17、魔界にて
魔界は大きく三つの地域に分かれている。
永遠に太陽の登らない闇の地。
永遠に太陽の沈まない昼の地。
二つが交わる境界に僅かに存在する、永遠に白夜の地。
それらをあわせて魔界と呼ぶ。
アシュリー達が生まれ育ったのは朝のない常闇の世界、闇の地だった。
永遠に太陽の登らない大地は見渡す限り砂と岩だけの味気無い景色ではあったが、よく目をこらせば岩肌には僅かな光量でも育つ草花がしげり、そばからは綺麗な清水が湧きだしている。昼夜のない大地にも適応して生きる生物の食物連鎖が存在し、知っている世界がこれ一つならば、この環境も決して異常なことではないのだ。
慣れ親しんだ魔界の風を受けて、アシュリーはうっすらと微笑む。彼女の居城は遥か遠くの岩肌から染み出した清水が交わりあい大河となったそばにあった。川風は心地好いというには少し冷たすぎる温度で頬を撫でたが、久し振りに戻っても変わらない清廉さは懐かしい。
ひんやりした風の吹き込む窓辺でかつてと同じようにおっとりと煙管を吹かすアシュリーの横、ロードはそれと正反対に忙しなく動いていた。
それはもちろんイライアスの手から救出したエルウィンの看病のため。
魔界へエルウィンを連れ帰って一昼夜。
衰弱が激しかった彼は、最初満足に口も聞けない状態だった。
きっとイライアスの館で別れたあの日から地下牢にいて、食事も真面にしていなかったのだろう。
この数日エルウィンは自分のことなど構っていられない程の苦悩を抱えていたはずだ。この世界のこと、イライアスのこと、そして……ついに手放してしまった愛しい人のこと、悩みは尽きることなくエルウィンの思考を支配し続けたはずだ。
頭でどう考え口で何を言っても、不安は常にあり続けた。己の手を離れてしまった事態がどう転ぶか考え、時には激しい後悔に襲われ絶望に泣いたこともあったかもしれない。
どんなに強そうに見せかけても、やはりエルウィンも一人の人なのだ。そんなに多くを抱えられるわけじゃない。一人で背負うには大きすぎる問題がエルウィンを追い詰めた。
そしてその中でも一番重く伸し掛かっていただろう問題はロードにも無関係ではなくて、考えれば考える程申し訳なく、ロードは再会してから何度目になるか判らない謝罪を口にした。
「ごめん…、エルウィン」
「…お前本当そればっかだな」
ベッドに寝かせられたエルウィンは、ロードの献身的な看病のおかげで何度も何度も謝る彼に対し呆れた笑みを浮かべられる程度には回復していた。まだ弱々しい姿ではあるけれど、笑みにはエルウィンらしさが溢れていて、素直に療養すれば直に元の状態に戻れるだろう。
早く元気になってほしくて、ロードは何度もスプーンで掬った薬湯をエルウィンの唇に運ぶ。ゆっくり飲み込む彼を確認しながらちらりと後ろに視線を流した。
気付いたエルウィンも同じ場所へ視線を向けたのが視界の端に入る。
ロードの斜め後ろ、窓辺に腰掛けているアシュリーは腰までスリットの入ったロングスカートから惜しげもなく太腿を晒して窓枠に片足を上げ、煙管を吹かしながら外を眺め続けていた。
変わらない姿。
ロードもエルウィンも良く知っている彼女。
でも…何も変わらないのに、この人はもう違う。
それは今の状態のエルウィンをまったく気遣わないことからも判りきっていて……だからロードは何度も謝る。辛いエルウィンの気持ちをただ思いやって……。
彼の気遣いにありがとうと笑い、気にするなと首を緩く横に振った。
ロードが謝る必要はない。
これは判りきっていた未来。
ロードにアシュリーのカケラを託した日からこうなることは決まっていた。
エルウィンを愛したままのアシュリーでは復讐の鬼となったイライアスは止められない。同じ気持ちを理解してしまったアシュリーは、彼の気持ちを我が身に置き換えて、きっとイライアスに同情する。
同情を抱えたままでは絶対にイライアスには勝てない。
だから、すべて忘れさせるとロードは言った。
今のイライアスと同じように、情を持たない魔族としての冷徹さを取り戻してもらう。それはきっとエルウィンの知っているどのアシュリーとも違い、また想像も出来ない魔族の本性であろう。あなたの愛したアシュリーをそんなものに戻してしまうことを許してと詫びたロードに、エルウィンはアシュリーを託した。
大丈夫だと思った。
アシュリーが忘れても、自分は忘れない。
一緒に過ごした時間を、育んだ想いの暖かさを。
決して忘れない、だから大丈夫。
どんなアシュリーでも、アシュリーはアシュリー。
彼女を愛することに変わりはない。
何もかも忘れたアシュリーともう一度出会う覚悟を決めたのは自分。
………だから、これはロードの所為じゃない。
この痛みも苦しみも、ロードが呼び寄せたものではない。動けない程消耗した体中にはびこる鈍痛の原因は、余りにもすべてを楽観視していた自分自身だ。
少し考えれば判っただろう?
すべてを忘れて蘇ったアシュリーが別人になってしまうことくらい。
一体いつから自分はこんな楽天家になったのだろう?
違う…すべてを慎重に猜疑的に考えられても、アシュリーに関してだけはどうしても甘くなってしまう。そこにある<愛>という情が思考を鈍らせて、アシュリーのことだけは客観的な視野が保てない。
形ない<愛>という幻がエルウィンを惑わせた。
その<愛>すらアシュリーは忘れてしまうと散々言われたのに……。
形ないものに惑わされ裏切られたと感じる程に、蘇ったアシュリーは何もかもが違っていた。
姿が同じでなければ同一人物だなんて信じられない。
信じられない、信じたくない……誰憚ることない居場所でなら大声で叫びたかった。
こんなアシュリーと出会うくらいなら世界など滅びてしまえば良かったのに!!
言えるはずのない叫びを飲み込んだ胸からまた激しい痛みが生まれた。
弾みで、ロードが含ませた薬湯を飲み干せずに噎せる。ゲホッと雫を飛ばし、そのまま身を捩って咳込んだ。
「大丈夫?」
ロードは慌てて雫の零れた口許を拭い、少しでも楽になるよう辛そうに背けられる背を擦った。息の詰まる咳を繰り返すエルウィンは、背を擦るロードの手の感触にかつての出来事を思い出す。
昔アシュリーもこうしてくれたことがあった。
まだ出会って間もない頃、慣れない環境で熱を出して、夜中同じように咳込んでいたら、優しい手が何度も何度も背を擦ってくれた。
『大丈夫?』
労ってくれた声すら思い出せる。
自分に優しくしてくれた、初めての他人。
初めて好きになった人…。
でも…………アシュリーはもうエルウィンの知っているアシュリーではない。
彼女の中に一緒に暮らして育んだ想いはない。判っているのに、振り向いてさえくれないアシュリーの態度が哀しくて、泣くまいと思っていたのに勝手に涙が落ちた。
慌てて拭っても零れるそれ、咳き込んだ所為だと思ってくれたらいいのに……儚く願ってみたが、滲んだ視界のロードは一層悲痛な表情で睫を伏せていた。
彼はまた自分を責めているのだろう、決してロードの所為ではないのに……。
咳を納めてから聞いた。
「オレなら大丈夫だ。………それよりこれからどうするんだ?」
もっともらしく話を逸らして、その隙に涙を拭う。
「どうもこうも…オレじゃ決められないから、あの人次第」
「……あいつは、まだイライアスを好きなんだよな」
だったらすぐ彼を止めることは無理か…と匂わせた科白を意外にも強くアシュリーが遮った。
「勝手に決めるな、人間」
興味ないフリをしてしっかり聞き耳を立てていたらしい。吃驚している二人を振り向いたアシュリーは、煙を吐きながら白けたように呟いた。
「また人間に惚れてるような馬鹿、もうどうでもいいわ」
アシュリーの呟きの意味が捕らえきれず、ロードはぽかんと首を傾げる。
「…どういうこと?」
「イライアスのヤツ、懲りもしないでまた人間に惚れてる。その所為で自分がどんな目に遭ったかもう忘れたのかっての。……馬鹿には興味ない」
冷たく吐き捨てたアシュリーは、一瞬その時の憤りを思い出したように眉間に皺を寄せる。不機嫌になる横顔を見守っていたロードは、彼女の言った意味を理解した途端無意識に頭を左右に振っていた。
アシュリーはイライアスと対峙した時そう信じるだけの決定的な何かを見たのかもしれない。
………けれど、信じられない!!
寧ろ、信じたくない!!
だったら自分達は一体なんのために…!!
喉まで出かかった非難があった。それを懸命に飲み込んで、代わりに今日まで信じてきた事実をぶつけた。
「嘘っ、そんなわけない!! だってイライアスは人間を、世界を滅ぼすつもりでっ……」
「……ええ本人だってそのつもりなんでしょう。けど、今日のあれはどう見たってあの人間が好きでしかたないって顔だった。……あの子が死にそうになって泣いてたし」
泣いた?
イライアスが人間のために?
気力で身を起こしたエルウィンは、予想外の事態に真っ白になっているロードを押し退けるようにアシュリーに向かって身を乗り出す。
「それ、誰だ? イライアスは…」
誰のために泣いた?
問いながら予感があった。
イライアスを泣かせる程、今、彼のそばにいる人間。
アシュリーは急に話に割り込んできたエルウィンを欝陶しそうに見ながらも、思い出そうとするように上を向いて、やがてポツリと零す。
「ウェンディ、って呼んでたわ……銀髪の子」
アシュリーの言葉はエルウィンだけでなくロードも驚かせた。
ロードはウェンディを……ウェンディとエルウィンの関係を知っている。
エルウィンとアシュリーが出会うきっかけになったあのウェンディがイライアスの想い人?
余りの運命の悪戯にただただ驚き放心したのも束の間、そばのエルウィンがほとんど驚いていないのに気付いたロードは、正気に返って彼の肩を掴む。
「……エルウィン、まさか知ってた?」
「まさかっ。……オレだってあれは親父に取り入るのが目的だと思ってた」
なのに違うとアシュリーは言う。
もしイライアスが本心からウェンディに想いを寄せていたとしたら……?
信じていた、否思い込んでいたものを覆され、別の可能性に思いを巡らせていたエルウィンを、続けられたアシュリーの言葉がハッとさせた。
「だからあの人間使えば案外早くカタ付くかもね」
「…え?」
「あの人間を利用すればイライアスも言うこと聞くかもしれない。それで馬鹿なことはやめさせる」
白い煙を吐きながら、淡々と告げる横顔。冷たく冴えた瞳で何を想像しているのか判った瞬間、エルウィンは大声を上げていた。
「冗談じゃない!! ウェンディを危険に曝せるか!!」
イライアスは真実ウェンディを好きかもしれない。ならば、彼女のため復讐を諦めることもあるだろう。しかし、試す価値があったとしても、今のアシュリーが行うのは、説得ではなく、ウェンディを利用した脅迫に違いなかった。しかも、アシュリーには脅迫の段階からウェンディに危害を加える可能性もある。
それでイライアスが止められたらまだいい。もし、彼が脅迫に屈しなかったら?
それこそウェンディの生命が危ない。
大切な妹を危険な賭けに利用させられるか!!
絶対にダメだと拒否しようとしたエルウィンを、煙管を投げ捨てたアシュリーが遮った。
「黙れっ。人間ごときが私に指図するな!!」
ギラリと向けられた琥珀の瞳はかつてならエルウィンに向けられるはずの無い感情に染まり、ただただ冷酷に光っていた。飢えた野獣のような目がエルウィンの中の予測を確信に変える。
「そもそも私はね、この世界がどうなろうとどうでもいいの。ただ理由が気に食わない……だから邪魔する。それがたまたまお前達を助けてやることになるだけ、勘違いしないで」
己の身勝手を堂々と声にしてフンと鼻を鳴らしたアシュリーは更に続けた。
「何も出来ない人間の代わりにイライアスを止めてやるのよ、たった一人の犠牲で済むこと、寧ろ感謝して欲しいくらいだわ。お前も世界は守りたいんでしょ? だったら人間一人くらいでグダグダ言わないで」
生命というものを軽んじるアシュリーの言い分は勝手だった。しかし、悔しいことに人間世界で多数決に掛けても同じ結論が出るだろう。彼女以外でも、ウェンディ一人の犠牲で済むならそれで済まそうとする。
世界とウェンディの生命は同等ではない。
判っている、しかし……。
「嫌だ! オレが守りたいのは大事な人がいる世界だ!! ウェンディを犠牲にして守ってもオレにはなんの価値もねぇ!!」
「……だったらお前は妹のために世界を滅ぼす?」
それも面白いと瞳を細める顔に浮かぶのは意地の悪い残忍さだけで、真面に睨み付けても揺らぎもしない。反論出来ないエルウィンを追い詰めるように、お前に選ばせてやるとアシュリーは笑った。
「ちょっと待ってよっ、別にそれしか方法がない訳じゃないじゃん!!」
それまで置き去りにされていたロードが慌てて間に割って入る。身を乗り出していたエルウィンを庇うように肩を抱いて、アシュリーを振り返った。
しかし、悲痛な表情のロードが何か言う前に、アシュリーは彼の哀願も切り捨てる。
「他にも手段はあるかもしれない。でも、私はこれが一番手っ取り早いと思う。あの人間を使ってイライアスを黙らせる。それでこの話は終わりよ」
「……イライアスが従わなかったら?」
「それはその時考えればいいのよ」
ロードの向こう側から聞こえた疑問を軽薄さを滲ませた笑顔で突き放したアシュリーは、歯ぎしりするエルウィンを見もせずに窓辺から立ち上がった。そして、これでこの話は終わりと身振りで示しさっさと扉へ向かう。
「まっ……」
アシュリーを引き止めようとするエルウィンをロードが止めた。彼は振り仰ぐエルウィンとしっかり視線を合わせて、ゆっくり首を横に振る。そして緊張に強張った肩を撫で、横になるよう促した。
「とりあえず今は休んで」
「けどっ…」
「今は何言っても無駄だから…また明日にしよう」
囁き掛けるロードの顔にも濃く疲労と苦悩が浮き出ていた。様々なことが一度にあり過ぎて彼も混乱しているのだろう。
確かに、エルウィンも体力的にも精神的にも本調子には程遠い。アシュリーに歯向かおうにも伴う材料もなく、少し時間と距離を置いて冷静になる必要があった。
友の説得に深呼吸して頷いたエルウィンは、促されてベッドに潜り直した。エルウィンの上掛けを直し整えたロードが、黙ったまま枕元のロウソクを吹き消し灯りを落とす。暗闇と共に訪れた静寂に身を委ねようと瞼を閉じたエルウィンのそばから去っていく気配。
気配がドアの向こうへ消える直前、彼は一層細やかな声で呟いた。
「エルウィン、……ごめんね」
落とされた呟きが何に対する謝罪なのか気が付いたのは、迂闊にも彼が部屋を出た後だった。
カッと目を開けたエルウィンは、しかし、飛び起きることはなかった。一瞬強張った身体からゆっくり力を抜いてスプリングに身体を預け直す。
ロードはアシュリーには逆らえない。だから、………ロードは今夜もアシュリーを抱くのだろう。
エルウィンのすぐそばでアシュリーを抱くことを謝ったのだ。
……気付いても、嫉妬はまったくなかった。
だって、あのアシュリーは違い過ぎる。
あれはエルウィンが愛したアシュリーではない。
同じ姿をした別人だ。
だから恨みは一切なくて……代わりに胸を占領したのは、やはり空しさだった。
空しくて哀しくて、一人になったエルウィンは、未来を、そして過去を想って、切れる程唇を噛み締めた。
◆◆◆◆◆
一定間隔で青い炎が灯された廊下。
腕組みして待っていた人を見つけたロードは、互いが手を伸ばせば届く位置まできて足を止めた。そして目を逸らしたまま呟く。
「先刻の本気?」
「もちろん」
「そう……。じゃあ、好きなようにするといい。オレはいつでもアシュリーの味方だから」
呟いてからやっと目を合わせる。青い炎に照らされても変わらない美しい輝石の色をした目に宿るのは、かつてと同じものだった。
ロードを魅了してやまない孤高の強さを放つ琥珀の瞳。
己を…己だけを信じて一切を顧みないエゴイストは不敵に笑って身を翻した。そのまま付いてこいと言うように先に立って歩き始める。
確かな足取りで遠ざかっていく背中に追いつかぬ速度でロードは従った。
遥か昔から、それこそ生まれ落ちた時から追い求める背中をただ見つめながら……。




