18、死の大地
ベッドに半身起こしているアシュリーのそば。カーテンのない窓の外では日没とともにまた降り始めた雪が舞っていた。
雪は明日まで降り続けるんだろうか?
そしたらまたどっちが暖炉に火を入れに行くかで争うんだろう。
当たり前の毎日を思いクスッと笑ったアシュリーは、それを聞き付けてこちらに寝返りを打つエルウィンの姿を視界の端で捕らえながら、そっと冷えた窓ガラスに指を這わせた。
室内が暖められているから窓には細かな水滴が付着している。キュっと指の腹でそれを拭うと、よりはっきりと白い結晶が見えた。しかし思った以上に雪の勢いは弱く、ふわふわと漂うようなそれは直にやんでしまいそうだ。
優しく落ちてくる白い結晶を眺め瞳を細めた。
冬の始まりの雪。
初めて彼と出会ったのもまだ寒い季節だった。
こんなに大切になるなど予想もしなかった人間の子供。
出会った時抱き上げられる程小さかった温もりに、今は抱き締められて……今アシュリーが雪の降る寒さなど感じないのは暖められた室内にいる所為だけではないだろう。
隣りに寝そべって眠そうにしている男がいるから、この胸はこんなに満たされて暖かいのだ。
大切な、大切なあなた。
『愛情』というものを教えてくれた『人間』。
だけど、人間とか、魔族とか、そんな垣根越えて、『エルウィン』を想うことが暖かく、アシュリーを幸せにしてくれる。
何より大切な『エルウィン』。
愛おしくて……視線は窓の外に向けたまま、アシュリーは手探りでエルウィンの手を見つけだし握り締めた。きゅっと握った繊細な指は一瞬の強張りの後優しく、絡めた指を握り返す。
「…どうした?」
行為後の甘い戯れを予感させる仕草に驚きながら、エルウィンは繋いだ手を愛撫するように強弱をつけて握りぼんやりした声で問うた。アシュリーの白い横顔が消えそうな暖炉の炎に揺らめいている。
やがて薄い唇が微かに動いた。
「……エルウィン」
「ん?」
「もし明日起きて雪降ってなかったら、一緒に出かけましょう」
「…何処へ?」
「裏の森のもっとずっと向こう」
「……裏の森の向こう?」
眠そうにしていた黒い瞳が一瞬で覚醒して知性の光を取り戻した。
エルウィンの中で、アシュリーの態度に対する不審が確信に変わる。今日帰ってきた時から漠然と胸にあった感情、それが今、確かな『不安』に変わったのを実感した。
不安を裏付けるのは、滅多にないアシュリーの甘えるような行動であり、今の言葉。
アシュリーの言葉の真意を探ろうと、怠さに横たわらせていた身体を慌てて起こす。それでもアシュリーはエルウィンの方を向きはしなかった。窓の外を真っ直ぐ見つめる横顔は揺れる炎に邪魔されてはっきり感情を読み取れない。
「そこに……エルウィンに見せたいものがあるの」
見せたいもの?
「…森の向こうに?」
コクンと頷くアシュリーを確認して、エルウィンは街で人伝いに聞いただけの森の向こう側を想像した。
確かそこは……しかし、そんな場所に何があるというのか?
問い質そうと息を吸い込む。でも直前でそれは息を吐く音だけになった。
くるりとこちらを向いたアシュリーが、穏やかな…いつも通りの緊張感のない笑みを浮かべていたから、何も言えなくなった。
彼女が何を見せたいのか判らない。でもアシュリーはそれを自分に教えることが重要だと思っているのだろう。二人で生きていくのに必要なものだというなら、………受け入れよう。
笑うアシュリーを見たままエルウィンも頷いた。
「……判った。雪やんでるといいな」
「うん…」
「だったらもう寝よう」
「…うん」
ごそごそとベッドに潜り込直したアシュリーは、先に横になったエルウィンの裸の胸に頬を擦りよせるように抱き付いて目を閉じる。
閉じた瞼の裏。
今日の昼間思い出した景色が過ぎる。
汚れない真っ白な雪が降り積もったとて消えることのない、無残な景色。
雪の下に埋もれる引き裂かれた大地はもう二度と蘇らない。
死んだ大地を大切な人に見せる恐怖で震えるアシュリーを、エルウィンはただ優しく抱き締めてくれた。
◆◆◆◆◆
次の日、薄曇りのはっきりしない天気ではあったが、雪はやんでいた。
それを歓迎すべきなのかよく判らないまま、約束通り二人は支度をして森のなかへと分け行った。木立の生い茂る森は馬には不向きで、とぼとぼと徒歩で向かう。
地熱で溶けた雪でジメジメとぬかるんでいる地面に足を取られないよう気をつけて、アシュリーが先を歩いて行った。
方向感覚を失いそうな密林を迷いもせず突っ切る後ろ姿を見つめながら歩き続けてどれくらい経っただろう。
仄かに日が射して木々の切れ目らしい場所が確認出来るようになる。そこが終着点なのかエルウィンが判断しきる前に、森を抜けた。パッと開けた視界、薄暗い場所からきた目には薄曇りの陽光さえ眩しいと感じて額に手を翳す。
アシュリーの肩越しに鈍い光が照らす大地があった。
そこは見渡す限りの広大な雪原。
遮蔽物のまったくない平原は遥か向こうまで真っ白だった。この辺りは活火山が発する地熱の所為で雪が積もらないと言われているのに、そこだけは柔らかなパウダースノーがキラキラ輝きながら積もっている。
どうして……?
驚くエルウィンをちらりと横目で確認したアシュリーも、同じように見渡す限りの雪原に瞳を細めた。
時を止められた大地は、やはり数百年前から何一つ変わっていない。
ここをこんな風にしたのは……胸を引き裂く想いを抱いて、アシュリーは一歩を踏み出した。
森の切れ目は崖になっていて、雪原は随分下にある。アシュリーは短い詠唱で風を呼び纏うことで落下速度を落としながら、フワリと地面に着地した。
アシュリーを見習って、エルウィンも同じようにして崖を飛び下り雪原に下り立つ。
二人並んで真新しい雪を踏み締めた。雪の上に立っただけで寒さが増したような錯覚がある。実際ブーツを通しても雪の冷たさは足指を悴ませ、痛い程の冷気を感じた。肺の奥まで凍り付かせるような凍気が吐息を霞ませる。
白い息を吐きながらアシュリーはエルウィンを振り返った。
「ちょっと下がってて…」
言ってから、両手の指を胸の前で組み合わせ小さく何かを唱え始める。微かに捉えられたのは爆炎の魔法の詠唱のようだった。アシュリーの手のひらの隙間に魔力が集中していくのが判る。魔法の余波から自身を庇うようにエルウィンはマントを顔の前に翳した。
「はぁ!」
掛け声と共に解放された魔力は炎となって地面をくまなく走り、辺りを閃光と轟音で満たす。
途端に吹き付ける熱風。風は轟々と音を立て、先刻まで凍て付いていたとは思えない温度で頬を打った。
エルウィンは翳したマントで熱風の爆風を遮り、周囲が静かになるのを待つ。やがて周囲に静寂が戻り、そっとマントを翳していた腕を下ろすと、そこは先刻までとまったく姿を変えていた。
薄茶色に乾いた、草木の一本も生えぬ岩肌が果てしなく何処までも……。
真っ白であった時よりもずっと寒々しい景色に戦慄さえ覚え、エルウィンは呆然とそれに見入った。
それはもちろん地平線の彼方まで岩の大地など初めて見るからであったが、それ以上に、景色の不自然な不気味さに圧倒されていた。だって、振り向けばそこに緑の森があるというのに、ここからだけ先には何もない。
雑草の一本さえ生えていないのだ。
……街で聞いた通りだった。
森を抜けたらそこは死の大地。
いつからそうなのか、何故そうなのか誰も知らない。
最初からありとあらゆる『生』を拒絶したような『死』の大地が広がっていると人の噂で聞いた。
確かにその通りだった。
……けれど一つ訂正するならば、ここには『死』があるのではなく、『生』がないのだ。だからこんなにも寒々しく不気味だ。
生命を感じさせるものが何もない大地。こんな場所が自分の暮らす世界に存在していたなんて信じられないまま隣りのアシュリーを見た。
「…アシュリー、ここに何があるんだ?」
何もない場所でアシュリーがエルウィンに見せたかったもの。それはなんだと問うたのに、アシュリーはゆっくりと首を横に振った。
「……何もない」
「おい…」
「……もうなんにもなくなっちゃったのよ」
空ろにも見える表情で呟いたアシュリーは、枯れた大地を恐れる事なく、更に先へ向かって歩き始めた。
パウダースノーは魔法の熱量に一瞬で蒸発して消えたのだろう、雪の名残が大地を湿らせてさえいない。コツコツとブーツの踵が堅い大地を叩き、足音が響く。
エルウィンも慌ててその後を追った。
アシュリーの後を辿りながら、幾分か遠くなった森を振り返る。そこにはこんもりと茂った緑があるのに、まるで境界線を引いてあるように突然景色が荒れ地に変わる。
不気味な変化を観察し、やがて思い至った。
……多分この荒れ地の方が異質なのだ。
ここも元は豊かな大地であっただろう。それなのに、何故かここだけがこんな風になってしまった。
考えて、振り向きもせず歩いてくアシュリーの背中に視線を向けた。
身体を芯から凍えさせる寒風が吹きすさぶ広大な荒れ地を進む、魔族の背中。人には有り得ないオレンジ色の髪が長くたなびきながら陽光を鈍く反射している。
……予感が、した。
その外見がどうであっても、彼女は強大な魔力を有する魔族。
アシュリーがその気になればこのくらいやってのけるのではないだろうか?
なんの変哲もない後ろ姿から魔力の陽炎が立ち上ぼっているような気がして……疑問が確信に変わる予感がした。




