第69話 もう、後には戻れない
そして――
国崩し決行当日――
「どうしたんだ、クオン? 全然食べてないじゃないか」
ヨハンが、気遣わしげに声をかけてくる。
クオンは今、ヨハンと二人で、ヨハンと初めて会った食堂で、朝食をとっていた。さらに付け加えると、クオンが注文したのはその時ヨハンが食べていた、ハムエッグをのせたトーストに、コーヒー、ヨーグルトがついた朝食限定セットメニュー。
それを選んでいる時点で、否が応でも自覚させられる。
今日この日、この美しい公都が〝終わる〟のを惜しんでいる自分がいることを。
だから食欲が湧かない――と、ありのままヨハンに話すわけにはいかないので、
「この後のことを考えると、どうにも緊張しちゃって……」
その言葉に、ヨハンは「ああ」と得心した声を漏らす。
「今回の会議は、セルヌント公もご参加なされるとのことだからな」
「わたし……セルヌント公にはまだ二回だけでしか拝謁したことがなくて……」
「それで緊張して、食欲が湧かないというわけか」
「はい……」
弱々しく笑いながら、嘘で塗り固めた首肯を返す。
もっとも、あえてヨハンに会議について連想させる言い回しをしただけで、〝この後〟のことを考えると食欲が湧かないのは事実ではあるが。
(湧かないどころか、下手に食べちゃうと戻してしまいそうなんですけどね……)
今日この日、わたしはヌアークを火の海に沈めなければならない。
ともに過ごした仲間を、この手で殺さなければならない。
そして、大好きな人を絶望の底に叩き落とさなければならない。
もはや食欲が湧かないどころの騒ぎではなく、吐き気すら催すほどに、クオンの心は罪悪感に苛まれていた。
(切り替えなくちゃ、ですね。〝妹〟を護るためにも、ヨハンを死なせないためにも、今日この日だけは絶対に失敗は許されない。空腹で頭も体も動きませんでしたなんて、言い訳にもなりませんからね)
悲壮なまでの決意を胸に、クオンは可能な限り、朝食を胃の中に収めた。
◇ ◇ ◇
セルヌント公を交えた会議は、つつがなく――レグロとの諍いはさておき――終了した。
国の主ゆえに《終末を招く者》と国崩しについて聞き及んでいたセルヌント公が、そのことを皆に説明し、ディザスター級澱魔の召喚について触れ、その対抗策としてヨハンの魔法を解禁する……会議の内容は、三日前の夜にクオンが想定していたとおりのものだった。
強いて想定以上だったことを上げるとすれば、ヨハンにディザスター級の討伐を託したセルヌント公が、ヨハンの勝利を信じて疑わないような物言いをしていた点だった。
その一点は、大好きな人とディザスター級との一騎打ちを演出せざるを得なかったクオンにとっては朗報であり、ほんの少しの救いでもあった。
会議が終わった後は、公国軍の任務により、ヨハン、カルセル、オリビア、マイクと小隊を組んで、郊外にある地下水路の入口の警備にあたることとなった。
そして――
予定どおり、ディザスター級澱魔が公都から五キロほど離れた地点に出現した。
ディザスター級出現に合わせて、公都内に潜伏していた《終末を招く者》の構成員が澱魔を無数に召喚し、平和だった公都を地獄に叩き落としたこともまた、予定どおりだった。
クオンはヨハンたちとともに市街地へ向かい、確認できる範囲にいる全ての澱魔を退治してから、燃え盛る建物に取り残された人や怪我人の救助にあたった。
この事態を引き起こした者たちの仲間のくせに救助をしている自分は、やはり矛盾の塊だと自嘲しながら。
目につく限りの怪我人の応急手当を済ませたクオンは、ディザスター級が現れた方角を睨むヨハンを見つめる。
セルヌント公の命に従いディザスター級の討伐に向かいたいが、公都の惨状を放っておくもできない――ヨハンの表情からは、そんな苦渋が有り有りと滲み出ていた。
(ここは、背中を押してあげなきゃ……ですね)
ナンバー90としてではなく、ヨハンの恋人として。
クオンは、懊悩するヨハンのもとへ向かう。
ヨハンがこの先、山のように積み上げるであろう後悔を、少しでも軽くするために。
ヨハンの恋人としてできる、最後の仕事をするために。
ほどなくしてヨハンの傍にたどり着いたクオンは、彼の手を、両手で包み込むように優しく握り締めた。
「ヨハン。ここはわたしたちに任せて、いってください」
「し、しかし、こんな状況の公都を放っておくわけには……」
あまりにもヨハンらしい返答に、クスリと笑ってしまう。
「ヨハンは本当に、この公都が好きなんですね」
「……生まれ故郷だからな」
照れ隠しにぶっきらぼうに答えるヨハンが、やはりどこまでもヨハンらしくて、それがただただ嬉しくて、クスクスと笑ってしまう。が、談笑目的で話しかけたわけじゃないと己を戒め、一呼吸ついて覚悟を固めてから、ヨハンの背中を押す言葉を、真剣に、懇願するように言う。
「もう一度言います。ここはわたしたちに任せていってください。公都内に無数の澱魔を召喚されたことで、兵士のほとんどがその対応に追われることになります。その時点で、数を揃えてディザスター級を倒すという選択肢は潰れたも同然。人員を割く余裕がない以上、誰かが、単独で、ディザスター級を討伐する必要があります。それこそ、今朝の会議の決定どおりに」
「オイラも、クオンちゃんに賛成だな」
確認できる範囲の住民の避難誘導を終えたカルセルがこちらにやってきて、物理的にも精神的にもヨハンの背中を押す。
ヨハンの背中を押したのはカルセルだけではなく、マイクとオリビアもヨハンの背中を押してくれて……いよいよ、ヨハンの覚悟が固まる。
「……わかった。いってくる」
そう言って、ヨハンがディザスター級のもとへ向かおうとした瞬間、なぜかクオンは、自分の意志に反して、握り締めていたヨハンの手をより強く握り締めてしまう。
いかないで――そんな悲鳴が、心の奥底から聞こえたような気がした。
ヨハンが、踵を返そうとしていた足を止め、見つめてくる。
ヨハンの背中を押しておきながら、ヨハンを引き止めようとしている……こんなところでも矛盾している自分のことがおかしくて、情けなくて、弱々しい笑みが零れてしまう。
「あはは……すみません……。なんだか、もう二度と会えなくなるような気がして……。情けないですよね……わたしたちに任せていってくださいって言っておきながら……」
本心から出た言葉だった。
少なくとも恋人としてヨハンと会うことは、間違いなく、もう二度できないのだから……。
それに、
(やっぱり、ヨハン一人でディザスター級と戦わせるなんて……)
できない――という言葉だけは、かろうじて思考の外に追いやった。
正直なところ、ヨハンとディザスター級を戦わせることが恐くて怖くてたまらなかった。
ディザスター級澱魔は、紛うことなく化け物。
仮にわたしがディザスター級と一対一で戦ったとして、負ける可能性は低いかもしれないが、勝てる可能性は皆無と言わざるを得なかった。
なぜなら、ディザスター級を仕留めるには、急所を一撃で破壊せしめるほどの〝力〟が必要だからだ。
それができるのは、最上級の魔法か、大砲などといった兵器級の武装媒体か、あるいは人外程度では及びもつかない人外を超えた〝力〟くらいのもの。
そのどれもが魔力に起因している以上、やはり、わたしがディザスター級に勝てる可能性は皆無と言わざるを得ない。
そのディザスター級澱魔とヨハンを、わたしは戦わせようとしているのだ。ヨハンを生かすために。
(本当に……どこまでも……どこまでも……矛盾し――っ!?)
頭の中を塗り潰していた思考が、恐怖が、真っ白になる。
突然ヨハンに、抱き締められてしまったがゆえに。
「ヨ、ヨハン!?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。
カルセルたちが見ている前で抱き締められたものだから、顔が火照る早さは普段の倍以上だった。
ヨハンは恥ずかしがるわたしに構わず、断言する。
「大丈夫。魔法さえ使えれば、僕は誰にも負けない。誰にもだ。だから心配いらない。二度と会えなくなるなんてことはありえない」
ただただわたしのことを案じた、優しくて、力強い言葉だった。
(あぁ……やっぱりわたし、この人のことが――)
大好きで、大好きで、たまらない。
だから、絶対に死なせたくない。
たとえそれが残酷な選択だったとしても、彼を傷つけることになったとしても、絶対に絶対に死なせたくない。
それほどまでに、わたしにとってヨハンは大切な存在だから。
それこそ〝妹〟と同じくらいに。
「……そうです、よね」
不安がないと言えば嘘になる。
けれど、不安を見せることでヨハンに余計な不安を抱かせたくなかったから、精いっぱいの笑みを浮かべ、精いっぱいに明るい声音で言った。
「ヨハンが魔法を使うところ、見られないのが残念です」
「僕も見せてやれないのが残念だよ」
そう言って、ヨハンは体を離した。
今のやり取りで、ますます覚悟を固めたのか、ヨハンの表情は思わず見惚れてしまうほど精悍で……これならきっと大丈夫だと、クオンは少しだけ安堵する。
「いってくる」
この言葉を最後に、ヨハンは今度こそ踵を返し、ディザスター級澱魔がいる方角に向かって走り去っていった。
ヨハンが走り去った方角を、しばしの間見つめていたクオンに、カルセルがおずおずと話しかけてくる。
「クオンちゃん……その、大丈夫?」
言葉の端々から心配が滲み出ているカルセルに、クオンは苦笑する。
(思えば、カルセルさんには、ヨハンのことでお世話になりっぱなしでしたね)
状況次第だが、できればカルセルにも生き延びて欲しいクオンは願う。
ヨハンがこの先、山のように積み上げるであろう哀しみを、少しでも軽くするためにも。
「大丈夫です。ヨハンは、誰にも負けないって言ってくれましたから」
正直大丈夫だとは言い難いが、苦笑をそのままに、できるだけ平然とした声音で応じる。
「……そっか……」
こちらの心中をある程度察してくれたのか、カルセルはこの一言だけで済ませてくれた。
直後、
「きたぞ!」
マイクの叫び声を聞き、弾かれたようにそちらを見やると、《終末を招く者》が新たに召喚した澱魔が、そこかしこからぞろぞろと姿を現し始めていた。
「澱魔がいきなり湧いて出てきたということは……!」
「近くに魔法士がいる可能性があります!」
と、カルセルに応じながらも、
(まぁ、タイミング的に、その魔法士はわたしの〝お迎え〟の可能性が高いでしょうけどね)
ゆえに、人知れず心の準備を済ませる。
クオン・スカーレットから、ナンバー90に変わる準備を。
クオンとカルセルのやり取りを聞いていたオリビアが「あそこよ!」と、建物の屋根を指し示すよりも早くに、クオンは気づく。
屋根の上に立ち、こちらを見下ろす、古拙な仮面とフード付きの外套に身を包んだ魔法士の姿を。
その瞬間、クオンは顔に出すことなく戦慄する。
(まさかあの人が、直々に〝お迎え〟に来るとは思いませんでしたね)
姿形を隠してなおわかる、圧倒的強者の気配。
この場にレグロかザック将軍がいれば、屋根の上にいる魔法士――厳密には魔法士ではないが――の隔絶した実力に気づくことができただろうが、幸いにも、カルセル、オリビア、マイクの三人はこの手の気配を読む感覚が鈍いため、全く気づいていない。
だから、
(あの魔法士を一人で追いかけても、わたしならば大丈夫だと思ってくれるはず。レグロさんに次ぐ実力を示し続けたのも、こういう場面で使うためでもあるんですから……!)
後はタイミングを計るだけ――と思っていると、カルセルが、屋根の上にいる魔法士に視線を固定したまま話しかけてくる。
「クオンちゃん。もしかしてアイツ、地下水路にいた〝奴〟か?」
この会話を利用することに決めたクオンは、カルセルに向かってかぶりを振り、
「地下水路で遭遇した魔法士は、属性の得手不得手が偏っているのか、使っていた魔法も召喚した澱魔も炎属性のみでした。ですから、あそこにいるのは別の魔法士だと思います。それに、澱魔を召喚する魔法士が公都中にいる以上、件の魔法士であろうがなかろうが――」
言葉を切り、手近にあった建物を窓の枠と桟を足場に駆け上がり、屋根の上に着地する。
続けて、懐から長剣媒体を取り出して光刃を具象し、その切っ先を離れた位置にいる魔法士に突きつけ、言葉をついだ。
「全て斬り捨てないことには公都を護ることはできません。魔法士はわたしが片づけますので、カルセルさんたちは澱魔をお願いします」
「待ってクオンちゃん! 君にもしものことがあったら、ヨハンに顔向けできな――!?」
カルセルが言い終わる前に、魔法士はこちらに背を向け、屋根から屋根に飛び移って撤退し始める。
屋根の上を駆けているとは思えない機動力が、魔法の力ではなく魔法士の身体能力のみで為されていることを、クオンはそれこそ嫌というほどわかっていた。
そして、魔法士がこちらの意図を汲み取り、最善手を打ってくれたことも、クオンはわかっていた。
「論じている暇はありません! いかせてもらいます!」
それだけ言い残し、クオンは魔法士を追って走り出す。
魔法士を追って屋根の上を走り続け……住民の避難が完了した地域にたどり着いたところで、魔法士は屋根から飛び降り、主のいなくなった家屋に逃げ込む。
クオンもまた屋根から飛び降り、家屋に足を踏み入れたところで……実に一年ぶりとなる、狂気と凶気に塗れた〝仮面〟を被り、中で待ち構えていた魔法士に気安く話しかけた。
「お久しぶりですね、シエットさん。この一年、わたしに会えなくて寂しくなかったですか?」
「囀るな、ナンバー90」
感情らしい感情を感じさせない超然とした声音で応じながら、魔法士――シエットは仮面とフードを脱ぎながら、クオンに応じる。
露わになった白髪白眼の容貌は彫りが深く、声音に負けず劣らず超然とした雰囲気を醸し出していた。
「しかし、七至徒第二位様々が直々にお迎えに来てくれるとは、さすがのわたしも予想外でしたねぇ」
「大抵の構成員は、貴様に恐れをなすか、無意味に噛みつこうとするかのどちらかだからな。余計な問題を増やさないためにも、私自らが迎えに行くのが最善だと判断したまでだ」
シエットは淡々と説明しながら、外套の下から取り出した雑嚢を、クオンの足元に放り投げる。
雑嚢の中には、現在公都にいる全ての《終末を招く者》が身に纏っている仮面と外套が入っていた。
「これ着るんですか~。かわいくないから、あんまり好きじゃないんですけど~」
不平を言うクオンに、シエットはうんざりとしたため息を漏らす。
「言わずともわかっているだろうが、仮面にしろ外套にしろ不必要に《終末を招く者》の顔を売らないための措置だ。好き嫌いの問題ではない。だから無駄口は閉じて、さっさと着ろ」
「はいはぁい」
言われたとおり外套を纏い、仮面を被りながら、心の中で独りごちる。
(ここから先はもう、後戻りは出来ませんね……)
事実、その通りだった。
仮面と外套を身に纏った後に、シエットがクオンに下した命令は、ヌアーク城にいる〝敵〟の鏖殺。
後戻りなど出来るはずもなかった……。





