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至上の愛   作者: 高瀬海之
第一部

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20/52

20、……諦められる。





 薄紅の花が春の日差しを待ちわびてたわわに蕾を実らせる頃、アシュリーとエルウィンはまた住家を変えた。

 街から離れた森林の奥深くにある、赤い屋根の山小屋。

 離れた時と少しも変わらない様に少し驚きながら、エルウィンは馬を下りた。

 呆然とその家を眺める。後ろでアシュリーが馬を下りた気配がして、ぼんやりしたまま聞いた。


「何年ぶりだっけ、ここ帰って来るの?」

「十年…はまだ経ってないかしら? でもそれに近いくらいだと思う」

「……十年ぶり」


 溜め息混じりに年月を口にしてからまったく変わらない家を見ると、懐かしさと嬉しさが同時に湧き上がってきて、つい笑みが零れた。

 それもその筈、ここはエルウィンが育った家。


 初めてアシュリーと出会ってからの数年を過ごした、一番思い出深い場所。


 今はもう、暮らした時間より離れていた時間の方が長くなってしまったけれど、やはり、エルウィンが自分の育った家として思い出すのはここだった。他の住まいは所詮旅の途中立ち寄った仮住まいで、帰る場所というとならこの家を描いてしまう。


 それ程深く記憶に焼き付いている大切な家。


 家に帰ってきたのだと無意識に思った。

 長く離れていた我が家の感触を思い出すように、駆け足で玄関に繋がる階段を上がり、しかし、玄関は開けずに板張りのテラスを歩く。長い間雨風に曝されての腐敗を心配したが、意外にも床はしっかりと固く、エルウィンの体重を受け止めても小さく軋む程度だった。

 変わらない我が家をよく見るためにテラスを端まで歩いて手摺に手を伸ばした時、少し驚いた。昔は無理をしてやっと手摺に肘が置ける程度だったのに、今は手摺に手を突くために身を屈めなくてはならなくなっている。

 手摺に上って遊んでいてアシュリーに怒られたことは昨日のことのように思い出せるのに……やはり長い時間が流れているのだと実感した。

 途端に、歓喜に支配されていた胸を冷たい風が吹き抜ける。

 自分はもう拾われてきたときの幼子ではない。だから……アシュリーはこの家に帰って来る気になったのかもしれない。


 最愛の人の命を奪った死の大地で引っ越ししようと笑ったアシュリーを思い出す。

 何処へ? と聞いても教えてくれないまま、冬の終わりと同時にここへ戻ってきた。


 ここ。

 エルウィンが『我が家』と定めるこの家があるだけでなく。


 本当のエルウィンの生家があるこの地へ、十年ぶりに……。


 今なら判る、アシュリーがこの地を離れた理由。

 エルウィンは大人になっていく過程で必ず、街にも人にも興味を示しただろう。その時、あの街へ行っていいとは言えなかったはずだ。だから彼女は、誰もエルウィンを知らないと地へと流れて行ったに違いない。

 その行動からもエルウィンを狭い世界に閉じ込めるようなことをせずに、生きさせよう育てようとしたアシュリーの努力が窺えた。

 アシュリーなりのエルウィンを想うが故の行動だったのだろう。

 不器用な魔族が精一杯人間の子供を育てようとしていた涙ぐましい努力を思いやり、エルウィンは微かに笑って、馬から荷物を下ろしているアシュリーの姿を眺める。


 初めて会った頃とまったく変わらない魔族の彼女。


 最初の頃、自分には決して触れられぬ花の色に似ていると羨望の眼差しで眺めたオレンジ色の髪も、今は手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあって……満たされていることを感じた。

 今、ただ幸せだけを感じている自分自身。

 妹に申し訳なくは思うけれど、やはり『現在』を手放す気はない。


 ………だから、ここへ戻ってきた以上はせめて墓参りにだけは行こうと思った。


 許しを請いにではなく、あの後十年間ただの一度も顔を出さなかったことを謝りに、そして、いずれ受ける罰の重さを思い出すために……妹の眠る場所へ行かなければならない。

 決意してギュッと瞼を閉じ手摺を強く握る。途端に、アシュリーからお呼びが掛かった。


「エルウィンっ、思い出に浸るのは後にして荷物! これ全部あなたのでしょ」

「…っ、ああ」


 弾かれたように顔を上げると、腕組みしたアシュリーが足下に積んだ荷物を差して睨んでいた。

 悪い…言いながらテラスを下りるエルウィンと入れ違いに、アシュリーが階段を上り玄関ドアのノブに手を掛ける。カチャリと音がしてあっけなくドアが開いた。

 鍵は掛かっていないようだった。

 何年も留守だったのに?

 不思議に思うエルウィンを置き去りにアシュリーは家の中へ消えた。

 慌てて荷物を持って後を追うと、家の中はつい先刻まで人がいたように生活感溢れる整理整頓のされ方をしている。蜘蛛の巣や埃の山を想像し、今日一日は掃除に費やされることを覚悟していたエルウィンは、変わらな過ぎる家の外見を見たとき以上に呆然として、今度は疑問を持ってアシュリーに尋ねた。


「……なんか随分綺麗だ」

「ロードに掃除しとけって言っといたから」


 換気のために家中の窓を開けて回っているアシュリーの声が遠くで聞こえた。


「それにしたって変わらな過ぎじゃない?」


 聞きながら、時の衰えなどまったく感じられないピカピカに磨かれたテーブルを撫で、しっかりした椅子に腰を下ろす。テラスの床同様、木製のテーブルセットは大きくなったエルウィンの体重を受けても軋みもしなかった。

 やはり十年近く空き家だったとは思えない。

 不審そうなエルウィンのそばに戻ってきたアシュリーは、運び込んだ荷物から愛用のカップを取り出してテーブルに置いた。その他の日用品も次々と取り出し並べながら聞く。


「エルウィン、十年も前のこと細かく覚えてるの?」

「……いや、あんまり」

「何それ? 覚えてないのに変わってないと思うわけ?」

「なんとなく…、イメージ?」

「イメージって、まあ派手には変わってないけど、所々はやっぱり違うと思うわよ。あちこちガタがきてたから勝手に直したってロードも言ってたし」

「あいつが直したの? ……ホントになんでもするんだな」

「そりゃ私のためならね?」


 判っていて余裕たっぷりに笑う顔が憎らしくて、プイッとエルウィンは外方を向いた。



◆◆◆◆◆



 昼間の穏やかな気候とは違い、春間近の夜風はまだ冷たい。

 アシュリーは、一度消したランプに火を入れてガウンを羽織ってから、部屋を抜け出しテラスに出て月の光を浴びる。やがてぽっかりと浮かぶ月にかかる雲の隙間、こちらに向かう黒い影を捕らえた。

 ヒューッと音を立てて地面に舞い降りる魔族。

 黒い蝙蝠の翼を広げたそれは、言わずと知れたロードだった。


「こんばんは」

「いらっしゃい」


 挨拶しながら魔力で作った翼を消す。月の光で見ると彼の紫の髪が、エルウィンと変わらぬカラスの濡れ羽色に見えて……そうであると尚一層、魔族と人間の境界の曖昧さを感じた。

 姿形は変わらぬのに、それでもやはり違う…人間と魔族。

 エルウィンと自分。

 アシュリーは無意識に自分のオレンジ色の髪を撫でていた。


「エルウィンは?」

「寝かせた」


 親指で背後を指差すアシュリーを確認して、ロードはタンタンと軽い足音をさせてテラスに上り、そこで寛げるよう設置してあるテーブルセットとロッキングチェアを見て少し笑ってしまった。

 以前も同じようなものがそこにあったのを覚えていたから、似たものを用意したのはロードだ。けれど、それが全く同じもののような顔をして鎮座しているのは、確かに時間は流れているのに、まるであの頃から何も変わっていないようでなんだか面白い。

 ランプを置いたテーブルセットに腰を下ろしすアシュリーの横を通り過ぎて、ロードはロッキングチェアの方へ向かう。新品のそれの背もたれを撫でながら、でも、しみじみ呟いた。


「とうとう帰ってきちゃったねぇ」

「ええ」

「覚悟出来たってこと?」

「……うん」

「そう…」


 淋しそうに笑い、ロードは勝手にロッキングチェアに腰を下ろす。ギーッと軋む音は意外に大きく闇夜に響いた。


「まあ、アシュリーがそれで後悔しないならオレは止めないけどさ。もう大丈夫だって自信できたんだろ?」


 首を捩ってアシュリーを振り向けば、仄かな灯りの中しっかりと頷くのを確認出来た。


「うん」


 もう一度声に出して返事をするアシュリーは、薄く笑っている。笑ったまま、何かを思い出すように軽く目を閉じて綴った。


「この数年私は幸せだった。言葉で言い表せないくらい…凄く凄く幸せだった。エルウィンが好きだから、幸せだった。これからもエルウィンを好きでいたいから、もう逃げない。エルウィンを好きでいることに胸を張って……エルウィンのそばにいたい。そのために……これは避けて通れないことでしょ」


 問い掛け開いた琥珀の瞳がロードを捕らえる。

 確かにそうだ。


 あなたが好きだから一緒にいる。


 その他のどんな理由でもなく、ただあなたを想うから……それを共に歩む理由にしたいなら、これは避けて通れない問題。

 真っ向から立ち向かおうとするアシュリーの覚悟を試すように、ロードは更に問い掛けた。


「どうなるか判らないよ」

「大丈夫よ」


 不安に曇りそうになる表情を笑顔に変え答えるアシュリーから視線を外したロードは、ぽっかり浮かぶ月を見上げた。

 冷たい夜空に浮かぶ月は白っぽく輝きながら、従う幾億の星明かりを打ち消して孤高の美を誇る。


 アシュリーみたいだ…とふと思った。


 一人虚空で輝く月は、ロードが惚れた、幾千の魔族の頂点に君臨したアシュリーの姿に似てる。何者も必要とせず、ただ自分の思うまま自由に生きるアシュリーは、微かな星明かりなどあっさり掻き消し、一人で天空に存在している月そっくりだ。


 一人…? 否、違う。


 夜空で月を輝かせているのは太陽だった。

 たとえそこになくとも、太陽は常に月と共にある。

 太陽の光なくしては月は光らない。

 月は……アシュリーは、いつでも一人じゃなかった。

 常に、その心には彼女を照らし続ける太陽があった。

 過ぎる、まさしく太陽の光のようだった黄金の髪。

 そして今アシュリーのそばにあるのは、月を更に美しく見せる漆黒の闇のような瞳の……。


「………エルウィン…か」


 思い描いた言葉がぼんやり声になる。

 囁きを捕らえきれなかったアシュリーが小首を傾げて問い直した。


「何?」

「なんでもない。……じゃあ、オレそろそろ帰るわ」


 勢いを着けて立ち上がったロードは、アシュリーに背を向けてうーっと大きく伸びをする。勢いで揺れ続けるロッキングチェアだけがキシキシと音を立て続けた。その音がやみ、静寂が戻る前にアシュリーに背を向けたまま言った。


「用事もなくなったし、オレ当分こっちにはこないからそのつもりで。ベガも一緒に帰るってさ」

「そう、淋しくなるわね」

「そう思ってくれるだけで充分、充分。じゃあね」


 バサリとロードの背中に羽が生えた。そのまま背を向けた状態で羽ばたいて飛び上がろうとする。帰っていく彼を見送ろうと腰を上げたアシュリーは、一瞬躊躇って、でも堪えきれずにロードに走り寄った。


「ロード!」


 呼んで、彼の服の裾を掴んで引き止める。一瞬浮き上がっていた足がまた木の床に着いた。


「何? まだなんかある?」


 吃驚して振り返るロードの紫紺の瞳を真っ直ぐ見つめ、意を決して言った。



「ねぇロード………………………誰かを好きになるって、凄いことね。私初めて判った」



 大きな紫紺の瞳が更に大きく見開かれる。心底驚いたロードは震えた声を出した。


「アシュリー…?」


 驚いたロードを見て、今更こんな言葉を伝えるのは卑怯かもしれないと思う。


 でも、今伝えずにいつ言う?


 あなたに対する果てしない感謝と謝罪を……。


「……色々ごめんなさい。それから…ありがとう」


 自分がロードにしてきたことを色々なんて漠然とした言葉で片付けていいとは思わない。でも余りに数が多くて一つ一つ謝っていたら夜が明けるどころの話じゃない。

 そんなに多く、そんなに長く、ロードに想われることに甘えていたのだと知ったのは、エルウィンを想う気持ちに気付いてから……。


 重くて苦しいエルウィンへの愛情。


 知って初めて同じものを気が遠くなる程長い年月自分に対して抱えて来たロードの存在を意識した。辛かったろう、苦しかったろう、でも…そこに在るだけの存在として空気のように当たり前に、アシュリーを気遣い愛してくれたロード。


 やっと判って、ただ頭を下げる。


 孤高の月のようだった人が自分に謝罪する姿を見て、ロードの顔が歪む。ずーっと彼女のために被ってきた仮面が外れる予感がして慌てて唇を噛んだ。

 想うために忘れた、想い続けるために捨てた、想いに付き纏う感情。溢れそうになって……だけど、やはりあなたを想うから、そんなものは最後まで見せたくなくて噛み締めた唇を歪めて笑う。


「…………………なにそれ…アシュリーがそんなにしおらしいと怖いよ。また雪降るんじゃない?」


 せっかく暖かくなったのに……と続け、ハハッと喉の奥で笑ったロードは服を掴んでいたアシュリーの手をやんわりと解いて、彼女が顔を上げる前に再び翼を羽ばたかせた。

 フワリと浮き上がり、涙目で見上げてくる人へ、笑って、別れを告げる。


「バイバイ、アシュリー」


 小さく手を振って、アシュリーに背を向けた途端魔力を使いあっという間に大空へ舞い上がる。どんなに高く飛翔しても決して近付くことの出来ない月は、遥か上空に舞い上がっても尚、天高くにあった。

 決して振り返らぬよう孤高の月目指して飛ぶロードの脳裏を、昔のエルウィンの言葉が過ぎる。


 アシュリーがエルウィンを好きになったら、それをきっかけにロードはアシュリーを諦めて新しい幸せを探す。


 その時が確かに来たのを感じた。

 これほど素直にアシュリーが認めたならもう……諦めてもいい。

 孤高の月でないアシュリーでも、自分はどんなアシュリーでも好きだから、変えてくれた彼とのことを祝福しよう。

 シニカルに笑うアシュリーより屈託なく笑うアシュリーの方が好きだから……諦められる。


「ねぇアシュリー。絶対エルウィンと幸せになってね」


 呟くと、目尻に溜まった雫が一粒、切り裂く風に乗って後方へ飛ばされた。



◆◆◆◆◆



 昼過ぎ、もそもそと二人で起きだして食事の用意を始める。

 場所を変えても変わらぬ怠惰な日常。食事当番のアシュリーがキッチンにいる間に暖炉に火を入れそこに腰を落ち着けたエルウィンは、コーヒーを啜りながらアシュリーの背中に投げ掛けた。


「前から言おうと思ってたんだけど…」

「何?」

「お前さ、オレに黙ってこっそりロードに会うのやめろよ」

「……え?」


 パンを切り分けていた手を止めてエルウィンを振り返る。黒い目が真っ直ぐこっちを見ていた。


「昨夜も来てただろ、ぼそぼそ喋る声聞こえてた。……オレには聞かせられない魔族の話もあるだろうから、会うなとはいわない。けど、こそこそすんのはやめろよ。隠されると余計気になるんだ。それにオレだってロードに挨拶くらいしたいし、向こうはどうか知らないけど……」


 最後の一文をぼそぼそ言って、話はそれだけだ…と顔を背ける。

 そのまましばし呆然としていたアシュリーは、見えなくなった彼の表情を想像して少し笑い、やがてしっかり頷いた。


「…ん、ごめん。今度ロードが来る時はちゃんと言う。向こうも会いたがってたし」


 少しだけ嘘をついて、また元の作業に戻る。

 嘘はきっとバレないだろう。


 ……彼がロードと会うことはもうない。


 その決意を、アシュリーは昨夜のロードから感じた。

 ロードの言う当分が一体どれくらいの期間か判らないけど、それは魔族の尺度であって人間のニュアンスとは違う。時間の観念がそもそも違うのだ。


 ロードはもう来ない。次彼と会うのはきっと…………。

 独りぼっちで丘に立つ自分の姿が過ぎった。


 いづれくると判りきっている嫌な映像を振り切るように頭を左右に振って、切り分けたパンをバスケットに乗せる。それをテーブルに運びながら声を掛けた。


「エルウィン、準備出来たよ。私ご飯食べたら作業するから、あなたはまだゆっくりしてて」

「んー…」


 返事をして立ち上がったエルウィンの視界をテーブルに並べられたスープの湯気が霞ませていた。


 その向こう側で笑うアシュリーの姿までも……。

 淡く、暖かく、朧に……。













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