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至上の愛   作者: 高瀬海之
第二部

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18、償いの鎖




 次目を覚ました時、エルウィンは周囲の変化に吃驚して飛び起きた。

 視界が眩い日の光に満たされている。太陽光がカーテンのない窓から部屋中に差し込んでいた。


「なんで…?」


 眠りについたのは魔界のアシュリーの城、なのに目覚めたここは全然違う。部屋の造りも調度品も寝かされていたベッドの感触まで……まるで全部が悪い夢だったようにエルウィンを取り巻く環境が変化していた。

 実際身体のあちこちにある手当ての跡がなかったら、都合がいいと思いつつも本当にすべてが悪い夢だったと信じたことだろう。しかし、悔しいことに夢で片付けるにはリアルすぎる記憶がはっきりある。


 イライアスの館から救い出されて以降の記憶。

 イライアスに捕らえられ、ロードに助けられて、蘇ったアシュリーと会った。


 ………別人といっていい程変わったアシュリーと。


 あれらは決して夢ではない。


 だったらどうしてここは光に溢れてる?

 あそこは太陽の昇らない地だと教えられたのに…ここは何処だ?

 魔界ではないのか?


 考えながら周囲を見渡し、部屋の中も窓の外もじっくり観察したエルウィンは、やがて景色に見覚えがあることに気付く。


 ここは……あの家だ。


 北の街で想いを通じ合わせた後訪れて、しばらく蜜月のような時間を過ごした家。裏山を抜けた向こう側に、イライアスが最後を迎えた無残な大地がある、あの場所に違いない。

 更なる確信を求めてベッドを抜け出しドアに駆け寄った途端、勢い良くそれが外側に向かって開かれる。


「あ、エルウィン起きたの。おはよう」


 ドアを開けたロードは目の前にいたエルウィンに少し驚いたものの、いつもと変わらぬ気楽さで笑い掛けた。


「ロードっ、なんだよここっ」

「何って?」

「なんでいきなり戻ってきてるんだ!」

「ああ……だってエルウィンは人間だし、向こうじゃ良くなるものも良くならないだろうからって、寝てる間にこっちに移したんだ」

「だからって、なんでこの家っ」

「勝手知ったるところの方がいいでしょ」

「良くない!」


 反射的に言って、唇を噛む。

 あのアシュリーと出会ってしまった今は尚更過去が辛く、昔のアシュリーとの思い出は猛毒の針のようだった。なのに、この家にはあちらこちらに思い出の欠片が残っていて、いるだけで勝手に溢れる思い出がチクチクと全身を刺し貫く。もう取り戻せない日々の残像がエルウィンの目に涙を浮かばせた。


 この家で過ごしていた頃のアシュリー。

 エルウィンを愛し、エルウィンが愛したアシュリーと過ごした時間。


 忘れられない、忘れたくない大切な過去。


 ………しかし、あのアシュリーはもういない。


 アシュリーは存在していても、エルウィンが愛したアシュリーはもういないのだ。


 迫りくる現実と過ぎ去った日々を切り離せない軋轢が神経を締め上げる。重圧に堪え切れぬというように、エルウィンは両手で顔を覆うとその場に蹲った。


「ここはオレとアシュリーが暮らした家だ。そこに、今戻ったら辛いに決まってるだろ……」


 絞り出された声は余りにか細く、彼の背負う痛みを如実に表す。

 そんなことを考えもしなかったロードは、よかれと思ったことが更に彼を傷つけたと知り言葉を失った。確かに少し考えれば判ること……思いやれなかった自分の迂闊さを心底悔やんで、謝ることも出来ないままエルウィンを見下ろした。やがてぎこちなく彼の手を引き、立ち上がらせる。


「ベッド戻ろう。まだ寝てた方がいいから…」


 言い聞かせ、立ちあがった彼に手を貸してベッドまで導いた。乱れた上掛けを直すロードを見上げていたエルウィンは視線を余所に向けて小さく聞いた。


「……アシュリーは?」

「向こう」

「……ここにも来るのか?」

「さあ、気紛れだから」

「そっか…」


 無意識に声に宿った落胆は今もまだある想いの証明。

 気付かぬふりをすることがロードに出来る精一杯だった。



◆◆◆◆◆



 人間界に戻ってもエルウィンには今更帰る場所もない。人里離れた思い出の家で傷を癒し、彼らが行動を起こす日を黙って待つしかなかった。ロード以外訪れる人のない家には、時間だけはたっぷりある。いつ決戦の日が来てもいいようエルウィンは鍛練に没頭して過ごした。

 武術も魔法も可能な限りの精度を目指し、毎日立てなくなるまで身体を酷使する。


 それはもちろん、来たるべき日のため……。


 そして一日中身体を動かした疲労は夢も見ない眠りをくれる。泥のように眠れることがやけに幸せだった。

 眠ることと動くことだけを繰り返して、ただ決戦の日を待つ。


 そんな生活が何日続いただろう?


 いつものように疲れて眠ったはずなのに、ある日の真夜中ふとエルウィンは目を覚ました。

 …何故?

 自分の変調を不思議に思いながら起き上がると、薄闇の室内に隣りの部屋から微かな光が差し込んでいる。ゆらゆらと濃度の変わる光はロウソクの灯りのようだった。


 ロードが来たんだろうか?


 そっと足音を忍ばせてベッドを降り、静かにドアを開ける。やはりテーブルの上の燭台にロウソクが灯っていた。しかし周囲に人影はなく、それだけが燃えている。

 ロードが来て消し忘れて帰ったのだろうと、火を吹き消しに近寄ったエルウィンはテーブルの向こう側に動くものを見つけて飛び上がる程驚いた。

 暖炉の前の敷き物に誰かが横たわっている。認識し判別した途端零れそうになった悲鳴を、エルウィンは両手で口を覆うことでようよう押さえ付けた。


 ロウソクの明かりも届かない闇なのに、そこで肘を枕に寝ている人が誰か瞬時に判った。

 何故かはエルウィンにも判らない。

 でも、彼女を形作るすべてをエルウィンの何処かがしっかり覚えていて、だから顔を見なくても、声が聞こえなくても、後ろ姿でも、ただそこにいるだけで判るのだ。


 アシュリーだ、と。

 横たわっているのはアシュリーだった。


 どうして彼女がここで寝ているのか不思議に思わなくはなかった。しかし、それ以上に久し振りに見た姿がすべての疑問を掻き消す。

 燭台を手にしてそっとそっと足音を忍ばせ近寄った。起こさないよう細心の注意を払い、跪いてアシュリーの寝顔を照らす。


 変わらなかった。

 昔見たものと。

 何一つ。


 泣き出したい程に懐かしい、あのアシュリーの寝顔。


 静かに寝息を立てる薄い唇。

 瞼を閉じると一層長く見える睫。


 染み一つない頬に掛かるオレンジの髪を掻き上げようと手を伸ばし、寸前で止めた。

 姿形は同じでも、これはもうエルウィンの知るアシュリーではない。判っていても、大好きな彼女から罵倒されるのは嫌だし怖かった。

 愛を囁いた唇から聞くに堪えない罵詈雑言が吐き出されたらまた傷つく。アシュリーを愛した気持ちにこれ以上傷を負わせるのは嫌だ。


 だから触れたいのを必死で我慢して、起こさないようそばでただ寝顔を見つめ続けた。

 眠る姿は昔のままで、まるであの頃に戻ったように錯覚する。


 アシュリーを愛し、アシュリーから愛された過去の時間。アシュリーが疲れて先に眠る度、何度こうやって寝顔を眺めただろう?

 ……判らないくらい繰り返して、やがて来た別れの日。もう二度と会えないと思った。これからはあなたのいない時間を一人で生き続けるのだと絶望したのに、今生きているアシュリーをこうして間近に感じている。


 でも、この『アシュリー』はエルウィンの愛した『アシュリー』ではない。


 ふとあの日アシュリーの城で言った言葉を思い出した。

 エルウィンが守りたいのは大切な人がいる世界で、それを犠牲にしても意味がないと怒鳴ったのはウェンディのためだった。自分自身より大切なウェンディを危険な目には合わせられない。

 それは紛れもない本心。

 しかし、こうも思う。


 『アシュリー』を犠牲に世界を守って、『エルウィン』は何を得る?


 世界が守られたとしてもエルウィンには何も残らない。

 守られた世界に一番大切なものはないに等しい。


 それでもオレは世界を守りたいと思うか?

 愛したアシュリーのいない世界に守る価値があるか?


 オレは今ここにいる『アシュリー』を守りたいか?


 眠る彼女の顔を眺めながら自身に問い掛け、やがてエルウィンは深く頷いた。

 俯いた頬を綺麗な雫が伝う。



 …………守りたい。



 愛されないと判っている。

 アシュリーはもう自分を必要としてない。

 判っているのに……愛されなくても、愛していた。

 想いの通じる当てなどなく、あの日々が取り戻せないとしても、こんなにも愛してる。



 現在がどうであろうと幼い日に出会ってから過ごした時間をこの人がくれたことに違いはなく。アシュリーが忘れてしまっても、あの時間は真実としてエルウィンの胸にあるのだ。


 冷酷なアシュリーと温和なアシュリーが似ても似つかなくても、結局『アシュリー』は一人しかいない。


 『エルウィン』は『アシュリー』を愛してる。


 その一言を胸に刻んで、エルウィンは静かに泣く。哀しみにではなく、納得した自分の気持ちに対する清々しさが零させたものだった。


 ウェンディだけではない、アシュリーの生きる世界をオレは守りたい。

 ここは、誰よりも愛しいアシュリーが生きる世界。

 だから守りたい。


 重要なのは、想い想われている事実ではなく、エルウィンが想うアシュリーが生きている事実。

 アシュリーから得るものはなくとも、最初から見返りを求めている訳じゃない。


 ただ愛しているだけだ。

 今までも、これからも…。

 ただ……。


「愛してる」

 触れることさえ出来なくなった最愛の人。


「愛してる」

 エルウィンとして貴方の目に映ることがたとえ出来ないのだとしても……。


「愛してる」

 切なくなるくらい、ただ…。


「愛してる」

 それだけだ。


 眠る彼女のそば、エルウィンは気の済むまで同じ言葉を繰り返し囁き続けた。



◆◆◆◆◆



 アシュリーとロードがどんな話し合いをしたのかも判らないまま、エルウィンに告げられたのは次の満月の晩夜襲を掛ける計画だった。

 自分の知らない場所で進められていく計画でも不思議と不満はなかった。素直に受け入れてその日に備えようと思える。

 頷くエルウィンを確認したロードは、更に神妙な顔で続けた。


「オレ達が満月を選ぶことはイライアスも判ってるだろうから当然相当数の出迎えがあると思う、…覚悟しといて」

「覚悟なんかとっくに…」


 出来てる……続けようとしたエルウィンを遮り、ロードは緩く首を振った。


「違う、人間を殺す覚悟、人間が殺されるのを目の前で見る覚悟。ちゃんとしといて」


 思いもしなかった指摘に、エルウィンはしばし呆然とした。

 よく考えれば当然のこと、イライアスが一人で出迎える訳がない。当然のように人間の兵士がイライアスを守っているだろう。それらを蹴散らさなければイライアスには近付けない。

 人間の兵士を相手にする罪悪感への覚悟を迫られ、束の間エルウィンは戸惑った。

 畳み掛けるようにロードは紡ぐ。


「オレ達だって万能じゃない、本気で向かってくる相手にはそれ相応のことをする。特にアシュリーは手加減すらしないだろうし……犠牲も大きいと思う。一緒に行くならそれなりの覚悟が…」


 真剣な目で言うロードの言葉を皆まで言わせず遮って頷く。


「判った」


 見つめあって頷くと、途端にロードが目を背けた。横顔が悔しそうに歪んでいる。

 それを見て、ああ本当にこいつはいい奴なんだと思った。

 きっとロードはエルウィンに来るなと言いたいのだろう。


 一緒に行けば危険もある、人間の兵士とも戦わなければならない。その上、アシュリーが冷酷な魔族として人を殺す場面も見ることになる。エルウィンには辛いことばかり。だから、本当は連れて行きたくないのだ。

 エルウィンの性格を知っているから説得は諦めているものの、せめて忠告という形で一緒に行かないという選択があることを匂わせている。


 確かにロード達と一緒に行かなければエルウィンの人生に救いはあるかもしれない。

 しかし、一度関わった以上最後までこの目で見届けたいのだ。

 それがどんな終わりでも……。


 だからエルウィンはロードの気遣いを気付かぬ振りで受け流す。

 覚悟は出来てると胸を張られて大袈裟に溜め息を付いたロードは、目を逸らしたままひっそりと付け加えた。


「……じゃあ全部終わった後の覚悟も、変わりないんだね」

「もちろん」


 即座に答えて微かに笑う。

 エルウィンの笑顔を見てロードは心底居嫌そうに眉をしかめたものの、軽く頭を左右に振っただけで何も言わなかった。

 不本意でも自分のわがままを許してくれたロードに心の中で礼を言って、エルウィンは煙草を銜える。火を灯し苦い煙をゆっくり吐きながらロードが最後に確認したことについて考えた。


 全部が無事に終わったら、エルウィンは人間世界の裁きに身を委ねるつもりであることをロードには打ち明けていた。


 結局、ことの真相を人間側は誰一人知らない。イライアスを無事止められたとしても、後に残るのはエルウィンが魔族と共に都を襲い、イライアスを殺した事実だけ……エルウィンの行いの意味は誰にも判らず、戻れば下されるのは罪を生命で贖う罰。


 それこそ望むところだ。

 エルウィンがイライアスと戦うのは世界のためではなく、酷く利己的な願望のためだが、結果的にそれで世界は救われるかもしれない。


 誰も知らない功績でも、エルウィンには充分だった。

 納得させたいのは他人ではなく、自分自身。


 自分で自分を納得させられたら……解放される。


 かつて教えられた言葉から……。


 アシュリーが言った、死ぬことは償いではない、逃げるのと同じこと。償うために、より苦難の多い道を選んで生きろ……、と。

 あの日からエルウィンは償いのために生きてきた。アシュリーを失った後も、彼女の教えがあったから生き続けた。


 でも……未遂とはいえ妹を殺そうとした自分に世界が救えたら、思ってもいいだろうか?

 もう償いの生は終わった。この先はオレの好きにしていい、と……。


 処刑されることは、犯した罪の償いに値する時間を<生き抜いた>といえる行為ではないかもしれないけれど、精一杯頑張った。出来る限りのことをして、今度は分不相応にも世界を救おうとしてる。

 妹を殺そうとした手で何万という生命が救えたら、それで罪を償ったことにして、エルウィンは自分自身を罪の鎖から解放しようと決めていた。


 償いさえ終われば、もう生きることに意味はない。だって、これから先何年生きても、過ぎ去りし日々にかなうものは得られない。昔のアシュリーと過ごした時間以上のものは、どれ程の時間を掛けても、たとえ地上中を探しても手に入れられない。


 使命も希望もないままただ生き続けることは無意味だ。

 ならば事件の責任もとって、潔く終わろう。

 そう決めた。


 だからロードの忠告も助言も受け入れない。

 哀しんでくれる友の存在が嬉しく、大切な人達の生きる世界を守りたいと祈り願う気持ちがあっても、……その世界で自分が生き続ける意味はもう見つけられなかった。











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