第60話 最初の出会い。あるいは運命の始まり
募兵審査から半月――
カーテンの隙間から差し込む朝日に目を眇めながら、クオンはゆっくりとベッドから身を起こす。
現在クオンが寝泊まりしている場所は、ブリック公国軍の兵舎。
兵士になった者は、希望すれば兵舎の一室をただ同然で借り受けることができ、ブリック公国出身ではない傭兵の多くが兵舎のお世話になっていた。
募兵審査に合格したその日の内に支給された、ブリック公国軍の軍服に袖を通し、身だしなみを整え、部屋を後にする。
言うまでもないが、兵舎は男女別々に分かれており、廊下ですれ違う人間は全て女性……なのだが、異性がいないせいか三人に一人くらいの割合で下着姿の者とすれ違うのは如何なものかとクオンは思う。
兵舎を出て、一キロほど離れたところに見えるヌアーク城の方角に向かって歩き出す。
兵舎は公都のそこかしこに点在しており、土地が空き、なおかつ国庫に余裕ができ次第、ブリック公国を治めるセルヌント公の命のもとに兵舎が建てられ、募兵が行われる――ということは、この半月の間に行なった調査で知ることができた。
今の時代、外敵に備えて少しでも戦力を増強するという考えは正しすぎるほどに正しいが、ヘルモーズ帝国という巨獣の前では無駄な足掻きにすらならない。
同情の一つや二つしたくなるところだが、まさしく巨獣のスパイである自分にそんな資格はないことは、クオンも重々承知していた。
やがてヌアーク城――ではなく、その道中にある食堂にたどり着く。
兵舎には自炊用の厨房があるものの、日々の任務と訓練の疲れからか利用する者は少なく、外食に頼る者の方が圧倒的に多い。
それは公都に居宅を構える独り身の兵士にも当てはまることであり、潜入任務中にクオンが必ず接触しなければならない人物にも当てはまることだった。
クオンが足を踏み入れようとしている食堂は、まさしくその人物の行きつけ。
昨日は空振りに終わったけど今日こそは――と、意気込みながら入口の扉をくぐると、探すまでもなく、奥にある二人がけのテーブル席で食事の到着を待つ、銀髪碧眼の〝彼〟を見つけた。
都合の良いことに、客の中でブリック公国軍の軍服を着ているのが〝彼〟だけだったので、他の空席を無視して、真っ直ぐに〝彼〟の座るテーブル席へ向かう。
そして、たまたま同僚を見つけた体を装いながら、柔和な笑みを浮かべて〝彼〟に話しかけた。
「ご一緒してもいいですか?」
考え事でもしていたのか、あるいは声をかけられるとは思っていなかったのか、〝彼〟はハッとした表情を浮かべながらこちらを見返してくる。
数瞬視線が重なるも、〝彼〟は逃げるようにその視線を周囲に巡らせ、最後にクオンの軍服に向けてから納得したように応じる。
「テーブルが狭くても構わないのなら、どうぞ」
「ありがとうございます」
クオンはニッコリと笑い、対面の席に腰を下ろした。
女性と二人きりで食事することに緊張でも覚えているのか、〝彼〟は微妙に上ずった声で訊ねてくる。
「見ない顔だけど、もしかしてこないだの募兵で?」
「はい。クオン・スカーレットっていいます」
〝彼〟は口の中で転がすように「クオン……スカーレット……」と呟き、
「って、まさか募兵審査の模擬戦で、レグロといい勝負したっていう!?」
目を見開きながら、他の客の迷惑にならない程度の声量で素っ頓狂な声をあげた。
「あれがいい勝負だったかどうかは微妙ですけど、たぶん合ってると思います」
と、クオンが答えている間に、ウェイターが、〝彼〟が注文した料理を運んでくる。
ハムエッグをのせたトーストに、コーヒーとヨーグルトが付いた、朝食限定のセットメニューだった。
昨日注文したサンドイッチセット以外ならなんでもいいと思っていたクオンだったが、ハムエッグの半熟具合に心惹かれ、〝彼〟と同じものをウェイターに注文する。
ウェイターが厨房に戻っていったところで、クオンは照れくさそうに言う。
「その……一目見ておいしそうだな~って思いまして」
「実際、ここの卵料理は絶品だよ」
そう言って、〝彼〟はトーストごとハムエッグにかぶり付く。
中程で噛み切られたハムエッグから、とろとろと滲み出てくる黄身を見てしまったせいだろうか、くぅ~~~~~~っと、クオンの腹の虫が盛大な鳴き声を上げた。
話は変わるが、現在クオンは己を偽る〝仮面〟を被っていない。
狂気に満ちた〝仮面〟の自分よりも、人当たりの良い〝素〟の自分の方が潜入任務に適していると判断したがゆえのことだった。
一応、〝仮面〟の上にさらなる〝仮面〟を被り、全くの別人を演じるという手も考えたが、一年を超える長期間それを被り続けるのは正直、クオンでも厳しいものがあった。どれほど精神が摩耗するか、わかったものではないからだ。
ゆえにクオンは、潜入任務中は〝仮面〟の自分ではなく〝素〟の自分で日々を過ごすことに決めたのであった。
閑話休題。
兎にも角にも〝素〟のクオンは、ある種自己暗示状態にある〝仮面〟のクオンに比べて感情の制御が甘い。
だから、腹の虫が鳴いたことで込み上げてきた感情を抑えきれず、〝仮面〟のクオンでいる時はまず表れることがない羞恥の赤が顔中に拡がっていった。
「いや……その……」
顔の火照りを自覚しながら散々言葉を探し、
「聞かなかったことに……してください……」
出てきた言葉が自分の選択とは思えないほどに間が抜けていたせいか、羞恥の赤がいよいよ耳まで侵食していく。
〝彼〟が、笑いを堪えるためにテーブルに突っ伏してプルプル震えているものだから、赤色は濃くなる一方だった。
(……どうやら、掴みはオーケーのようですね)
今の状況を努めて冷静に、努めて好意的に捉えてみたが、かえって間抜けさが増したような気がして心の中だけで悶える。
(ぅぅ……こんなひどい失態、〝妹〟やイレーヌさんの前でも滅多に演じたことがなかったのにぃ……)
気の緩みと言えば、それまでの話だった。
しかし数ヶ月後には、クオンはこの時の出来事をこんな風に考えるようになっていた。
この時すでに自分は〝彼〟に惹かれるものを感じていたため、気が緩んでしまった――と。
恥ずかしくて、情けなくて、わたしらしくなくて……運命的と呼ぶにはあまりにも滑稽な一幕。
それが〝彼〟――ヨハン・ヴァルナスとの最初の出会いだった。





