23、きっとやり遂げる
自分のタイミングで始めていいとイライアスに指示され、何度か深呼吸した後、エルウィンは片手を結界に触れさせ、教えられたとおりに呪文を唱える。
詠唱しながらイメージするのは砂時計。ひっくり返し、重力に従ってゆっくりと砂が落ちるように魔力を自分の内に迎え入れる。
少しずつ少しずつ……無理をしない程度に……ゆっくり……ゆっくり………。
しかし、唱えながらイメージしていられたのは最初の数分だけだった。圧迫されていた魔力は、エルウィンと言う出口をみつけて濁流のように押し寄せ始める。
即座にイメージはダムに変わった。
大量の水を蓄えて、今にも決壊しそうな危うい状況。せき止めていた壁に僅かに生じた綻びに加えられる力は並大抵なものではなく。最初に開けた小さな穴が圧力に耐えられずじわじわと大きくなっていく。
イメージが水に変わった所為か、流れこむ魔力は酷く冷たかった。芯から身体が凍え、噛み締めた奥歯が勝手に音を立てる。ガクガクと全身に震えが走り、じきに立っていることも辛くなった。
無理だと、早くも感じた。
しかし今更止める術もない。手のひらから流れ込んでくる魔力の量がどんどん増えていくのを押しとどめることが出来なかった。
大量に流れ込んでくる冷たい水の中、一人取り残されるような錯覚を覚える。
凍えて溺れそうになって喘いで、無意識に叫んでいた。
アシュリー!!
しかし、いつでもそばにあったあの堅さはもうなくて……。
ああ、彼女はもういないのだ……と思い出した。
落胆し一瞬弱った心の隙を突いて更に大量の魔力が流れてくる。途端に息苦しさが増した。
身体は凍えているのに、脳味噌は煮えたように熱い。
熱い、寒い。
痛い、苦しい。
ありとあらゆる苦痛に犯された身体と意識が限界を訴える。
無理……。
ダメだ……。
諦めて、すべてを手放してしまおうとする意識の中、溢れ出てきたのは過去の情景だった。
決して色褪せない愛おしき日々の情景が次々と蘇っては消えていく。
これが走馬灯なんだろうか?
考える意識の狭間を思い出がすり抜けていった。
一際鮮やかに蘇るのは、やはりアシュリーとの思い出。
『エルウィン』
呼ぶ声は変わらないのに、そのニュアンスは様々で……。
世界中の誰より多くこの名前を呼んでくれた。
『エルウィン』
嬉しそうに楽しそうに、怒りながら泣きながら、呼ぶ声が響き続ける。
懐かしいあなたの声……。
「エルウィン!」
呼ぶ声を耳が捕らえた途端、束の間途切れていた意識が戻る。
ハッと瞳を瞬かせたエルウィンは漂っていた夢の波間から自力で脱出した。やがて奥歯を噛み締め、足を踏ん張り直す。
オレには生きていたい理由がある。
生きるべき理由がある。
これからもずっとずっと……生きていたいと強く望む。
諦めてなど、いられない。
無意識に求め、無意識に呼んだ。
何よりも大切なもの……。
あいつの生きる世界でオレも生きていたい!!
自分の中にある何よりも強いものを再確認したエルウィンは、なくした証しを求めて胸をかきむしっていた手をもう片方の手に添え、流れ込んでくる魔力に立ち向かった。
奥歯が砕ける程噛み締め、喉の奥から唸るように息を吐く。
オレは絶対に諦めない!!
ついに決壊したダムの奥から押し寄せてくる魔力の濁流に全身を晒しても、エルウィンに恐れはなかった。
◆◆◆◆◆
すべての収束は非常に穏やかだった。
……否、行っている本人にとっては酷く長い苦痛の時間であっただろう。
しかし、眺めているだけの第三者からすれば、派手な演出もない儀式は静かに行われているようにしか見えなかった。
時折、身を震わせ声を上げるエルウィンの中にどんな苦痛があるのか、見ているだけの三人には判らない。出来るのは、その痛みを想像しながら見守ることだけ……。
誰にも手助けは出来ない。
しかし、息を殺し行方を見守る最中、一度だけ傍観者達に動きがあった。
「エルウィン!」
突然、一人が叫び声を上げた。
きつく叱り付けるように呼んだ者へ、他二人がギョッと目を向ける。しかし、見られた彼女はただ、今苦悩の直中へいる人を睨み付けているだけだった。
それにどんな意味があったのかは判らない。
困ったまま見つめてくる二人を無視して、アシュリーはただエルウィンだけを見ていた。
◆◆◆◆◆
やがてエルウィンは力尽きるようにその場に崩れおち、真っ先に駆け寄ったロードが彼を抱き起こし、やがてホッと肩から力を抜いた。
その瞬間、他二人も儀式の完了と世界の無事を確信する。
殆ど勝ち目のない賭けに、エルウィンは一人で勝ったのだ。
世界の危機が去った安堵感よりも彼らが無事であったことで、束の間三人の緊張が緩む。
肩の力を抜くと同時に膝を突いたイライアスを視界の端に捕らえたアシュリーは、急いでそばに歩み寄ると火花の散りそうな速度で彼の頬を張った。
そして感情を押し殺した声で告げる。
「これでチャラにしてあげる、感謝して」
「……ああ」
頷いたイライアスは叩かれた頬を庇いもせずに頭を下げる。しおらしい態度に一層苛立ちが募ったが、それ以上罵倒する科白も出てこなくてアシュリーは彼に背を向けた。
それで終わりにするつもりだった。
しかし、二人のやり取りを違和感を覚えたのはロードだ。二人を見つめ首を傾げ、やがて至った結論に、え? と驚いた声を上げる。
「イライアス、まさか……気付いてたの?」
アシュリーとロードが必死に隠したものをイライアスは知っている?
そのことにももちろん驚いた。……しかし、彼がすべて知っていたと気付いた瞬間、何よりも先に込み上げてきたのは激しい怒り。
考えるよりも先に身体が動く。ロードはエルウィンを放り出して力一杯大地を蹴った。
瞬きよりも早くイライアスに飛び掛かって彼をその場に押し倒し、そのまま馬乗りになって彼の首を締め上げる。
「判っててっ……、全部知っててこんな危険なことエルウィンにさせたのか!? 全部判ってたのに!?」
「……ロード!?」
ロードの豹変ぶりにアシュリーの方がうろたえる。慌ててロードをイライアスの上から引きはがそうとしたけれど、彼はびくともせず。ロードは本当に殺すつもりでイライアスの首を締め上げ、歪む顔に向かって怒鳴り続けた。
「判っててっ、アシュリーにエルウィンを殺させる気だったのか!?」
「…………ああ」
締め上げた喉から絞りだされたのは肯定の吐息。
微かだったけれど、確かにイライアスは頷いた。
見て、理解した途端ロードの中で何かがキレる。
「知ってて、それなのにっ……アシュリーにっ!」
ロードは今まで、イライアスが憎いと思ったことは一度もなかった。
確かに彼は恐ろしいことを計画したけれど、元は仲のいい友人で、世界を崩壊させようとした事情も知っている。だから彼を止めたかっただけであって、ロード自身が彼に負の感情を抱いたことは一度もなかった。
しかし今は本気でイライアスが憎い。
すべて知っていてこんな危険な賭けにエルウィンを巻き込み、最悪の場合はアシュリーに彼を始末させる気だった。
許さない!!
絶対に許さない!!
何億もの生命を奪おうとしたことよりも、ただ最愛のアシュリーを傷つけようとしたことが許せない!!
怒りを込めて指先に力を入れる。しかし、本気でイライアスを喉を握り潰してしまおうとするロードのそば、フワリと空気が動いて何かがロードを引き止める。
そして耳元で聞こえたのは信じられない懺悔だった。
「やめなさいロード、私が、イライアスに教えたのよ」
え? もう一度ロードは驚きの声を上げた。
後ろからロードを抱き留めたアシュリーは、ロードを抱き締めて請うように呟いた。
「……私が自分で、イライアスが気付くように仕向けたの」
「な、に…?」
イライアスの喉を締め上げていた手から力が緩む。途端にゲホゲホと咳き込み始めたイライアスを置き去りに、ロードはアシュリーを振り向いた。
広い背中に取り縋ったアシュリーは俯いたまま、ずっと二人だけの秘密にしていたことを声にする。
「私が全部覚えてること、……エルウィンを忘れられなかったこと、イライアスに教えたのは、私よ」
ロードから離れたアシュリーは、ロードにごめんと謝って、視線をまだ噎せているイライアスへ向けた。
「いつ判った?」
「……確信したのは先刻だよ、アシュリーがエルウィンを止めようとした時。…………悪かった」
そのことに関しては本当に申し訳ないと思う。
蘇ったアシュリーは何度もイライアスに違和感を与え続けていたのに……気付かなかった。否、認めようとしなかった。
再会した夜から違和感はあったのだ。
ロード達がエルウィンを助けに来た時、エルウィンだけ助けて帰っていくアシュリーを見ておかしいと思った。イライアスの知っているアシュリーは、敵を殺せるチャンスをみすみす逃したりしない。なのにアシュリーは泣きじゃくるイライアスをおいて、エルウィンだけ連れ帰った。
あの夜、本当にアシュリーはすべてを忘れたのか疑いももったのに、結局イライアスは真偽を確かめる行動を取らなかった。彼女が動く理由がなんであろうとオレの前に立ちはだかるなら敵だと……友人の気持ちなど考えもしなかったからだ。
そして、やっとすべてを認めた時には引き返せない場所まできていた。否、引き返せないどころか、そこから先の最悪のシナリオへ望んでエルウィンを導くことまでした。
ロードの怒りは当然だ。
知らなかったならまだしも、知っていて、イライアスはアシュリーがエルウィンを手にかける可能性がある未来を選んだのだ。しかも、判っていて促したのに、己の愚かさを真に理解したのは迂闊にも先程アシュリーと話をした時。
今正に、アシュリーにエルウィンを殺させるかもしれないシナリオを辿らせながら、自分がウェンディを殺せない理由を<愛>と言った。
ウェンディを殺さざるを得ない状況に追い込んだのは自分なのに、その尻拭いをエルウィンにさせ、更にエルウィンが失敗したときの始末はアシュリーに任せておいて、愛しているからウェンディを殺せないと彼女に同意を求めた。
アシュリーに最愛の人を殺させるかもしれないのに、だ。
だが、愚かしいイライアスの理論を聞かされた時ですらアシュリーは取り乱さず、イライアスの知る魔族を演じ続けていた。身のうちで吹き荒れる感情の嵐を押さえこみ、エルウィンを知らない魔族のフリを続け、エルウィンを見守ることを選んだのだ。
それは、アシュリーが今でも心底エルウィンを愛しているから出来ること。
愛しているから……いざという時には自分が彼を殺す覚悟で、彼の選択を尊重した。
それはどれ程辛い覚悟だろう?
相手を過ぎるほどに想うアシュリーの強さによって救われるのは、これで二度目。
一度目は理不尽だとも感じたけれど……今日イライアスは、アシュリーのエルウィンへの想いのおかげでウェンディを失わずにすんだ。もし途中でアシュリーがエルウィンにすべてを明かしていたらこうしている現在はなかったのだ。
しかし、ふと疑問に思う。
「なあアシュリー、なんで覚えてるって言ってエルウィンを止めなかったんだ? そしたら……」
イライアス達から離れ、エルウィンのそばに跪いたアシュリーに問いかけた。
愛おしそうにエルウィンの髪を撫でていたアシュリーは、イライアスの言葉途中で緩く首を横にふって少し寂しそうに笑う。
「あの状態じゃもう、私が止めたって止まる人じゃないのは判ってたから……」
今更、あなたを覚えている、愛しているからやめてほしいとアシュリーが縋っても、エルウィンが考えを変えることはなかっただろう。
この人はそういう人だ。
判ってる、自分が愛したのはそういう強さをもった人。
だから、黙ってあなたの決意を受け入れた。
それに漠然とだが感じていた。
エルウィンならきっとやり遂げると。
惚れた欲目で、根拠など何もなかったけれど、エルウィンには不可能も可能に変える力がある気がしていた。
それでもやはり何処かに不安はあったのだろう……今更ながらに彼を失っていたかもしれない事実に身体が震え始める。堪らなくなって、アシュリーはエルウィンを抱き起こし、まだ眠る彼をギュッと抱き締めその髪に頬を擦り寄せた。
生きて鼓動を刻む暖かい身体が愛おしい。
彼に触れるのは何年ぶりだろうか?
判らなくなるくらい遠く懐かしいエルウィンの匂い。
離れて十数年、やっとやっと触れ合えた人に想いは募って、知らず涙が零れた。
「エルウィン……ごめん、ごめんね……」
あの日あなたを置いていったこと、巻き込んだこと、冷たくあしらったこと、すべての思いを込めて謝罪した。
声を殺して泣くアシュリーを見つめていたロードは、慰めるつもりで少し明るい声を出す。
「でも、目が覚めたら全部話せるよね?」
「…………判んない」
「アシュリー?」
「……判らない。……今はそんなこと考えられない」
ただ、あなたが無事だったことが嬉しいだけで、他のことは考えられない。
否、先のことは考えたくなくて……アシュリーは堅く目を閉じたまま、ただエルウィンに縋って泣き続けた。




