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十年待った愛の終わりは、知らない家族の笑顔でした  作者: 渚月(なづき)


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第2話 空白の椅子

死んだ人間の印章が、なぜ今になって現れるのだろう。

私はその白紙の便箋を、執務用の引き出しの二重底に仕舞い込んだ。


二重底は、ヴォルフ前局長が教えてくれた隠し場所だ。「重要な書類は、鍵のかかる場所ではなく、鍵をかける必要のない場所に隠すものだ」——そう言って笑っていた師の顔を、ふと思い出す。


翌日の財務局は、いつも通りの慌ただしさだった。

ノルトの凱旋に伴う報奨金の算定、式典経費の精算、各部署からの四半期報告の取りまとめ。私の手は休む暇もなく書類の上を滑り続けた。


窓から差し込む光が、机上のインク壺に反射して小さな虹を作っていた。この執務室で過ごした年月の重さを、ふと感じる。壁にかけられた暦は、もう何枚めくり替えたか数えきれない。


「イルザ様、レンドル王国からの使節団が到着したそうです」


ヘンリクが報告書の束を抱えて現れた。

眼鏡の奥の目が、いつもより少し落ち着かないように見える。


「使節団? 財務協定の更改交渉は来月からのはずだけれど」


「前倒しになったようです。宰相府からの通達がこちらに」


受け取った文書を読んで、眉が寄った。

レンドル王国が独自の監査官を同行させており、過去五年間の財務記録の開示を要求しているという。


レンドル王国は大陸の東方に位置する通商国家で、我が国とは三世代前から財務協定を結んでいる。両国間の貿易額は年々増加しており、特に鉱物資源と穀物の取引が大きな比重を占めていた。協定の更改は五年ごとに行われるが、途中で監査官を送り込むのは極めて異例だ。


(——過去五年。ヴォルフ前局長が亡くなった年からだ。)


偶然だろうか。昨夜の白紙の便箋と、この要求が重なるのは。


午後、私は財務局の応接室でレンドル使節団の監査官と初めて対面した。


黒髪を短く刈り込んだ青年が、灰色の目でこちらを見据えている。

手帳を開きもせず、ただ静かに座っていた。背筋は真っ直ぐだが、威圧するような硬さではない。むしろ、余計なものを削ぎ落とした結果の姿勢だった。


「カイ・ベルトラン。レンドル王国財務監査局より派遣されました」


「イルザ・ヴァイル、財務局主任書記官です。ようこそ王都へ」


「早速ですが、過去五年分の対レンドル貿易決済記録の原本を閲覧したい。写しではなく、原本を」


単刀直入な物言いだった。

外交使節とは思えない率直さに、応接室の空気がわずかに張り詰める。


「原本の閲覧には宰相府の許可が必要です。手続きをご案内しますので——」


「手続きは承知しています。許可は既に取得済みです」


カイ・ベルトランは懐から一通の書簡を取り出した。

宰相の署名入り。確かに閲覧許可が記されている。封蝋もオスヴァルト宰相の個人印だ。偽造の余地はない。


(——宰相が、外国の監査官に原本閲覧を許可した?)


これは異例だ。通常、他国への記録開示は写しに限定される。原本には署名や印影など、写しでは確認できない情報が含まれている。

原本を見せるということは、王宮側にも「見せたい理由」があるということだ。


「……承知しました。記録保管室へご案内します」


記録保管室は、王宮の北棟地下にある。

石造りの階段を降りながら、私はカイの横顔をちらりと窺った。手帳を胸ポケットに入れたまま、壁の構造を目で追っている。石の継ぎ目、通気口の位置、階段の段数——観察する人間特有の視線の動きだった。


(——この人は、何かを探しに来ている。)


保管室の棚は、年度別に整理された革表紙の決済記録が並んでいる。

私はこの配列を自分で組み直した。前任のヴォルフ局長が倒れた後、後任のマティアス局長のもとで、三年かけて再分類したのだ。


年代順に並べるだけではなく、取引種別ごとに色分けした索引をつけた。紺色が通常貿易、赤が特別貿易枠、緑が無関税品目。我ながら使いやすい体系だと思っている。


「五年前の記録はこちらです。閲覧にはお時間がかかると思いますが——」


「いくつか質問してもよいですか」


カイが初めて手帳を開いた。


「五年前の第三四半期。対レンドル特別貿易枠の決済記録が、通常より三割多い。この増加の根拠となる取引承認書はどこに保管されていますか」


一瞬、息が止まった。

彼は「見に来た」のではない。「答え合わせ」に来たのだ。既に手元に疑問の輪郭があり、それを確認するために此処にいる。


「……取引承認書は、財務局ではなく宮廷顧問官室の管轄です」


「宮廷顧問官。それはグランツ伯爵の管轄ですね」


カイの灰色の目が、私の表情を読もうとしていた。

私は視線を逸らさなかった。


「はい。そうです」


何かが繋がりかけている。

ノルトの父、リヒト・グランツ伯爵が管轄する取引承認。五年前に不審死したヴォルフ前局長。そして昨夜届いた、故人の印章が押された白紙の便箋。


保管室を出たとき、マティアス局長が廊下に立っていた。

穏やかな笑顔を浮かべて——けれど、目が笑っていない。赤みがかった茶髪の下で、視線だけが鋭く光っている。


「イルザ、お客様のご案内ご苦労さま。ああ、それとこれ、間違えて僕の机に紛れ込んでいたよ」


局長が差し出した薄い書類封筒。中を確認して、心臓が跳ねた。


五年前の第三四半期、対レンドル特別貿易枠——その取引承認書の控えだった。

本来、財務局に控えが存在するはずのない書類。取引承認書は宮廷顧問官室で原本が管理され、写しは作成されない決まりだ。


(——局長は、なぜこれを持っている?)


マティアスは何事もなかったように自室へ戻っていった。

振り返りもしない。まるで「ただの事務的な受け渡し」であるかのように。


その夜、私は自室で封筒の中身を広げた。

取引承認書の控えには、グランツ伯爵の署名とともに、見覚えのない商会名が三つ記されていた。


西方の港町を拠点とする商会。聞いたことがない名前だ。けれど取引額は莫大で、通常の貿易枠をはるかに超えている。

特別貿易枠は、戦時や災害時に通常の手続きを簡略化するために設けられた制度だ。宮廷顧問官の一存で承認できる代わりに、取引額に上限がある——はずだった。


蝋燭の灯りの下で、私は手帳を開いた。


ヴォルフ前局長の口癖を思い出す。

「記録は人の記憶より正直だ」


この記録が語ろうとしていることを、私はまだ正確に読み解けていない。

けれど確かなことが一つだけある。


——この王宮の財務には、五年間、誰かが触れてはならない「空白」が存在する。


翌日の出勤途中、私は侍女棟の角でベアタとすれ違った。

黒髪を厳しくまとめた幼馴染は、私の顔を見て一瞬足を止めた。


「ベアタ、少しいい?」


「……なに?」


「グランツ伯爵が関わっている商会について、何か聞いたことはある? 西方の港町が拠点の——」


ベアタの足が止まった。

一瞬だけ、幼馴染の顔に緊張が走る。いつも姿勢の美しいこの人が、僅かに肩を強張らせた。


「それは、どこで知ったの」


「ある書類に名前が出てきただけ。知っている?」


ベアタは周囲を確認してから、声を落とした。


「直接は知らない。でも、王妃様の侍女たちが、グランツ伯爵の西方での私的な事業について囁いているのを聞いたことがある。……深入りしないほうがいい、イルザ」


「忠告はありがたいわ。でも——」


「あなたがその顔をするときは、もう止まらないのよね」


ベアタが小さくため息をついた。

幼い頃から変わらない、呆れと心配が半々の表情。


「わかった。私が聞ける範囲で調べてみる。でも、一つだけ約束して」


「なに?」


「一人で抱え込まないで」


幼馴染の真剣な目を見て、胸の奥が少し温かくなった。

頷いて、私は財務局への道を急いだ。


執務室に着くと、カイ・ベルトランが既に保管室の前に立っていた。

昨日と同じ姿勢で、手帳を胸ポケットに入れたまま。この人は待つということに慣れているのだろう。苛立ちの欠片もない佇まいだった。


「おはようございます、ヴァイル主任書記官。一つ確認したいことがあります」


「なんでしょう」


「昨日の閲覧中に気づいたのですが、五年前の記録の一部に——綴じ直した痕跡があります。元の頁が差し替えられている可能性がある」


カイの灰色の目がまっすぐこちらを見ている。

手帳は閉じたままだ。——つまり、これは記録ではなく、私への問いかけだ。


「差し替えですか」


「ええ。綴じ糸の色が周囲と微妙に異なります。元の糸は亜麻色ですが、差し替えられた部分だけ白い。おそらく市販の糸を使っている。原本管理に使う亜麻糸は特注品ですから、入手するには正規の手続きが必要になる」


その観察力に、素直に感嘆した。

糸の色の違いに気づくとは、単なる監査官ではない。


「誰が保管室の記録に手を加えられる立場にありますか」


答えは三人しかいない。局長のマティアス、私、そして——。


「保管室の鍵を持つのは、局長、主任書記官の私、そして宮廷顧問官です」


カイが小さく頷いた。


「宮廷顧問官は、グランツ伯爵ですね」


同じ名前が、何度も交差する。

私の十年を奪った男の、父親の名前が。


「ベルトラン監査官。一つだけ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたは——何を見つけに来たのですか」


カイは少しだけ間を置いてから、口を開いた。


「五年前、レンドル王国の国庫から消えた資金の行方です。金額は、あなたの国の年間貿易収支の一割に相当します」


呼吸が止まった。


一割。それは途方もない額だ。

もしそれが本当なら——これは婚約破棄や家名の問題ではない。


両国を揺るがす、国家規模の不正だ。


「ヴァイル主任書記官」


カイの声が、静かに続いた。


「あなたは、どちら側の人間ですか」


私は彼の目を見た。灰色の瞳に、わずかな切迫が見えた。

この人もまた、一人で重いものを背負って此処に来たのだ。


「——記録が示す側です」


カイの手帳が、初めてわずかに持ち上がった。

それはこの人なりの、信頼の始まりなのだと——後になって、私は知ることになる。


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