第62話 定期報告
ヨハンの家に足繁く通うようになってから、二週間の時が過ぎた頃。
その日、非番だったクオンは、太陽が東の地平から顔を出すのと同時に起床し、軽めの朝食を済ませ、パジャマからブラウスと男物の下衣に着替えると、手提げ鞄片手に早足で兵舎を後にした。
まだ人の姿がほとんど見当たらない早朝の目抜き通りを歩いて向かう先は、ヌアークと外界を隔てる壁の一角に設けられた大門。そのすぐ外側にある馬車の発着場だった。
やがて目抜き通りを抜け、大門前にたどり着く。
当然そこには門番として公国軍の兵士が複数人配されており、その内の一人である女性兵士がクオンに気づき、駆け寄ってくる。
クオンと同じ兵舎に住む、やけに濃い化粧が特徴的な、オリビアという名の兵士だった。
「どうしたの、クオン? 非番なのに早起きなんてしちゃって」
「隊商が来ていると聞いて、ちょっと覗いてみようかな~って思いまして」
「ちょっと覗くには、いくらなんでも早すぎる気がするけど……何か欲しいものでもあるの?」
「明確に何か欲しいってわけじゃないんですけど、隊商ってほら、稀覯本とか売ってたりするじゃないですか」
その言葉に、オリビアは得心した表情を浮かべる。
「それって、もしかしなくても魔法関連?」
「もしかしなくても、その通りです」
ニッコリと笑って応じるクオンに、オリビアは「やれやれ」と言わんばかりに肩をすくめた。
「本当にあなた、魔法が好きねぇ。レグロとザック将軍以外じゃ相手にならないくらいの凄腕剣士なのに」
「わたし個人としては、剣の才能の一〇分の一でもいいから、魔法の才能が欲しかったところですけどね」
平然と嘘を吐きながら、クオンは肩をすくめ返す。
「何ヨハンみたいなこと言って――って、そういえば!」
オリビアはニンマリと笑うと、わざとらしくキョロキョロと周囲を見回し、耳打ちする。
「あなた、暇さえあればヨハンの家に入り浸っているって話、本当なの?」
「本当ですよ」
「だったら、あなたとヨハンが付き合っているっていう噂は本当なの?」
思わぬ質問に、思わずキョトンとしてしまう。
「付き合う? わたしとヨハンさんが?」
その反応を見て、オリビアは微苦笑を浮かべた。
「噂は所詮噂ってわけね。でも、もし本当に付き合うことになったら気をつけなさいよ~。うちの軍、男女とも独身が多いせいか、初めの内とか周りからすっごい僻んだ目で見られるから」
やけに実感がこもった物言いで、オリビア。
彼女がマイクというやけに顔が濃い男兵士と恋仲であることは、公国軍の兵士ならば誰もが知っていることだった。
「あはは……憶えておきます」
クオンは曖昧に応じながらオリビアと別れ、
(わたしとヨハンさんが付き合うなんて、絶対にあり得ないのに)
心の中でため息をつきながら、門をくぐる。
帝国のスパイである自分がヨハンと付き合うなど、冗談でもあってはならない。
最終的には、この手で殺すことになる相手なのだ。
たとえ〝ごっこ〟でも、付き合うわけにはいかない。
(さすがにそれは、ヨハンさんが可哀想すぎます)
そう考えた直後、クオンは否定するように小さくかぶりを振る。
(どうかしてますね……いずれ殺す相手を哀れむなんて……)
そうこうしている内に門を抜け、緑色の絨毯が拡がる大草原と、門前の広場で整然と並ぶ幌馬車の群れが、クオンを出迎える。
全ての幌馬車が隊商を組んでやってきた商人のもので、その商人たちが自身の幌馬車の前に拡げた大布に、いそいそと商品を並べていく。
都の規模にもよるが、隊商が馬車の発着場をそのまま市場にしてしまうことは万国共通してよくあることだった。
そして、万国共通ゆえに、定期報告の手段の一つとして用いるには打ってつけだった。
クオンは、門から最も遠い位置に停めてある幌馬車に歩み寄る。
幌馬車の前では、すでに商品となる無数の本を並べ終えた青年商人が、店番用の椅子として使う木箱を運んでいたところだった。
「あ~……いらっしゃい」
クオンの存在に気づいた青年商人が、木箱を下ろしながら愛想もやる気もない声音で言う。
本当に商売する気があるのかどうかも疑わしい態度を気にもとめずに、クオンは青年商人に訊ねる。
「すみません。魔法関連の稀覯本とか置いてますか?」
「魔法関連の稀覯本ねえ。あるにはあるが、具体的にどういう本を探してるんだ?」
「大陸北部で出版されてるものですね」
「生憎、大陸北部の本は店頭には置いてなくてね。馬車の中に親父がいるから、そっちに聞いてみてくれ」
「わかりました」
暗号符牒を交わし、あくまでも客という体を装いながら幌馬車に入ると、本の山に囲まれた〝親父〟の背中が目に止まる。
「来たか。ナンバー90」
親父と呼ばれた初老の男は、座った体勢のままこちらに向き直る。
クオンはこれ見よがしにため息をつくと、男のすぐそばまで近寄り、極至近にいる人間にしか聞こえない特殊な発声法を用いて窘めた。
『ダメですよ~。小声以上の声量で、そんな名前を出しちゃ』
「問題な――」
普通に会話を続けようとする男に、立てた人差し指を眼前に突きつけ、黙らせる。クオンがやっている発声法は、《終末を招く者》の構成員ならば誰でもできること。
クオンは言外に、発声法で話すよう要求しているのだ。
男は観念したようにため息をつくと、クオンの要求どおり、特殊な発声法で話し始める。
『あのナンバー90とは思えない慎重さだな。表にいる若造も《終末を招く者》の端くれ。見張りをしくじるほど無能ではないぞ』
もう一度、クオンはこれ見よがしにため息をつく。
『そういうことを言ってるんじゃないですよ。あなたや表にいる人はおろか、わたしでさえも気配を察知できないような実力者が偶然近くにいて、うっかり会話を聞かれてたりしたらどうするんですか』
『それは、いくらなんでも杞憂がすぎるぞ』
『そうかもしれません。けど、そうじゃないかもしれません。ありえないタイミングでありえない不運に見舞われるなんて、わたしからしたらそう珍しい話でもないんですよ。ですから、《終末を招く者》として話す時は、この発声法で話すことを徹底してください』
あくまでも穏やかに、子供を諭すように語るクオンを前に、男は口ごもる。
クオンと男の年齢差はそれこそ倍以上では済まないが、《終末を招く者》としての格はただの構成員にすぎない男よりも、七至徒候補であるクオンの方がはるかに上。重要任務の経験差は、それこそ年齢差以上の開きがある。
まさしくその差を痛感させられた男が、クオンに反論できる言葉を捻り出すなどできるわけもなかった。
『いつものお前ではないのも、その延長線ということか?』
反論の代わりに質問を投げかけてくる男に、クオンはニッコリと笑って返す。
『ええ。その通りです』
まあ、あなた方と接している時の狂気に満ちたわたしは、〝仮面〟であっていつものわたしじゃありませんけどね――と、心の中で付け加えながら。
『まあ、いい。無駄話はこれくらいにして、報告を聞かせてもらおうか』
『はい。ちょっと待ってくださいね』
クオンは持っていた手提げ鞄をまさぐり、紙の束を取り出す。
『……多いな』
『それはもう。大陸最高の魔法士と謳われた人の手記を、まるっと書き写してきましたから』
しれっととんでもない報告をするクオンに、男は目を見開いた。
『ダルニス・ヴァルナスの手記だと!? まさか最初の報告で、それほどの成果を上げてくるとは……!』
『成果と言われても、わたしはただ息子さんと仲良くさせてもらってるだけなんですけどね~』
『一月とかけずに、父親の手記を借り受けるほどにまでヨハン・ヴァルナスを籠絡させたのだ。間違いなく、それは成果だ』
と、断言する男に向かって、クオンは小首を傾げる。
『わたし、ダルニス様の手記は借り受けていませんよ? さすがに彼も、主君の命でもない限り、大事なお父様の手記を貸し出すなんてことはしませんし』
『……だったら、どうやって手記を書き写した?』
『彼の家で見せてもらったものを、まるっと記憶しただけですよ。……あ、記憶違いなんて凡ミスはしてませんから、そこは安心してください。最終的には手記そのものを回収するのが理想ですけど、国崩しが起きた後だと燃えてなくなっている可能性が高いですからね。一言一句間違えないよう、気合を入れて記憶しました』
サラッととんでもないことを言うクオンに、男はいよいよ絶句する。
潜入任務の際、手に入れた情報を間違いなく報告する必要があるため、スパイとして選ばれた者には相応の記憶力が求められる。
しかし、クオンの記憶力は相応どころの話ではなく、異常と言っても差し支えのないレベルだった。
男が絶句してしまうのも無理もない話だ。
『あと、〝これ〟も受け取ってください』
驚きを隠せない男に構わず、クオンは再び手提げ鞄をまさぐり、一枚の紙を手渡す。
その紙には、ブリック公国の組織図や、向こう一ヶ月の外交予定などが、事細かに書き記されていた。
『ああ……報告書か』
男は、我に返ったように呟く。
その報告書も、一月足らずで調べ上げたとは思えないほどの情報量だったが、最初に出てきた手記があまりにも衝撃的だったせいで、男の反応はいまいち薄かった。
『というわけで、お渡しするものは以上になりま~す』
『あ……ああ。ご苦労だった』
『それじゃ、わたしはこの辺でお暇――と、その前に』
まだ何かあるのかという顔をする男に向かって、クオンはわざとらしい上目遣いでお願いする。
『一応、魔法関連の稀覯本を買いに来たということになっているので、何か適当な本、見繕ってもらってもいいですか?』





