08、「イライアス」
事態が誰も予想しない方向へと新しい展開を見せたのは、エルウィンがイライアスとの私的な乱闘の責任で自宅謹慎を食らった直後のことだった。
突然公布されたのは『魔界侵攻計画』。
長年の闇の魔族との戦いに終止符を打つ意味で、初めてこちらから魔族の住む魔界へ討って出ることになったらしい。
どうしてそんな無謀な計画が可決され、実行されることになったのか問い詰めたエルウィンに、ウェンディはイライアスの名前を告げた。
計画の発案者はイライアス。しかもそれは、今まで誰も思い付かなかった素晴らしい案として人々に受け入れられたそうだ。
いつまでも人間が虐げられるだけの存在である必要はない。国力を集め、一丸となって戦えばこの世界から魔族を一掃出来るかもしれない。彼の一族を討ち滅ぼせば憂いは消える。少ない犠牲で為せることではないだろう、けれどすべては未来のために……。
そう演説したイライアスの自己犠牲の精神に心打たれたと語る妹の無垢さに、別の意味で涙が浮かんだ。
そんな言葉に絆されるな!!
勝てなかったらどうする?
そしたら滅びるのは人間の方だ!!
何故誰もそう考えない?
みんな馬鹿ばっかりか!?
アシュリー、ロード、ベガ……エルウィンが知っている魔族はみな、半端なく強かった。魔界に行けば彼らクラスの魔族は大勢いるはずだ。何万人の将兵を集めようとそれらに勝てるとは思えない。
だって、アシュリーが言った。
以前見せられたあの荒野は魔族が作ったと…果てしない大地を荒野に変える力が魔族にはある。それに対してなんの策もないまま、ただ当たって砕けよとは余りにも無謀だ。
みすみす死にに行くようなものじゃないか!!
こんな戦いに意味はない!!
しかし……訴えるエルウィンの声は大きな時代の波に飲み込まれ、誰にも届かぬまま押し潰された。
◆◆◆◆◆
謹慎中、エルウィンは自宅に軟禁状態で閉じ込められていた。外出と外部との接触を完全に断たれたのは正直痛かったが、ここで騒いでもより重い処罰が与えられるだけで得はない。だったらおとなしく謹慎が開けるのを待って、行動を起こすのはそれからだ……考えたエルウィンは込み上げる焦りと苛立ちを噛み締めて日々が過ぎるのを待っていた。
しかし、時間はエルウィンが考えていた以上に緩やかに流れ、代わりに予想以上のスピードで浸透したのは、国家のイライアスに対する信頼と権限だった。今や彼は国王の最も信頼する忠臣であり、その地位はエルウィンの父を凌ぐものとなっている。
たった一時の間に誰も彼の言葉には逆らえなくなっていた。
それは一種の異常事態であるのに誰一人異を唱えない。その異常にも、誰も気付かないでいる。
まさか世界のすべてが狂っていく不安を抱えているのは自分一人なのか?
暗い部屋の中で膝を抱えるエルウィンには、今見渡す世界が狂ったまま破滅への道をひた走っているように思えた。
魔族と人間の全面対決。
何故人間はその無謀さに気付かないのか……。
煽るイライアスの正体にも薄々気付いていて、エルウィンは頭を抱えた。
判っていてイライアスはこんな真似をしているのだろうか?
彼の望みは何?
そもそもどうしてこんなことになってしまった?
どうして……深く考える度にちらつくのはロードの姿だった。
思えばあの時、彼が必死にアシュリーを返せと迫っていたのは、このことが予想出来ていたからではないだろうか?
だからロードは理由を話せないまま、ただアシュリーを返せとしか言えなかった?
真実を話しても、エルウィンに信じる余裕がないのを知っていたから?
ことここに至って漸く、エルウィンはロードの態度が豹変した理由に思いを巡らせられるようになっていた。
この未来を回避するためにアシュリーの助力が必要だったのかもしれない。なのに、そのアシュリーは今エルウィンの手の中で崩れそうになっている。
まだしっかりと首からぶら下げているカケラを握りしめた。
アシュリーが蘇っていたら結果はこうでなかったのかも知れない。そのために心にもない言葉で決意を促してくれたロードを信じなかったばかりか、勝手な独占欲でアシュリーを手放せなかったことが、今日の悲劇を引き起こしている原因のように思えた。
浅はかな己を責め、激しい後悔とここに至ってしまった焦りに切れる程唇を噛んでも、エルウィンにはただ暮れる夕日を見つめることしか出来ない。
自分を無力だと思った。今この瞬間にも、大切な人を含む人間達は一歩一歩確実に破滅への道を辿っているというのに……。
今のオレに何が出来る?
なあ教えてくれ…アシュリー。
握ったカケラに問い掛けることしか出来ないエルウィンの目に映る夕日は、地獄の業火のように真っ赤に燃えていた。
◆◆◆◆◆
新月の闇は深く、仄かな星明かりはすべての境界を曖昧にする。だから新月は、満月と同様に人々から恐れられていた。頼るべき光が一切ない世界、という意味では魔族の力が増す満月以上の警戒心を抱いて、人々は日が暮れた直後には堅く門扉を閉ざす。
今宵は風のざわめきさえない静かな新月だった。空には満天の星が輝いていても、やはり儚く、人々の恐れる闇は濃度を変えながらもすべてを包んでいる。
しかし、誰も出歩かないはずの水の底のような街を横ぎる人影が一つだけあった。
時折星明かりが輝かせる紫紺の瞳を瞬かせ、闇から闇へ信じられないスピードで駆け抜けていく男。運動量によって荒くなる呼吸を押さえ付けて進んでいく度、乱れた鮮やかな紫の頭髪の先から汗の雫が散った。
ロード、だった。
獲物を狙う野獣の動作で闇に埋もれた路地を直走り、朧気に感じる最愛の人の気配を辿る。以前感じたものよりも更に弱々しく薄くなってしまった気配を哀しいと思いながらも走り続け、辿り着いたのはもちろんエルウィンの生家だった。
かつて一度だけロードはこの館に訪れたことがあった。
エルウィンを人間の世界に返すための布石として、わざとエルウィンの両親に姿を曝し、エルウィンの失踪に絡むすべての出来事が魔族の企みであると思わせる作戦の実行役として一度だけ来たことがある。
エルウィンの生存の可能性を残し、更に妹の死の責任は彼にないと思わせるためにアシュリーが練った策。それらすべて、いつか大人になったエルウィンを人間の世界に返すために考えたことだった。
それなのに随分と予定が変わって……アシュリーはエルウィンのためにその肉体を消滅させ、カケラになって彼のそばで眠っている。
そしてロードは……昔の自分では考えられない行動を取るために、今ここにいた。
ずっと大嫌いだった人間。いっそ滅びればいいと思ったこともある。憎んで憎んで、両手を彼らの血潮で濡らしたこともあった。
だけど、今は滅びないでほしいと思う。そしてそれは自分達と人間の間に横たわる損得勘定のためではなくて……。
百人の嫌いな人間を消すためにたった一人の友を失うなら、
大切な一人のために……百人を許すほうを選びたい。
エルウィンに出会ってそう思えるようになった。
人間は今でも嫌いだけど、エルウィンは好きだから……決して人間を滅ぼさせはしない。
ある出来事をきっかけに怯み掛けていた覚悟を奮い立たせて、ロードはエルウィンの家を取り囲む高い塀を見上げた。グルリと館を取り囲むレンガの塀には幾つもの紋様が刻まれ、ロード達の侵入を阻む結界となっている。それをすり抜けることは難しくない、家人に見つかりさえしなければ大丈夫。
一つ大きく深呼吸して、息を整え大地を蹴った。魔族のもつ驚異的な身体能力なら助走の必要もなく、身体のバネだけで身の丈の何倍もある塀を飛び越えられる。跳ねるボールのように軽い着地を繰り返して広い庭をやり過ごし、目的の部屋のテラスへ一気に跳ね上がった。
「ふぅ…」
ひとまず安堵の吐息をつき、それから細心の注意を払ってカーテンの引かれていない部屋を覗き込むつもりだった。しかしその前に凄い勢いでガラス戸が内側から開かれる。
吃驚するロードの目に飛び込んだのはもちろん彼の姿だった。
「おまっ……」
黒い瞳を見開いてロードを確認し、咄嗟に叫びそうになったエルウィンの口をロードは大慌てで押さえ付けた。
「シー!! 見つかっちゃうからっ」
潜めた声で叱り、その格好のまま二人は周囲を窺う。幸いにも今の物音で駆け付けてくる気配はなかった。
「…はぁ、よかった。ここまできて見つかるなんて冗談じゃないよ」
ホッと肩の力を抜いたロードを感じたエルウィンは振り払うように首を振って唇を覆う彼の手を剥がし、小さな声で精一杯怒鳴りつけた。
「何してんだよお前は!!」
「何…ってエルウィンに会いにきたに決まってる。呼んだでしょ、オレのこと」
「来るにしたってこんな街中まで……見つかったらどうするんだ!」
「そのために新月選んでこっそり来たんだろ。大丈夫、人間の張った結界に引っ掛かる程頭悪くないから」
その妙な自信が余計信用出来ない…とは思っても口にせず、自分の状況が状況だけにエルウィンはすぐにロードを部屋に引っ張り込んだ。そして念入りに外を窺いながらカーテンをきっちり閉めて、物珍しそうに部屋を見回しているロードを振り返る。
しかしそこでエルウィンは本日二度目の驚きに再び目を見開いた。朧な星明かりでは判らなかったがロードのむき出しの手足には無数の傷があった。
片足は包帯の所為で短パンとロングブーツの隙間の肌が見えないし、両腕にも所狭しと包帯を巻いて……額あてだ思ったものが包帯だというのにも今気付く。
吃驚しているエルウィンに気付いたロードは手首に巻いた包帯を撫でて、ああ…と声を漏らした。
「これ? 気にしないでいいよ。エルウィンには関係ないことだからさ」
「…大丈夫なのか?」
「うん、平気平気」
と笑って腕を振り回したロードが、途中微かに頬を歪めたのには気付かないフリをしたが、平気そうに歩く姿の端々にも無理が見える。足を引きずる仕草と無意識に腹を庇うのはそこに重度の怪我をおっている証拠だろう。
子供の頃から一緒にいてロードのこんな姿は初めて見る。何をしても死ななさそうな、不死身と言っていい魔族の彼の大怪我……心配するなという方が無理だ。
一体彼に何があったのか、問う前に勝手にソファーに腰を下ろしたロードが口を開いた。
「そんなことより、…決心ついた?」
聞かれてハッとする。そう、エルウィンは何よりもアシュリーのことをロードに相談したかったのだ。思い出して慌てて胸元を探ったエルウィンは、引き千切るように革袋を首から外して、中身をロードに見せた。
今にも崩れそうにヒビの入ったアシュリーのカケラ。それを手のひらに乗せると情けなくも震えが止まらなくなった。
「ロード、アシュリーがこんなに……大丈夫なのか? このまま壊れたりしないか?」
今まで押さえ付けて来た不安をいっぱいに、震える声で問い掛けロードを見る。しかし罵声の一つも覚悟していたのに、壊れかけたカケラを見てもロードは冷静な顔で頷くだけだった。
「………まだ、大丈夫。ホントに終わるときは一気に砕け散るから、これならまた魔力を蓄えればそのうちヒビも消えるよ」
「そう…なのか…?」
「うん。だからエルウィンがそんな顔しなくていい。………これは全部オレの所為だから。オレが、エルウィンがアシュリーのカケラ持ってること話しちゃったから…だから…………ごめん」
アシュリーを失わなくてすむという安堵感でホッとその場に座り込んだエルウィンはしかし、ロードの言葉で再び顔を上げた。
ソファーのロードは顔を俯けて祈るように両手を組み合わせ震えている。腿についた肘も腕も包帯で覆われ、それ以外にも幾つも切り傷や擦り傷がある。全身傷だらけのロードの痛々しさと零した言葉がエルウィンの中の仮説を不意に蘇らせた。
まさか…そう思いながらも、声は出ていた。
「お前のそれ…イライアスがやったのか?」
震えるロードは微かに頷いて、やがて独り言のように続けた。
「ごめん…オレじゃイライアス止められなかった。もうアシュリーに頼るしかない。そうしないとホントに全部が滅んじゃう。お願いエルウィン、アシュリーを返して……」
哀願するロードを見つめ、エルウィンは苦しさに眉を寄せてアシュリーを握り締めた。
描いていた仮説は見事に肯定された。薄々感じていたことを改めて確認する必要はもうない。
やはり今いるイライアスは、彼らの言ってたあの『イライアス』なのだ。




