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至上の愛   作者: 高瀬海之
第一部

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23/52

23、すべてが壊れてしまった日





 今の生活のすべてが壊れてしまった日。



 この日、朝から胸騒ぎがしたとかそんなことは一切なかった。

 当たり前の毎日の、当たり前の風景。

 エルウィンはアシュリーに見送られ、見慣れた木立ちの中の小道を下って街へ向かっただけだった。

 ……なのに、もうじき森を抜けようという場所まで来た瞬間、急に言い様のない不安が腹の底から沸き上がった。

 ゾクリと背筋を駆け上がった冷たい予感を虫の知らせというのだろうか?

 とにかくこのまま黙って先へ進んではいけない気がした。


 引き返そう!!


 何故即座にそう思ったのか判らない。

 ただ何かがエルウィンをアシュリーのそばへと急かし、エルウィンは馬の首を返し今までにないスピードで家へと取って返した。

 嫌な予感は、家に辿り着く前に確信に変わる。森に獣達の気配が無いばかりか、家に近付くにつれ爆音や悲鳴が聞こえるようになった。争う人の気配がドッと全身に冷たい汗を滲ませる。


 魔族だとばれたのか!?


 人間達に追い詰められるアシュリーの映像が頭を掠める。しかし、あのアシュリーがそこらの魔術師や兵士に簡単に退治されるとも思えなかった。


 きっとアシュリーなら大丈夫。


 信じて唱えながらも、辿り着くまで気が気ではなくて……早く行って助けなければと一際強く馬の腹を蹴った途端。茂みの向こう、白銀の鎧の兵士と導衣を身に付けた魔術師の背中が見えた。


 やっぱり!! 討伐隊!!


 こちらに背を向けて立つ兵士の向こう側、肩口を押さえたアシュリーが蹲っている。今まで見たこともない弱々しい姿に血の気が引いた。


 怪我をしてる! あのアシュリーが!?


「アシュリー!!」


 気遣う気持ちがそのまま声になって、叫んだ瞬間全員がこちらを振り向いた。

 けれど、その時のエルウィンは自分の身の危険は一切考えてなかった。ただアシュリーを助けなければという使命感のもと、彼女のそばへ向かうことだけを願って……馬上から引きずり下ろされてもアシュリーのそばへ行くことを阻む兵を殴り蹴って戦った。


 自分とアシュリーを引き裂くなら、同じ人間であろうと敵だ。

 オレからアシュリーを奪おうとするものは全部、オレの敵。


 オレに必要なのはただアシュリーだけなんだから!!


 守りたくて、救いたくて、エルウィンは必死に愛しい人を呼び続ける。

 呼ぶ声が、今戦う力を彼女に与えてくれると信じて……。



 だからその時、何が彼女を止め、何が彼女を変えたのか、エルウィンには判らなかった。



 押さえ付ける腕を解こうと暴れていたエルウィンの耳に届いた野太い声。


「放てぇ!!」


 号令に驚いて顔を上げた時にはもう、彼女の全身に矢が突き刺さっていた。苦痛よりも驚愕を多く表した表情で身体をのけ反らせたアシュリーの吐いた血が虚空を舞う。

 ヒュッと息を飲んだ形のまま、エルウィンの全身が硬直した。

 ボタボタと音を立ててアシュリーの唇から紅い血が溢れる。けれど全身に矢を浴びても、唇を血で濡らしても、アシュリーは決して倒れず、二三度瞳を瞬かせてただエルウィンを見ていた。

 エルウィン…そう唇が動いた気がする。やがて喘ぐように呼吸しながら重そうな腕を伸ばしてきた。

 血塗れの手がエルウィンに差し出される。

 そこでやっとエルウィンの身体は呼吸することを思い出した。浅い息を繰り返して唇を震わせる。

 けれど、アシュリーと声に出して呼びたいのに、声が出ない。彼女が一歩進むごとに大量の血が大地に流れるのを見ていることしか出来ない。


 アシュリー、動いちゃ駄目だ。そんな怪我してるのに無理したら駄目だっ、じっとしてなきゃ!! アシュリー!!


 言いたい言葉は次々と溢れてくるのに全く声にならず、ただ呆然と血塗れのアシュリーを眺めているしかなかった。

 誰が見ても今のアシュリーは瀕死の状態。なのに、その鬼気迫る姿の所為か、取り囲む兵達も何も出来ずにただアシュリーを見つめ続ける。

 そんな、ある種異様な空間の中、彼女は血の足跡を残しながらエルウィンのもとへ必死で歩いてきた。



 アシュリーがそばに辿り着くまで……それはエルウィンの一生の中で一番長い時間だった。



 後少し……アシュリーが最後の力を振り絞ろうとする姿を見上げていたエルウィンは、彼女の背後でキラリと輝いた眩しさに瞳を細める。

 太陽が二つになったような眩しさが視界を塞いだ。


 何?


 少しだけアシュリーから目を逸らしそちらを見て、エルウィンは今度こそ悲鳴を上げた。



「やめろー!!」



 それはまるで太陽が落ちてきたようだった。



 眩しい光の一閃が真っ直ぐに落ちてアシュリーの背後に消えた。

 途端に、今まで苦痛に歪んでいたアシュリーの表情が惚けるように変わる。



 きっと、アシュリーには何が起こったのか判らなかったのだろう。


 衝撃にのけ反った瞬間、薄く唇を開いて、ほんの一瞬苦しそうに眉を寄せて……。


 そして瞼を閉じたアシュリーは、今度こそ倒れた。



 バタンと音を立てて倒れるアシュリーから飛び散った血飛沫が、叫んだエルウィンの口の中に飛び込んでくる。髪にも、頬にも、額にも……紅い血が飛んだ。

 鉄錆臭い血の味、それがアシュリーのものだと気付くのにどれ程の時間が掛かっただろう。


 目の前に最愛の人が倒れていた。


 既に矢傷によって相当量の血を流していたのに、それでもまだ彼女からは生命が溢れて……止まらない!

 ドクドクと音を立てて血を流すのは背後から受けた刀傷だった。


 彼女の後ろに、剣を振るった男が肩で息をしながら立っている。男は忌ま忌ましいものを見るような目付きでアシュリーを見下していた。

 けれど今のエルウィンにはそんなことを構っている余裕はない。自分と同じように惚けていた兵士を押し退けて拘束から逃げ出す。

 正気に返って再び捕らえようとする手を思いっきり振り払い、這うようにアシュリーのそばに寄って、膝の上に抱き起こした。たったそれだけの動作でエルウィンも血塗れになる。じっとりと衣類を濡らしていく生暖かい液体の感触が全身をガタガタと震わせた。


「あ、しゅりぃ…」


 やっと名前を呼ぶことが出来た声は、本当に自分のものか疑いたくなる程弱々しくひきつれている。


「アシュリー」


 もう一度うわずった声で呼んで、抱き起こす腕に力を込めた。ひくり、と軽く抱いた身体が痙攣し、微かに瞼が開く。


「エ、ル…ィン……」


 瞼が開いて彼女がこちらを見上げた。それだけが嬉しくて、もっと声を掛けたいのにどんな言葉を口にすればいいのか判らない。


 大丈夫かなんて聞ける訳ない。そんなの、見れば判るだろ!?


 どうしようもなくて、アシュリー…と震える声で再度呼び、瞼を閉じると勝手に涙が溢れた。

 どうして泣けてくるのか自分でも判らない。否、判りたくなかった。

 今涙の出る理由を認めたくなくて……必死に歯を食いしばり泣くのをやめようと思うのに、そんなものなんの効果もなく。

 ボロボロ泣くエルウィンを見上げていたアシュリーは深く呼吸を繰り返し、やがて酷く細い声で、まるで他人事のように呟いた。


「…ごめん、エルウィン…。私、もう…ダメみたい……」


 今エルウィンが必死で遠ざけようとしたことをあっさり引き寄せる弱音。

 あまりの抑揚のなさに思わず怒鳴り返していた。


「バ…、バカなこと言うなよ!! お前魔族だろっ、凄い魔族なんだろ!! だったらこんな傷くらい……なんとかしろよ!!」

「ハハ……適当に、無茶、言わないでよ…」


 無理をして笑うと喉の奥から血の塊が零れた。ゲホゲホと咳き込む度、唇も顎も喉も全部紅く染まる。

 アシュリーが紅く染まっていく様にまた涙が零れた。

 涙と共にわき上がる一つの単語を否定したいのに、徐々に呼吸の浅くなっていく姿はそれを許さない。



 『死』がアシュリーに迫っている。



 アシュリーは、駄目だ駄目だと無意味に繰り返すエルウィンを見上げて、少し困った顔をした。

 正直、もう指一本自分の意思では動かせないのだ。


 失われていく魔力と血液。せめてどちらか一方だけならまだ諦めずにすんだかもしれないけれど……傷を直す魔力も、魔力を取り戻すまで耐える体力もないのではどうしようもない。




 しかし……後悔はなかった。

 これで良かったのだと思える。




 転機があったのだとしたら間違いなくあの瞬間で。

 でも、あの時踏み止どまったからある『現在』にアシュリーは満足していた。



 想像もしなかったことだけれど、こんな終わりもいいかな?



 笑って穏やかに受け入れた頃にはもう、痛みも感じなくなっていた。

 眠る前のように全身が温く暖かく、ぼんやりとしている。このまま瞼を閉じれば本当に穏やかな安らぎを得られるだろう。


 もうじき自分は消えるというのに、何故だか酷く幸せな気分だった。


 それもこれも全部……薄く瞼を開いて、泣いている人を見上げる。だが、もう視力も殆ど失われて、暗く立ち込めるものが彼の姿を霞ませていた。


 それでも頬に感じる、ハタハタと落ちてくる彼の涙。

 泣かないで……願いを込めて必死で笑い、最後の力を振り絞って声を出す。


「エ…ウィン、私はだいじょ…ぶよ、魔族…だから。…………………あのさ、……ちょっと予定くるっ…けど、私…目的も果たせ…うだし……もしか…たら、全部…れで良かっ…のかも…れない…ね」


 紡いだ言葉は言っている自分でも焦れったくなるくらい切れ切れで、これではエルウィンに正確に言葉を伝えることは出来ないだろう。


「何言ってんだよ!? おい、アシュリー!!」


 案の定そう叫び返されて、おかしかったのに……もう笑う力も無い。

 目も開けていられなくなって、喘ぐように囁いた。




「エルウィン、あなたの罪、全部、私が背負っていくから…………。だから、あぁたはどこ行っても胸張って生きて…ね……、おね…が…い………。あ…し…てる」




 言い切って、ふぅ…と深く息を吐く。

 同時にアシュリーの全身から力が抜けたのがエルウィンにも伝わった。

 やがて閉じた瞼の下から一筋零れた雫がオレンジ色の髪に流れて、消える。その後、アシュリーはピクリともしなくなった。

 こわ張りの溶けた身体はずっしりと今まで以上に重く……だけどそのことにエルウィンが気付いたのはどれ程時間が経ってからだっただろう?



 息を止めた彼女は血塗れなのに、ただ眠っているだけのように安らかだった。



 だから、信じられなくて呼び掛ける。


「あしゅ、りー…? おい、アシュリー!? アシュリー!! 目ぇ開けろ!! アシュ……」


 呼んで叫んで、彼女を起こそうとガクガクと揺さぶるエルウィンの腕の中で、急にアシュリーの身体の重量が消えた。腕に伸し掛かっていた身体が羽のように軽くなる。同時に淡く発光し始めた。

 異常を肌で感じ、無意識に呟く。


「や…だ……、嫌だ! 待って……アシュリーっ」


 抱き締めて止めようとして、次の瞬間驚きに涙も止まった。

 力を込めて掻き抱いた瞬間、くしゃりとアシュリーの身体が溶けた。


 溶けた……と言う言葉しか当てはまらない程たやすく、アシュリーは壊れ、別のものに変わった。

 驚くエルウィンの腕の中、『アシュリー』というものを構成する部位すべてが砕けて細かな粒子に変わっていく。


 オレンジの長い髪も、白い頬も、薄桃の唇も……。


 すべてすべて、砂よりももっと細かな粒子に変わって風に流れる。

 サラサラサラサラ……音を立てて、アシュリーはエルウィンの腕から指間から、擦り抜けて風に溶けゆく。


 後に残るのは血に染まった無残な衣類だけ、それだけが彼女がここにいた証しのようにエルウィンの腕の中に重く残った。


「そんな……アシュリーーーーーーーーーー!!」


 風に溶ける粒子を掻き集めるように藻掻いて、絶叫した。












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