第1話 知らない笑顔
帰ってくる、とだけ書かれた手紙を、私は十年間で四十二通受け取った。
そのどれにも「愛している」とは書かれていなかったことに、今さら気づいた。
王宮の正門前に整列した近衛兵の列が、秋風にはためく軍旗とともに大通りを埋めている。
ノルト・グランツ副団長の凱旋。北方辺境の反乱鎮圧に三年を費やした英雄が、ようやく王都に戻る日だ。
私は財務局の窓から式典の準備を眺めていた。
本来なら正門で婚約者を出迎えるべき立場だ。けれど午前中に届いた決算報告の誤差がどうしても気になって、席を立てなかった。
窓の向こうに見える旗は、王国の紋章である白鷲を染め抜いた紺青。秋の陽に透けて、まるで空そのものが祝福しているようだった。
私はその美しさを、他人事のように眺めていた。
「イルザ様、そろそろお支度を」
後輩のヘンリクが、控えめに声をかけてくる。
いつもの眼鏡の奥の穏やかな目。書類の束を抱えたまま、申し訳なさそうに立っている。
「……ええ、すぐに」
机の角を三回叩いて、呼吸を整える。
指先に残ったインクの染みを気にしながら、私は執務室を出た。
正門広場には既に大勢の市民が詰めかけていた。
花弁が風に舞い、楽隊が凱旋の調べを奏でる。華やかな光景のはずなのに、どこか遠い世界の出来事のように見えた。
十年だ。
十年間、彼を待ちながら財務局で数え続けた日々。侯爵家の令嬢として不釣り合いだと陰口を叩かれても、私は此処にいた。彼との未来が、此処にあると信じて。
侯爵家の娘が書記官の仕事をすることは、貴族社会では「身を落とした」と見なされる。
けれど私は、自分の手で何かを為すことが好きだった。ペンを握り、記録を読み解き、この国の財務を正確に保つこと。それは誰かに与えられた義務ではなく、自分で選んだ道だった。
やがて、騎馬隊の先頭にノルトの姿が見えた。
金色の髪が陽光に輝いている。三年前より少し頬が削げて、精悍な顔つきになっていた。
胸が締まる。
会いたかった。ずっと。
三年分の手紙は、短くて素っ気ないものばかりだったけれど、それでも届くたびに安堵した。生きている証だったから。
——けれど、私の視線はノルトではなく、その隣に止まった。
馬車から降りてきた、柔らかな金の巻き毛の女性。
その手を引かれて降りてきた、三歳くらいの男の子。
女性はノルトを見上げて微笑んだ。
子どもがノルトの軍服の裾を掴んで、嬉しそうに声を上げた。
あの笑顔を、私は知らない。
けれど、あの笑顔の意味は、誰にでもわかる。
——家族だ。
広場のざわめきが、急に遠くなった。
心臓が一瞬止まったような気がして、次の拍動が痛いほど強く胸を打った。
周囲の市民たちは気づいていない。あるいは、気づいていても、英雄の凱旋に水を差す話題は誰も口にしないのだろう。
この国では、貴族の私事は「見て見ぬふり」をするのが礼儀とされている。便利な礼儀だ。都合の悪い真実を、丁寧に覆い隠してくれる。
隣に立っていたベアタが、何も言わずに私の手を握った。
幼馴染の手のひらは温かくて、それが余計に、自分の指先がどれほど冷たいかを教えてくれた。
「……知っていたの?」
「三日前に、侍女たちの間で噂が流れました」
ベアタの声は低く、平坦だった。感情を殺しているのだとわかる。
「早くお伝えすべきでした。申し訳ありません」
「いいの。……いいのよ」
良くない。全然良くない。
けれど今この場で崩れるわけにはいかなかった。私はヴァイル侯爵家の令嬢であり、王宮財務局の主任書記官だ。公衆の面前で取り乱すことは、自分自身が許さない。
式典は滞りなく進行した。
ノルトは壇上で勲章を受け、堂々とした口調で帰還の挨拶を述べた。その間、あの女性と子どもは馬車の中に戻されていた。巧妙な配慮。つまり、知っている人間は知っている。知らなかったのは——私だけだ。
式典後、広場を横切りながら、私は自分の足音を聞いていた。
石畳に響く靴音が、やけにはっきりと耳に届く。周囲の歓声は遠い。祝祭の空気がまるで自分だけを避けて流れていくようだった。
ベアタが隣を歩いてくれていた。何も言わず、ただ同じ速さで。
幼い頃からそうだ。私が泣きそうなとき、この人は決して言葉で慰めない。ただ隣にいる。それが、この人なりの優しさだった。
侍女棟の角で、ベアタが足を止めた。
「私はここまで。……行くのね?」
「ええ」
「……わかった。終わったら、温かい茶を用意しておくから」
幼馴染の背中が角を曲がって消えてから、私は執務室には戻らなかった。
まっすぐに宰相府へ向かった。
◇
オスヴァルト宰相は、黒い手袋の指先を合わせて私の言葉を聞いていた。
痩身の体を椅子に沈め、表情一つ変えない。この人は常にそうだ。感情を見せることを、職業上の弱さだと考えている。
「婚約の破棄を願い出ます」
「……理由を聞いても?」
「ノルト・グランツ副団長には、内縁の妻と子がおります。本日の式典でお見かけしました」
宰相は表情を変えなかった。
つまり、この人も知っていたのだ。王宮の上層部にとって、私の十年は「承知の上」の犠牲だったということだ。
「ヴァイル嬢。感情は理解する。だが、婚約の破棄は両家の問題であり、宰相府が介入する事案ではない」
「承知しております。ですので、併せて財務局主任書記官の辞職も願い出ます」
宰相の指先が、わずかに止まった。
黒い手袋の革が、かすかに軋む音がした。
「……それは困る」
「私的な事情で公務に支障を来すことは本意ではありません。後任の引き継ぎは——」
「引き継ぎの問題ではない」
宰相の声が、初めて硬くなった。
「ヴァイル嬢。君が管理している財務記録の体系は、この王宮で君にしか全容が把握できない。今年度の対レンドル財務協定の更改も控えている。この時期に君を失うことは、国家の損失だ」
(——私は、王宮にとって便利な道具だったのか。)
その考えが浮かんで、すぐに打ち消した。
感情で判断してはいけない。それは十年間、自分に言い聞かせてきたことだ。
「……猶予を、いただけますか」
「もちろん。だが、辞職届は預からせてもらう」
宰相府を出た廊下は、夕暮れの赤い光で染まっていた。
壁に手をついて、深く息を吐く。
石壁の冷たさが掌に沁みる。
指が震えていた。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからなかった。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
聞き慣れた靴音。軍靴の、硬い響き。
「イルザ」
ノルトの声だった。
振り返ると、金髪の婚約者——いや、元婚約者が、困ったような笑みを浮かべて立っていた。
三年前より精悍になった顔は、確かに美しい。この顔に十年、惹かれてきた自分がいる。
「話がある。君のためを思って——」
「ノルト」
私は、静かに遮った。
「『君のためを思って』の続きは、もう聞きたくありません」
その瞬間、ノルトの表情が初めてわずかに歪んだ。
困惑と、ほんの一瞬の苛立ち。この人は「拒否される」ということに慣れていないのだ。
背を向けて歩き出すと、自分の歩幅がいつもより少しだけ広いことに気づいた。
——十年分の重さが、足から抜けていくようだった。
執務室に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。
差出人はなく、中には白紙の便箋が一枚。
ただ、その裏面に——五年前に「事故死」した前任局長ダグラス・ヴォルフの印章が押されていた。
第一話お読みいただき、ありがとうございました!
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