第二四半期。ヴォルフ前局長が亡くなる半年前よ」
「つまり、最初から不正のために作られた器ということ?」
「断定はできないけれど、王妃付きの侍女が港町の出身で、彼女の実家近くにその一つがあるそうよ。看板は出ているが、人の出入りを見たことがないと言っていたわ」
幽霊商会。名前だけの存在。
そこに莫大な取引額が計上されているなら、それは資金を別の場所へ流すための経路——つまり、横領の隠れ蓑だ。
「ベアタ、ありがとう。これ以上は危ないから、あなたはここまででいい」
「……もう言っても無駄だとわかっているけれど、気をつけて」
ベアタが茶器を片づける手つきが、いつもより丁寧だった。心配しているときの癖だ。
午後、私は保管室でカイと合流した。
彼は昨日から通しで記録を読んでおり、手帳には細かな文字がびっしりと書き込まれていた。几帳面に整列した文字は、この人の思考そのもののようだった。
「ベルトラン監査官、一つ報告があります」
私が商会について調べた結果を伝えると、カイは手帳を閉じて私の目を見た。
——この人が手帳を閉じるのは、相手の話に集中するときだ。もう覚えた。
「幽霊商会を使った資金洗浄ですか。古典的だが、規模が大きいと逆に発覚しにくい。誰も全体像を疑わないから」
「国際取引の場合、特にそうですね。片方の国の記録だけでは、異常が見えない。両国の記録を突き合わせて初めて乖離が浮かぶ」
「だからこそ、私が来た」
カイの言葉には事務的な響きしかなかった。けれど、「だからこそ」に込められた意味は重い。レンドル側も、五年間気づけなかったのだ。
「もう一つ、気になることがあります」
カイが保管棚から一冊の記録帳を抜き出した。
「五年前の人事記録です。ヴォルフ前局長の死亡届と、後任人事の決裁。死因は『落馬事故』、検死は王宮付き医師一名のみ。通常、高官の変死には複数の医師による検死が義務づけられているはずですが」
「……ええ。王宮規定では、局長級以上の急死には三名以上の検死医が必要です」
「規定が守られていない。そしてこの医師は——」
「三年前に退職して、国外に移住しています」
カイが少し驚いた顔をした。初めて見る表情だった。灰色の目が、ほんの一瞬だけ大きくなる。
「知っていたのですか」
「ヴォルフ前局長は私の師でした。師の死に不審を感じなかったと言えば、嘘になります。退職した医師の行方も、個人的に調べました。ただ——証拠がなかった。疑念だけでは、どこにも訴えられない」
「今は?」
「まだ足りません。でも、輪郭が見え始めています」
カイが小さく頷いた。
それ以上は何も言わず、再び記録帳に目を落とした。静かだが確かな連帯が、この地下の保管室に生まれつつあった。
◇
その夜、事件が起きた。
私が自室で商会の設立書類の写しを整理していると、廊下から足音が聞こえた。
深夜に人が通る場所ではない。王宮の居住棟は、消灯後は衛兵の巡回以外、人通りが絶える。
扉を開けると——マティアス局長が倒れていた。
胸を押さえて、壁にもたれかかっている。顔色が土気色で、額に汗が浮いている。穏やかな笑顔を絶やさないこの人が、苦痛に顔を歪めていた。
「局長!」
「……イルザ、聞いて」
「動かないでください。人を呼びます——」
「待って」
マティアスが、震える手で私の袖を掴んだ。
力は弱いのに、指だけが必死に布地を握っている。
「僕の執務室の……左の書棚、下から二段目……封蝋の押された……」
「局長、何を——」
「ヴォルフ先生の、本当の報告書だ。五年間、隠していた。僕が……」
マティアスの手から力が抜けた。
目が閉じられる。赤みがかった茶髪が額に張り付いて、その下の顔は蝋のように白かった。
「局長! 誰か——誰か来てください!」
私の叫びが石の廊下に反響した。
駆けつけた衛兵と侍女たちの間で、マティアス局長は担架に乗せられて医務室へ運ばれていった。
——王宮付き医師の診断は、心臓の発作だった。
容態は重く、意識は戻っていない。
私は医務室の前の長椅子に座り、震える手を膝の上で握り締めていた。
(——「五年間、隠していた」。局長は、知っていたのだ。)
知っていて、ずっと——一人で抱えていた。
「間違えて」私の机に書類を置いていたのは、伝えたかったからだ。けれど直接言えば、私まで危険に晒す。だから、あんな回りくどい方法で。
あの穏やかな笑顔の裏で、どれほどの重圧を背負っていたのか。目が笑っていなかった理由が、今ならわかる。
深夜の廊下に、別の足音が響いた。
カイだった。使節団の宿舎から来たらしく、外套を羽織っている。黒髪に夜露がわずかについていた。
「局長が倒れたと聞いて来ました。……容態は」
「意識不明です。心臓の発作と」
「発作」
カイがその言葉を繰り返した。疑念の響きがあった。
「五年前、ヴォルフ前局長は落馬で亡くなった。今度は心臓発作」
「……何が言いたいのですか」
「不正を知る人間が、二人続けて倒れた。それを偶然と呼ぶには——」
カイは言葉を切った。
医務室の扉が開いて、医師が出てきたからだ。
「ヴァイル主任書記官。局長の容態は安定しましたが、当面の意識回復は難しい状況です。毒物の所見は現時点ではありませんが、念のため精密な検査を行います」
「……わかりました。ありがとうございます」
医師が去った後、カイが静かに言った。
「ヴァイル主任書記官。局長が倒れた以上、財務局の記録管理は実質的にあなた一人の手に委ねられます」
「ええ」
「つまり、あなたも——標的になり得る」
その言葉は、予想していなかったわけではない。
けれど、声に出されると、空気の温度が変わる。廊下の石壁が、急にいっそう冷たく感じられた。
「ベルトラン監査官」
「はい」
「明日、局長の執務室に行きます。……一緒に来てもらえますか」
カイは手帳を閉じた。
「ええ」
短い返事だった。けれど、その一言に含まれた重さを、私は受け取った。
医務室の灯りが消えた廊下で、私たちは並んで立っていた。
互いの顔はよく見えない。けれど——隣に人がいるということが、今はただ、ありがたかった。
夜が白み始める頃、医務室から再び医師が出てきた。
「……申し訳ありません。マティアス局長は、先ほど——」
続きは聞こえなかった。聞こえなくても、わかった。
指先が震えた。
机の角を叩こうとして——ここにはないのだと気づいた。
代わりに、壁に手をついた。
冷たい石の感触が、意識を現実に繋ぎ止めた。
(——局長。あなたが遺そうとしたもの、必ず見つけます。)
私の目の前に、長い夜が広がっていた。




